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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

尼崎港線の跡地をたどる

2016年02月28日 | 日記
旧国鉄福知山線の支線として、現在のJR福知山線塚口駅から南に下り尼崎港駅を結んでいた、4.6kmの路線がありました。昭和59(1984)年に廃線となったいわゆる「尼崎港線」です。前回、阪神電鉄大物(だいもつ)駅を訪ねたとき、現在も残る「唯一の線路跡」を見て来ました。

これが、尼崎港線の線路跡です。阪神電鉄の高架の南にある尼崎車庫を過ぎたあたりに残っていました。尼崎港線に関する情報は、たまたま国道2号線の兵庫三菱自動車尼崎支店の向かいの道で出会った高齢の男性からいただきました。

国道2号線の南側から見た兵庫三菱自動車販売尼崎営業所の建物です。この右側にある関西保育福祉専門学校の建物との間を尼崎港線が走っていたそうです。ここから南に歩いて、「唯一の線路跡」をめざしたのです。

線路跡の空き地にあった「大物くずれ」の碑です。ここまで歩いてきた時、突然道路から自動車のクラクションの音が聞こえました。見ると、先程線路跡を教えてくださった男性でした。運転席から「大丈夫か? この道を進んで国道43号の下の日本通運の事務所が尼崎港駅の事務所や!」と声がかかりました。ありがたいことでした。嬉しくなって、次回は、尼崎港線の全線を歩いてみようと思ったのでした。

そして、今回は、尼崎港線の全線をたどるため、JR福知山線の塚口駅(尼崎市塚口東町)に向かいました。旧国鉄尼崎港線は、明治24(1891)年川辺馬車鉄道が塚口駅と尼崎港駅間で開業させました。しかし、7年後の明治31(1898)年、阪鶴鉄道(川辺馬車鉄道から運用を引き継いだ)が塚口駅から尼崎駅(当時は東海道線神崎駅)へ乗り入れを開始したため、尼崎港線は支線のような存在になりました。そして、明治40(1907)年には阪鶴鉄道が国有化されて、国鉄の路線になりました。途中駅には「尼崎駅」と「金楽寺駅」がありました。

今回は、塚口駅東口からスタートしました。線路跡を歩くといっても、手がかりがありません。ネットにあった多くの方の報告をもとに、手がかりを捜して歩くことにして、とりあえずは、線路に沿って南に向かうことにしました。しかし、すぐに住宅等で、線路に沿って歩くことができなくなり、尼崎東警察署上坂部交番の脇を右折して南に向かいました。

すぐ、道路の左側に、道標を見つけました。二つの道の案内が並んで彫り込んであり、右側に「すぐ あまか崎」と書かれています。古くからある街道のようです。これなら、まっすぐ進むと尼崎港駅に行けるはずだと思いました。

やがて、前方に国道338号(山幹通り)の福知山線の跨線橋が見えました。右折して跨線橋に上がりました。

跨線橋から見たJR塚口駅方面です。この一番右の線路がかつての尼崎港線の跡のようです。

跨線橋の下にあった車止めです。ここで線路跡は途切れていました。

その先の光景です。尼崎港線の線路は砂利に覆われています。JR福知山線はこの先で右カーブをしてJR尼崎駅に向かって行きます。右カーブで、思わず思い出したのが、あのJR福知山線の事故のことでした。

街道に戻って、右側の神崎変電所に沿って進みます。次のブロックで右に折れて、福知山線の踏切に向かって進みます。

踏切の手前にあったマンションです。福知山線で電車がぶつかったマンション。今は無人になっていました。

マンションの向かいにあった日本スピンドル工業です。マンションの手前に事故の犠牲者への献花台につながる通路があります。このあたりが、尼崎港線の線路の延長線上にあたります。写真の左側から右側の日本スピンドル工業の社屋に向かって走っていたようです。

街道に戻って進みます。道路がかなり広くなりました。交差点の先にファミリーマート(右)と関西国際大学(左)が見えました。この交差点を右に曲がって進みます。

右折して進むと前方の右側に見えてきた白い建物。このあたりを右側から左側に向かって、尼崎港線は走っていたようです。白い建物には「大阪鉛錫精錬所」と書かれていました。精錬工場でした。

ファミリーマートに戻り、さらに南に向かいます。尼崎港線は、大阪鉛錫精錬所から、このあたりで広い通りに合流していたようです。廃線跡の道路は、関西国際大学の先にある「JR尼崎駅西」の交差点(信号)で行き止まりになりました。現在は工事中で、JR神戸(東海道)線を立体交差で越えるための工事が進んでいました。ここから迂回して、JR尼崎駅に向かい、その後、JR尼崎駅の南側に渡り、交差点の南側に出ることにしました。

JR尼崎駅の南側を駅に沿って歩き、線路の南側の工事現場をめざしました。途中に色彩豊かなお店が並んでいるところがありました。

お店の前に、50円の自動販売機がありました。「テレビでおなじみ おいでや自販機 50円 仰天価格で登場」と書かれていて、猫の写真も貼ってあります。50円で販売しても利益が出るのですね。

「JR尼崎西」交差点の南側付近に来ました。「JR東海道本線 池田街道踏切は立体交差の工事のため閉鎖しています」という案内看板がありました。さて、尼崎港線の「神崎駅」は、東海道線を越えたところにあったといわれていますが、このあたりなのでしょうか? ホームは1面1線。昭和24(1949)年に「尼崎駅」に改称されたそうです。それに伴い、終着駅の尼崎港駅は、当初は「尼崎駅」でしたが、このとき、「尼崎港駅」に改称されたそうです。

線路に沿って、もう少し進みます。マックスバリューのお隣のお宅付近が線路跡だそうです。尼崎港線は、ここから南に進んでいました。

先ほどのお宅の南側の光景です。井伊金属工業の建物がある敷地付近が線路跡のようです。

次のブロックです。道路は行き止まりになり、カギ型に曲がっています。マックスバリューの看板に沿って進みます。

線路跡をもう少し南に進むと、天神橋緑地に入ります。線路跡にあったモニュメントです。「天神橋緑地」の裏側は・・・。

車止めになっていました。線路跡のように、レンガの色を変えてつくられていました。

車止めの南側の光景です。こういうモニュメントがあると、線路跡をたどる意欲が高まります。

天神橋緑地の次のブロックです。このあたりに「金楽寺駅」がありました。1面1線のホームでした。道は住宅で行き止まりになりましたが、この正面のお宅の前に尼崎港線の名残を見つけました。

正面のお宅の前にあった旧国鉄の「境界標」です。おなじみの「エ」のマークがありました。ここより向こう側に線路があったのでしょう。向かいの長洲本通りの向こう側に見えるのは長洲天満宮です。

長洲天満宮の社殿です。

長洲本通りから見た南側の光景です。三角形のお宅の右側に線路は続いていたのでしょう。

この先は線路跡の右側を進む道を歩きました。すぐ右側にあった兵庫県立尼崎高校です。

県立尼崎高校の先にあった空き地です。自転車の置かれた空き地を尼崎港線が走っていました。左の建物は関西保育福祉専門学校です。気がつくともうその先は国道2号線。右の建物は兵庫三菱自動車販売尼崎営業所です。その間が、前回、高齢の男性から教えていただいた線路跡です。

国道2号線を渡ってから振り返って2号線の北側を撮影しました。線路跡の光景です。

これは、2号線北側の線路跡から撮影した南側の光景です。正面の建物(ホルモン焼き鉄板 お好み焼き じゅん)のある敷地付近が線路跡になります。

南に進みます。大物町一丁目。来た道を振り返って撮影しました。中央が線路跡です。

この先に、冒頭に掲げた「大物くずれ」の碑がありました。写真は南側に向かって撮影したものです。阪神電鉄本線の高架です。

さらに進みます。平成28(2016)年1月19日に開所したばかりの真新しい大物交番の脇を抜けて、阪神電鉄本線の高架をくぐります。

高架をくぐった南側です。阪神電鉄尼崎車庫を右手に見ながら進みます。

その先が、尼崎線で「尼崎港線の唯一の線路跡」です。通りの先に、神戸高速3号神戸線、国道43号の高架が見えました。

レール材の杭で線路跡は大事に区切られていました。

阪神高速の高架の手前です。道路の左側の写真です。

道路の右側の写真。尼崎崎市立明城小学校です。江戸時代、この地を治めた尼崎藩の居城、尼崎城の本丸跡につくられています。

高架の下に入りました。尼崎港駅の跡地です。多くの側線があったそうです。高速道路に平行して建っているのが尼崎港駅の事務所跡でした。現在は「日本通運(株)尼崎営業」という看板が架かっていました。尼崎港線が運行されていた頃には、貨物の取扱いが主な仕事であり、専用線で運ぶ貨物や専用線で運ばれてきた貨物の取扱いを行っていたところです。

尼崎港駅の近くに置いてあった枕木です。これも、大切な尼崎港線の名残です。

旧尼崎港駅の南側には、周辺の工場への3つの専用線が走っていたそうです。この先にある旭硝子関西工場と住友金属工業特殊管事業所、日本硝子尼崎工場へ行く専用線でした。

ここからは、その専用線の跡をたどります。阪神高速3号神戸線の高架に沿って西に向かいます。テニスコートになっている所を抜けると庄下川(しょうげがわ)の岸に出ます。

庄下川の対岸です。中央に橋台の跡が残っています。

こちらは手前側です。少し加工されていますが、ここに橋台があったようです。近くに橋がないので、向こう側に行くには迂回するしかありません。

庄下川にかかる金城橋(きんじょうばし)を渡り、次に、江戸時代から架けられていた戎橋(えびすばし)を渡って対岸に向かいました。対岸の橋台の上にあったレールの跡です。これも立派な線路跡の名残です。

対岸のレール跡の先をたどり、旭硝子の関西工場に向かって歩きます。中在家中継ポンプ場の脇を通って進みます。

その先にあった中在家緑地です。住友金属特殊管事業所に向かう専用線はここで分岐して、左に進んで行ったそうです。旭硝子関西工場への専用線はさらにまっすぐ延びていました。

旭硝子関西工場に向かう専用線の線路跡は、現在は、倉庫や駐車場に替わっていました。日本硝子への専用線は旭硝子への専用線から分岐していたといわれていますが、分岐点はどこなのかよくわかりませんでした。土曜日の午後でしたが、お尋ねしようにも、すれ違う人は一人もいらっしゃいませんでした。

旭硝子の工場の敷地に入りました。終点はどこだったのでしょうか? わからないまま、引き返すことにしました。

旧国鉄尼崎港線は、昭和56(1981)年に旅客営業が廃止され、昭和59(1984)年2月1日貨物営業も廃止されました。すでに、1970年代になってからは、貨物列車の運行は1日数往復、旅客列車も1日2往復程度になっていました。廃止もやむを得ない状況で、自然な流れで廃線に舵を切って行ったのでしょう。現在、路線跡はまったく様変わりしてしまっていて、たどるだけでもなかなか大変なことでした。親切な男性と出会うことができた故に始まった廃線跡めぐりでしたが、きちんと廃線跡を歩けたのかどうか、まったく自信がありません。でも、すごく楽しい旅ができました。あのおじさんはどうしているかなあと、丁寧に教えていただいた高齢者の男性とのやりとりを思い出しながら歩いた旅でした。

芦屋川の上にある駅、阪神電鉄芦屋駅

2016年02月19日 | 日記
このところ、阪神電鉄本線の鉄橋上の駅を訪ねています。この日は、芦屋川にかかる鉄橋上の駅、阪神芦屋駅(以下「芦屋駅」)を訪ねました。

芦屋駅は芦屋市公光町(きんみつちょう)にある高架駅です。そこに、相対式2面2線のホームがありました。ホームの長さは130m、広々としたホームです。写真は、神戸三宮方面行きの普通列車の”青胴車”です。梅田方面行きのホームから撮影しました。

芦屋駅は、香櫨園駅から2.4km、神戸三宮行きの普通列車で、打出(うちで)駅を経由して、3分ほどで着きました。

神戸三宮方面へのホームから見た芦屋川です。芦屋市のほぼ中央を南北に流れています。六甲山系のごろごろ岳を源流とする、全長8キロメートルの川、かなりの急流で、大阪湾に注いでいます。芦屋駅の南側の下流部分の光景です。この季節、水はまったくありませんでした。

ホームから地上面にある出口に向かいます。土曜日の昼下がり、下車した方はほとんどおられませんでした。

階段で地上面に下りました。芦屋駅は、明治38(1905)年4月12日、阪神電鉄本線の開業と同時に開業しました。もうすぐ、111歳になるはずです。

梅田駅方面の改札口から出ました。改札口は2ヶ所設置されています。芦屋駅の1日の平均乗降人員は27,292人(2012年)だそうです。

芦屋駅の駅舎です。芦屋川の左岸にある道路に向かって出口がつくられています。2階はホームになっています。

芦屋川の橋上のホームです。南側に、芦屋川に架かる平田橋がありました。ホームと平行して架けられています。

芦屋川から見た芦屋駅と平田橋。この日は水が見えませんでしたが、芦屋川は、六甲山麓から一気に下る急流のため、清流が流れているそうです。しかし、平成7(1995)年に起きたあの阪神淡路大震災に並ぶ大災害をおこしたことが、かつてあったそうです。昭和13(1938)年7月に六甲山に616ミリの豪雨が降り、芦屋川だけでなく、同じ六甲山を源流とする住吉川、石屋川も氾濫し、阪神地区に大きな災害をもたらしたことがあったそうです。

平田橋から見たホームの基礎部分。近くで見ると、どっしりとした印象を受けます。

駅の南側にあった芦屋市役所。芦屋市精道(せいどう)町にあります。花壇を見下ろす白亜の殿堂。高級住宅地で知られる芦屋にふさわしい雰囲気です。

市役所の南を東西に走る阪神高速神戸線。国道43号と併走しています。

市役所対岸にあった住宅地です。広い敷地の邸宅が並んでいます。芦屋市は”高級住宅地”として知られています。しかし、「その中心は山手側の阪急電鉄芦屋駅周辺であり、阪神芦屋駅付近には下町の風情が漂う」ともいわれていますが、市役所の対岸の住宅地はなかなか素敵な雰囲気でした。

芦屋駅舎の前の道路をくぐって、阪神本線の北側に向かいます。市役所の北側にあった芦屋警察署とその北側のカトリック芦屋教会の建物です。芦屋市の行政の中心地になっています。

芦屋警察署の前からみた芦屋川の光景です。遠くに六甲山系の山々が見えます。わずかに、溜まっていた水はきれいに澄んでいました。

北側から見た芦屋駅のホームです。こうして見ると、駅のホームの中心部分の一部に芦屋川が流れているという印象です。石屋川駅(2016年1月30日の日記)や香櫨園駅(2016年2月5日の日記)と同じような駅でした

阪神電鉄にある鉄橋上の駅を訪ねる旅も、石屋川駅、香櫨園駅に続いて、3回目になりました。阪神電鉄芦屋駅はホームで電車を待っておられた人以外に、出会う人がほとんどおられませんでした。土曜日の昼下がり、訪ねる時間がよくなかったのだと思います。

夙川の上に「お立ち台」がある駅、阪神電鉄香櫨園駅

2016年02月05日 | 日記
このところ、阪神電鉄の鉄橋上にある駅を訪ねています。武庫川の鉄橋上にある武庫川駅(「鉄橋上の駅、阪神電鉄武庫川駅」2015年12月28日の日記)と、石屋川が下に流れる石屋川駅(「石屋川の上にある駅」2016年1月30日の日記)は、すでに訪ねました。

この日は、石屋川駅と同じように、夙川(しゅくがわ)が駅の下を流れる阪神電鉄香櫨園(こうろえん)駅を訪ねました。香櫨園駅は、大阪商人だった香野蔵治氏と櫨山慶次郎氏の二人が、明治40(1907)年に開園させた「香櫨園遊園地」の最寄り駅だったことから名づけられたそうです。また、香櫨園遊園地は二人の名前を1文字ずつ取って名づけられたそうです。

高架上を走る梅田行きの普通列車で、打出駅から1分ぐらいで到着しました。打出駅から1.2km、西宮市松下町に香櫨園駅はありました。下車するとすぐに電車は、次の西宮駅に向かって出発して行きました。さて、香櫨園駅は、明治40(1907)年に打出駅と西宮駅の間に「香枦園(こうろえん)」として新設され開業しました。打出駅から1.2km、西宮駅から1.1km。二つの駅のほぼ中央部に設置されています。

電車が出発した後の香櫨園駅です。2面2線の相対式ホームがあります。ホームの長さは120mあるそうです。広々とした印象の高架駅でした。

梅田方面行きの電車が出て行ったホームの待合室の手前から出た方がおられました。でも、降り口ではなさそうです。覗いてみることにしました。

有名ブランドを連想させる千鳥格子の床です。ドアから外へ出ました。ベランダになっていました。

ベランダから見た香櫨園駅の北側の風景です。護岸の整備も完了している、夙川の両岸には桜並木が続いています。ベランダから眺めるのにふさわしい美しい景色です。このベランダは、「お立ち台」と呼ばれているようです。

高架から地上面に降りました。振り返って階段とエスカレーターを撮影しました。階段からも広々とした印象を受けます。

土曜日の昼過ぎで乗降客の姿はほとんどありませんでした。改札口の脇の事務室に駅員さんがいらっしゃいました。改札口から出ました。

高架下から南側に出ます。途中の売店から振り返った改札口付近です。

香櫨園駅の南側からの入口です。どっしりとした重厚な感じがします。

南側から見た駅のホームです。こちら側にも「お立ち台」が設置されていました。

夙川の南側の風景です。阪神高速神戸線の高架が見えました。駅付近には静かな住宅地が広がっていますが、1990年以降はマンションが増えていったといわれています。

駅の北側に出るため駅舎に戻りました。今度は駅の北側に向かいます。北出口付近にあった「香櫨園」。地上駅時代の駅舎の駅標だそうです。

駅標の下に掲示されていた写真です。北側から見た地上駅時代の香櫨園(地上駅時代は香枦園)駅の写真です。「お立ち台」が見えています。

これは、北側からみた現在の香櫨園駅の写真です。ベランダ部分が夙川の上に乗っかっているような感じです。現在の高架駅になったのは、平成13(2001)年のことでした。そして、この年、現在の「香櫨園」駅に改称されました。

夙川の両岸は桜並木になっています。夙川オアシスロードといわれています。香櫨園駅から北に向かって歩きます。

夙川オアシスロードにあった道標です。「阪神香櫨園駅 170m」「阪急夙川駅 680m」と書かれていました。その先で国道2号線を渡ることになります。

国道2号線の交差点にあった「夙川公園」の案内です。ここからは「夙川さくら道」に入ります。桜の名所としてよく知られているところです。阪神電鉄香櫨園駅の乗降客は、平成22(2010)年頃から10,000人を割っているそうです。「JRのさくら夙川駅が開業したことによる影響が大きい」とのこと。このまま、北に向かいJRさくら夙川駅まで行ってみることにしました。

すぐ先で右側に下って進むと、JR神戸(東海道)線さくら夙川駅が見えて来ました。平成19(2007)年に、西宮市神楽町に新設開業した新しい駅で、阪神電鉄と同じ高架駅になっています。波打った屋根ををもつ近代的な駅舎です。駅スタッフは全員女性だそうです。

県道28(大沢・西宮)号線を跨いでいます。駅名は桜の名所である夙川にちなむ駅です。西側のJR芦屋駅へ2.3km、東側のJR西宮駅へ1.5kmのところにあります。

JRさくら夙川駅の1日平均の乗車人数は7,783人(2012年)だそうです。阪神電鉄はかなりの影響を受けているようですね。

阪神電鉄で3つめの川の上にある駅、香櫨園駅を訪ねました。土曜日の昼下がりということもあり、乗降される方が多くなかったのが残念でした。兵庫県有数の住宅地に位置し、ホームの設置された「お立ち台」といわれるベランダから夙川の桜が見られる駅でした。川の上に設置された駅という理由で訪ねた駅でしたが、それ以上に、品格を感じる駅でした。

石屋川の上にある阪神電鉄石屋川駅

2016年01月30日 | 日記
阪神電鉄が走る神戸市から尼崎市にかけては、鉄橋の上にある駅がいくつかあります。その中の一つ、西宮市と尼崎市の境にある武庫川駅は、すでに訪ねて来ました(「阪神電鉄武庫川線(1.7km)に乗って、阪神鳴尾球場を訪ねる」2016年1月4日の日記)。武庫川駅は武庫川の両岸に跨るホームが広がる大きな駅でした。

この日は、武庫川駅ほど大きな川ではありませんが、石屋川の上にある駅、阪神電鉄石屋川駅を訪ねることにしました。

阪神電鉄神戸三宮駅から、梅田駅行きの普通列車で新在家駅を過ぎ、右側にある石屋川車庫を過ぎると、その先に阪神電鉄石屋川駅はありました。石屋川駅は高架上の駅。その下を石屋川が流れています。

乗って来た”青胴車”は、すぐに、次の御影駅に向かって出発していきました。阪神電鉄石屋川駅は、明治38(1905)年4月12日、阪神電鉄本線の開通と同時に開業しました。開業から111年目に入っています。

高架上のホームから神戸三宮駅方面を撮影しました。1面2線のホーム。右側のホームに梅田駅方面行きの電車が停車します。阪神電鉄で1面2線の島式ホームは、石屋川駅以外では、元町駅があるだけだそうです。

椅子のようなものがホームにありました。日当たりのいい明るい駅に、よく似合っています。

梅田駅方面行きの電車が停車するホームの中央部分から見た北側の風景です。

護岸工事がなされている石屋川が見えました。確かにホームの下を流れています。

ホームから見た南側、石屋川の下流方面です。遠くに阪神高速神戸線の橋梁が見えます。どうも、石屋川駅は「石屋川の上にある駅」というよりは、「駅の下の1部に石屋川が流れている」というのがふさわしいようです。

このとき、神戸三宮方面行きの電車が通過していきました。

列車がやってきた先には、次の御影(みかげ)駅がかすかに見えています。ゆるく右にカーブしているようです。

ホームからの降り口は、北側に1カ所だけ。階段を下ります。高架上から地上部分におります。

階段を下った右側にあったトイレ。お借りしましたが、清潔で美しいトイレでした。職員はおられなかったようですが・・・。

自動改札口を出てから、振り返って撮影しました。1日の平均乗降人員は5602人(2010年度)いらっしゃっるようです。高架下にある駅舎です。駅舎内の売店らしきところは、シャッターが閉まったままでした。

外から見た駅舎です。少し、窮屈そうな印象です。石屋川の東岸の道路も高架のホームの下をくぐっています。

これは、駅舎にあった石屋川駅周辺の地図です。石屋川駅の南部一帯は、酒造業がさかんな”灘五郷”で知られている地域です。

神戸市東灘区御影石町二丁目に石屋川駅はあります。岩屋駅、大石駅、岩屋川駅と石にかかわる駅が並んでいます。そして、このあたりが御影石町。御影石(花崗岩)にかかわる町だったのでしょうか? どうやらそうではなく、古代、このあたりに「澤之井」という泉があり、神功皇后がその水面に姿を映したことに由来する地名のようです。

駅周辺には静かな住宅地が広がっています。駅前に喫茶店がありましたが、他にはお店は見えませんでした。神戸三宮方面行きの普通列車が入ってきました。

石屋川は、静かな住宅地にふさわしく、駅の中央を静かに南に流れていました。


旧南海電鉄平野線の面影を求めて

2016年01月16日 | 日記

旧南海電鉄平野線の平野駅があった大阪市平野区平野本町にある公園を訪ねることにしました。
南海電鉄平野線は、大正3(1914)年に阪堺電気軌道の平野支線(軌間1435ミリ)として開業しました。阪堺電気軌道の今池電停から分岐し、現在の阪神高速松原線に沿って進み、平野電停まで行く5.9kmの複線の路線でした。当時の今池電停は、現在の阪堺電気軌道の今池電停から100mぐらい南にあったといわれています。その後、大正4(1915)年から阪堺電気軌道が南海電鉄と合併したため、南海電鉄平野線となりました。昭和55(1980)年に廃止されるまで、66年間に渡って旅客輸送に活躍した路面電車でした。

地図を見ると、南海電鉄高野線の帝塚山駅から東に向かうと阪堺電気軌道、大阪市営地下鉄御堂筋線、JR阪和線、大阪市営地下鉄谷町線、そして近鉄南大阪線と多くの鉄道と交差しながら行くことができそうです。ということで、南海電鉄高野線帝塚山駅からスタートすることにしました。この日、南海電鉄難波駅から高野線の各駅停車の電車に乗車して帝塚山駅に着きました。進行方向の先に駅員の方が立っておられました。

これは、難波駅方面を撮影しました。各駅停車の電車を降りると、ホームの幅が3mぐらいでかなり窮屈な印象を受けました。このときは出口の方向に進む方ばかりですので、安全面は心配なかったのですが、乗車客と下車客が混じりあう時間帯には、安全に気を使わないといけませんね。そのためか、ホームにあるはずのベンチもなく、ホームの全面が移動に使えるようになっていました。

南海電鉄高野線は、明治31(1898)年に大小路駅(現・堺東駅)から狭山駅間が開業したことに始まります。帝塚山駅は昭和9(1934)年に開業しました。ホームの裏側は交通量の多い道路でした。ホームだけでなく、駅舎もかなり狭い感じでした。

列車が通過してから、駅に隣接する踏切から帝塚山駅のホームを撮影しました。やはりかなり狭いホームです。

踏切から東に向かって歩き始めました。帝塚山は芦屋と並ぶ高級住宅地としてよく知られています。すぐに、右側に重厚な建物が目に入ってきました。大正5(1916)年に、帝塚山の高級住宅地に邸宅をもつ、大阪船場の木綿問屋を経営する大商人などの財界人が設立した名門校、帝塚山学院です。

帝塚山学院の脇を右に進んで行きます。グランドを北側、南側、西側の三方から囲むように、校舎がつくられていました。これは、東側の出入り口です。

もとの道に戻り、さらに東に進みます。この一角は広い敷地をもつ高級住宅地になっていました。交差点に入ります。

交差点は併用軌道になっていました。阪堺電気軌道上町線の電車が走っています。道路の突き当たり付近は帝塚山三丁目電停になっていました。帝塚山三丁目電停は、明治33(1900)年、大阪馬車鉄道帝塚山駅として開業しました。この鉄道が開業してから、かつての田園地帯は別荘地として発展することになりました。帝塚山三丁目電停は相対式のホームではなく、互い違いにつくられています。これは堺市方面行きの電車の電停です。

堺市方面に向かって電車が出発して行きましたが、次の電停からは専用軌道になっているようです。見に行くことにしました。静かな住宅地の中を10分ほど南に歩くと、次の帝塚山四丁目電停に着きました。

相対式2面2線のホームです。ちょうど2両の電車がすれ違いました。

ここから引き返して、さらに東に向かうと、万代池に出ます。大正時代には、帝塚山共楽園と呼ばれる遊園地だったところだそうです。東南の池畔には、昭和30(1955)年万代池公園に150本の桜が寄付されたことを記録する石碑が建っていました。今も桜の公園として知られているそうです。

万代池からさらに東に向かい、あべの筋に出て左折し北に向かいます。

”スーパー玉出”の手前の交差点を右折(東行)します。”玉出”と言ってもパチンコ店ではありません。スーパーマーケットでした。

南港通りに出ます。道路の中央に分離帯のある道路を東に向かいます。

ほどなく、あびこ筋の交差点に出ます。交差点の下には、大阪市営地下鉄御堂筋線の西田辺駅があります。西田辺駅は、昭和27(1952)年に、御堂筋線(当時は地下鉄1号線)が、ここ西田辺駅まで延伸されたときに開業しました。

南港線をさらに東に進みます。シャープの本社を見ながら進みます。

シャープの本社のビルを過ぎると、JR阪和線の高架下をくぐります。高架下まで来たとき、天王寺方面に向かう普通列車が通過していきました。この電車はこの先で南田辺駅に着きます。南田辺駅は、昭和4(1929)年天王寺駅と和泉府中駅間が開通したときに開業した駅です。

JR阪和線の高架をくぐってさらに東に向かいます。進行方向の左側から阪神高速松原線の高架が見えて来ると、正面には、近鉄南大阪線の高架がありました。近鉄南大阪線は、阿部野橋駅と奈良県の橿原神宮前駅を結んでいます。

高架の手前、大阪市営地下鉄谷町線の駒川中野駅前交差点です。「駒川中野」という駅名は、この日の目的だった南海電鉄平野線に因むものでした。旧南海電鉄平野線は、現在の阪神高速松原線の下を走っていた路面電車でした。その平野線の駒川町電停と中野電停の間に、地下鉄谷町線の駅がつくられたため、「駒川中野駅」と命名されたと言われています。

右側に「こまがわ」商店街がありました。専門店が並ぶ商店街です。

「こまがわ」商店街の内部です。土曜日の午後、高齢者の方が多い印象でしたが、たくさんの人が行き交う明るい雰囲気の商店街でした。

「こまがわ」商店街のお向かいは「Lovely Mall」と書かれた商店街でした。アーケードのない商店街でしたが、人通りはさほど多くありませんでした。

「Lovely Mall」の北端に来ました。このあたりに、旧南海電鉄平野線の駒川町電停があったと言われています。しかし、現在では南海時代の面影をしのばせるものは、この”Lavely Mall”の名前だけになっていました。

南港線に引き返します。その脇にある、地下鉄谷町線の駒川中野駅への入口です。駒川中野駅は、昭和55(1980)年、地下鉄谷町線の天王寺駅と八尾南駅間が延伸されたときに開業しました。

駒川中野駅からは、阪神高速松原線の高架下を東に向かって歩きます。阪神高速松原線は元の南海電鉄平野線の線路跡でした。

阪神高速松原線が大きく右カーブを始めます。今では、当時の面影はまったくといっていいほど残っていません。

阪神高速松原線が右にカーブを始めるところを撮影しました。樹木が見えるところが背戸口(せとぐち)公園です。旧南海電鉄平野線は、昭和55(1980)年に11月に廃止されました。大阪市営地下鉄谷町線の天王寺から八尾南間が延伸開業したため、役割を終えたからだといわれています。阪神高速の延伸計画が出たときに、阿倍野電停から西平野電停までの専用軌道を阪神高速道路公団に売却したといわれています。今池(0.4km)飛田(0.8km)阿倍野(0.5km)苗代田(0.5km)文ノ里(0.5km)股ヶ池(0.6km)田辺(0.5km)駒川(0.5km)中野(1.1km)西平野(0.5km)平野の11電停があったそうです。さて、この背戸口公園の中に、平野線の西平野電停がありました。

背戸口公園の中に、タイルでレールをイメージした模様が描かれていました。かつての線路跡に描かれているのではないかと思われるほど、リアリティがありました。中央のホームに入る線路のイメージです。

1面2線のホームと枕木も描かれています。

ベンチの間にあった碑に書かれていた「なんかいでんしゃ ひらのみち」です。左から3つめの「いまいけ」から「とびた」・「あべの」(ここで阪和線と連絡)・「なわしろだ」・「ふみのさと」・「ももがいけ」・「たなべ」・「こまがわちょう」・「なかの」・「にしひらの」・「ひらの」のすべての電停が記されています。

レールの模様があるところに、黄色の柵があります。踏み切りを連想してしましました。アイディア満載でうれしくなってきます。

この模様は公園の端まで続いています。そういえば、西平野駅は終着駅ではなく、次の平野駅までさらに延びていました。

背戸口公園を出て右方向を見ると、阪神高速松原線の平野出口が見えました。

ここから、平野線の終点、平野駅があった公園までまっすぐ(東方向)に進みます。住宅地の中を歩きます。道路の先の右側に駐車している車の向こうに公園がありました。

公園に入ります。

平野本町にある公園です。この中に、かつて平野駅がありました。

少し広くなったところに、八角形の屋根をもったベンチがありました。平野駅の駅舎は八角形をしていたそうです。

ベンチの奥の塀に描かれた、平野線を走っていた車両です。モ205型車両です。平野線末期の車両だといわれています。平野線が廃止された跡は阪堺電軌軌道に引き継がれて活躍をつづけたそうです。近くにあった「説明」には、「モ205型は開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製化したもので通称『改造車』と呼ばれていた」と書かれていました。

終点を連想させる施設です。レール材でつくられています。信号機も設置されていました。地面にはレールがデザインされています。

公園の端から振り返って撮影しました。よく見ると車止めもつくられていました。

公園の端にあった、現代の道標です。JR関西本線の平野駅まで、1kmだそうです。

平野線時代の面影を残すものはないかと、付近を歩いてみました。公園の前の商店街の右側のようすです。「なんかい も~~る」の字が見えました。

公園の左側のようすです。「NANKAI MALL 平野南海」が見えます。平野線が廃止されてから35年を超えましたが、この商店街は、今も南海平野線とともに生きておられるようです。

南海電鉄高野線帝塚山駅から3時間30分。途中でゆっくり食事をとりましたが、かなりの時間をかけて歩いてきました。平野線の名残はまったくと言っていいほど見つかりませんでした。しかし、その存在を伝えようと頑張っている様子はよく伝わってきました。道標にしたがって、商店街から1km先にあるJR平野駅に向けて歩くことにしました。

阪神電鉄武庫川線(1.7km)に乗って、阪神鳴尾球場を訪ねる

2016年01月04日 | 日記
このところ、短距離路線を楽しんでいます。
”鉄橋上の駅”、阪神電鉄武庫川駅を訪ねた日(2015年12月18日の日記)、短距離路線の一つ、阪神電鉄武庫川線に乗ってきました。阪神電鉄武庫川駅から武庫川団地前駅を結ぶ、全長1.7kmの路線。武庫川駅から武庫川に沿って走っています。

阪神電鉄武庫川駅です。武庫川線の起点です。阪神本線の改札口は武庫川の東西の両岸に設置されていますが、駅舎としては、武庫川の西岸にあるこの建物がそれにふさわしいものです。この駅舎は昭和59(1984)年4月に開設されました。武庫川線の洲先駅・武庫川団地間が延伸された時だったそうです。クラシックな印象ですが、割に新しいのですね。

駅舎内にあった運賃表です。武庫川団地前駅まで140円。途中に東鳴尾駅、洲先(すざき)駅が設けられています。

こじんまりとした改札口です。そこに、駅員の方が一人おられました。武庫川線乗り場に向かって、右方面に進みます。

武庫川線のホームの前にあった中間改札です。ここも、昭和59(1984)年に設置されました。驚いたのは改札口の多さです。ここから階段を上って阪神本線に乗り継ぐ乗客が多いからでしょう、出口よりも多く設けられていました。もう一度乗車券を入れて武庫川線のホームに入ります。

これは外から見た武庫川線のホームです。武庫川線は、川西航空機(現・新明和工業)の従業員や資材の輸送のために太平洋戦争中の昭和18(1943)年、武庫川駅と洲先駅(現在の武庫川団地前駅)間で開業。翌、昭和19(1944)年、武庫川駅から北に延伸し、武庫大橋駅を経て、東海道本線の西ノ宮(現西宮)駅までの貨物線が開業しました。阪神電鉄の軌間は1435ミリ、国鉄は1067ミリのため、片方のレールから1067ミリと1435ミリのところにもう一方のレールがある、いわゆる”三線軌条”になっていました。

ホームに、折り返し武庫川団地前駅行きになる列車が到着しました。7990号車と7890号車の2両固定編成の武庫川線専用車両です。

これは、到着した7990号車と7890号車の北側の線路上に留置されていた、7964号車と7864号車です。こちらの編成は、夕方からの運行に備えて待機しているのです。このほか、7861号車と7961号車のワンマン仕様に改造されている車両も武庫川線で運用されています。

武庫川線のホームに戻りました。かつて、”赤胴車”として優等列車に使われていた電車ですが、現在は普通電車に使われています。

ホームに戻りました。下車した乗客の向こうを、阪神本線の電車が通過しています。

20人ぐらいの乗客を乗せて出発しました。ワンマン運転です。右側に線路が敷設できるような空き地があります。武庫川駅から東鳴尾駅間は複線も可能な用地が確保されているようです。

これは、武庫川駅に最も近い小松踏切で撮影した7990号車と7890号車です。この先で阪神高速神戸線の下をくぐります。

阪神高速神戸線の武庫川出口(IC)です。

武庫川ICの向こう(西)側にあった武庫川女子大学です。

武庫川駅から0.7km、1分ほどで東鳴尾駅に着きました。駅の手前の鳴尾南踏切から見た東鳴尾駅です。昭和59(1984)年に武庫川団地前駅まで延伸したとき、1面2線の島式ホームに改造されました。武庫川線は日中は2両編成の電車が往復運転をしていますが、朝夕の通勤通学時間帯には、武庫川駅に待機していた7964号車と7864号車も運行に加わります。その場合の行き違い駅として使われています。昭和18(1943)年の開業時には列車交換ができる駅として開業されましたが、昭和35(1960)年に1面1線の単式ホームに改造されていました。

鳴尾南踏切からホームへはバリアフリーの通路がつくられています。出入り口は武庫川駅方面寄りのこの入口だけです。ちなみに、1日平均の乗車客は1,892人だそうです。

ホームにあった自動改札機です。無人駅ですので、乗車券のない方は、「武庫川団地駅で精算するように」という案内がありました。

次の洲先駅までは、400mしかありません。

外から撮影した東鳴尾駅のホームです。

出発してすぐ見つけた勾配標です。

洲先駅への入口です。右側が駅のホームへの通路、左側が川添南踏切です。武庫川駅寄りのホームへは、階段で上がるようになっています。しかし、反対側のホームの端、武庫川団地前駅方面のホームへの入口はバリアフリー構造になっていました。駅前の風景としておなじみの商店が見あたらず、住宅だけの駅前風景です。

洲先駅のホームです。1面1線のホームになっています。さて、昭和18(1943)年に開業したときの洲先駅は、現在よりも0.6km南に置かれていました。現在の武庫川団地前駅のある場所で、川西航空機の工場に隣接していました。つまり、開業時の武庫川線の終着駅だったことになります。

その後、武庫川線は、昭和21(1946)年に旅客営業を休止しました。そして、洲先駅は、昭和23(1948)年に現在の地で終着駅として開業し、武庫川線は旅客営業を再開することになりました。

これは、ホームにあった地図です。武庫川の中央に尼崎市と西宮市の境界線があります。尼崎市に最も近い西宮市の駅ということになりそうです。昭和59(1984)年、ここから武庫川団地前駅までの0.6kmが延伸されてから、洲先駅は通過駅になっています。現在では無人駅になっています。

洲先駅から0.6km、終点武庫川団地前駅に到着します。武庫川駅から5分ぐらいで到着しました。2面2線の相対式ホームになっていますが、左側のホームだけが使用されおり、右側のホームへは行くことができない構造になっていました。

たった1.7kmの路線でも車止めを見ると、遠くまでやってきたと感じます。行き止まりの終着駅です。

これは駅にあった時刻表ですが、10時から16時までの日中は、1時間3往復の運行になっています。往復に必要な時間は約10分ですので、1編成の車両での往復運転が十分可能です。

武庫川団地前駅は終着駅ですが、駅員さんはおられません。無人駅です。昭和18(1943)年、武庫川線が開業したとき、この駅のあたりにかつての終点である洲先駅がありました。しかし、昭和20(1945)年6月の阪神大空襲により川西航空機の工場ともども破壊されました。洲先駅は先ほども書きましたが、昭和23(1948)年に、0.6km北の現在の地に移転して終着駅となり旅客営業を再開しました。

待合室です。ガラスの模様が明るい雰囲気で、気に入りました。

武庫川駅によく似た改札口です。武庫川団地前駅は、その名のとおり、昭和54(1979)年に入居が始まった武庫川団地の入居者の利便のために、昭和59(1984)年に開業しました。武庫川団地前駅は、2万人が居住する武庫川団地の北東の端に設置されており、通勤・通学を中心に1日7,834人が利用しているそうです。無人駅が多いため、この駅には自動精算機も備えてありました。もちろん、自動改札機や自動券売機も備えています。

武庫川団地前駅の駅舎です。到着した7990号車が停車しています。

お隣にはマックスバリューの店舗がありました。

駅前には広大な敷地を誇る武庫川団地が広がっています。戦前には、ここに川西航空機の工場がありました。”レインボータウン”の愛称のとおりカラフルな集合住宅が並んでいます。そこから足を延ばしてみようと思いました。マックスバリューの前を団地に沿って歩きます。団地が途切れた向かいに、鳴尾浜臨海公園があります。その中をさらに進みます。

臨海公園を抜けたところにある、通りの向かい側にネットに覆われたスタジアムがあります。武庫川線とともに、密かにめざしていた阪神鳴尾浜球場です。シーズンオフ、しかも年末のこの時期ですので、使用されてはいませんでしたが、阪神タイガースのファームの公式戦が行われている球場です。また、その裏の敷地内にある虎風荘、「阪神タイガース寮」も見えました。

阪神鳴尾浜球場の正面。「タイガーデン」です。

こちらが虎風荘です。「報道関係者・球団関係者以外立入禁止」になっていました。人がいないのではないかと思えるほど静かでした。

阪神電鉄武庫川線は全長1.7kmの短小路線です。川西航空機工場への輸送のためにつくられ、阪神空襲で大きな被害を受けた路線でした。戦後、川西航空機工場の跡地にできた武庫川団地の住民の輸送のために復活した路線です。歴史の大きな波に揺れ続けた路線でした。たった1.7kmしかなくても、今もしたたかに走り続けています。



鉄橋上の駅、阪神電鉄武庫川駅

2015年12月28日 | 日記
鉄橋の上にある駅を訪ねてみようと思いました。
すでに、JR土讃線の土佐北川駅(「鉄橋上にある「秘境駅」、JR土佐北川駅」2013年12月2日の日記)、JR福知山線の武田尾駅(「トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)と、伊予鉄道の石手川公園駅(「伊予鉄道の”鉄橋上の駅、石手川公園駅」2015年4月1日の日記)の三つの鉄橋上の駅は訪ねました。

私は、この日、阪神電鉄の武庫川駅を訪ねることにしていました。阪神地域の方にはおなじみの駅ですが、私はまだ一度も下車したことがなかったのです。武庫川の両岸をつなぐ鉄橋の上が駅のホームになっています。

付近の様子も見たいと思ったので、武庫川駅から一つ梅田寄りの尼崎センタープール前駅で下車しました。私が、これまで訪ねたJR土佐北川駅とJR武田尾駅は、”秘境駅探検家の牛山隆信氏が主催する”秘境駅ランキング”にランクインしている駅でした。愛媛県松山市の伊予鉄道の石手川公園駅は、松山市の郊外にありました。今回は、秘境駅の正反対にある都会の駅、阪神電鉄の武庫川駅に行ってみようと思ったのです。

「尼崎センタープール」はいわゆる泳ぐためのプールではなく、競艇場でした。改札口を出ると、「尼崎ボートレース場」への専用道がありました。

途中の窓から見た競艇場です。「レース開催中」ということでしたが、観客は多くはなかったようです。平素、どのくらい観客がおられるのかわかりませんが・・。

専用道は競艇場の前まで続いていました。こちらも人通りは多くはありませんでした。100円の入場料を払えば、舟券を買わなくても中に入ることができるらしいのですが、スルーして当初の目的地に向かいます。

競艇場の壁に沿って、西に向かって歩きます。競艇場の並びにあった水明公園に入りました。公園の中に、阪神電鉄の路面電車だった71形71号車が静態保存されています。きれいに塗装がなされていました。この電車は、水明公園の北側1kmほどのところにある阪神国道(国道2号線)を、昭和12(1937)年から38年間にわたって走っていました。残念ながら、周囲に囲いがされており、近くで見ることができませんでした。ちなみに、この路面電車は、昭和2(1927)年に開通し昭和50(1975)年まで運行された阪神国道線で、野田駅と東神戸駅間26kmを結んでいた、当時日本最長の路面電車でした。1970年は大阪万博の年、その頃も走っていたのですね。ちなみに、東神戸駅は神戸市の東部の脇浜町にあったそうです。

水明公園から北に向かって1ブロック歩きます。白壁の建物が再現されています。この通りは琴浦通り。ここから少し東方に鎮座している琴浦神社に由来する通りです。阪神国道(国道2号線)が開通するまでの幹線、中国街道でした。白壁の向かいには大庄小学校がありました。

これが琴浦神社です。祭神は、嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)だそうです。海岸の風景が優れているので、異浦(ことうら)と呼ばれたことから、琴浦といわれるようになりました。

白壁は尼崎市営団地の前につくられています。案内には、この通りである中国街道の説明が書かれていました。江戸時代には、西海道とも尼崎道ともいわれていた通りで、昭和2(1927)年に阪神国道が開通するまで、尼崎市の幹線道路でした。この先の西宮から西国街道とつながり兵庫への道にもなっていました。

この写真は、街道にあった松並木と大庄小学校の写真です。右の大木は、昭和47(1972)年まで小学校のグランドにあったと書かれていました。

ここから西に、中国街道を10分ほど歩くと武庫川に架かる武庫川橋を渡ることになります。

武庫川の西岸から見えた阪神電鉄武庫川駅の東側です。

武庫川橋を渡ると、武庫川右岸(西岸)の土手上の道路と交差します。この道を南に進むと阪神電鉄武庫川駅に着きます。

武庫川西岸の土手の下です。資材置き場になっています。その向こうにレールが見えました。資材置き場になっているところも線路跡です。ここは、阪神電鉄武庫川線の線路跡でした。太平洋戦争中の昭和18(1943)年、武庫川駅と洲先駅(現在の武庫川団地前駅)間が開通しました。武庫川団地の地にあった川西航空機(現・新明和)の工場への資材と会社員の輸送のために、軍の要請により、阪神電鉄の社員のほか勤労奉仕隊も動員して突貫工事で敷設されたそうです。現在、線路跡が残っているのはここまでで、これより北側は住宅地になっています。

昭和19(1944)年には東海道線の西ノ宮駅(現在の西宮駅)までの貨物線が開業しました。国鉄西ノ宮駅に向かう貨物線は、歩いてきた旧中国街道の北にある阪神国道(国道2号線)の南側に次の武庫大橋駅が設けられていました。さらに北に進み、左カーブしながら東海道線甲子園口駅に入っていました。

西ノ宮駅からは武庫川線に国鉄のSLや貨車が乗り入れていたため、武庫大橋駅から洲先駅まではいわゆる三線軌条になっていました。阪神電鉄の軌間は1435ミリ、国鉄の軌間は1067ミリのため、片側のレールから1067ミリのところと1435ミリのところに、もう一方のレールが敷かれていました。こうして、3本のレールを使って、国鉄と阪神電鉄が運行していました。この写真は、少し武庫川駅に近づいてから撮影しました。留置中の阪神電鉄武庫川線の車両です。その上を阪神本線の線路が走っています。武庫川駅の北側で線路は二つに分岐し、右方向に行く線路は、上を走る阪神本線への連絡線です。

これが、連絡線です。上を走る本線に向かって上って行きます。

現在の阪神電鉄武庫川線は武庫川駅と武庫川団前駅(かつての洲先駅)間、1.7kmを結んでおり、2両の固定編成の車両が往復運転しています。朝夕は2両編成の列車、2編成が運行にあたっています。日中は1編成のみの運行になるため、1編成がこうして夕方の運行まで待機しているのです。

武庫川の西岸にある武庫川駅舎です。歩き始めた尼崎センタープール前駅は尼崎市にありました。駅舎のあるこちら側は西宮市、武庫川の中央付近に尼崎市と西宮市の境界線があります。武庫川駅は、明治38(1905)年、阪神本線の開通と同時に開業しています。

武庫川の下流(南)側から見た、阪神本線の武庫川駅の屋根付きのホームです。武庫川の対岸まで100mを超えるホームが続いています。

改札口から入ります。右に行くと武庫川線のホーム。左に行くと階段を上って阪神本線のホームに行くことができます。

階段から見た阪神本線の線路です。神戸三宮駅方面を撮影しました。

2面2線のホームです。神戸三宮駅方面行きのホームに上がりました。向こうのホームは梅田駅方面行きの電車が発着しています。武庫川駅の1日平均の乗降客は28,271人(1013年)だそうです。

神戸三宮駅方面行きのホームにあった時刻表です。「普通」、「急行」が停車しています。東改札口付近にありましたが、このあたりは尼崎市の領域になるのでしょうか?

待合室です。ガラスに描いてある模様がモダンです。

東側の改札口付近です。ホームの南側、金網のむこうは東西を連絡する通路になっています。武庫川駅は橋の上にある駅だということがよくわかります。

こちらは東改札口の外から見た風景です。左の明るいところは通路への出口になっています。

改札口の前を自転車に乗った方が来られ、通路に入っていかれました。

通路から見た武庫川西岸です。正面の白い建物は兵庫医大。その向こうに武庫川女子大もあります。

東改札口入口です。左側の白い囲いの中はバリアフリーの通路です。自転車の方もここを利用して上がって行かれています。

東改札口の外から見た武庫川駅のホームです。手前に通路があり、架線も見えています。

梅田方面行きのホームとの間の踏切です。「特急」が通過していきました。

東改札口の外から見たホームです。歩いている方の姿も見えました。

こちらは、梅田方面行きの改札口への入口です。中に入ります。

梅田駅方面行きの電車のホームです。椅子の後ろに武庫川の水面が見えました。

目線を上げると、歩いて来た旧中国街道の武庫川橋が見えました。

線路の下にも水面が見えました。まさしく鉄橋の上にある駅です。

駅標です。武庫川線の案内もありました。

4つ目の鉄橋上にある駅、武庫川駅を訪ねました。鉄橋の上が全面ホームというのは、この駅が初めてでした。武庫川の中央に尼崎市と西宮市の境界があるそうです。二つの市にまたがるホームを持つ駅でした。

レトロな駅舎が続く、南海電鉄汐見橋線

2015年12月17日 | 日記

南海電鉄の汐見橋(しおみばし)駅に昭和30年代の「南海沿線観光案内図」が残っているというお話しをお聞きしました。さっそく行ってきました。写真がそのレトロな案内図です。

難波駅から南海本線の普通列車で岸里玉出(きしのさとたまで)駅に向かいました。岸里玉出駅は、平成5(1993)年に現在の形で開業しました。写真は南海本線のホームから見た汐見橋線のホームです。電車は黄色いビルの手前を左にカーブして汐見橋駅に向かっていきます。

汐見橋線のホームです。ホームの端には車止めがあり、行き止まりになっていることがわかります。汐見橋線は、南海電鉄高野線として、明治33(1900)年に開通しました。訪ねる汐見橋駅は、当時「道頓堀駅」と呼ばれていた、高野線の始発駅だったのです。しかし、現在では、このように南海本線から直行で行くことはできません。南海本線の支線のような存在になっています。

岸里玉出駅から汐見橋駅の間は4.6kmあります。写真は、ホームに入ってきた、汐見橋線を往復運転している電車です。2両の固定編成で、向こう側の汐見橋駅方面の車両が2232号車、手前の車両が2282号車です。4.6kmを、9分で結んでいます。

全長4.6kmという距離でしたので、汐見橋線に沿って歩いて汐見橋駅に行くことにしました。3階にあるホームから、2階のコンコースを経由して、地上部分にある、岸里玉出駅の難波駅側、岸里出口に出ました。駅前のスーパーの脇を抜けて進みます。

しばらく歩いて、岸里玉出駅方面を振り返りました。南海電鉄の本線と、分岐した汐見橋線の高架が見えました。左が南海本線で、右が汐見橋線の高架です。

汐見橋線の高架に沿って、道路の歩道部分を進んでいきます。

高架が少しずつ下っていきます。やがて、国道26号線に合流します。「西成区岸里3丁目」の標識がありました。写真は国道を跨ぐ汐見橋線の橋脚です。架線も見えています。

国道26号線に沿って進み、西成郵便局の先の交差点を左折します。左折した先にあった、大阪市営地下鉄四つ橋線の岸里駅への入口をみて、まっすぐ進むと・・

正面に汐見橋線の線路が見えました。高架下、2.5m。かなり下っています。ここからは、再度高架に沿って歩きます。

汐見橋線の線路は、この先で地上に降ります。その先で、左折して汐見橋線の線路を渡ります。

左折して正面に見えた「銀座商店街」です。昭和の香りを今に伝えるレトロな商店街です。

駐輪されている自転車を見ながら銀座商店街に入ります。アーケードのある商店街です。昼過ぎの時間でしたので、さほど人通りは多くありませんでした。お総菜を売る店や懐かしい昔ながらの喫茶店、雑貨屋さんが並んでいます。「NHKの朝の連続ドラマ『ふたりっ子』の舞台になった」そうですが、私は通勤時間のため、このドラマを見たことはありませんでした。

銀座商店街の途中で右に曲がります。商店街が続いています。「西天駅前商店街」という標識が見えました。「西天駅前」。汐見橋線の二つ目の駅「西天下茶屋駅」にちなむ商店街です。昭和の香りを味わいながら、まっすぐに商店街を歩きます。

線路の手前で、西天駅前商店街方面を振り返って撮影しました。右側が、歩いて来た西天駅前商店街からの道です。銀座商店街も西天駅前商店街も自転車が似合う通りでした。左側は西天下茶屋駅です。駅に接した建物の奥行きは1mぐらいしかありません。家と言うより壁と感じてしまいました。

汐見橋線は、もともと高野線として開業しましたので、複線になっています。ここは、汐見橋駅方面行きの駅舎の入口です。岸里玉出駅から、1kmのところにあります。1日の乗降客は284人(2012年)だそうです。

駅舎に入りました。コンパクトな駅舎ですが、事務室や天井の塗装にレトロ感が漂っています。周囲の町の雰囲気に溶け合っているような駅でした。

駅舎の手前の踏切を渡って岸里玉出駅方面に行く側の駅舎に向かいます。こちらが駅の正門入口だったのでしょうか。壁の塗装からレトロ感はさらに増します。この西天下茶屋駅は、汐見橋線の開業から15年後の、大正4(1915)年に開業したそうです。

駅舎内には改札口がありました。上りと下りに別々の改札口があるぜいたくな駅でしたが、残念ながら無人駅になっていました。

岸里玉出駅方面に向かって撮影しました。南海電鉄は軌間1067ミリです。両側の駅舎の向こうにホームが見えています。ここから、次の津守(つもり)駅に向かって歩きます。写真の右側に向かって進みました。

車1台がやっと通れるような静かな通りが続いています。「橘三丁目」から「松三丁目」そして「梅南三丁目」と花にまつわる通りを抜けていきます。

阪神高速堺線の下をくぐり国道26号線を渡り、津守浄水場に沿ってさらに進むと、広い西成公園が見えてきます。

その並びに大阪府立西成高等学校が見えてきます。この一帯には、かつて、大日本紡績(現ユニチカ)の広い敷地がありました、その跡地につくられたのが、西成公園と西成高校なのだそうです。

西成公園が途切れたあたりで、汐見橋線の線路とぶつかりました。踏切から見た津守駅方面です。

踏切の右側には、津守商店街のアーケードが見えました。

西成高校の向かいに、津守駅があります。津守駅は大正2(1913)年に開業しました。西天下茶屋駅から1kmのところにありました。1日の乗降客は約600人(2012年)で、利用者の大半が、西成高校の生徒や先生方だそうです。そのためでしょうか。レトロ感のないすっきりとした駅舎に建て直されていました。ここからは見えませんが、2面2線のホームをもっています。駅員さんは勤務しておられないようでした。

高校生が毎日通っている改札口。その先にホームの上屋が見えます。

津守駅を出て歩き始めたとき、折り返して岸里玉出駅に向かう、汐見橋線の電車が通過していきました。

津守駅から先は、市営住宅の中の道を抜けた後、木津川に沿って建つ工場の中を抜けて進みます。阪神高速の17号線が木津川を越えるあたりを歩きます。

阪神高速の下をくぐった後は、右折して進みます。この先に、次の木津川駅がありました。汐見橋線が高野線として開業した明治33(1900)年には、この駅と汐見橋駅の二つの駅があっただけでした。かつては、モダンな駅舎だったに違いありません。しかし、いかにも寂れた感じがします。空き地のまま放置されている駅前のようすから、余計に老朽化が目立っているのが残念です。津守駅から1kmのところにありました。ここも駅員の姿はありませんでした。

駅舎前から左に向かって進むと踏切がありました。線路から見た汐見橋駅方面です。明治33(1900)年に高野線として開業したときに設置されました。木津川駅という名前からも連想されるように、この駅は木材の集散地として栄えた花形の貨物駅でした。寂れたと書きましたが、1日の乗降客は86人(2012年)だそうです。汐見橋線を利用される方は、ほんとに少なくなっています。

木津川駅の構内を撮影しました。1面2線のホームの上屋が見えます。今は途切れていますが、手前に引き込み線がつくられています。この先に木材の集積場があったのでしょう。

この写真はホームから撮影しました。手前のフェンスで仕切られている先は、線路が撤去されていました。このあたりにかつての栄光を感じることができました。いま、雑木や雑草が生えている広い敷地が活用され、多くの人が集まる駅になってほしいと願わずにはいられませんでした。

木津川駅の踏切を渡り、公園の手前を左折して、汐見橋線を左に見ながら進みます。阪神高速15号線堺線に合流した先で、汐見橋線の踏切を渡ります。踏切から、木津川駅方面を撮影しました。線路の橋桁が見えました。2線それぞれに橋桁が着いています。さぞかし下には大きな川が流れているのだろうと思いましたが、下は埋め立てられていて川の姿はありませんでした。

ここは、琴江橋跡。現在は、琴江歩道橋が上に架かっています。踏切の脇に「琴江橋跡」の石碑が設置されていました。

琴江橋跡の踏切を渡り、再度、汐見橋線を右にして歩きます。芦原自動車学校の先を右折して進みます。芦原町の手前の踏切を渡ります。これは、踏切から見た、次の芦原町駅の2面2線のホームです。大正元(1912)年に開業した比較的新しい駅です。

線路の右側に、芦原町駅がありました。木津川駅から700mのところにあります。

無人駅でした。駅舎内の時刻表を見ると、やがて汐見橋駅行きの電車がやって来ます。ここからは電車で次の汐見橋駅まで行くことにしました。150円を支払い1駅分の乗車券を購入して改札を入りました。ちなみに、岸里玉出駅から汐見橋駅までの乗車券は210円でした。ホームにあった駅名表示。「芦原町」は「あしはらちょう」でした。ちなみに、1日の乗降客は181人(2012年)だそうです。

芦原町駅はJR大阪環状線の芦原橋駅から250mのところにあります。ホームの先で、JR環状線との立体交差がありました。環状線の赤い電車が走っていきました。光線の関係で黄色く見えていますが・・。

終点の汐見橋駅に着きました。到着した、1面2線のホームの端です。車止めがつくられています。明治33(1900)年に開業したときには、「道頓堀駅」と呼ばれていました。しかし、4ヶ月後に現在の「汐見橋駅」と改称されました。そして、昭和4(1929)年に、高野線が難波駅発になったため、それ以来、支線の扱いを受けるようになっています。現在の乗降客は、1日495人(2012年)だそうです。駅員がお一人勤務しておられました。

反対側のホームです。こちらも車止めが設置されています。その先に駅舎の屋根が見えました。

駅舎に入りました。改札口の上に、めざす「南海沿線観光案内図」がありました。しかし、案内図はレトロでしたが、内部はきれいに塗装が施されていました。

これが「南海沿線観光案内図」です。紀伊半島から四国東部、淡路島南部にいたる地域が描かれています。南海フェリーも描かれています。

ここも、同じ掲示物が貼ってあると言われていましたが、きれいに生まれ変わっていました。

汐見橋駅の外観です。かつては、貨物駅としての施設もつくられていたといわれています。駅前は千日前通りです。

隣は、阪神電鉄の桜川駅の入口です。

前を走る千日前通り。それと交差して、写真の向こうに側に向かう新なにわ筋の先に、道頓堀川にかかる汐見橋があります。かつてはここから汐の満ち干が見えたからと名づけられたといわれています。

南海電鉄高野線として開通した汐見橋駅と岸里玉出駅間は、開通してから29年後に高野線から離れた支線の扱いを受けるようになりました。現在も、30分ごとに2両編成の電車が片道9分かけてこの間を往復しています。レトロな駅舎が続く沿線は、駅舎と同じく昭和の香りがする町でした。
今回は、3時間ぐらいかけて、4.6kmの線路に沿って歩きました。私のように昭和を生きた者には何とも懐かしい気持ちにさせられる、楽しい旅でした。今後もときどき乗ってみたいと思った旅でした。



JRの短距離路線、阪和線東羽衣支線に乗る

2015年12月09日 | 日記

南海電鉄羽衣駅の3番ホームに着いた南海電鉄高師浜線の車両です。私鉄の最短路線である高師浜線を訪ねた日(「全長1.5km、私鉄の最短路線に乗る」2015年11月27日の日記)、近くを走るJR阪和線の東羽衣支線を訪ねました。

南海電鉄の駅舎内の通路にあったJR東羽衣駅の案内です。めざすJR東羽衣支線はJR東羽衣駅(高石市東羽衣一丁目)とJR鳳駅(おおとりえき・堺市西区鳳東町)を結んでいます。一駅間、全長1.7kmの短距離路線です。東羽衣支線は本線である阪和線とともに、昭和4(1929)年に阪和電気鉄道として開業しました。当時、浜寺海岸への海水浴客でにぎわっていたそうです。

南海電鉄羽衣駅から見た東羽衣駅です。行き止まりの高架駅になっています。上に見える二つの箱形の建物が線路とホームのようです。さて、開業した阪和電気鉄道は、昭和15(1940)年に南海鉄道に吸収された後、昭和19(1944)年に国有化され、国鉄阪和線になりました。

駅舎前には多くの自転車が並んでいます。駅前にある不動産屋のお客さんの自転車にしては多すぎます。自転車置き場はないのかな?と思って捜してみました。

ありました。ホームを過ぎたあたりの1階部分に自転車置き場がありました。東羽衣支線の電車は高架上を走り鳳駅に向かいます。

駅前から階段を上ります。この駅からは、次の鳳駅を経由して大阪の天王寺駅、和歌山駅方面に行くことができます。阪和線は、羽衣駅から大阪のなんば駅や和歌山市駅とつながっている南海電鉄とほぼ平行して走っています。

正面に改札口、その向こうにトイレ、その両側に階段が設置されています。

そのとき、向かって右側の階段から多くの乗客が降りてこられました。こちらの階段は降車客専用のようです。

改札口前の空間です。さほど広くはありませんが、券売機や案内の掲示物などがコンパクトにまとまっています。駅員さんもおられ、乗客の対応をされていました。

駅に掲示されていた路線の案内図です。阪和線の鳳駅から東羽衣駅に延びる東羽衣支線(「羽衣線」と表記されています)も書かれています。

時刻表です。日中は1時間に4本、早朝から深夜まで運行されています。「待たずに乗れる」列車になっています。JRは定期券の割引率が高く割安感があるということで、南海電鉄からこの駅でJRに乗り換える方も多いそうです。1日平均乗車人員は4,702人(大阪府統計年鑑 2011年)だそうです。

南海電鉄にも東羽衣駅の案内がありましたが、東羽衣駅にも南海電鉄羽衣駅の案内の掲示がありました。よくわかる親切な案内です。

120円を投入して自動券売機でJR鳳駅までの乗車券を購入して改札を通り、左側の階段で3階部分に上りました。2面1線のホームがありました。その時、ホームには一人の乗客もおられませんでした。そのためか、広々とした印象です。こちら(北)側のホームは乗車ホーム、線路をはさんだ右(南)側のホームは降車ホームになっていました。

ホームの頭端にあった車止めです。これを見ると終着駅だなあ!と、感じてしまいます。東羽衣支線は全長1.7kmの短距離路線ですが、日本一の短距離路線ではありません。「日本の鉄道 ナンバーワン&オンリーワン」(伊藤博康著 創元社)によれば、JR在来線の最短路線は、JR宮崎空港線(田吉駅ー宮崎空港駅)で、全長1.4kmだそうです。また、JR支線の最短路線はJR鶴見線の大川支線(武蔵白石駅ー大川駅)で、全長1.0kmの路線だそうです。大川支線は、平日は朝夕の通勤時間帯だけ運行され、土・日曜日には朝2本、夕方1本の運行のみとなる、閑散路線といっていい存在だそうです。

降車側のホームの下にあった「停車場中心」の標識。キロ数は書かれていませんでしたが、営業キロは、鳳駅から1.7kmになっています。

鳳駅からの電車が到着しました。103系電車の3両編成、ワンマン運転でした。乗客は反対側のホームに降りていかれました。鳳駅に向かって、クモハ103ー2504号車、モハ102ー451号車、クハ103ー192号車の3両編成です。鳳駅と東羽衣駅の間を一日中往復している電車です。

東羽衣支線ですが、列車には「羽衣線」と書かれていました。JRではすべて「羽衣線」を使用しています。到着した電車の運転士さんは、折り返して先頭車になる運転席にゆっくりと移動されています。

折り返し、先頭車になるクモハ103ー2504号車です。

先頭車の先、鳳駅方面の風景です。高架上を走るようです。午前11時42分、3両編成の電車は出発しました。

高架上を走ります。閑静な住宅地を下に見ながら進みます。すぐ、左側の車窓に羽衣学園中学・高等学校が見えました。

その先には、羽衣国際大学がありました。この日は土曜日、昼食時のせいか学生の姿がほとんど見えませんでした。

東羽衣支線の高架に沿った道路です。高架下は、ほとんど駐車場として使用されていました。羽衣国際大学への入口付近です。

高架が少しずつ高度を下げ始めると、国道26号線を横切ります。これは、国道から見た東羽衣支線の橋桁です。「JR鳳駅へ500m」と書かれています。このあたりは、「堺市中区鳳西町9丁」(堺市は~丁目ではなく~丁となっています)です。鳳駅が近くなったようです。

国道26号線の先を走る鳳行きの電車です。静かな住宅地を、左にカーブしながら高度を下げて進んでいきます。

鳳駅の手前です。カーブが終わり、地上を走るようになりました。

東羽衣駅を出発してから3分後、鳳駅に着きました。東羽衣支線のホームは5番ホームでした。鳳駅は、3面5線の堂々とした駅です。一日の乗車人員は16,744人で、阪和線の関西空港線部分の途中駅では第2位(1位は三国ヶ丘駅だそうです)の乗車人員を誇っています。

ホームから東羽衣駅方面を撮影しました。ホームの先に線路跡らしいスペースが見えました。

ホームの南端にあった「到着時刻表」「出発時刻表」です。これを見ると、乗車してきた東羽衣駅発11時42分発の鳳行きの電車は、11時35分に鳳駅を出発し、11時39分に東羽衣駅に到着した電車でした。その電車は11時42分に東羽衣駅を出発し、11時45分に鳳駅に到着しました。そして、鳳駅に5分間停車して、11時45分に東羽衣駅へ向かって、また出発していきます。

運転士さんが、次の東羽衣駅行きの11時45分発の電車に乗務するため、こちらに移動しておられます。ホームの左側はもとの6番ホームです。線路は撤去されています。

鳳駅には階段の外に、エレベーターとエスカレーターが設置されています。平成20(2008)年に設置されたそうです。東羽衣駅で、高齢者の方が、休み休みに階段を上っておられた姿を思い出しました。

鳳駅です。手前の車両は阪和線の電車です。線路を跨ぐ鳳駅舎です。

JR阪和線の東羽衣支線は、全長1.7km。電車で所要3分の路線です。その前に訪ねた南海電鉄高師浜線は1.5kmでした。二つの路線とも、歩けば20分で行ける距離を結んでいます。しかし、そんな距離でも、列車を運行する意味は十分にある立派な路線でした。誇り高い短距離路線、おかげさまで、短距離路線に少し興味が湧いてきました。


私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る

2015年11月27日 | 日記

先日、久しぶりに岡山電気軌道の路面電車に乗りました。全長4.7km、国内最短の路面電車です。本線にあたる東山線(岡山駅前電停ー東山電停)3.1kmと、もう一つ、東山線の柳川電停から分岐して清輝橋電停に向かう清輝橋(せいきばし)線があります。清輝橋線はわずか、1.6kmの路線です。(「”MOMO”と岡山電気軌道」2012年6月6日の日記・「日本で最も短い路面電車、岡山電気軌道」2014年2月9日の日記) その時、ふっと思ったのが、私鉄の最短路線はどこだろうかと・・。

私鉄の最短路線は、伊藤博康著「日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン」(創元社)によれば、南海電鉄高師浜(たかしのはま)線だそうです。最短の私鉄路線に乗ってみようと、高師浜線の起点駅である南海電鉄羽衣駅に向かいました。写真は羽衣駅東口です。

南海電鉄高師浜線は羽衣駅と高師浜駅までの1.5km。羽衣駅の案内にしたがって、3番ホームに向かいます。

3番ホームは、2番ホームの南側を切り欠いた形で設置されていました。

高師浜線のホームにあった駅名表示です。次の駅は伽羅橋(きゃらばし)駅。わずか1.5kmの間にもう一つ駅が設けられています。高師浜線は大正7(1918)年羽衣駅と伽羅橋駅間が開業し、翌、大正8(1919)年10月25日、高師浜駅まで延伸開業しました。

高師浜線の電車が到着しました。高師浜駅に向かって、2251号車と2201号車の2両編成です。写真は高師浜方面に向かって電車の後ろから撮影したものです。この1編成によるワンマン運転で、羽衣駅と高師浜駅の間を往復しています。JTBの「時刻表」によれば、高師浜駅まで3~4分かかるようです。軌間1067ミリ、最高時速45kmで運行されています。

乗車しました。横シートです。車内にあったプレートには、2両とも「東急車輌 昭和44年 大阪」と書かれていました。昭和44年の製造というと、今年で46歳を迎えている車両ということになります。乗車したらすぐに出発しました。しばらく南海電鉄空港線と併走していましたが、やがて右カーブが始まり、高架に上がります。すぐに伽羅橋駅に到着します。伽羅橋駅を出ると今度は左カーブ。カーブが終わったと思ったら、あっという間に終点の高師浜駅に着きました。

高師浜駅は1面1線、左側にホームがありました。目の前に車止めがありました。降車した10人ほどの乗客はそのまま前方に進み、階段を下っていかれました。もの珍しげにホームに佇んでいるのは、私一人でした。

車止めの手前で線路は砂利石に覆われて途切れます。こういう風景を見ると、たった1.5kmでも、「果てまで来たなあ」と思ってしまいます。運転士さんは、ゆっくりと折り返しとなる先頭車両に向かって歩いていかれました。

駅舎に向かう階段。大きく見える上屋に威圧感を感じながら下ります。

右にトイレ、正面に自動改札口。難波駅からのキップを通して改札を出ました。平成23(2011)年から無人駅になっているそうです。

自動券売機と料金表、時刻表、掲示物。すっきりとまとまった配置です。高師浜駅は、高石市高師浜4丁目にあります。

こちらは、羽衣方面への時刻表。時刻表を見て、びっくりです。この日は土曜日でしたが、何と62本運行しています。平日は65本。日中は1時間に3本ずつ。短くても決してお荷物にはなっていないのです! それどころか、高師浜駅は1日平均乗降客数1,617人(2012年度)で、南海電鉄100駅中17位の乗降客数を誇る、すごい駅なのです。

駅舎です。大正8(1919)年に高師浜駅まで延伸した時に建てられました。駅名表示の下の黒く見えている部分にはステンドグラスがはまっています。3年後には白寿を迎える高齢の駅です。この駅舎には、過去に解体の危機がありました。昭和45(1970)年に高師浜線の高架工事が行われたとき解体されることになっていたのです。それを撤回させたのは地元の人々の熱意でした。いつまでも元気で建ち続けてほしい、味わいのある駅舎です。

横から見るとさらに楽しい駅舎です。妻の部分をくっつけたようなつくりです。自動販売機のあるところはかつての売店の跡だそうです。

高師浜線の高架です。この先、羽衣駅の手前まで続いています。高架になった今も、かつての地上線時代の高師浜駅のホームが、現在のホームの下にそのまま残っているそうです。

高師浜駅の周辺は閑静な住宅地になっています。道路の幅は車が交差するにはやや狭い感じですが、規格化されたように縦横に走っています。すっきりとした美しい通りです。この整然とした道路は、かつてこの地にあったロシア人俘虜(捕虜)収容所の区画の名残だそうです。このように、高師浜線は、大正時代の中期から収容所の跡地で行われた住宅開発に伴い、居住して来た人々の足として開業されたのです。

これは、高師浜駅前の案内板にあった写真です。日露戦争中(1904~1905年)に日本に連行されてきたロシア人俘虜を収容するために、陸軍第4師団司令部(大阪)は、この地に収容所を設置しました。当時の高石村の人口は3,500人、収容者は28,000人だったそうです。収容されたロシア俘虜は兵卒がほとんだだったため識字率が低く、10人に1人は読み書きができなかったといわれています。日本ハリストス正教会のニコライ大主教は、国内に29ヶ所あった収容所に聖書、祈祷書、ロシア語の教科書などを送り、それを使って、収容所の日本人通訳やロシア人将校がロシア語を教えたということです。ロシア兵たちは、習い覚えたロシア語で故郷の家族や友人に手紙を送り、故郷の人を驚かせたといわれています。ちなみに、俘虜は明治39(1906)年までにロシアに、全員送り返されたといわれています。

高師浜駅から海の方(右)に向かうと、大阪府立臨海スポーツセンターにぶつかります。「アイススケート営業中」の横断幕がありますが、中には町田樹選手の横断幕が残っていました。

高師浜駅に戻りました。ホームは4両分の長さがあるそうですが、その北端(羽衣駅方面)です。線路はその先で右カーブしています。1日中、高師浜線を往復している2251号車と2201号車に乗って引き返します。

右カーブが終わると目の前に伽羅橋駅のホームが見えました。伽羅橋駅まで0,5km、150円区間です。

伽羅橋駅のホームです。高架駅で、1面1線のホームです。線路の右に白い杭が埋め込まれています。

「駅中心点 0K805M00」と書かれています。羽衣駅から805mと書かれているようです。「羽衣駅から1km」と公表されていますが・・。

下車して高架下へ出ました。高架下にあった公園に平行する散歩道がありました。

伽羅橋駅の南側は伽羅橋公園になっています。高架下に並ぶシャッターの建物には「伽羅橋商店街」と書かれていました。

大正4(1925)年に地元の人たちが建てた「大雄寺旧蹟」(「旧」は旧字体で彫られています)の石碑です。南北朝時代の正平年間(1346~67年)後村上天皇の勅願で三光国師が建立した七堂伽藍の大寺院、大雄寺は泉州における南朝の拠点になっていました。その後戦火により焼失しましたが、伽羅橋駅付近に、その大雄寺があったそうです。大雄寺の門前の橋が伽羅橋で、沈香という香木で橋板がつくられていたそうです。伽羅橋駅は大雄寺に由来する駅名でした。

伽羅橋駅前の通りから見た右側に、高師浜線の高架が見えました。カーブの途中のようです。

ここから1kmのところにある羽衣駅まで、線路に沿って歩くつもりでした。高架下の散歩道はソメイヨシノの並木道です。

高師浜線の線路が左カーブを始めると、散歩道もやがて途切れました。「桁下有効高2.5m」と書かれた高架下をくぐります。線路は少しずつ地上に向かって下っていきます。

その先で、カーブが終わり、地上線になりました。目の前が羽衣駅です。

到着しました。2251号車と2201号車の2両編成の列車は、この後も深夜まで高師浜線を行ったり来たりして走り続けることになります。

高師浜線の3番ホームから見た、1・2番ホーム。南海電鉄空港線では、ちょうど上りと下りの電車が行き違いをしていました。

南海電鉄高師浜線1.5km。国内で最も短い私鉄の路線でした。高師浜線の旅は、電車の乗り心地を楽しむ間もなく終わってしまいました。