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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

大王製紙の専用線を見てきました

2016年07月15日 | 日記
JR四国の幹線であるJR予讃線。何回も往復しているのですが、通過するたびに気になっていた施設がありました。

これが、その施設、大王製紙専用線です。JR予讃線のJR川之江駅とJR伊予三島駅の間にありました。予讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道として丸亀駅・多度津駅間が開業したのに始まります。その後、国有化され、川之江駅までは大正5(1916)年に、伊予三島駅までは大正6(1917)年に開業しました。

伊予三島駅から、歩いて訪ねることにしました。伊予三島駅は、昭和50(1975)年に橋上駅になりました。写真は「製紙工場の煙突の見える四国初の橋上駅」と謳われた伊予三島駅の駅舎です。

伊予三島駅の南口からスタートしました。すぐに県道124号の交差点に着きます。左折して進みます。四国中央市役所や愛媛新聞社の建物を見ながら進むと、幸町(みゆきちょう)交差点で、国道11号に合流します。ここも左折して進みます。

やがて、右手にサークルKサンクスと「天然記念物下柏の大柏」が見えてきました。大きな幹をした柏の木がありました。

大柏前の交差点を左折して、「セレモニーホール柏翠」のある道を進みます。

交差点から5分ぐらい歩くと、予讃線に架かる跨線橋が見えてきました。ここに、大王製紙の専用線がありました。

跨線橋から見た、単線で電化されている予讃線の川之江駅(高松駅)方面です。この跨線橋が、専用線の東端のようです。

跨線橋から見えた、反対側の伊予三島駅方面です。予讃線の線路が続いています。その右(海)側に専用線のヤードが広がっていました。

視線を右に移しました。一番左が予讃線の線路。そこから、5本の側線がありました。2本目の側線に青色の機関車が見えます。3本目と4本目の側線には黄色の機関車が留置されているのが見えました。

一番右の線路が見にくいのですが、「大王製紙専用線」と書かれた建物の下から出てコンクリートのたたきの中に敷設されています。写真の右側の線路が5本目の側線です。まだ、施設内では大きな動きはありませんでした。

2本目の側線に留置されている入れ替え用の機関車です。

側面に「日本通運」と書かれているのがみえます。日本通運宇摩支店大王製紙専用線営業所が、実際の業務を請け負っているそうです。機関車の手前には「NO1」と書かれていました。ネット上にあった「懐かしき鉄道の記録」(kagatetukki.blog.jp/tag)によれば、NO1機関車は、「平成26(2014)年、王子製紙北王子から転属してきた。25トン車」だそうです。

手前が、3本目の側線にいた機関車。「NO2」とありました。右側は、4本目の側線にいた「NO3」機関車です。

「NO2」機関車は、運転席の後ろに5つ並ぶ窓に特徴があります。「昭和46(1969)年日車製15トン車(製造番号2973)、NO3の導入後には予備機になっている。平成26(2014)年日通色に塗装されて、きれいになった」(「「懐かしき鉄道の記録」)そうです。

4本目の側線にいたNO3機関車です。これは、NO2機関車と同型で「昭和56(1981)年製、日車製15トン車。製番3332、D15-2.平成20(2008)年頃大王製紙専用線に来て主力機として活躍した。NO1機関車が来て予備機となった」(「懐かしき鉄道の記録」)とのことです。NO3機関車は塗装が剥がれているので古い感じがしましたが、NO2機関車の方がもっと古かったのですね。もちろん、すべて、ディーゼル機関車でした。

跨線橋の下から西に向かって歩きます。専用線の西側の端にある梅の木踏切です。「76K194m」と書かれていました。高松駅からの距離のようです。

これは、梅の木踏切から見た西(伊予三島駅)側です。左が予讃線、右側が1本目の側線の続きです。予讃線から側線に入る引込線もありました。

梅の木踏切から見た専用線です。側線はカーブして5本目の側線(以下⑤と書きます)に向かっています。最初に1本目の側線(同①)が分岐、さらに①の先で、2本目の側線(②)が分岐、②から3本目の側線(③)が分岐、さらにその先で、4本目の側線(④)が分岐しています。

大王製紙の専用線を訪ねて行ったのですが、実は入れ替え作業が見えるのかどうか自信がありませんでした。唯一の手がかりが「JR貨物時刻表」にあった、3075列車の存在でした。この「時刻表」は、平成26年のもので、敬愛する友人からいただいたものでした。今も同じような時間帯で走っていてほしいと願っていたのです。

そのとき、おそらく日本通運の職員の方だと思いますが、②に泊まっていた青色のNO1機関車を始動させました。「やった!」と思いました。期待した動きが始まったのです。

きっと、貨物列車が来るはずです。予讃線の川之江方面を見ながら待ちます。ついに、EF652068電気機関車に牽引された貨物列車がやってきました。8両のコンテナ車両を牽引していますが、伊予三島駅に向かって1両目と4両目にあたる車両には、コンテナは搭載されていませんでした。この列車は、「JR貨物時刻表」によれば、高松貨物ターミナルを7時54分に出発して、ここまでやってきたようです。終着駅の伊予三島駅には、10時05分に到着することになっています。

先ほどの貨物列車が伊予三島駅から引き返して来ました。伊予三島駅で機関車を付け替えて戻って来た列車は、梅の木踏切のところの引込線から①に入ります。ちなみに電気機関車が入っていけるのは、電化されている①と②と⑤の側線だけのようです。

やがて、貨物列車は①に停車しました。手前の線路は、JR予讃線です。

②に待機していた、NO1機関車が、長いウオーミングアップを終えて動き始めました。

NO1機関車は、②から①に入ってバックします。NO1機関車の運転台は横向きなので、前後に動くのに適しています。運転士は同じ場所で前に後ろに自在に機関車を操っています。そして、停車している貨物列車の後ろ(伊予三島駅側)4両を連結し牽引して前進します。

NO1機関車が牽引する列車は、梅の木踏切を越えて停まりました。1両目と4両目にはコンテナは搭載されていません。

ここからはバック運転になります。先頭になる車両に職員が乗って、安全確認をしながら進みます。

動き始めました。左側にはたくさんのコンテナが置かれています。ゆっくりと列車はNO1機関車に押されて進みます。

NO1機関車が押すコンテナ車両は一番端の⑤に入っていきます。姿が屋根の下で見えなくなるまで押し込んでいきます。

やがて、連結を外してNO1機関車が動き始めました。

NO1機関車はそのまま進んで、梅の木踏切の上で停車しました。

そして、高松貨物ターミナルからやって来たコンテナ車両が停車している①に入って進みます。

NO1機関車は、8両の車両のうち残っていた4両を連結し、牽引して伊予三島駅側に向かって進んでいきます。

そのまま、梅の木踏切を越えて停車します。先頭になるコンテナ車両の前に職員を載せて後ろから
押し始めます。行き先はもちろん⑤。先に入った4両が待っているところです。どうやら、8両を一度に運ぶのがスペースの関係で難しいので、2回に分けて行っているということのようです。

NO1機関車は⑤で連結を解除した後、再度、動き始めました。梅の木踏切の手前まで進み、停車します。

この間、①で停車していた貨物列車をここまで牽引してきたEF652068電気機関車が動き始めました。伊予三島駅方面に向かってゆっくり進みます。定位置の②に向かうNO1機関車とすれ違いました。

EF652068機関車は梅の木踏切で停車し、今度は、⑤に向かって進みました。コンテナが止まっている前で停車しました。

貨物列車のすべてのコンテナ車両が⑤に入って作業が一段落した頃、予讃線の線路上を、松山駅に向かう特急しおかぜ5号が通過していきました。

梅の木踏切を北に渡り、大王製紙の高層住宅の間を抜けて専用線の裏(北)側に回ります。目の前に、⑤に移ったコンテナが見えました。実は、この日は、もう一か所訪ねたいところがありました。貨物列車の入れ替え作業も見学したので、次の訪問先をめざしてJR伊予三島駅に戻ることにしました。

来た道を引き返してJR伊予三島駅に着いて、びっくりしました。先ほど、大王製紙の専用線で見たEF652068が、ホームの北側にある0番線の側線に停まっていたからです。⑤のコンテナ車の前に行ったので、そのままコンテナを積み込んで出発するまで停車しているものと思い込んでいたからです。こんなことになるのなら、電気機関車を見送ってから、伊予三島駅に戻ればよかったと後悔しました。 伊予三島駅から高松貨物ターミナルへ向かう列車3074列車の出発時間は15時33分。大王製紙の専用線へ迎えに行くまでの3、4時間程度の休息を、ここでとることになります。


以前の有蓋車による輸送から、現在のコンテナ輸送に替わったのは、昭和63(1988)年のことでした。大王製紙の三島工場は、紙・板紙の生産量が年間230万トンという、日本最大の紙・パルプ一貫工場として知られています。その入れ替え作業のようすを見学することができたのはラッキーでした。訪ねてきて、ほんとうによかったです。何より、「JR貨物時刻表」に載っていた平成26年当時と、貨物列車の到着時刻が変わっていなかった幸運に感謝しました。

旧東海道石部宿を歩く

2016年07月04日 | 日記
東海道石部宿は、東海道の51番目の宿場として知られています。「京立ち、石部泊り」といわれ、京都を出発した旅人が最初に宿泊する、京都から1日の距離にある宿場町でした。

この日は、JR草津駅から草津線の電車で石部駅に向かいました。

草津駅から10分ぐらいで、めざす石部駅に到着しました。駅の近くでは資料が手に入らなかったので、とりあえず石部宿の入口の落合川橋に向かうことにしました。

石部駅前の取り付け道路をまっすぐ進み、写真の右の狭い道を進み、突き当たった道が旧東海道でした。左折して、旧東海道を東に向かって歩きました。

この日はすごく暑い日でした。ゆっくり歩いて30分、落合川橋に着きました。「これより石部宿」と書かれた看板が見えました。

石部宿の中心部に向かって、歩いてきた道を引き返しました。すぐに、「石部東」の交差点に着きました。ここに「東海道石部歴史民俗資料館」の案内がありました。かつての宿場の姿が復元された「石部宿場の里」があると聞いていたので、行って見ることにしました。石部宿に関する資料もいただけるのではないかと思ったからでした。

資料館までかなり距離があって、汗びっしょりになりながら石部中学校の近くの坂を登って、資料館の入口に着きました。事務所で350円の入場券をを購入。資料もたくさんいただきました。順路にしたがって、「石部宿場の里」に入りました。期待していたのですが、「宿場の里」はこの一角がそのすべてでした。右側が茅葺の農家の建物、左が白漆喰がまぶしい商家の建物でした。写真では見えないのですが、左側の一番奥に「安眠米倉庫」が復元されていました。

復元された一里塚の間を抜けると、目の前に東海道石部歴史民俗資料館がありました。資料館にはスタッフは一人もおられませんでした。しかし、参観するには不便はありませんでした。館内は「撮影禁止」でしたので、写真はありませんが、宿場町を再現した模型には感動してしまいました。

再び、汗びっしょりになって、石部東の交差点に帰ってきました。石部宿の中心部に向かって歩きます。旧街道はほぼ東西に走っています。資料館にあった展示資料では、旧東海道の道幅は2間(3.6m)から3間半(6.3m)ぐらいだったそうです。幅4mぐらいの旧街道の両側の民家はほとんど建て替えられていて、静かな住宅地といった雰囲気でした。

交差点から5分ぐらい、旧街道の左側に「東の見附跡」の案内が立っていました。「道路の中央付近まではみ出していた、幅3m、高さ2mの台場。見附は、番兵が通行人を見張ることから呼ばれた」と書かれていました。もちろん、今はその面影はありませんでした。

案内に添えられていた写真です。石垣のある土塁が見えます。道路の中央に張り出していて、通行人を見張っていたことがよくわかります。宿場の端に置かれていたのが見附ですから、正確にはここからが石部宿ということになるのでしょう。  

資料館にあった「石部宿町並図」を見ると、街道沿いには旅籠屋や商家だけでなく、「百姓」と書かれている家がたくさんありました。城下町とは異なり、宿場町には農家の方も居住していたのです。神社や寺院は、街道から少し奥まったところにあり、参道が通じていました。ここは吉姫神社です。女性の神様が祀られており、旧街道の先にある吉御子神社と対になっているそうです。

真宗大谷派寺院の西福寺の参道です。さて、東海道は、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6(1601)年に、江戸・京都間の人馬と情報の往来幹線として開かれました。天保14(1843)年の記録(「東海道宿村大概帳」)によれば、東西15町3間(1.6km)の石部宿には1606人(男808人 女798人)が居住しており、本陣2軒、旅籠32軒を含めて458軒の家屋がありました。

白漆喰がまぶしい豪邸がありました。その続きに「竹内酒造株式会社」のプレートが見えます。「香の泉」知られる酒造会社です。

すぐ先が、県道113号を渡る「石部中央」の交差点です。その名のとおり、石部宿の中心だったところです。

交差点の左側(南側)の手前(東側)に小さな「道の辺広場」がありました。小さな資料館といってもいいスペースで、石部宿にまつわる出来事が説明されていました。

「お半 長右衛門」には、今も歌舞伎や人形浄瑠璃で上演されている「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」のもとになった、石部宿での出来事が説明されていました。「京都の帯屋の主、長右衛門は、伊勢参りの途中、石部宿の出刃屋に宿泊しました。そこで、丁稚の長吉に言い寄られていたお半をかくまったことから二人は結ばれることになりました。しかし、長右衛門には妻がおり、悩んだお半は死を選び、長右衛門もその後を追ったということです。出刃屋は、ここから、少し西の方にあったということです。

「安眠米倉庫」は、明治13(1880)年、この地の服部善七が創設した制度で、「稲の植え付け時に食べ物のない農民に、安眠米を1農家に1俵貸し付け、収穫時に年貢として5升納める」というものでした。ちなみに、この5升は教育費として使われたそうです。安眠米倉庫は、ここから50mほど東に設置されていたということです。写真は、「石部宿場の里」に再現されていた安眠米倉庫です。

県道113号を向こう(西側)に渡ります。県道の西北の角にある電柱に「問屋場跡」の案内が掛かっていました。「問屋場」は荷駄の継立業務を担っていた役所です。石部宿では、問屋役、年寄役、帳付(ちょうづけ)、馬指(うまさし) 人足指(にんそくさし)の5人の役人が詰めていたといわれています。

石部中央の交差点の北西角にあったヤマサキデイリーストアです。問屋場はこのお宅のある場所に置かれていたそうです。

これは、石部中央の交差点から少し南に進んだところにあった井戸です。約400年前の江戸時代に掘られた井戸だと伝えられています。水道が来る前には近隣住民の命の水でした。その後、地元のロータリークラブが水質検査を実施した結果、「大腸菌は少しあったが煮沸すれば異常なし」とされたということです。

石部中央交差点から、さらに西に向かいます。チリリンという風鈴の音がきこえたので覗いてみると、風鈴が民家の軒下に吊るしてありました。このお宅には、多くの人形や手作りの風鈴が軒下に飾られていました。そのとき、ちょうど帰ってこられたご主人が「持って帰りな!」と、ビニール袋に手作りの飾りを一つ入れてくださいました。

お礼を申し上げて歩き始めたら、このお宅の隅に「三大寺本陣跡」の説明が置かれていました。江戸時代初期の、寛永5(1628)年から明治3(1870)年まで、240年に渡って営業していた本陣でした。天保13(1842)年の記録には、138坪の広さだったと書かれているそうです。膳所藩の代官の勧めによって、膳所藩直轄の本陣を拝命したようで、「文久年間街並図」では、「本陣 三大寺小右衛門」の名が書かれていました。

「いしべ宿驛」という名の休憩所です。「1階には囲炉裏と土間、2階には畳と板間がある」といただいたパンフには書かれていました。ゆっくり、休憩するのに最適の場所なのだそうです。私は休憩なしで歩き続けることにしました。

ひときわ目立つ「明治天皇聖蹟」の石碑のあるお宅が見えてきました。ここが、幕府直轄の本陣、三島本陣跡です。寛永5(1628)年に創建され、承応元(1652)年に、膳所藩主の本多俊次(としつぐ)・康将(やすまさ)の2代に渡る小島氏の顕著な奉公により、膳所藩主から本陣職を許されたそうです。 石部歴史民俗資料館にあった絵図には、明治天皇(当時16歳)の行幸のときには、小島金左衛門が、本陣役を勤めていたようです。

邸宅の前の旧街道には「石部本陣跡」の石碑が見えています。大きい方の石碑にあるように、明治天皇が行幸の際に宿泊したほか、江戸幕府13代目将軍である徳川家茂(いえもち)が上洛の際に宿泊しています。また、後に江戸幕府最後の将軍となる一橋慶喜(よしのぶ)も、上洛の時に小休止しており、幕末の歴史を飾る人々にも利用されている由緒ある本陣でした。興味深いのは、丹後宮津藩主はなぜか本陣に泊まらず、ここよりさらに江戸寄りの三雲の植木屋を常宿としていたことです。

振り返ると、間口に比べて奥行きの長い、宿場町特有の商家が見えました。

三島本陣から、5分ぐらいのところで旧街道は右折します。城下町や宿場町に多い桝形になっているのです。正面にあった「でんがく茶屋」です。天保3(1832)ごろ、歌川広重が石部宿のシンボルとして描いたところだそうです。平成14(2002)年旧石部町制百周年記念事業の一環として再現されたそうです。

でんがく茶屋の左側の道をまっすぐ進むと、先に見た吉姫神社と対になっている男性の神様を祀る吉御子神社があります。石灯籠には「京へ→ 右 東海道」と書かれています。案内に従って、ここで、右折して進みます。

10分ぐらいで、東西の道路にぶつかります。右側に「鉤(かぎ)の手道」の案内がありました。「敵がむやみに侵入しにくい構造になっている。石部宿には街道に8か所の交差点があって、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割を果たしていた」そうです。左折して、再び、西に向かって歩くことになります。

左折して、西に向かって歩くと、やがて左に南に入る道がありました。でんがく茶屋の裏側にあった吉御子神社へ続く宮道です。宮道の向こうにあるお宅のあたりに、かつて、石部の一里塚がありました。

これは、復元された一里塚です。石部宿場の里から東海道石部宿歴史民俗資料館に向かう道沿いにあったものです。「5間4方の塚を道の両脇に築き、塚の上に榎を植えて目印とした」とパンフレットには書かれていましたが、ここは、右(北)側には榎、左(南)側には椋の木が植えられていたそうです。

石部西の交差点です。交差点の向こう側に公園が見えます。そこに、西の見附跡の案内がありました。説明には「見附の西側に、目見改場(めみえあらためば)が設けられていた」ようです。ここが、石部宿の西の出口(入口)でした。

これは、街道沿いの道にあった屋号の案内です。旅籠や旅館の案内を探してきたのですが、それらしいものがありませんでした。西の見附の外側ですので正確には石部宿ではないのかもしれませんが、やっと旅館の屋号を見つけました。街道沿いに1軒だけあった旅館でした。

これが、旅館の平野屋さんです。比較的新しい旅館です。

旧街道の左側にあった「西縄手」です。「縄手は、立場(たてば)から立場への道のこと。石部宿の西にあたるから西縄手。ここで、参勤交代は、宿場町に入るため、隊列を立て直し整列して入った」と、案内には書かれていました。この写真も、光線の関係で振り返って撮影しました。

西縄手のあたりには松並木があったそうです。現在の松並木はまだまだ幼い松の木でした。

京に向かう旅人は、次の52番目の宿場、草津宿をめざして、旅を続けて行くのでした。


私はすでに東海道50番目の宿場である水口宿(2013年3月28日の日記)と52番目の宿場である草津宿(2012年2月10日の日記)は歩いています。そのためもあって、その間の宿場である石部宿が気になっていました。加えて、東海道石部宿場の里がつくられていると聞いて、訪ねてみることにしました。久しぶりに、旧街道を歩くことになりました。多くの東海道や中山道の宿場町と同じように、昔の面影を残すところはほとんど見られませんでした。旧街道沿いに立っている案内や石碑をもとに江戸時代の姿を想像しながら歩く旅になりました。それでも、時間があれば宿場町をこれからも歩いてみたい。風景は変わっていても、江戸時代の人々が、確かに歩いていた道だからです。案内や石碑を見ながら、江戸時代の姿をしのぶことができるからです。




















日本で最初の鉄道トンネル、石屋川トンネルの跡地を訪ねる

2016年06月19日 | 日記
日本で最初の鉄道は、明治5(1872)年に新橋・横浜間で開業しました。その2年後の明治7(1874)年、大阪・神戸間の鉄道が開通しました。

これは、日本で初めての鉄道トンネルの跡地に展示されていた地図ですが、その中に3つの「隧道(トンネル)」の名がみえます。東から、芦屋川隧道、住吉川隧道、そして、石屋川隧道です。すでに、芦屋川トンネル(2016年6月3日の日記)と住吉川トンネル(2016年5月27日の日記)は訪ねてきました。

これも、最古の鉄道トンネルの跡地に展示されていた石屋川トンネルの写真です。このトンネルが、明治3(1870)年に着工し、翌明治4(1871)年に完成した、日本最古の鉄道トンネルです。他の二つのトンネルと同じ天井川の下をくぐるトンネルでした。今はその姿を見ることはできません。大正8(1919)年の複々線工事の時に解体されて、他の二つの天井川トンネルとともに消滅しました。

この日は、石屋川トンネルの跡地を訪ねるため、JR住吉駅からJR東海道線の高架に沿って、西に向かって歩きました。

JR住吉駅から20分ぐらいで、跨線橋のようなトンネルが見えました。どうやら、ここがかつての石屋川トンネルがあったところのようです。

トンネルをくぐって、西側の出口に出ました。出口付近に「石屋川トンネル 灘百選」と書かれた掲示がありました。天井川の川底を走るトンネルの説明が書かれていました。

トンネルの西側を左折して進みます。道路の左側に、トンネルの上に向かう道が続いています。

道は徐々に登り坂になり、「介護老人保健施設 すばる」の建物の前で斜めに上がっていきます。

トンネルの上に向かう道に出ました。2車線の道路の向こうに橋が見えました。やはり、跨線橋の上を川が流れているようです。

車道を渡って左美也(さみや)橋を渡ります。「架昭和38年2月」というプレートが見えました。

左美也橋から見た北側の風景です。水量は多くありませんでしたが、石屋川が、跨線橋の上から流れ落ちていました。はるかに六甲山系の山々の姿が見えました。

石屋川の川床と、JR東海道線の高架が見えました。東海道線は昭和51(1976)年から石屋川の上を高架で跨ぐ形になっています。

左美也橋の東側(石屋川左岸側)には石屋川公園がありました。こちらも水の公園のようですが、水量は多くはなかったようです。暑い日でしたので、憩う人の姿は見えませんでした。

石屋川と石屋川公園の間の遊歩道を登っていきます。かつて、石屋川は天井川でした。標高900mを超えたあたりの六甲山系に源流をもつ石屋川は、上流から多くの土砂を運んで来て、流れが緩やかになったところに堆積していました。そのため、周囲の平地より高いところに川床がある天井川と呼ばれる川になっていました。

現在の川床です。切り石を張りつめてつくられていました。

遊歩道を上りつめたところに、石屋川トンネルの説明を展示した掲示板がありました。

これが、その表面です。「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道記念碑」と書かれていて、たくさんの写真が掲示してありました。

掲示されていた写真です。これには、「線路敷設前の明治4(1871)~5(1872)年ごろの撮影」と書かれていました。完成しているトンネルの姿が見えます。その上を石屋川が流れているはずです。線路を敷設する前の状況がよくわかります。

この写真には、現在の複々線のJR東海道線とかつての石屋川隧道があった場所を示しています。4本ある線路の南から2本目の線路(神戸方面への内側の線路)の下に、長さ61mの石屋川トンネルがあったようです。

これは、石屋川トンネルの東からの入口を、現在の高架に合わせて説明したものです。高架を支える4本の高架柱の南側から2本目の位置に、東側からのトンネルの入り口があったようです。

この写真は、大正8(1919)年に行われた複々線化工事のときの様子を撮影したものです。解体中の石屋川トンネルと、背後にある線路を跨ぐ水路橋です。新しい線路は右側に敷設されています。

この写真は、石屋川トンネルを撤去した後、線路を跨ぐ水路橋の新設工事のとき、川の流れを変えるための仮水路を支えていた足場を撮影したものです。左側から、足場を撤去しているところです。

「石屋川鉄道記念碑」があるところからすぐ左前に見えた、JRの高架です。高架下に入ります。

写真の説明にあったとおり、JRの高架を4本の高架柱で支えています。右側から2本目の柱の下にかつてのトンネルの東側からの入口があったようです。

右側から一本目と2本目の高架柱の間に「旧石屋川隧道跡」の案内が張り付けられていました。なければ、パスしてしまっていたかもしれませんね。

表示の奥の水路橋の法面(のりめん)に、「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道跡」の石碑が建っていました。

高架上の線路を見上げて撮影しました。かつての天井川の下をくぐっていた石屋川トンネルは
南側から2本目の線路付近にあったそうです。白く見えるのが一番南側の線路。その次が、かつてのトンネルがあった2本目の線路です。この下に石屋川トンネルがありました。

線路の下を抜けると、すぐ綱敷天満神社へ下りる石段がありました。上から見た神社の全景です。遊歩道には、この神社の幟が立てかけられていました。

ちょうど、北側の線路上を電車が通過していきました。急いで、振り返って撮影しました。

その先で、石屋川に架かっていた八色橋(やぐさばし)から、北の方向を撮影しました。ここからは、石屋川の右岸を南に向かって、引き返します。

石屋川の右岸側の歩道を南に向かうと、JRの高架に沿って、上ってくる道路がありました。

道路の下には、神戸市交通局の石屋川車庫(営業所)がありました。広い駐車場でしたが、駐車しているバスはさほど多くはありませんでした。多くのバスが営業に出ているのでしょうね。

石屋川の右岸を、左美也橋を超えてさらに進みます。国道2号線が石屋川を越えるところにあった石屋川橋。東詰めの北側には、改修中の御影公会堂がありました。石屋川橋の東側は東灘区、西が灘区、石屋川は東灘区と灘区の境界になっているようです。石屋川橋には、「大正15年6月架」のプレートがかかっていました。

石屋川橋からみた下流(南)側の写真です。右側の3階建ての建物の2階のあたりに、阪神石屋川駅の駅舎の一部が見えました。「石屋川の上にある駅」(2016年1月30日の日記)です。

再度北に向かい、最初にくぐったトンネルに戻りました。右側にある、JRの高架柱の下の駐車場にお邪魔しました。

高架下の駐車場から撮影しました。南から1本目と2本目の高架柱の間に、石碑がありました。
先に上から見た「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道跡」碑です。こちら側には「建立 西日本旅客鉄道株式会社 平成15年3月吉日」と読めました。


山地の多いわが国では、鉄道といえばトンネルがつきものです。日本で最初にできた鉄道トンネルはどこだったのだろうと調べていたら、石屋川トンネルに行き着きました。日本で最初につくられたトンネルは、山地を貫くトンネルではなく、天井川の川底を越えるトンネルでした。トンネルがつくられた頃の蒸気機関車では、天井川の上を越える鉄橋に上るだけの馬力がなかったということも要因の一つだったようです。今ではありえない事情でしたが、そのため、他の同じようなトンネルの芦屋川トンネル跡、住吉川トンネル跡も訪ねることができたのは、ラッキーでした。明治の創世期の鉄道を訪ねる楽しい旅になりました。










もう一つのJR東海道線天井川トンネル跡

2016年06月03日 | 日記

写真は阪神電鉄芦屋駅です。以前、鉄橋の上にある駅を巡っていたとき(「芦屋川の上にある駅」2016年2月19日の日記)に、駅の下を流れる芦屋川の河川敷から撮影しました。この日は、この駅の上流部にある天井川トンネル跡を訪ねました。

これがその跨線橋です。JR神戸(東海道)線の芦屋駅の西にあります。前回は、JR神戸(東海道)線の住吉跨線橋の上を流れる住吉川を見て来ました。源流の六甲山系から南に下り大阪湾に注ぐ住吉川は、急流のため勾配が緩やかになると、上流から運んで来た多くの土砂を、川床に堆積してきました。多くの年月、こうした営みを繰り返した結果、周囲の住宅地よりも高くなった川床をもつ川ができました。このような川は天井川と呼ばれてきました。現在のJR神戸(東海道)線は、複々線になるまで、天井川の川底につくられたトンネルで住吉川を越えていました。

JR芦屋駅南口です。ここから、大正8(1919)年につくられた複々線の線路に沿って歩いていきます。この先にある跨線橋の上を、芦屋川が流れているはずです。

JR芦屋駅南口から5分ぐらいのところの光景です。右前方に、線路を渡る跨線橋が見えました。

白く塗られた跨線橋を越えてさらに進むと、前方左側に芦屋市民会館の建物が見えてきました。道はかなりの傾斜で上って行きます。自動車が走る跨線橋の芦屋橋が見えました。

その先にあったふれあい橋の跨線橋です。これがめざす跨線橋で、この線路部分に、天井川トンネルである芦屋川トンネルがありました。線路の上を芦屋川が流れているはずです。かつての芦屋川トンネルは、アーチ式のトンネルだったそうです。跨線橋の橋桁の奥に、かすかにアーチの名残のようなものが見えていますが・・・。どうなのでしょう?

この跨線橋はふれあい橋と呼ばれていました。跨線橋の中央を、芦屋川が右から左に向かって流れています。芦屋川の向こう側(芦屋川右岸)に芦屋仏教会館の建物が見えました。昭和2(1927)年に、丸紅の初代社長、伊藤長兵衛の出資で完成したそうです。片岡安(やすし)の設計でつくられた洋館ですが、阪神淡路大震災のとき、周辺の洋風建築が倒壊するなか、軽微な被害にとどまったといわれています。震災後、建物を西に2.5m曳いて移動させたそうです。

これは、芦屋川右岸(西側)から見た芦屋仏教会館の正面です。道路から入口まで少し距離があります。もとは道路に面して建てられていたのでしょう。

ふれあい橋の左岸(東側)から、芦屋川の下流方面を撮影しました。中央に、国道2号に架かる業平(なりひら)橋が小さく見えています。

これは、国道2号から見た大阪方面の写真です。業平橋の西詰から東に向かって撮影しました。業平橋は、あの在原業平(ありはらのなりひら)から名付けられたものです。百人一首の「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」で知られる歌人で、業平橋の東側(芦屋川の左岸)の業平町(なりひらちょう)に、かつて、彼の別荘があったといわれています。

業平橋から見た芦屋川の上流方面です。正面に六甲山系の山々が見えます。芦屋川が、手前に向かってかなりの段差で下っています。跨線橋の天井部分が川底になっています。

再度、芦屋川を上流に向けて歩き、ふれあい橋に戻りました。跨線橋の下を走る、神戸、三ノ宮方面からやって来た列車です。

大正橋です。線路の北側で、芦屋川に架かっている橋です。

大正橋から見た芦屋川の上流(北側)です。両岸に遊歩道がつくられている、広々とした川です。

ふれあい橋の北詰にあった松ノ内緑地。正面の石碑には「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし  在原業平朝臣」と刻まれていました。

芦屋川の天井川につくられた芦屋川トンネルが撤去されたのは、大正8(1919)年のことでした。それから、もう97年の月日が経過しています。当時の面影を残すものを見つけるのは困難でした。しかし、跨線橋の上を流れる川に出会うのは、鉄橋の上にある駅を見るよりも、はるかにエキサイティングなことでした。明治初期、天井川をくぐるトンネルをつくりあげた人たちのご苦労に、思いをはせながら歩いた旅でした。






跨線橋の上を流れていた! 住吉川 

2016年05月27日 | 日記
飲み会で「跨線橋の上に川が流れている」と聞いて、さっそく訪ねて来ました。

神戸市東灘区にあるJR神戸線(東海道線)の住吉駅です。この駅から、「六甲ライナー」(神戸新交通六甲アイランド線)が、神戸市沖の埋め立て地、六甲アイランドに向かっています。最初に乗ったとき、無人運転だったことに驚いたことがあります。次の駅、魚崎は「灘の生一本」で知られる酒造業のさかんな地域にあります。

これは、JR住吉駅の下り線ホームの大阪寄り(東端)から見た、その跨線橋です。この位置からは、上を走る車の姿は見えませでした。

住吉駅の外から見た跨線橋方面です。高層マンションが威容を誇っています。駅から、六甲ライナーの高架下を歩いて、跨線橋に向かいます。

通路の途中から見た跨線橋です。地上部分には、JR神戸線の複々線の線路が見えます。右側の2本が下り神戸・三ノ宮方面に向かう線路です。

跨線橋に近づくと、道はかなりきつい上り坂になります。跨線橋の上から見た南方面。六甲ライナーは大きく右にカーブして、六甲アイランドに向かって行きます。

跨線橋から見た北側の風景です。広い跨線橋です。左から歩道部分、その右に2車線の道路、その右側に再び歩道がつくられています。そして、その右側に石垣状の隔壁があります。

跨線橋から見た南側のようすです。国道2号が左右に走っています。信号で停車している車の先に橋の欄干状のものが見えます。

国道2号に架かる「住吉橋」です。国道2号に沿って歩きます。

「Sumiyosibasi 1950.3」と刻まれていました。1950年は、昭和25年にあたります。戦後すぐ架けられた橋のようです。

住吉橋から見た北側の六甲山方面です。ここに来るまで川はまったく見えませんでしたが、跨線橋の上に、確かに川が流れていました。川の名は住吉川。きちんと整備されている川の両岸には遊歩道があり、ジョギングする人々の姿がありました。

住吉川は、六甲山系を源流としている全長9kmの川です。跨線橋の上にあった案内板には、「黒岩谷、田辺谷、水晶谷、五助谷、地獄谷、大月谷、西山谷などの渓流を集めて、住吉、本山、魚崎を流れ大阪湾に注ぐ川」だと書かれていました。渓流も含めた総延長は36km、流域面積は11平方キロメートルもあるそうです。

住吉川から南側を撮影しました。六甲ライナーの車両が見えました。左岸の松並木の奥には、進学校として知られている灘中学校・高等学校があります。灘の酒造家が設立した学校としても、よく知られています。住吉川の流れを見つめる人の姿も見えます。

この日は夏の日差しが注いでいました。お母さんに見守られながら、水遊びを楽しむ多くの子どもたちの姿が見えました。緑の部分は、土砂が堆積している所です。標高900mに近い所から流れてくる住吉川は、多くの土砂を運んで来ます。平地に入り流れが緩やかになると、運んできた土砂を堆積させていきます。長い年月を経て、川床は高くなり、周囲の住宅地よりも高くなっていきます。そうなると、周囲に居住する人たちは、堤防を高くして洪水を防ごうとします。こうしてできた、周囲の住宅地よりも川床が高くなった川を「天井川」と呼んでいます。住吉川はその天井川だったのです。

遊歩道の各所に掲げられていた「急な増水への警告」を訴える案内板です。遊歩道の両岸にある隔壁の高さは10m程度あります。上流で雨が降ったときには、急に増水するのでしょうね。昭和13(1938)年に、住吉川は大水害を起こしています。

これは、跨線橋の上にあった「石の広場」に設置されていた、大きな二つの岩です。この岩は、昭和13年の大水害のときに上流から運ばれて来たものだそうです。

跨線橋に上がりました。この下を列車が走っています。現在のJR神戸線(東海道線)の大阪・神戸間が開通したのは、明治7(1874)年のことでした。天井川だった住吉川に鉄橋を架けて渡るのは、当時の蒸気機関車の馬力では、到底不可能なことでした。政府に雇用されていたイギリス人技師は、高くなった川床にトンネルを掘って川を越えるという方法を採用しました。木製の仮水路をつくって川の流れを替え、川底を掘ってトンネルをつくり、その後、川の流れを元に戻すという難工事でした。こうして、できたのが住吉トンネルでした。

跨線橋の「野寄橋」です。住吉トンネルの長さは61m、高さ4m、幅4.3mあり、明治3(1870)年に着工し、約9ヶ月後の明治4(1871)年4月に完成したそうです。こうして、住吉川はトンネルの上を流れる川になりました。しかし、完成から48年後の大正8(1919)年に、このトンネルは解体されることになりました。複々線工事が行われたからです。しかし、住吉川は、今も変わらず、線路の上を流れています。現在は跨線橋になっていますが、かつては、列車は、住吉トンネルで住吉川を越えていたのです。

跨線橋の上から見たJR神戸(東海道)線の大阪方面です。貨物列車が複々線の外側の線路を走っています。

これも、同じ線を走る在来線の特急”スーパーはくと”です。京都に向けて疾走しています。

跨線橋に向けて線路の北側を上っていく道の写真です。ブロック塀を見るとかなり急な傾斜になっていることがわかります。これだけの傾斜と高さがある天井川だけに、川床の下にトンネルをつくることも可能だったのでしょうね。


「跨線橋の上を流れる」住吉川を訪ねて来ました。かつては、天井川の川床の下にトンネルがあったところでした。トンネルはすでになくなっていましたが、川の流れは今も残っており、跨線橋の上にその姿を残していました。我が国は山国でトンネルの多い国ですが、明治初期につくられた創世期のトンネルは、山を抜けるのではなく、天井川を越えるためにつくられたのですね。川床の下にトンネルを掘るために、悪戦苦闘した多くの人々の姿を思いながら歩いた旅でした。

岡山臨港鉄道の跡地をたどる

2016年05月14日 | 日記

JR岡山駅からJR宇野線で3分、JR大元駅に着きました。かつて、この駅から岡山市南部の工業地帯に向かう鉄道がありました。岡山県や岡山市、汽車製造など岡南地区の企業によって設立された、岡山臨港鉄道(以下「臨港鉄道」)です。昭和26(1951)年から、昭和59(1984)年に廃業するまでの34年間にわたり、貨物や旅客輸送を担っていました。

臨港鉄道のルートです。昨年(2015年)、岡山市立南公民館で開かれた臨港鉄道の回顧展のときに掲示されていた地図で、許可を得て撮影させていただいたものです。

大元駅の東側の高架下です。現役時代の臨港鉄道は、国鉄宇野線のホームの東側から出発していました。

大元駅前に展示されていた、臨港鉄道時代の大元駅舎です。駅舎の左側のあたりに臨港鉄道の線路がありました。

地図の上(北)が岡山駅方面です。臨海鉄道は、大元駅では宇野線の下りホームの反対側から出発していました。出発してしばらくは、宇野線と平行して進んで行きますが、やがて、宇野線は右にカーブして離れていくことになります。

臨港鉄道の旧泉田駅付近までの線路跡は、遊歩道の「臨港グリーンアベニュー」として整備されています。

緑にあふれた散歩道です。散歩やジョギングをされている方、犬を連れた方や通学の高校生の姿にも出会う道になっています。

歩き始めてから20分ぐらいで、岡南新保駅(開業時は臨港新保駅)跡が見えてきました。昭和26(1951)年の開業当初にはなかった駅です。「大元駅の次の岡南泉田駅までの距離が2.3kmと長いから」ということで、地元からの要望で新設され、2ヶ月遅れて開業しました。

ホーム跡です。岡山港駅に向かって右側にホームがありました。大元駅から1.4km。駅員のいない無人駅だったようです。きれいに改修されています。線路跡には、軌間1067ミリのレールも復元されていました。

天井から吊り下げられている駅標も、整備されたときにつくられたものです。

信号機を模した「からくり人形」もつくられています。

岡南新保駅を出たところに残されていた、踏切の警報機。駅の出口にある、道路との交差点で使われていたものでしょうか。左右に一つずつありました。

線路跡を出ても、臨港グリーンアベニューが続きます。その先で、国道2号線の高架をくぐります。

冒頭にあげた路線図の岡南新保駅と次の岡南泉田駅付近です。岡南泉田駅は、この先の国道30号線付近にあったようです。岡南新保駅と岡南泉田駅間は0.9kmだったようです。

さらに、進みます。右側に「岡山臨港 泉田基地」の倉庫が見えて来ました。「岡山臨港」は、臨港鉄道の運営会社を引継いだ会社です。

これは、国道30号線の高架です。ここで、グリーンアベニューは完全に終わりました。この先、線路跡は市道に取り込まれている区間になります。大元駅から岡山港に向かう下り列車は、岡南泉田駅の手前でタブレット交換をしてから駅に進入するようになっていました。当時の写真を見ると、待合室の建つホームの先に高架橋が写っています。位置関係からすると、国道30号線の高架だと思います。岡南泉田駅のホームは、高架よりは大元駅寄りにあったように思われます。もちろん、引き込み線などの設備はさら南にの延びていたのでしょうが・・。

国道30号線の高架を越えた先のようすです。臨港鉄道の線路跡は、市道に取り込まれていました。

先程の地図の「泉田駅」のマークの下(南)に道路がありますが、それが、写真の道路にあたるようです。高架からこのあたりまでが、岡南泉田駅ということになるのでしょう。

これは、道路脇にあるお宅の庭にありました。枕木でつくられた「泉田駅跡」のモニュメントです。見つけた時に、嬉しくなってしまいました。

次の岡南福田駅までの路線図です。岡南福田駅は、開業時は「臨港福田駅」といわれていましたが、昭和35(1960)年に改称しました。大きく左(東)にカーブするルートになります。さて、昭和43(1968)年に、臨港鉄道の貨物輸送は年間29万トンを越え、過去最高を記録しました。しかし、旅客輸送は、40万人を割り込み、その後も下降を続けます。5年後の昭和48(1973年)には、旅客列車は朝夕の4往復だけになっていたそうです。

市道に取り込まれた線路跡を歩きます。5分ぐらいで、岡山県立岡山芳泉高等学校の脇を通ることになります。昭和49(1974)年に開校した、比較的新しい進学校です。朝夕4往復の運行に沈んでいた臨港鉄道は、新設校に通う生徒の輸送のため、一時、1日12往復まで息を吹き返しました。しかし、昭和53(1978)年にはふたたび削減されることになります。臨港鉄道で通学する生徒は、岡南泉田駅から歩いて通っていたはずです。

岡山芳泉高校の広い敷地に沿って歩きます。臨港鉄道は、1970年代に入るとモータリゼーションの飛躍的な発展により、旅客輸送に続き貨物輸送も不振を窮めるようになりました。倉庫業や不動産業など経営の多角化を推進しますが、ついに、昭和59(1984)年12月30日をもって廃業ということになりました。

地元の方のお話では、臨港鉄道は市道の歩道部分を走っていたようです。この付近は、旧児島湾の干拓地で、臨港鉄道は干拓時の堤防上に敷設されているそうです。岡山芳泉高校のグランドを過ぎる頃から前方に岡山南ふれあいセンターの建物が見えるようになりました。

線路跡は、岡山南ふれあいセンターの脇をすり抜けた後、現在、ふれあいセンターの第2駐車場になっている広場を進んでいました。

その先の樹木で覆われているところに、用水の樋門がつくられていました。その真ん中に、写真のような構造物がありました。レール材でできているようなのですが、かつての線路跡であれば嬉しいのですが・・。未確認です。

<追記>
現在、岡山南ふれあいセンターからの廃線跡は公園整備事業が進行中でした。雑草は刈り取られ、かつて、水路の上に残っていたレール材の構造物は撤去されていました。その上に橋がつくられていました。(2018年11月20日再訪)

その先で線路跡は相生川を越えます。前方にみえるセメント会社の工場は、臨港鉄道の現役当時からすでに建てられていたそうです。

さらに進みます。「岡山臨港 福田倉庫」です。今も現役で活躍しています。臨港鉄道の岡南福田駅の写真には、いつもこの建物が写っています。岡南福田駅は、倉庫前付近にありました。開業時には「臨港福田駅」でしたが、昭和35(1960)に岡南福田駅と改称しました。岡南泉田駅から2.0km。この駅も干拓当時の堤防の上に設置されているそうです。駅には行き違いの設備があり、貨物と手荷物の取扱いもやっていましたので、駅員が常駐していたそうです。ホームは岡山港駅に向かって左側にあり、2つの会社へつながる専用線もありました。

路線図です。臨港鉄道は岡南福田駅から、さらに、並木町駅(当初は臨港藤田駅、岡南藤田駅を経て並木町駅となる)、岡南元町駅、南岡山駅とすすみ、終点の岡山港駅まで通じていました。

岡南福田駅からの線路跡は当時と変わらない広さで残っています。2車線の通りの左車線が線路跡でした。(ご指摘をいただき、修正しました。2018年11月20日再訪)

路線図の「藤田駅」(正確には「岡南藤田駅」)は、昭和53(1978)年から「並木町駅」に改称されています。並木町駅は、路線図では、広い道路の手前にあります。道路脇のお宅で草取りをしておられた方にお聞きしますと「スロットのお店の裏の方にありましたよ」とのことでした。2車線の道路をさらに歩きます。その先、正面に、スロット店がありました。臨港鉄道は、スロット店の三角形の設備があるところに続いていたそうです。(ご指摘をいただき、一部修正しました。2018年11月20日再訪)

<追記>スロット店の右側の道を迂回して進みます。途中の民家で庭掃除をしておられた女性にお話しをうかがうと、「臨港鉄道の跡地はスロット店の裏の住宅になっているところです。住宅はほぼ2軒ずつ並んでいますが、その2軒の間に線路がありました」とのことでした。(2018年11月20日再訪)

<追記>この写真は、少し先から、臨港鉄道の跡地に2軒づつ建てられた民家を、スロット店の方に向かって撮影しました。民家の間を、かつて臨港鉄道は走っていたようです。もちろん、住宅は臨港鉄道の廃止後に建てられたものです。(2018年11月20日再訪)

<追記>「並木町駅は、この次の信号のある交差点を左に進んだところにありましたよ」と、おうかがいした女性は言われていました。(2018年11月20日再訪)

<追記>女性がおっしゃっていた「信号のある交差点」です。(2018年11月20日再訪)

交差点で立ち話をしておられた女性お二人にお尋ねして「ここが、駅跡です」といわれたのが、この建物があるところでした。
交差点を左折してすぐのところにありました。「駅舎は通って来た通りの方に向かって建っていた」そうです。
並木駅も干拓時の堤防跡に設置されていました。並木町駅の前身の「藤田駅」は、児島湾の干拓を遂行した「藤田組」に因んでつけられました。比較的早く開けた地域に置かれた駅でしたので、ここで多くの乗客が下車し、この先の駅に向かう乗客は少なかったといわれています。(ご指摘をいただき、一部修正しました。2018年11月20日再訪)

住宅地の中を歩きます。途中でお会いした人も「線路跡は完全に住宅地になっていますから・・・」とおっしゃっていましたが、線路跡は左側の住宅の中にありました。右側に、岡山市立福島小学校が見えてきました。

前方の左右の道路の向こう側に、静態保存されている青いディーゼル機関車が見えてきました。岡山臨港の本社のようです。とすれば、その手前のわかば歯科医院のところが、次の「岡南元町駅跡」になるはずです。昭和43(1968)年に「岡南元町駅」として開業しました。路線図の「南岡山駅」を貨物専用駅として、「岡南元町駅」を旅客・小荷物取扱駅として、機能を分けるために新設されたそうです。昭和48(1973)年に岡南元町~岡山港間の旅客営業が廃止されてからは、すべての列車の終起点になりました。貨物駅となった南岡山駅は、ここから300mぐらい先(南)にありました。

わかば歯科医院です。この建物の後方が線路跡にあたります。

岡山臨港倉庫運輸、岡山臨港の本社です。かつて、臨港鉄道で活躍した102号ディーゼル機関車が展示されていました。開業時に、汽車製造製の101号(20トンの2軸の機関車)の増備車として、昭和28(1953)年に汽車製造でつくられました。還暦を過ぎていますが、きれいな姿で臨港鉄道の雰囲気を伝えてくれています。

岡山臨港の右脇の岡山臨港の私道を通って南岡山駅跡に向かいます。岡南元町駅と南岡山駅間は0.3kmです。すぐ川を渡る橋が見えました。この奥が南岡山駅跡です。臨港鉄道の開業時には「汽車会社前停留場」と呼ばれていました。クラレ、工業、大建工業など岡南地区の工場に専用線が敷設されていました。昭和35(1960)年に汽車会社が撤退したとき、南岡山駅と改称されたそうです。展示されていた102号機関車はここの工場で製造されたのでしょうか?

この先、終点の岡山港駅まで路線が延びていましたが、路線跡は、岡山臨港の倉庫群に替わっています。丸正製粉の工場の脇の広い道をさらに南に歩きます。突き当たりを左折したところにある南岡山駅の延長線付近です。このあたりが岡山港駅跡ではないでしょうか。かつての岡山港駅の写真に写っていた山が、送電線のある山にそっくりですから・・。

現在は撤去されていますが、線路は岸壁まで続いており、対岸の北浦に向かう渡船が出ていたそうです。岡山港駅付近には、現在も、「北浦渡船場」というバス停が残っています。

振り返って南岡山駅方面を撮影しました。臨港鉄道の線路跡は、目の前の建物のある部分のようです。南岡山駅から1.2km、大元駅から8.1kmのところにありました。この駅は、岡南元町駅が終起点となった、昭和48(1973)年に廃止されています。

これは、児島湖と海水を隔てるように締め切った「児島湾締切堤防」です。途中の横断陸橋から岡山港駅方面を撮影しました。道路の左側に空地が見えます。ここは「鉄道敷設用の用地」だったといわれています。国鉄等が、西に迂回している宇野線の短絡線として、臨港鉄道を国有化し、線路をこの部分に敷設して宇野港に向かう四国連絡の優等列車を走らせることを検討していたため、空き地のまま残しているそうです。


岡山臨港鉄道は、岡南地区の工業地帯からの貨物輸送を主に担った鉄道でした。旅客輸送も行っていましたが、モータリゼーションの進展により、昭和59(1984)年、34年間にわたる営業に終止符を打ちました。線路跡の一部が遊歩道として整備されていますが、多くは道路や住宅に取り込まれていて、線路跡をたどるのはかなり難しいことでした。


登録有形文化財の駅が並ぶ三セク鉄道、北条鉄道に乗る

2016年04月30日 | 日記
JR加古川線の粟生(あお)駅と兵庫県加西市の北条町(ほうじょうまち)駅を結ぶ、北条鉄道に乗って来ました。名前からもわかるように、昭和60(1985)年に、国鉄から引き継いで、加西市や兵庫県などが出資する第3セクター鉄道に転換しています。

JR加古川駅から加古川線の電車で25分、粟生駅に着きました。到着したホームの外側に、北条鉄道のディーゼルカー、フラワ2000-2が停車しています。

振り返って加古川駅方面を見ると、粟生駅を起点とする神戸電鉄の車両も乗客を待っていました。

「ホームからすぐ乗り換えできます」という案内にしたがって、キップも持たないまま、北条鉄道のホームに向かいました。

フラワ2000-2の内部です。ワンマン運転と思い込んでいましたが、この列車には車掌が乗車されていました。乗り換え時間は2分間でしたが、隣のホームへの移動には適当な時間でした。北条鉄道は、大正4(1915)年に播州鉄道により、粟生駅-北条町駅間13.7kmが開業したことに始まります。昨年、2015年に開業100周年を迎えました。長い歴史をもっている鉄道です。

出発しました。緑濃き田園地帯を走ります。この風景は、この先、北条町駅まで続いていました。

次の駅、網引(あびき)駅です。粟生駅から3.5km。北条鉄道の中で駅間距離が最長の区間です。3分ぐらいで到着しました。北条鉄道は運賃を車内で現金で支払うシステムでした。210円を支払って下車しました。網引駅の第一印象は、新しくてきれいな駅というものでした。網引駅は、大正4(1915)年の開業時に設置された駅でしたが、放火によって焼失したこともありました。現在の駅舎とトイレは、平成25(2013)年に地元の企業の人々の労働奉仕で改修したものだそうです。

駅舎内の待合室です。木の香りがする、ギャラリーのような部屋になっていました。また、ボランティア駅長も任命されていました。待合室の展示物も、駅長のアイディアなのでしょう。

駅舎内に掲示されていた北条鉄道の運賃表です。この先、北条町駅まで6駅ありますが、そのうちの網引駅、法華口駅、長駅、北条町駅は、大正4(1915)年の播州鉄道として開業されたときに設置された駅でした。

別棟のトイレの脇にあった掲示の一部です。太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年に起きた大惨事を伝えています。播州鉄道を引き継いだ播但鉄道は、昭和18(1943)年に国鉄に移管され、国鉄加古川線北条支線になっていました。昭和20(1945)年3月31日15時50分に北条駅(現・北条町駅)を出発した列車が、網引駅の西300mのところで脱線転覆し、死者12名、負傷者104名という大事故を起こしたのでした。

これは、網引駅の待合室に掲示されていた紫電改の写真です。この大惨事が起きたきっかけは試行運転中の紫電改が墜落したことでした。紫電改の尾翼が線路を引っかけて、列車は脱線し、牽引していた蒸気機関車は180度転覆していたそうです。

網引駅から播磨横田駅までの各駅間距離は、いずれも2km未満しかありません。それならと、ここからは歩いて訪ねることにしました。次の田原駅へ向かう道からみた網引駅です。そびえ立つ、駅のシンボルのイチョウの木が見えました。

10分ぐらい歩いた時に見えた北条鉄道万願寺川橋梁です。先ほどの大事故は、ここから左側の方向で起きたということでした。

これは網引駅の待合室に掲示されていた河野孝幸氏の写真です。説明にあるように、網引駅に向かって万願寺川橋梁を走る北条支線の貨物列車の姿です。

田原(たはら)駅です。網引駅から1.1km。昭和27(1952)年に2代目田原駅として開業しましたが、駅舎はありませんでした。平成22(2010)年に、地元出身の方とその「ものづくり大学」の仲間の方々が、間伐材を使って完成させた駅舎だそうです。なお、初代田原駅は、大正8(1919)年に開業し、昭和18(1943)年に廃止されていました。このとき、北条町駅から折り返して来たフラワ2000-2が到着しました。

田原駅でも、平成24(2012)年、地元企業の無償の労働奉仕により、駐車場やトイレ、ホームへのスロープの整備がなされたそうです。

田原駅から1.5km。徒歩20分程度で次の法華口(ほっけぐち)駅に着きました。三重の塔が立つ駅です。地元の名刹、法華山一乗寺の国宝三重の塔を参考にしてつくられ、駅に寄付されたものだそうです。

法華口駅も、大正4(1915)年に北条線の開業と同時に開業しました。駅舎は開業当初の姿を今に伝えています。登録有形文化財に登録されている駅舎です。内部にはパン工房が入居していていました。

三重の塔の手前にあるトイレ。このトイレも登録有形文化財に登録されています。他の駅と同じように、地元企業の支援で、改修が行われています。

パン工房をとおってホームに出ます。国鉄時代の駅標だと思われましたが、健在でした。右から書かれていた駅名を消して、その上に左から書き直しされたようです。

北条鉄道の時刻表です。日中は1時間に1本の運行です。1つの車両が片道20分余りで、折り返し運転をしています。

ホームです。かつては、2面2線の行き違いもできる駅だったのでしょう。花いっぱいのきれいな駅でした。

次の播磨下里(はりましもさと)駅に向かって歩くつもりでしたが、線路に平行して走る道が見つかりません。途中でウオーキングしている人にお尋ねしましたが、「三角形の2辺を行く方が確実です」というご返事でした。約1時間かけてやっと着きました。この写真は、ホ-ムの向かい側から撮影しました。法華口駅からの駅間の距離は1.5kmありました。

踏切を渡って、播磨下里駅に入っていきます。花壇のわらを取り替えている人がおられました。正面が播磨下里駅の駅舎です。これも、大正4(1915)年に建設された駅舎で、登録有形文化財に登録されています。

駅舎の内部です。多くの人の手で磨かれたカウンターが残っていました。現在は、事務所の内部は待合いのスペースになっています。

待合いスペースの中央のテーブルの上に置かれていた「下里庵雑記帳」です。「下里庵」は、資料には「ボランティア駅長の僧が月3回開いている人生相談やお経の勉強会」と書かれています。この駅も、地元企業によってトイレや駐車場の整備が行われたそうです。

ホームへ出ました。新しい駅表の先に石庭が広がっています。全部で40トンの大小様々な石を並べており、第三セクターの駅では全国一だといわれています。

巨石に彫られたふるさとを讃える歌、その向こうには、”漂泊の俳人”種田山頭火の「炎天へ レールまっすぐ」の句が記されていました。「山あれば 山を観る  雨の日は雨を聴き  春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」。

次の長(おさ)駅に向かいます。花壇のお世話をしておられた方にお聞きすると「線路に沿って歩けば20分ぐらいで長駅に行ける」とのこと。休耕田の転換作物にレンゲを植えている田んぼを見ながら歩きます。

1.8kmを歩いて長駅のホームに入りました。今はレールも撤去されていますが、この駅も2面2線のホームだったようです。緑豊かな駅です。

ホームから駅舎の中を撮影しました。駅標からカウンターにかけて、かつての雰囲気が残っていました。

カウンターにあった「駅ナカ 婚活相談所 カンテレアナウンサー 新実 彰平」と手書きで書かれた看板です。北条鉄道では、どの駅でも興味深い取り組みが行われています。 

長駅も登録有形文化財に登録されています。法華口駅、播磨下里駅、長駅と続く3駅がすべて登録有形文化財に登録されています。登録有形文化財の駅が3つ続く、豪華な鉄道でした。私にとっては、もちろん初めての体験でした。

駅前の広い駐車場と自転車の駐輪場です。これも、地元企業のボランティアによって整備されたものでした。

長駅から1.6km。播磨横田駅に着きました。踏切の先に播磨横田駅がありました。北条鉄道の踏切はすべて鮮やかなオレンジ色に塗られています。播磨横田駅は、昭和27(1952)年2月に開業された駅です。北条鉄道の中で、ただ一つ国鉄になってから設置された駅でした。「兵庫県立フラワーセンター 加西グリーンエナジーパーク」の最寄駅だそうです。

ホームに見える大きな桜の木がこの駅のシンボルです。1面1線の単式ホーム。待合室風に見えるのはギャラリーです。待合室の感覚で使用されています。 

ギャラリーです。川瀬倭子(しづこ)氏の抽象画が展示されていました。日中はずっと開館している「駅の美術館」です。ホームから出ると、駅前の無料駐車場の整備工事が進んでいました。

播磨横田駅から、フラワ2000ー2に乗車して終点の北条町駅をめざしました。播磨横田駅と北条駅間は北条鉄道に移管されたときキロ数が改められ2.2km(-0.1km)となり、北条鉄道は全長13.6kmになりました。到着したとき、隣の線路には、2両の電車が待機していました。北条鉄道が保有する車両は3両ですので、全車両が勢揃いということになります。緑の車両はフラワ2000ー3です。この車両は、2008年に廃線になった三木鉄道から移ってきました。

フラワ2000-3に描かれている「ネッピー」。観光キャンペーンのキャラクターです。現在の3両の車両はすべてボギー車になっています。それ以前は、2両が和歌山県御坊市の紀州鉄道に移っていった2軸車のフラワ1985形が走っていました。ちなみに、形式番号に使われている「フラワ」は兵庫県立フラワーセンター 加西グリーンエナジーパークに由来していおり、また、「1985」「2000」は車両の導入年から採用されているそうです。

これはフラワ2000-3の後ろに停車していた、フラワ2000ー1です。外に出て陸橋から撮影しました。

駅の向かいにあったアスティア加西。生涯学習施設で加西市立図書館も入居しています。

北条鉄道の北条町駅舎です。北条鉄道の本社機能も担っています。

北条駅の内部です。ホームでは、駅スタッフが出発合図を送るための時間を確認しています。フラワ2000-2は、この後、すぐに出発していきました。

駅の窓口です。すっきりとした清潔な雰囲気です。

掲示板の上に、北条町駅の駅標が飾ってありました。以前、使用されていた実物の駅標です。


第3セクターの北条鉄道を訪ねました。たった13.6kmの盲腸線ですが、開業以来100年を超えた古い歴史をもち、登録有形文化財に登録されている駅が3つ並んでいる鉄道でした。訪ねてみて感じたことは、地元の人々に愛されている鉄道だということでした。地元企業の労働奉仕で駅舎やトイレの改修が行われ、駅舎が新しく生まれ変わっています。花壇の世話や駅の草取りに地元住民の方々が参加していること、ボランティア駅長による駅を使った各種の活動をしていることなど、人が集まる駅づくりにみんなで取り組んでいる素敵な鉄道でした。




関金駅跡から山守トンネルへ、倉吉線の跡地を歩く

2016年04月08日 | 日記
昭和60(1985)年に廃止された国鉄倉吉線。その跡地を少しずつたどってきましたが、このところ、ごぶさたしておりました。それでも、山陰本線の倉吉駅から上小鴨駅まで、倉吉線の全長20kmの半分(10.6km)は歩いてきました。(「旧倉吉線の線路跡を歩く」2013年6月4日の日記 「旧倉吉線を、打吹駅から上小鴨駅まで歩く」2013年7月7日の日記) いつかはその続きを歩こうと思っていました。やっと、実現しました。

倉吉線の跡地を歩くツアーのバスで、鳥取県倉吉市役所関金庁舎に着きました。この日は、旧倉吉線の関金(せきがね)駅跡から泰久寺(たいきゅうじ)駅跡を通って山守(やまもり)トンネルの先まで歩くことにしていました。

これは、倉吉市の中心市街地にある旧打吹駅跡につくられた「倉吉線記念館」に展示されていた写真です。

関金庁舎から10分ぐらいで、関金駅跡に着きました。かつては、島式の1面2線のホームがここにありました。機関車に牽引された列車はこの駅が終点で、折り返し運転をしていました。ここより先の泰久寺駅と終点、山守駅には機関車の付け替えができる設備がなかったからです。

これは、かつての関金駅舎の写真です。これも「倉吉線記念館」に展示されていたものです。関金駅の構内の南には、有蓋車用の貨物ホームがあったそうです。

駅前通りがあったところです。満開の桜の下で憩うツアーバスの方々です。

駅前通りで最も駅寄りにあった「駅前自治公民館」の建物です。かつて、関金駅前だったことを伝える、ただ一つの名残です。しかし、現在も、駅前には何件かの民家が建っていて駅前通の雰囲気を伝えてくれています。

駅跡の道路の向かい側にあった体育館風の建物です。「当時、このあたりには盛り土がしてあった」と、ガイドの男性が教えてくださいました。

泰久寺駅跡に向かって出発です。線路跡の県道を進みます。線路の法面も含めて道路にしたのでしょう、広い道路が続いています。左側に上蒜山、中蒜山、下蒜山の蒜山(ひるぜん)三座を見ながら進みます。

その先の「鏡ヶ成(かがみがなる)」の標識の先で舗装道路は終わります。道路は平行して走る国道313号に合流しています。倉吉線には、この先、中国山地を越えて、姫新線の勝山駅まで延伸する計画もあったそうです。

標識の先には、倉吉線時代のレールが残っています。このまま、まっすぐに進みます。さて、倉吉線は、明治45(1912)年に、当時の山陰本線上井(あげい・現、倉吉駅)と倉吉駅(後に打吹駅)間、4.2kmが開業しました。

まっすぐ続くレールの上を、田園風景を見ながら歩いていきます。倉吉線は、昭和16(1941)年に関金駅まで延伸しました。関金駅はこのとき開業したことになります。

その先でレールが途切れました。そして、線路跡の盛り土が掘削されていて段差ができていました。ガイドの方は「予算がついたところから改修したので、こういうことになるのです」とのこと。

段差の先には、枕木で階段がつくってありました。倉吉線は、その後、昭和33(1958)年に事実上の終点だった山守駅まで延伸し、開業しました。

さらに進みます。線路跡に平行して続く舗装道路を歩いていきます。

民家が迫っていますが、レールは続いています。

すでに、泰久寺地区に入っていました。泰久寺駅が近づいている感じがします。

民家の間を抜けて進むと、右側に、泰久寺駅の駅名のもとになった大久寺が見えました。曹洞宗の寺院のようです。

駅の手前に六地蔵がお祀りしてありました。ツアー仲間から「頭が重そう。」「笠地蔵か?」の声が聞こえました。

泰久寺駅跡に着きました。駅前広場が、関金駅に比べてかなり狭いことに驚きました。

「倉吉線記念館」にあった、泰久寺駅の写真です。待合室のような駅舎が写っていました。これなら、この広さで十分です。駅舎の向こうにホームの端が見えています。

泰久駅跡です。レール以外にホームも残っていました。倉吉線の駅で、ホームが残っているのはこの駅だけ、倉吉線で唯一のホームの遺構です。草取りをされる人がおられるのでしょう、きれいに整備されていました。

ホーム上にあった駅標です。しかし、枠は当時の遺構ですが、掲示してある駅標はレプリカだそうです。それでも、当時の雰囲気を伝えてくれています。ありがたいことです。

かつての泰久寺駅の写真です。「倉吉駅記念館」にあったものです。雪の中、列車から降りて、ホームを歩く中学生か高校生らしき姿です。

駅舎があったあたりを撮影しました。ここで、参加者一人ひとりに、ヘルメットと懐中電灯が配られました。

泰久寺駅からさらに進みます。竹藪の中を歩きます。ガイドさんは「竹は1年で大きくなります。いつも手入れをしていないととんでもないことになるのです」とおっしゃっていました。

その先で橋梁跡を渡ります。ヘルメット姿の一団が進んでいきます。

高い盛り土の上を歩きます。「落ちたら怖いね」と言いながら歩くツアーの参加者の姿です。

山守トンネルの入口に着きました。封鎖されていましたが、よく見ると右側に入口が設置されていました。「県の許可を取っています」とのこと。ヘルメットと懐中電灯が渡された意味がわかります。中は真っ暗でした。以前歩いた福知山線の旧線の「視界ゼロのトンネル」を思い出しました。(”視界ゼロ”のトンネルをめざして、旧福知山線を歩く」2014年5月4日の日記)懐中電灯が無ければ、一歩も先に進むことができませんでした。

全長107mの山守トンネルを抜けました。すぐ先で、線路跡は行き止まりになります。通行止めの柵の向こう側のようすです。下には道路が走っています。

製材所の屋根の上に、倉吉線の線路跡が見えます。この先、向こうの線路跡までは橋梁でつながっていたようです。今も残る線路跡からは、緩やかに右にカーブしながら、終点の山守駅に向かっていました。

泰久寺駅に戻ってから線路跡を離れました。国道に降りる途中で見た橋台です。ガイドさんは、「つくられた時のままの橋台です。70年が経過しています」と教えてくださいました。そういえば、関金駅から山守駅まで延伸したのは、昭和33(1958)年のことでした。

関金駅跡から山守トンネルの間の約4kmを、ゆっくりとした速度で2時間ぐらいかけて歩きました。倉吉線の中で、かつての遺構がよく残っている区間でした。もう少し時間があれば、山守トンネルから、終点の山守駅まで歩くことができたのではないかと思いました。少し残念でした。残る区間は、日を改めて歩いてみようと思っています。

「日本一危険なホームは、今」阪神電鉄春日野道駅

2016年03月26日 | 日記
「あの駅のホームは、『日本一危険なホーム』だとテレビでも放送されたんですよ!」。「今もそのホームが残っていますよ!」と、知り合いから聞いて、訪ねてみることにしました。その駅の名前は阪神電鉄本線の春日野道駅(以下「阪神春日野道駅」と書きます)です。

これは、阪神春日野道駅にあった駅周辺の地図ですが、阪神春日野道駅は国道2号の地下にある駅のようでした。阪神春日野道駅から、阪神電鉄本線は国道2号を離れ、その一つ北側を走る旧西国街道の地下に向かって進んで行きます。

JR三ノ宮駅に着きました。そこから、国道2号を東に向かって歩きます。

JR三ノ宮駅の向かいにあるデパート「そごう」の地下に、阪神電鉄神戸三宮駅があります。

梅田駅方面に向かって、阪神春日野道駅は神戸三宮駅の次の駅です。長い距離ではないので、国道2号を阪神春日野道駅まで歩いて行くことにしました。りそな銀行、阿波銀行、日新信用金庫など金融機関が並ぶ道を東に向かって歩きます。

国道2号の右側に「くら寿司」の看板が見えます。そのあたりに阪神春日野道駅があるはずです。国道2号の右側の道に移り、さらに東に向かいます。

やがて、歩道の端に「阪神電車春日野道駅」と書かれた、駅への入口が見えて来ました。

階段を下りました。下りきるとすぐ目の前に改札口がありました。人の姿は見えませんでした。春日野道駅の西側の改札です。さらに進んで東側の入口から駅に入ることにしました。

再度、国道2号の歩道に戻って歩きます。くら寿司の看板の先に、もう一つ阪神春日野道駅への入口がありました。「阪神電車春日野道駅」と「春日野道地下道」と書かれています。ここから下っていきます。

階段を下ると、「春日野地下道」といわれるにふさわしい広々とした空間が広がっています。左側が阪神春日道駅になっています。掲示されていた運賃表を見ると、春日野道駅から神戸三宮駅までは140円でした。ここまで140円分を歩いて来たことになります。通路の右側を、こちらに向かって歩いている人がおられますが、その手前の壁面に懐かしい写真が貼ってありました。

これは、「昭和20年代後半の国道2号」のタイトルがついています。説明には「左手の建物は市電の車庫。その右側には阪神春日野道駅の旧改札所。これらの建物は、国道2号の拡幅工事で姿を消した」と書かれていました。さて、阪神春日野道駅は、明治38(1905)年、阪神本線の開業とともに開業しました。昭和8(1933)年に地下線になったときに一時廃止されましたが、翌年の昭和9(1934)年、地下鉄駅として新規開業しました。

これは、かつての阪神春日野道駅のホームです。島式の1面2線のホーム。ホームの幅は、電車幅(2.8m)よりも狭い2.6mしかありませんでした。おまけに、ホームの中央にはコンクリートの柱も立っています。まさに「日本一危険なホーム」でした。なお、柱の中央には「線路内転落など危険発生のときは、下の押しボタンを押してください」と書かれています。

駅員さんが見守る改札口を通ってホームに出ました。阪神春日野道駅の1日平均乗降人員は12,432人(2011年)で年々増加しているようです。

現在は2面2線のホームです。こちらは、神戸三宮駅方面行きのホームです。ベンチも設置されています。

照明で明るいところは、対面する梅田方面行きの電車のホームです。その手前がかつての幅2.6mホームです。阪神春日野道駅は、阪神本線が地下化された翌年の昭和9(1934)年に、地下駅として開業しました。その時はホームの幅は3mありました。その後、電車の幅が広がったため、3mのホームの両側を20cmずつ削って、電車が通れるように改良しました。こうしてホームの幅が2.6mになりました。

かつてのホームです。もともと3mあったホームは40cm削られて狭くなり、幅2.6mの狭いホームになってしまいました。加えて、地下鉄特有の強い列車風のため、「日本一危険なホーム」と呼ばれるようになりました。

安全確保のため、乗客は列車が到着するまでホームの手前で待機していて、電車も時速45kmというゆっくりとしたスピードで通過していたそうです。現在のホームへの改修工事は、平成13(2001)年から始まりました。線路もホームもそのままにして、上下線の線路の外側にある壁を開削して拡幅する工法で、営業を続けながら工事が進められました。そして、平成16(2004)年9月25日から新しいホーム(対面式2面2線)で運転が開始されました。このときから、通過する電車は時速75kmで走るようになりました。現在は、残念ながら、かつての1面2線のホームへは行くことはできません。

地下の通路から、今度は北側の入り口に向かって歩きます。写真は南方面に向かって撮影したものです。

こちらが、国道2号の北側の駅への入口です。

阪神春日野道駅の入口の脇に、春日野道商店街の入り口がありました。ここから、約450mぐらい、商店街が広がっています。土曜日の昼前でしたが、行き交う人もたくさんおられました。

1ブロック過ぎて東西の通りを横断します。横断歩道の近くに「旧西国街道」の碑が建てられていました。江戸時代には京都・大坂から岡山・広島へ、さらに関門海峡を越えて九州に向かう幹線道路でした。

神戸信用金庫の看板が見えるところまで進むと、アーケードの先に、JR神戸(東海道本)線と阪急春日野道駅のある高架が見えました。阪神春日野道駅を見たので、ついでに阪急春日道駅も訪ねてみようと思ったのです。

商店街を抜けました。正面が阪急電鉄の高架です。アーケードを抜けた両側の左右にはコンビニが向かい合っています。町歩きにふさわしい晴れ渡った空の下を歩いていきます。

JR神戸線と阪急春日野道駅がある高架です。

左側の高架下に、阪急春日野道駅がありました。阪神春日野道駅に比べて、少し窮屈な印象の駅でした。阪急春日野道駅は、昭和11(1936)年、阪急が三宮駅まで延伸したときに開業しました。明治38(1905)年の阪神春日野道駅の開業から、約30年後のことでした。

改札口付近の光景です。手前の右が自動券売機。正面が改札口になっています。その先で右に曲がります。

改札口の脇に駅員さんがいらっしゃいました。阪急春日野道駅の1日の乗車人員は6,058人(2010年)。乗車された人が降車もされているとすると、阪神と阪急はほぼ同じぐらいの人が利用しておられるようです。

ホームに上がりました。阪神春日野道駅の狭いホームが頭にあったせいか、阪急春日野道駅のホームも狭く感じられました。昭和61(1986)年に公布された「鉄道事業法」では「ホームの幅は原則3m以上」と書かれているそうです。狭く感じましたが、3mは確実に確保できているとは思いました。1面2線のホームです。

ちょっと左に視線を移します。隣はJRの電車が走っています。

このとき、阪急三宮駅行きの電車が入ってきました。阪急三宮駅まで150円。阪神より10円高かったようです。

「日本一危険な駅」ということばに誘われてやってきた阪神春日野道駅でしたが、もちろん、現在は安全な駅に変わっていました。しかし、「危険な駅」だった時代には、70年にわたって、改札口付近にベンチを設置し待合いスペースとしていたり、ホームにある柱と柱の間に金属製の安全策を設置したり、電車接近時には案内放送やメロディなどで知らせたり、危険回避のために様々な工夫をしていたようです。 初めて訪ねましたが、危険なホームのとき1度は乗車してみたかったと思ってしまう駅でした。

まだありました!阪神電鉄の橋上の駅、大石駅

2016年03月21日 | 日記
このところ、川に架かる鉄橋上に設置された駅を訪ねています。

これまで、JR土讃線土佐北川駅(鉄橋上にある「秘境駅」JR土佐北川駅」2013年12月2日の日記)、JR福知山線の武田尾駅(「トンネルと鉄橋の駅」2014年4月30日の日記)、伊予鉄道の石手川公園駅(「伊予鉄道の鉄橋上の駅石手川公園駅」2015年4月8日の日記)、阪神電鉄の駅では、武庫川駅(鉄橋上の駅、阪神電鉄武庫川駅」2015年12月28日の日記)、石屋川駅(「石屋川の上にある駅」2016年1月30日の日記)、香櫨園駅(「夙川の上にお立ち台がある駅」2016年2月5日の日記)、芦屋駅(「芦屋川の上にある駅」2016年2月19日)を訪ねてきました。

この日は、もう一つ残っている阪神電鉄の川の上にある駅を訪ねることにしていました。阪神電鉄神戸三宮駅から梅田行きの普通列車で10分ぐらいで到着しました。ホームの前方から見えた左側の風景です。六甲の山並みと真下に護岸工事で整備されている川の流れです。

この駅は大石駅。武庫川駅、石屋川駅、香櫨園駅、芦屋駅に次ぐ5つめの川の上の駅になります。大石駅は、明治38(1905)年の阪神電鉄本線の開業と同時に、開業しました。最初の駅は、現在より少し南にあったそうですが、昭和43(1968)年、石屋川駅・西灘駅間が高架化されたときに現在の地に移転してきました。

ホームから神戸三宮駅方面を撮影しました。ホームは2面4線。大石駅を通過する優等列車や、停車する普通列車は、二つのホームの間の2線を使用しています。

ホームからエスカレーターと平行する階段を下ります。日曜日の昼前です。一緒に下車した方はすでに駅から出ておられましたので、一人で下ることになりました。

ゴミ一つ落ちていない、清潔できれいな駅舎を歩き、地上部分にある改札口に向かいます。改札口付近には駅員の方がいらっしゃいました。

大石駅の改札口付近に掲示されていた周辺の地図です。閑静な住宅地が広がっている地域です。

改札口を出るとすぐ目の前が道路、道路の先は自転車の駐輪場がありました。その向こうには、ホームから見た川があるはずです。

道路に沿って、北側に出ました。広い歩道と対抗2車線の道路があります。

振り返ると、大石駅のホームが見えました。橋桁には「都賀川(とががわ)を美しく」と書かれています。歩道部分も河川敷も大変きれいでした。降りる石段がありましたので、河川敷に入りました。

「都賀川公園」という親水公園として整備されているようです。河川敷を散歩されている方や食事をされている女性のグループの姿が見えました。ホームの下を流れる都賀川は澄みきったおだやかな流れでした。

都賀川の流れにいた、一つがいの水鳥です。首を流れに入れて食べ物をさがしていました。のどかな光景です。

河川敷にあった危険を知らせるポスターです。兆候を感じたら上がるようにと丁寧な説明が、インパクトのある色で表現されていました。

これも掲示物です。水量が増えたら100m移動すると地上面に上がって逃れられるようですね。現在のおだやかな流れからは想像できないことですが・・。

駅の南側の河川敷からの風景です。「都賀川を美しく」と書かれている大石駅のホームが見えました。実は、このホームに屋根には秘密がありました。ホームの屋根に太陽電池が設置されているのです。平成26(1014)年に設置され、エレべーターやエスカレーターや照明設備など、大石駅で消費する電力の3割をまかなっているそうです。

河川敷にあったポスターのとおり、上りの石段がありましたので、地上面に出ました。北側の大石駅の下をくぐる対向2車線の道路。その上に座っている人の姿が見えます。道路の上に座っておられるようで、笑ってしまいました。 

都賀川左岸の南方面です。淡路信用金庫の建物の南には西(にし)郷小学校が見えました。

公園から見えた西郷小学校です。校舎の上から「金盃」という看板がのぞいていました。その名のとおり、酒造会社の看板でした。このあたりは灘五郷の一つ、西(にし)郷にあたる地域です。

これは、大石駅にあった掲示板です。多くの酒造会社の資料館が載っています。都賀川の南の阪神高速3号神戸線の南には「沢の鶴資料館」があるようです。

西郷小学校の先にあった金盃酒造株式会社の建物です。

こちらは都賀川の右岸から見た南方面です。阪神高速3号神戸線の高架が遠くに見えます。高架の上から「沢の鶴」の看板がのぞいています。

高架下の自動券売機です。この先に改札口があります。

大石駅は、川の上にある駅として知られているわけではありません。今はホームの屋根に設置された太陽光発電システムで知られています。1枚9.5kgといわれる太陽光パネルを使用しているので、ホームの柱や梁(はり)を改造することなく、設置することができたそうです。

川の上に設置された橋上の駅を訪ねて、阪神電鉄大石駅に行って来ました。阪神電鉄の他の橋上の駅と同じような雰囲気を感じる駅でした。大きさに圧倒された武庫川駅ほどではありませんが、川の上にどっしりと根を張った駅でした。それ以上に、太陽光発電の実験を行っている施設として存在感を高めている駅でした。
ところで、これで、阪神電鉄の橋上の駅はすべて訪ねたことになるのでしょうか?