トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

甚兵衛の渡しから千歳の渡しへ

2016年11月25日 | 日記
”水の都”大阪では、今も渡船が活躍しています。市民の身近な生活の足として、自転車と共に利用する人がたくさんおられます。

天保山渡船の桜島側の渡船場です。此花区桜島三丁目にあり、対岸の港区築港三丁目との間に就航しています。天保山渡船で対岸の天保山に渡った日(「大阪市営天保山渡船に乗りました」2016年11月11日の日記)、二つ目の甚兵衛の渡しに乗るため、甚兵衛渡船場に向かいました。

天保山公園を出て、大観覧車の前を左折して進みます。

大阪市営地下鉄中央線の高架が見えてきました。地下鉄で行く方が早いのでしょうが、この日は歩いて行くつもりでした。そのまま直進しその先を左折して、築港中学校の脇を通ってから橋を渡り、港晴二丁目に入ります。港晴二丁目の交差点からみなと通を、地下鉄に沿って歩きます。

地下鉄と分かれて、500mぐらいで、「三先一丁目」の交差点に着きます。そこで、右折します。その先を、まっすぐに進んだ突き当たりに、甚兵衛渡船場があるはずです。

左側に港南中学校がありました。

港南中学校を過ぎると、600mぐらいで、道路が行き止まりになりました。正面に「甚兵衛渡船場」の看板がありました。ここは、港区福崎一丁目です。

左折して、緩やかな坂を上って行きます。

上った後、180度カーブして下ると待合いのスペースになります。渡船場の隣に着岸している貨物船の舳先が見えました。

福興丸だそうです。

甚兵衛の渡しの時刻表です。日中は、1年を通して15分毎に運行されています。通勤や通学のために利用している人が多いからでしょう、平日の朝夕には、増便されています。ちなみに、渡船場に掲示されていた資料によれば、平成27年度には、1日平均1,288人が利用されたそうです。

正面に対岸が見えました。資料によれば、対岸までは94m。乗ってきた天保山渡船(対岸まで400m)に比べ、ずいぶん近くに感じます。3隻の渡船が並んでいます。先頭(上流側・北東方向)が「きよかぜ」、真ん中が「海桜」、後ろが「すずかぜ」のようです。甚兵衛渡船に就航しているのは、小型船の「きよかぜ」と「すずかぜ」で、朝夕は2隻とも運行されているそうです。「海桜」は80人乗りの大型船で、天保山渡船に就航しています。一番後ろの「すずかぜ」は桟橋に停船しており、この時間に就航していました。

「すずかぜ」に利用者が乗船を始めました。対岸は大正区泉尾七丁目。そこに渡船事務所と乗務員の待機所も置かれています。出発しました。

上流側に向かって出発し左にカーブしたと思ったら、下流側に進路を向けます。次には再度上流側に向かってカーブします。対岸からS字を描いて、こちら側の桟橋に着きました。こちらでも上流側に向かって停船しました。下船が始まりました。

待合いのスペースにおられた9人が乗船しました。自転車と共に乗船された方が7名おられました。天保山渡船と同じく、椅子席はありません。船内には「最大48人(旅客46人)」と書かれていました。2名の乗務員が勤務されていました。

待っていた人たちの乗船が終わるとしぐに出発しました。船は来たときと同じように、上流に向かって出発し、大きく右カーブして下流側に向かって進み、対岸が近くなると、再度左カーブして上流に向かって着岸しました。帰りもS字を描いて進んで行きました。尻無川の上流側に見えた尻無川水門です。さて、尻無川の堤は、かつて、桜の名所で知られていました。掲示されていた説明によれば、「摂津国名所図会大成」には「紅葉の時節にいたりては、河の両岸一団の紅にして川の面に映じて風景斜ならず、騒人墨客うち群れて風流をたのしみ、酒宴に興じて常にあらざる賑わいなり」と書かれているそうです。

1分も経たないうちに、対岸の大正区泉尾七丁目に着きました。かつて、川下には、「甚兵衛の小屋」という茶店があり、「年を久しき茅屋にして世に名高し」ものだったそうです。甚兵衛によって設けられた茶店は「蛤小屋」と呼ばれて、「名物のはまぐりを賞味する人が絶えなかった」そうです。下船された人たちは、すぐに桟橋から離れ、それぞれの目的地をめざして出発して行きました。

桟橋から渡船場の事務所の前に来ました。右側が事務所。乗務員の方もこの中に入って行かれました。10分後には、運行が再開されるはずです。甚兵衛渡船のように、大阪の人々の通行のための渡船は、江戸時代から代々家業として受け継がれていました。明治24(1891)年に、大阪府が「渡船営業規則」を定めてから、公共交通としての性格を整えてきました。そして、大正9(1920)年には無料に、昭和7(1932)年にはほとんどの渡船が市の直営方式に改められたといわれています。8つの渡船の一つ、船町渡船場に掲示されていた資料によれば、「平成25(2013)年には、8ヶ所ある渡船を年間185万人の人が利用した」そうです。

この後は、尻無川の下流部分に近い大正内港で運行している千歳の渡しに乗るつもりでした。甚兵衛渡船の事務所からまっすぐ進み、泉尾工高西の交差点で右折し、大浪通を南西方向に向かって進みました。

大正区北村三丁目の交差点付近にあった「千歳渡船場」の案内標識。標識に従ってさらに進みます。

やがて、大浪通はその先で大正内港に架かる千歳橋を渡ります。めざす千歳の渡しはその下にありました。高架下を右に向かいます。こちら側は大正区北恩加島二丁目になります。文政12(1829)年に開発された北恩加島新田に由来する歴史ある地名です。

やがて、千歳渡船場の渡船事務所の前に着きました。この千歳の渡しは、昭和39(1964)年に新設された渡しとして知られています。

渡船場にあった説明によれば、大正内港の入口にあるこの地域は、「弘化2(1845)年に開発された千歳新田があったところで、向かいの鶴島町を結ぶ木造の千歳橋で」交流していました。「千歳橋には大阪市電も運行されて」おり、千歳橋は「昭和15(1940)年には鉄の桁橋に架け替えられた」そうです。

事務所から桟橋に向かいます。千歳橋は昭和32(1957)年に行われた大正内港の拡張工事で撤去されてしまい、両岸の住民の便宜を図るため、渡船場が設けられたそうです。

桟橋の待合いスペースから見た対岸です。371m離れています。渡ってきた天保山渡船は両岸間は400mでしたが、周囲の環境のせいか、千歳の渡しの方が広々としていた印象でした。

高架の下にある対岸の渡船場です。大正区鶴町四丁目にあります。

そのとき、対岸から渡船がやってきました。上流に向かって走ってきて、大きく右にカーブして下流に向かって停船しました。船名は「ちづる」。この1隻で運行しているそうです。

時刻表です。日中は、20分毎に運行されています。11人の方が乗船されました。自転車で乗船された方はそのうち7名でした。千歳の渡しは、平成27(2015)年度、1日平均636人が利用したそうです。

出発しました。平成15(2003)年に架けられた千歳橋に沿って進みます。海面からの高さ28m、全長1,064mだそうです。渡船がふいにスピードを緩めました。見れば前方を貨物船が横断していました。交通量もかなりあるようですね。

対岸に着きました。甚兵衛の渡しに比べると、時間がかなりかかりました。桟橋近くなって、大きく右カーブして桟橋に着きました。

下船しました。鶴町四丁目です。鶴町も万葉集の歌から採られた由緒ある地名だそうです。乗船される人が乗船してから出発しました。桟橋で渡船に手を振っていた女性がいらっしゃいました。「観光できたの?」と聞かれ、「はい」と答えると、「最近は団体で乗りに来る人がいるよ。20人や30人で・・」と、教えてくださいました。

桟橋から外へ出ました。この日は、6ヶ所の渡船に乗る予定でした。次の船町渡船場に向かうことにしました。







大阪市営天保山渡船に乗りました!

2016年11月11日 | 日記
江戸時代に”天下の台所”と呼ばれ、たくさんの物資の集散地になっていた大阪には、その輸送のための水路が縦横に広がっていました。そして、多くの庶民の往来のため、渡船場が各所に置かれていました。

渡船の”桜”です。天保山渡船場で輸送にあたっています。明治24(1891)年、大阪府が、「渡船営業規則」を制定し民間の渡船業者の管理にかかわるようになり、明治40(1907)年には、安治川、尻無川、淀川にある29の渡船場が大阪市営となりました。民間業者の運行から、少しづつ行政がかかわる運行に変わって行ったのです。そして、大正9(1920)年には渡船料が無料(旧道路法の施行による)になり、昭和7(1932)年には、ほとんどの渡船が請負制から大阪市の直営方式に替わりました。

現在では大阪市営渡船の渡船場が8カ所あり、15隻の渡船が運航されています。船町渡船場の待合室に掲示されていた資料には「
平成25(2013)年には185万人が利用した」と書かれていました。この日は、その一つ、天保山渡船に乗船するため、JR大阪駅から、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)の最寄り駅(ユニバーサルシティ駅)に向かう乗客でにぎわう、JR桜島線の終点桜島駅にやってきました。桜島線を走る車両の一つ、103系の車両です。

ホームの先に車止めが見えました。桜島駅は突き止まりの駅です。JR桜島線は、明治31(1898)年に、西成鉄道として大阪駅・安治川口駅間が開業しました。明治38(1905)年には安治川口駅から天保山駅までが延伸開業。明治39(1906)年には国有化。明治42(1909)年には、日本国有鉄道西成線となりました。そして、昭和36(1961)年、大阪環状線が開業したとき、西九条駅・桜島駅間が分離されて、桜島線となりました。平成13(2001)年にUSJが開業したときから「JRゆめ咲線」という愛称で呼ばれるようになりました。全長、4.1km。安治川口駅、ユニバーサルシティ駅、桜島駅が設置されています。

改札口から外へ出て、桜島駅の駅舎内を撮影しました。この駅は業務委託駅になっており、この日は男性の駅員の方が勤務されていました。

桜島駅の外観です。流線型の屋根を持つモダンな駅舎です。駅舎を出て、徒歩で天保山渡船の渡船場をめざします。

駅舎を出ると、目の前に阪神高速5号湾岸線の高架がありました。前の道路を道なりに右折して、高架に沿って進みます。右側に桜島駅のホームを見てから10分ほどで「桜島2丁目南」の交差点に着きます。左折して進みます。

5分ぐらいで、此花桜島郵便局に着きます。その手前を左折して進みます。

20分ぐらいで、突き当たりの壁にぶつかりました。壁に「天保山渡船場」の案内看板がありました。この壁の向こう側に天保山渡船場があるようです。天保山渡船は、此花区桜島三丁目(こちら側)と向こう側の天保山(港区築港三丁目)を結んでいます。壁の上から、対岸にある天保山の大観覧車がのぞいています。右側のスロープを上っていきます。

壁の向こう側です。待合室に向かって下ります。

待合室の中には、体格のいい外国人の方が待っておられました。対岸からの渡船が到着したとき、外国人のグループがこの方に向かって ”Good Morning”とあいさつしておられました。お聞きすると、「USJの外国人スタッフも利用している」とのことでした。この方々もそうなのでしょう。

待合室前のスロープから見た渡船場です。桟橋が揺れています。見えにくいのですが、湾岸線の橋脚の下に対岸の渡船場がありました。対岸までは約400m。8カ所ある渡船場で最長の渡船です。”海桜”と、冒頭で紹介した”桜”の2隻の渡船が就航しているそうです。

これが、対岸の渡船場です。写真の左に向いて停泊しています。こちらにやってくる便の乗船が始まっているようです。

こちら側の渡船の乗船口です。渡船が着くまでは、このように乗り口が閉鎖されています。遠くに天保山の大観覧車が見えています。

待合室に掲示されていた時刻表です。日中は30分ごとに運行されています。ずいぶん古い統計ですが、平成13(2001)年の1日の平均利用者数は870人だったそうです。

対岸に停泊していた渡船が動き始めました。対岸の渡船場で向かって左(上流)側に向かって停泊していた渡船は、そのまま左(上流)に向かいました。そして大きく左にカーブして、現在は、右(下流)側に向かって走っています。この後、大きく右にカーブして、(左)上流側に向かって進み始めたと思ったら、こちら側の桟橋に到着していました。時間的には3分ぐらいだったような気がします。もちろん、正確ではありませんが・・。この日は”桜”が就航していました。

上流側に向かって停船しました。対岸からSの字に運行して来ました。乗務員の方が動き始めました。

下船される方が済んだら、待っていた人たち10人が乗船し、その内の8人が自転車とともに乗船されました。道路の役割を果たしている渡船だということを再確認することができました。

渡船”桜”の船内です。椅子もベンチもありません。立ったままで到着を待ちます。みんなが対岸の天保山の方を向いています。正面の運転席の裏側に「旅客定員80人」と書かれたプレートが貼ってあります。出入口を閉めて出発です。こちら側に来た時と同じように、S字に進んでいきます。まず、上流に向かって進み、次に、大きく右にカーブして下流側に向かって進みます。そして、今度は大きく左にカーブして、対岸の桟橋に、上流側に向かって停まりました。

この写真は、乗船していた乗客が下船した後、次の運行に備えて停船している”桜”です。乗務員の方も控え室に帰り、動きが止まった桟橋と取りつけ通路の様子です。

桟橋を抜けて表に出ました。待合室と駅事務所を兼ねた建物です。

天保山渡船場の遠景です。”桜”は、この後、15分ぐらいすると、また、対岸を往復する短い旅が始まります。

天保山側の通路脇に描かれていた「天保山渡船」の案内です。

大阪市に8ヶ所残る渡船場である天保山渡船場。桜島駅から天保山側の渡船場まで渡りました。自転車で乗る人が大半で、「市民の生活の足」ということばがぴったりする「渡し船」でした。かつて乗った、愛媛県松山市の三津の渡し(2015年4月14日の日記)や岡山県倉敷市の水江の渡し(2015年4月24日の日記)を思い出させてくれました。そういえば、水江の渡しはすでに廃止され、今は乗ることができなくなっています。

JR姫新線の駅舎を訪ねる ~その2~

2016年11月03日 | 日記
大正12(1923)年、津山駅から美作追分駅までが開業した作備線は、翌大正13(1924)に久世駅まで、そして、大正14(1925)年には、中国勝山駅までが開業しました。現在の姫新線に編入されたのは、昭和11(1936)年のことでした。前回、JR院庄駅からJR久世駅までの姫新線の駅を訪ねました(「JR姫新線の駅舎を訪ねる ~その1」2016年10月6日の日記)が、今回はJR中国勝山駅からJR新見駅までの各駅を訪ねて来ました。

JR中国勝山駅です。久世駅から4.9km。真庭市勝山にあります。白壁の武家屋敷を思わせるどっしりとした感じの駅舎です。鉄筋コンクリート造り平屋建て、切妻屋根の日本瓦葺き。駅が開業したとき、当時の勝山町議会で「将来発展するのは美作ではなく中国地方の勝山だ」と衆議一決して命名されたそうです。現在の駅舎は、平成12(2000)年に建設されましたが、当時の心意気どおり、堂々とした、見事な駅舎になっています。しかし、皮肉なことに、新しい駅舎が完成した年から、中国勝山駅はJRの直営駅から簡易委託駅に転換してしまいました。

駅舎内にあった観光案内所です。右側のホーム寄りには委託されている乗車券発券所があります。女性の方が勤務されていました。1日あたりの平均乗車人員は 333人(2014年)だそうです。

駅舎にあった時刻表です。左側が津山駅行き、右が新見駅行きの時刻表です。新見駅行きは「休日運休」の列車も含めて8本。津山駅行きは12本の列車が運行されています。津山駅から新見駅までの直通列車が6本、この駅から折り返して津山駅に戻る列車が5本あるなど、立派な駅舎にふさわしく、姫新線の中心駅になっています。

2面2線のホームは、跨線橋でつながっています。

広い駅舎には、うどん店が入居しています。広い駐車場には、お店に来られるお客の車もかなりありました。

駅舎の建物のデザインからもわかるように、江戸時代、勝山は三浦氏、2万3千石の城下町でした。中国勝山駅の前にある出雲街道の城下町への入口にあたるところに、「檜舞台」と書かれた門がつくられています。中国勝山駅の前にありました。

勝山は、高瀬舟が発着する川港として、商業の中心地としても知られていました。旭川沿いには、商家から川に下る石段など、川港で繁栄していた頃の名残を見つけることができます。
 
昭和60(1985)年「町並み保存地区」に岡山県で初めて指定された町並みにはのれんが飾られ、訪れる人を迎えています。

駅舎にあったベンチです。木材や茶の産地として知られた勝山は、また、ヒノキの産地としても有名でした。姫新線の次の駅、月田駅の近辺で切り出されたヒノキは「月田檜」と呼ばれ、岡山市場でも高値で取り引きされていました。木材の搬出は、月田川を利用して勝山まで流し、勝山で筏に組んで岡山城下まで運んでいたそうです。ベンチの向こうの窓際には「学習コーナー」が、久世駅と同じように置かれていました。

駅前の駐車場で休んでいた真庭市コミュニティバス、”まにわくん”です。”西の軽井沢”といわれた蒜山高原を結んでいます。地元のタクシー会社が運行を委託されているようです。

中国勝山駅から4.8km、月田(つきだ)駅に着きました。真庭市月田にあります。昭和5(1930)年、作備線が、中国勝山駅から岩山駅まで延伸したときに開業しました。切妻の屋根が続くデザインが印象的です。

正面から見た月田駅舎です。月田はヒノキの産地として有名です。木の香りがするような駅です。平成9(1997)年に建てられました。しかし、平成23(2011)年から無人駅になっています。1日平均乗車人員は78人(2014年)だそうです。

駅舎内です。右側に乗車券券売所、その向かいにベンチが置かれています。

ホームに出ます。新見駅方面です。1面1線の単式ホームですが、向かいのホームと撤去された線路の跡が残っています。かつては、相対式2面2線の駅だったようです。

こちらは、ホームから見た中国勝山方面です。手前、右側の建物には月田木材事業協同組合の事務所が入居しているようです。

駅舎を出て左側に自転車置き場がありました。学校ごとに置き場所が決まっているようです。この日は日曜日でしたので、置かれた自転車はこの2台だけでした。

駅舎に掲示してあった駅周辺の住宅地図です。今も木材を扱う事業所が並んでいます。

月田駅前にあった製材所です。たくさんの木材が並べられていました。

この写真は、月田木材事業協同組合の事務所が入居している建物の前から新見方面を撮影したものです。正面左にホームが残っています。形状からすると、正面に貨車を置いて木材の積み込みを行っていたのではないかと思われました。草に覆われていて下の様子がわかりませんので、確かなことはいえませんが・・。ともあれ、月田駅周辺は、今も木材の生産が盛んなところでした。

月田駅から、6.1km、富原駅に着きました。真庭市若代にあります。この駅も、昭和5(1930)年に、中国勝山駅から岩山駅まで延伸したときに開業しました。木造平屋建て、寄せ棟造り。正面の上部の塔のような部分は明かり取りのためにつくられたのでしょうか?

この駅は道路脇にありました。通りから取り付け道路で入っていく駅が多いのですが、ここは、駐車場が駅舎と並んで設けられており、駅前のスペースも広くはありませんでした。

駅からホームに入ります。ホームまで階段で上っていくタイプの駅でした。無人駅のようです。

ホームから、新見駅方面を撮影しました。木造駅舎と、ホームにある待合スペースの屋根がみえます。1面1線のホームですが、この駅もかつては2面2線のホームだったようですね。

向かいのホームに残っていた駅名標です。撤去された線路の先にありました。文字は残っていませんでしたが、懐かしくうれしい発見でした。

待合いのスペースにあった木製のベンチです。背中の部分の彫刻が楽しいベンチでした。富原駅は、1日平均の乗車人員は41人(2014年)だそうです。

刑部(おさかべ)駅です。新見市大佐小阪部(おおさおさかべ)にあります。富原駅から6.5kmのところにありました。この駅も、作備線が中国勝山駅から岩山駅まで延伸開業した、昭和5(1930)年に開業しました。現在の駅舎は、平成5(1993)年の建築で、木造平屋建て、切妻造りで日本瓦葺きだそうです。外壁が漆喰塗りのため、明るい印象を受けます。

駅前の広場です。パラグライダーの形のものは街灯だそうです。

平成23(2011)年から無人駅になっている駅舎を抜けてホームに出ます。相対式、2面2線のホームです。新見方面を撮影しましたが、ホームの先に構内踏切が設置されていました。広々とした印象を受けますが、1日平均の乗車人員は60人(2014年)だそうです。

丹治部(たじべ)駅です。刑部駅から3.8km。新見市大佐田治部にあります。正面の三角屋根のデザインに特徴があります。木造平屋建て、切妻造りの日本瓦葺きです。作備線が岩山駅まで延伸した昭和5(1930)年に開業し、現在の駅舎は、平成6(1994)年に建設されたものだそうです。

駅舎の中を抜けて、ホームに出ます。ホーム側から見た三角屋根にはステンドグラスがはめ込まれていて明かり取りに使われているようです。ホームは1面1線の単式ホームになっています。この駅の1日平均乗車人員は16人(2014年)だそうです。平成23(2011年)までは、乗車券の販売のみを委託する簡易委託駅になっていました。

駅舎の中には、大佐公民館田治部分館が同居しています。この日は活動はされていなかったようです。

ホームの端から新見駅方面を撮影しました。ホームに沿って、今は懐かしい電柱が並んでつくられていました。

丹治部駅から4.8kmで岩山駅に着きます。新見市上熊谷にあります。この駅は、丹治部駅までの開通より早い昭和4(1929)年に、作備西線として新見駅から岩山駅までが開通したときに開業しました。昭和5(1930)年に中国勝山駅から岩山駅間(作備東線)が開通したことにより、津山駅から新見駅までが、作備線として全通することになりました。その後、昭和11(1936)年に、作備線が姫新線の一部に編入されたことによって、現在の線名である姫新線となりました。

開業時の駅舎が今も使用されています。木造平屋建て、切妻造りセメント瓦葺き。外壁は下部が竪板張りで上部が下見板張り、駅名標は手作りのようです。正面に改札口の鉄製の柵が見えます。地元、新見市では、この駅舎の歴史的価値を認め、昭和50(1975)年に当時の国鉄から所有権を譲り受けて保存に努めてきました。そのため、現在もいい状態で維持されているようです。

駅舎の内部です。待合いの部分には作り付けのベンチが付いています。

改札の設備です。鉄製の年季の入ったもので、かつて、改札係の駅員が立っていたところです。写真の奥の壁面には木製のベンチが一体になって付いています。

ホームから、新見駅方面を撮影しました。1面1線の単式ホームです。以前の2面2線の相対的ホームの線路が撤去されています。ホームに植えられている木が、時代の流れを伝えてくれています。

駅舎の一部が、地域の集会所として使われています。岩山駅の1日平均乗車人員は6名(2014年)とのこと。鉄道の利用者のための施設ではありますが、新見市では公民館や集会所など地域活動にも利用しています。新しいトイレが整備されるなどのメリットが、駅利用者にも返ってきているように思いました。

大急ぎでしたが、院庄駅から岩山駅まで13駅を巡って来ました。一番興味を惹れたのが駅舎のデザインでした。平成の時代になって、改修がなされることで個性的な駅舎が生まれたり、駅の施設を多目的に活用することによって、様々な人が駅に集まるような動きが出てきています。そういう人々が鉄道を利用してくれるようないい循環になっていくことを期待しています。

JR姫新線の駅舎を訪ねる ~その1~

2016年10月27日 | 日記
兵庫県西部の中心都市姫路市と、岡山県津山市を経由して岡山市西部の新見市を結ぶJR姫新(きしん)線。実際の運用は、姫路駅・佐用(上月)駅間、佐用(上月)駅・津山駅間、津山駅・新見駅間で、それぞれ区間運転を行っています。その中の、津山駅・新見駅間には個性的な駅舎が並んでいます。久しぶりに、姫新線の駅舎を訪ねることにしましたが、列車ですべて回るのは時間的に難しいため、今回は車で回ることにしました。

津山駅で出発を待っている姫新線の新見行き車両です。現在は、すべて、キハ120系のワンマン運転の車両が運用にあたっています。津山駅から新見に向かう姫新線は、作備線として開業し、「姫新線」と呼ばれるようになったのは、昭和11(1936)年のことでした。

JR津山駅を出て最初の駅、JR院庄(いんのしょう)駅に着きました。JR姫新線は、大正12(1923)年8月21日、津山駅・美作追分駅間が作備線として開業したことに始まります。院庄駅もそのときに開業しました。現在では、大正時代の駅舎の待合部分だけが、駅舎として残されています。木造平屋建て。駅舎の前には、乗客の自転車が整然と並んでいます。かつての駅舎にあった「駅名板」は、「昭和60(1985)年に無人駅になったとき姿を消した」(「岡山の駅」日本文教出版発行)のだそうです。

駅舎から見た駅前広場です。中央のロータリーの脇にタクシーが停車しています。形のいい樹木には見とれてしまいました。ここは、津山市二宮。激しい誘致合戦の末、津山駅と次の美作千代(みまさかせんだい)駅のほぼ中間地点に設置されたそうです。駅名の「院庄」は、鎌倉時代から室町時代にかけて、美作国の守護の館(院庄館)が置かれていたことに因ります。現在、そこには作楽(さくら)神社が鎮座しています。

駅舎の内部です。広くはありませんが、掃除が行き届いた清潔な待合室でした。

ホームから見た津山駅方面の風景です。1面1線の単式ホームです。平成26(2014)年度の乗車人員は34人だそうです。

院庄駅から4.8km、次の美作千代駅です。ローカル線にぴったりの趣のある懐かしい駅舎です。大正12(1923)年6月に建設されたときの姿で、今も現役としてがんばっています。木造瓦葺き、黒い下見板張りで貫禄ある姿です。手書きのような駅名板からも年月を感じることができます。それでも衰えは隠せず、入口の2本の柱は風化していて脇に新しい柱をつけて支えているようです。

駅舎の全景です。郵便ポストも懐かしい。新しいポストが使われていたのを、このレトロなポストにわざわざ取り替えたとのことです。写真の左端の電柱も、かつての雰囲気を残すために、木製のものにしたそうです。この駅を支えている人の思いが伝わってきます。

駅舎に入ります。出札口の窓枠がサッシになっているなど少し手が加わっていますが、それでも往事の雰囲気を感じとることができます。駅舎の入口にあった「建物財産票」には「鉄停 駅 本屋1号 大正12年8月」と書かれていました。

これもこの駅を愛する人がなさったのでしょう、「国鉄乗車券発売所」の掲示物も飾ってあります。無人駅になった今では、出札業務は残念ながらありません。1日の乗車人員は50人(2014年)だそうです。

ホームに出ました。ホームから見た津山駅方面の光景です。”秘境駅”のような雰囲気を感じます。現在は1面1線のホームになっていますが・・。

向かい側のホームが残っています。かつては、相対式2面2線のホームだったようです。線路も撤去され、その跡には、柵で仕切りがされていて、畑になっていました。女性が草取りに忙しくされていました。

向かい側のホームに残っていた構内踏切の階段の跡です。

ホームから見える駅舎内に「切り絵」が見えました。池田泰弘さんの作品です。

切り絵と同じアングルの駅舎です。美作千代駅は、鉄道路線が地方に次々と広がっていた時代につくられました。駅舎の設計の手間を省くために、鉄道省工務局は、昭和5(1930)年に「小停車場本屋標準図」を作成しました。駅舎の標準的な寸法等が示されていて、この時代につくられた地方の駅舎は、ほとんどこの標準図に従ってつくられていました。美作千代駅は、その典型的な姿を今に伝えてくれています。

事務所の中のようすです。かつて、駅員が常駐していた頃の、そのままの姿で残されています。だるまストーブもそのまま残っていました。これも古きよきものを大切にする地元の人たちのアイディアではないでしょうか?

別棟のトイレの壁に掲示してあった「久米仙人」のキャラクターです。美作千代駅は津山市領家にありますが、この地は、平成の大合併の前は久米郡久米町でした。久米町は仙人の里で知られています。「ある日、久米仙人が飛行の術を使い空を飛んでいたとき、川岸で洗濯をしていた若い娘の太ももが目に入り、墜落してしまいました。やがて、久米仙人はこの娘を嫁にし、後に久米寺を建てた」という話があります(今昔物語巻11)。地元の久米商工会が実施した「村おこし事業」のキャラクターです。「仙人のようにいつまでも若々しく健康的な生活が送れるように」という願いが込められているそうです。

美作千代駅から4.8km、坪井駅に着きます。津山市中北上にあります。この駅も、大正12(1923)年に美作追分駅までの区間の開業と同時に開設されました。昭和61(1986)年11月1日に無人駅になりました。その後、開業以来の木造駅舎が撤去され、駅舎というより待合室の方がふさわしい駅舎に替わっています。新見駅に向かって左側に設置されています。

ホームから見た津山駅方面の光景です。2面2線のホームの端に、構内踏切が設置されています。津山駅方面への列車に乗車するには、ここで線路を横断して反対側のホームに進みます。

これは、以前、出雲街道の坪井宿を訪ねたとき(2012年3月3日の日記「車で2分」の小さな小さな宿場町)に撮影したキハ120系の新見行きの車両です。1日平均の乗車人員は22人(2014年)だそうです。

坪井駅から歩いて5分ぐらいのところにある、「出雲街道坪井宿」の入口の案内板です。出雲街道は美作国では土居宿、勝間田宿、津山城下町、坪井宿、久世宿、高田(勝山)宿、美甘宿、新庄宿の美作七宿(津山城下町は含まない)を通って、伯耆(ほうき)国(鳥取県)に入っていました。

坪井宿の現在のようすです。広い通りが残っています。慶長8(1608)年、森忠政が藩主として津山に入り、参勤交代の道として整備したことに始まる宿場町です。街道の中央に、七森川から引いた用水をつけ、両側にそれぞれ2間(3.6m)の道をつくりました。そして、北側の道を出雲街道として旅籠や家屋が並ぶ通りとし、南側の道は里道として、庶民が通行する通りにしていました。

坪井駅から5.6km、美作追分(みまさかおいわけ)駅に着きました。美作追分駅は、真庭市上河内にあります。大正12(1923)年、津山駅からこの駅まで開業したときに開設された駅でしたが、翌、大正13(1924)年5月1日に作備線は、久世駅まで延伸することになり、途中駅になりました。

モダンな印象を受けます。平成8(1996)年3月、駅の管理を担っていた旧真庭郡落合町が駅舎の改修にあたりました。そのとき、駅舎に併設して、イベントの時に開設する”キリタローの館”も建設したそうです。

正面から見た”キリタローの館”です。”キリタローの館”はどんなことに使われているのかと、何人かの子ども連れの方に、お聞きしたのですが、「トイレをお借りしに来ただけなので・・」という返事が返ってきただけでした。あまり、イベントも多くないのかもしれません。

駅舎の中に入ります。正面に柱状のものが立っています。単なる装飾品ではなく、柱のようです。上の梁を支えていました。施設は立派なのですが、無人駅で自動券売機もありませんでした。

ホームに出ました。写真は、1面1線のホームの津山駅方面の光景です。この駅も、かつては2面2線の相対式ホームだったようです。向かいにホームの跡が見えましたが、線路はすでに撤去されていました。この駅の1日平均乗車人員は26人(2014年)だそうです。

ホームから見た”キリタローの館”です。キリタローの家族の絵が描かれていました。このあたりは標高200m。霧が深いところで、信号機の取扱いに苦労してきたそうです。それを逆手にとって、霧を町のシンボルとして、町の活性化に利用しているようです。道路沿いの各所に立っているキリタローの家族が「福祉の村 河内」などと、住民に呼びかけている姿を見ることができました。

駅の広場の向かい側の丘には、「河内村立追分公園」の碑が建っています。ツツジの名所という案内もありました。「道が分岐するところが追分、川が合流するところが落合だ」といわれますが、JR姫新線は、この追分駅と落合駅が並んでいるめずらしい路線になっています。

美作追分駅から、7.0km、次の美作落合駅に着きました。真庭市西原にあります。合併前の真庭郡落合町で、落合町の市街地は旭川をはさんだ対岸にあります。落合町は、その名の通り、旧上房郡から流れてくる備中川が、本流の旭川に合流する地域に発展していました。美作落合駅は、大正13(1924)年に作備線が久世駅まで延伸したときに開業しました。

駅舎には多目的室が併設されており、この日は、岡山県知事選挙の真庭市第16投票区の投票所として使われていました。この美作落合駅は、当初、作備線の鉄道路線に入っていませんでした。当時の落合町長は、上房郡の人々の応援を受けて運動を続け、現在のルートになったといわれています。美作落合駅の先で北に向かって90度の急カーブになルートになっているのは、そのためです。作備線の計画が進んでいた大正時代の中期には、落合の人々が岡山市に出るには、高瀬舟で旭川を福渡まで下り、そこから、中国鉄道(現在のJR津山線)に乗り換えて行くのが唯一の方法でした。大正時代の末には、岡山市へ向かう乗り合いバスが通じていましたが、運賃が高くだれもが乗れるものではなかったようです。それだけに、作備線が開通した時の落合の人たちの喜びは、大変なものだったのではないでしょうか。

駅舎内に入ります。JR乗車券発券所です。美作落合駅は簡易委託駅になっており、事務所では女性が勤務しておられました。この駅舎は平成17(2005)年に建設されました。待合室の上に時計塔がつくられています。この駅もモダンで上品な印象を受けます。

待合いのスペースを抜けてホームに出ます。2面2線のホームです。向こう側のホームとは跨線橋でつながっています。写真の左のホームは新見方面行きの列車が停車しますが、その向こう側に、かつてはもう一本線路があり、2面3線のホームになっていました。

右側の線路が新見方面行きの線路です。ホームに設置された待合室には、太陽光発電装置が取り付けられています。デザインだけでなく装備もモダンな駅なのです。

駅舎内の天井部分、あの時計塔の部分です。空間になっていますが、照明装置が集中して置かれていて、待合室全体を明るく照らしています。

待合室にあった絵です。現在の駅舎になる前の大正時代の駅舎です。あの時代の小規模駅舎の典型的な形式の駅でした。

駅前広場から見たJR美作落合駅の全景です。この駅の1日平均乗車人員は、223人(2014年)だそうです。この先で、JR姫新線は、旭川に架かる落合橋の手前で、右に90度カーブします。旭川に沿って北に向かって進んでいきます。

美作落合駅から3.7km、古見(こみ)駅に着きました。真庭市落合町古見にあります。一般県道329号から20mぐらい入ったところに古見駅のホームに上がる階段がありました。

ホームに入ってすぐ左に待合室があります。鉄骨づくり平屋建て、屋根はスレート葺きの簡素な待合室です。その前に1面1線の単式ホームがあります。周囲は収穫の終わった田んぼが広がっています。古見駅は、昭和33(1958)年4月に新設・開業しました。姫新線の中で最も新しく、最も簡素な駅でした。1日の乗車人員は、61人(2014年)だそうです。

古見駅の次は久世駅。真庭市の政治の中心地で、真庭市役所が置かれています。

古見駅から4.3km、久世駅に着きました。大正13(1924)年、美作追分駅から久世駅まで延伸開業したとき開設され終着駅になりました。しかし、翌大正14(1925)年3月15日に中国勝山駅までが開業したため、通過駅になりました。

久世駅は、真庭市久世にあります。国の重要文化財に指定されている遷喬(せんきょう)小学校で知られています。久世駅の入口にあった門には、遷喬小学校と早川太鼓が飾られています。

これは、以前、旧出雲街道久世宿を歩いたときに撮影した写真です。雪の積もった寒い冬の日でした(2012年2月26日の日記)。岡山県工師の江川三郎八の設計によるルネサンス風の校舎で、明治40(1907)年に、3年の工期を経て完成しました。総工費1万8千円は、当時の久世町の年間予算の3年分にあたるものでした。久世の将来を担う人材の育成に込めた町民の強い思いを感じます。校名の「遷喬」は中国の古典「詩経」の「出自幽谷 遷于喬木」(鳥が低い谷間から出て高い木に遷(のぼ)る)から、幕末の漢学者で備中松山藩の藩政改革にも携わった山田方谷が命名したといわれています。

真庭市役所です。平成の大合併で真庭市が新たに誕生したとき、久世町に市役所が置かれました。

久世駅からまっすぐ商店街に向かう道の右側に早川八郎左衛門正紀(まさとし)の胸像が建っています。早川正紀は、天明12(1787)年に久世代官として、この地に赴任して来ました。当時の久世は、津山藩主森家の改易(家名断絶 家財没収)により、幕府領となっていました。赤子間引きの禁止、庶民教育の振興、吉岡銅山の再興、ベンガラ生産の保護、虎班竹(トラフダケ・天然記念物になっている)の保存などに力を尽くし、領民から慕われた名代官でした。転任に際しては、4度の留任願いが出されたそうで、14年間に渡って久世代官をつとめた人です。早川代官の胸像は、代官が死去してから2年後の文化7(1810)年に、代官を慕う領民が建立したものといわれています。駅の入口にあった「早川太鼓」も、代官を慕う人々によって名づけられたものでしょう。

駅舎の中に入ります。簡易委託駅で事務室には男性の方がつとめておられました。

待合いのスペースです。椅子には座布団が置いてありました。その奥の部屋の入口には「真庭ライオンズクラブ」の看板が見えました。

ホームに出ました。新見方面を撮影しました。2面2線の相対式のホームで相互に跨線橋で結ばれています。写真の右側にあるゴミ缶の右に見える木製のベンチは、駅舎と一体化した造りになっています。

ホームの津山寄りから見た駅舎とホーム。市役所の所在地の玄関にしては、寂しすぎる雰囲気が印象に残ってしまいました。正面の一部の窓が欠けているところは、ホームの待合室になっています。ちなみに、1日の乗車人員は211人(2014年)だそうです。

駅舎に戻ったときに気がつきました。ホーム寄りの明るい日差しが注いでいるところに、「自主学習スペース」が設けられていて、国語辞典や漢和辞典も置かれていました。

ここまで、JR姫新線の院庄駅、美作千代駅、坪井駅、美作追分駅、美作落合駅、古見駅と久世駅と訪ねてきました。大正期の駅舎が残る美作千代駅、”キリタローの館”が楽しい美作追分駅、モダンな美作落合駅など、個性あふれる駅が楽しい路線でした。 中国勝山駅から先は、次回にまとめたいと思っています。





三条大橋から追分へ、旧東海道を歩く

2016年10月06日 | 日記

京都の三条大橋です。江戸から西に向かう旅人にとっての京への入口、江戸時代の東海道の終点でした。この日、私は地元のバス会社が企画した「中山道69次を歩く」というツアーに参加して、たくさんの仲間とともに、ここ三条大橋から、東海道が伏見街道(奈良街道)と分岐する追分まで、三条通りを歩くことにしていました。

中山道69次の68番目になる草津宿からは東海道と同じルートになります。今回のルートは、かつて、現在京都市営地下鉄になっている京阪電鉄京津(けいしん)線の跡地をたどって歩いたとき(2014年12月12日の日記)と、半分程度が同じルートになります。京津線は大正元(1912)年、浜大津駅までの11.2kmが開業しました。しかし、平成9(1997)年に、三条駅から御陵(みささぎ)駅までの区間が廃止され、京都市営地下鉄東西線になりました。写真は、現在京都市営地下鉄東西線に乗り入れている京阪電鉄京津線の車両です。

三条大橋の西詰にある、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で知られる弥次郎兵衛と喜多八の像を見ながら三条大橋を渡ります。東詰には京阪電鉄三条駅があります。慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は、本拠地の江戸と京を結ぶ伝馬制度を創設しました。里程124里8丁(487.8km)を53の宿場で結んでいました。これが東海道です。ちなみに、53番目の宿場である大津宿(中山道では69番目)と三条大橋間は3里(12km)ありました。京阪電鉄三条駅でトイレをお借りしてから出発しました。

三条大橋の東詰から見た三条通りです。左側の建物は京阪電鉄の三条駅です。かつての京津線の京津三条駅は現在の三条駅の南(右)側の奥まったところにあったそうです。そこから大きく右カーブしながら三条通に出ていたそうです。

京阪電鉄京津線は、京都御所に向かって土下座する高山彦九郎像のあるあたりから三条通りに出ていました。この先は、東海道のかつての面影をたどって歩く旅になりました。

その先で白川を渡ります。白川橋を越えた右側(東詰南側)にあった道標です。「是よりひだりちおんゐんぎおんきよ水みち」と、京からの旅人に向けて知恩院、祇園、清水寺方面への近道を案内しています。北面には「三条通 白川橋」、南面「京都為無案内人旅人立之 延宝6年午3月吉日 施主 為二世安楽」と刻まれていました。延宝6(1678)年の建立で、京都に現存する最古の道標とされています。

その先、右側にあった「坂本龍馬 お龍 『結婚式場』跡」の石碑。元治元(1864)年8月初旬、ここにあった青蓮院の塔頭の金蔵寺の本堂で内祝言を挙げたそうです。お龍の亡くなった父が青蓮院に仕えた医師だったことから、この地が選ばれ、金蔵寺住職の智息院が仲人をつとめたそうです。二人の結婚については、一般には、慶応2(1866)年に西郷隆盛(中岡慎太郎という説も)の媒酌で行われたといわれていますが、明治32(1899)年のお龍の聴き取りを根拠にしている、こちらの説の方が信憑性が高いそうです。ちなみに、お龍は、明治39(1906)年に亡くなったそうです。

左側に平安神宮の赤い鳥居が見えました。さらに、先に進みます。

粟田神社の鳥居です。鳥居の前に「粟田焼発祥の地」の石碑が建っていました。この先、蹴上(けあげ)の近くに「粟田口」という地名が残っています。粟田口は「京の七口」の一つで、山科方面からの京への入口になっていて、室町時代には関銭を徴収していたようです。石碑にもあるように、粟田焼で知られていました。

建て替えられていますが、京の町屋風の民家が点在する道を歩いていきます。

蹴上の交差点にあるウエスティン都ホテル京都です。私たちに同行している案内の方のお話では、旧東海道はこのホテルの敷地内を通っていたそうです。

ウエスティン都ホテルに隣接している京都市の浄水場です。旧東海道はこの中も通っていたようです。

三条通りの左側に展示されているインクライン(傾斜鉄道)の線路の下の蹴上トンネルです。かつて、琵琶湖疏水を通って南禅寺の船溜(ふなだまり)に着いた船を、台車に乗せて坂を乗降させていました。これがインクラインです。蹴上トンネルはその下につくられています。蹴上から南禅寺に向かう小さなトンネルで、「ねじりまんぽ」と呼ばれています。中のレンガは南禅寺にある水路閣と同じ素材で、負荷に耐えられるように斜めに積まれています。「ねじり」は「ねじった」、「まんぽ」は「間歩」。大森銀山の坑道である「間歩」は「まぶ」と呼ばれていますが、「ねじれたトンネル」という意味なのでしょう。

「ねじりまんぽ」を過ぎると、日岡峠に向かって上っていきます。その先で、東山ドライブウエーの高架の下をくぐります。現在は繰り返し行われた掘り下げ工事でかなりなだらかになっていますが、江戸時代にはかなりの急勾配で、旧東海道の難所の一つでした。

これは、九条山バス停(道路の向こう側を撮影したもの)です。日岡峠を越えたあたりにありました。以前、京津線の跡地を歩いたとき、地元の方から「京津線の九条山駅は、九条山バス停付近にあった」とお聞きしていました。

三条通りの右側に「粟田口刑場跡」の説明版がありました。粟田口には、江戸時代に刑場が設置されており、磔(はりつけ)、獄門(ごくもん)、火刑(ひあぶり)などの重罪犯の処刑が行われる場でした。その所在地については、「京津線の旧九条山駅付近の山手側にあった」とか、「蹴上浄水場から京津線の九条山駅の間にあった」、「東山ドライブウエーの陸橋の西から、浄水場の東付近の間にあった」などと言い伝えられているそうです。この案内板は、最初にあげた「京津線旧九条山駅の山手側」に設置されているようです。

その先の山裾に「萬霊供養塔」(右側)、「南無阿弥陀仏」(左側)と刻まれた供養塔がありました。刑死した人々への供養塔だそうです。

その先で休憩になりました。旧東海道の難所を上り、下りしていた荷車の便宜のため、旧東海道には花崗岩の車石が敷かれていました。たくさんの牛車が通ったため、車石についた轍(わだち)の跡がくっきりと残っています。

ここは、京阪電鉄京津線の軌道跡だそうです。展示されているのは轍の跡のついた車石です。

これは、山科に掲示してあった車石の説明です。当時の運送業者の苦労がしのばれます。

この先で三条通りは大きく左にカーブします。旧東海道はここで三条通りから離れ、右側の細い通りに入ります。

三条通から別れ、旧東海道に入りました。旧東海道は「大海道」であり、「道幅6間(10.8m)」と規定してされていましたが、実際には川崎宿から保土ヶ谷宿の間が3間(5.4m)で、それより西は2間から2間半(3.6mから4.4m)となっていたようです。ここの道幅も3~4mぐらいです。当時の雰囲気を感じる通りになっています。

道路の右側にあった「旧東海道」の標石。

民家の壁につくられた「旧東海道」の案内板です。東海道の道筋では案内がとてもていねいです。地元の人々の東海道に寄せる思いを感じます。

しばらく進むと公園の中の道を渡ります。思い出しました! 京阪電鉄京津線の線路跡の公園「稜ヶ岡みどりの小径」です。かつて歩いた道でした。ここは横断して道なりに進みます。

その先で三条通りに合流して右方面に進みます。正面にJR琵琶湖(東海道)線の高架が見えます。

そして、陵ヶ岡みどりの小径と合流します。冠木門がある公園の出入口で休憩します。写真の中央にセブンイレブンがありますが、京都市営地下鉄東西線はこのセブンイレブンの向こう側で、地下から地上に上がっています。

再度、出発しました。三条通りを先に進み、JR琵琶湖線の高架下をくぐります。三条通りを進んでいきます。

三条通りです。道標もたくさん設置されています。

山科駅前方面に向かって歩きます。一緒に行った人たちの歩く姿が見えます。

進行方向右側に「五条別れ道標」がありました。北面に「右ハ 三条通」、東面に「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大仏 今く満きよみず道」、 西面「願主 沢村道範建立」、南面「宝永四丁亥年十一月吉日」と刻まれています。ここから、左に進めば 五条橋 今熊野観音寺、方広寺の大仏 清水寺付近にいたる さらに西に進むと 東本願寺 西本願寺に行くことができる道」と、大津方面から来た旅人に、五条橋 伏見方面への近道を示しているのだそうです。宝永4(1707)年に沢村道範によって建立されたものだそうです。

その先、旧東海道の左側にあった愛宕常夜灯です。これも、旧街道時代の面影を今に伝えてくれています。

山科駅前交差点の手前、進行方向の左側のビルの下に「旧東海道」の石碑がありました。

山科駅前の通りを越えて進みます。道路幅は広く交通量も多いのですが、それでも旧街道の雰囲気が伝わってきます。

住居表示です。「安朱東海道町」と書かれています。「東海道町」とはめずらしいと思い撮影しました。しかし、帰宅してから調べると「とうかいどうまち」ではなく、「ひがしかいどうちょう」でした。正しくは「あんしゅひがしかいどうちょう」と読むそうです。

徳林庵山科地蔵です。京の旧街道の入口、六カ所にある地蔵尊で、六地蔵と呼ばれています。六地蔵は天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道に迷い苦しむ人々を救済するために発願された仏様のことです。この六地蔵は、保元2(1157)年、伏見六地蔵の地にあったものを、この地に移して安置し、以後、東海道の守護仏になったそうです。

三井寺観音への道との別れ道。このまままっすぐ進むのは「小関越え」で、大津宿へ向かうメインルートである逢坂峠越えのコースになります。

旧街道沿いにあった車石です。ここに掲示されていた絵を最初の車石の説明のところで使わせていただきました。このあたりは大津市横地一丁目。いつの間にか、大津市に入っていました。

目の前に国道1号線が迫って来ました。旧東海道が国道1号線の擁壁のために行き止まりになりました。

その先にあった案内板です。旧東海道を進む人は、60m先を横断陸橋を使って渡るように案内がなされています。

横断陸橋に上りました。下に見えている通りが、歩いてきた旧街道です。

こちらは、その延長線上の通りです。自動車展示場の前から分断された旧街道が復活しています。

このあたりが追分です。東海道と伏見街道が分岐するところです。逢坂の関から1kmほど京都側に下ったところに位置していますが、古くから諸国の産物が行き交い、その荷馬を「追い分ける」ところから「追分」の地名になったといわれています。江戸時代には、ここ追分から逢坂の関にかけては、人家や土産物を売る店や茶店が立ち並び、大変な賑わいだったようです。


三条大橋の下の三条河原で昼食を済ませてからスタートした旧東海道を歩く旅でしたが、追分に着く頃には、秋の日はすでに陰っていました。ここまで、約7km。休憩を十分とりながら歩いて来たせいか、全員が余裕をもって到着したようです。この先でバスに乗車して帰路に着くことになっています。

滞在時間12分 ”秘境駅”、JR備後落合駅

2016年09月09日 | 日記

JR芸備線の備後落合駅に行ってきました。JR芸備線とJR木次(きすき)線の分岐駅になっています。木次線はこの駅から奥出雲地方を経由してJR山陰本線の宍道駅を結ぶ全長81.9kmの路線です。写真は、桜の花が咲く頃の備後落合駅です。「奥出雲おろち号」に乗車するために訪ねた時(「奥出雲おろち号に乗ってきました」2011年5月1日の日記)に撮影したものです。

備後落合駅は木次線を走る「奥出雲おろち号」の始発駅として知られています。また、備後落合駅は牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の138位にランクインしている駅でもあります。秘境度2ポイント(P)、雰囲気3P、列車到達難易度5P、外部到達難易度1P、鉄道遺産指数7Pの18Pを獲得しています。芸備線の沿線では、28位の内名駅(「1日3往復の秘境駅JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)、36位の布原駅(「伯備線にあって伯備線の駅でない秘境駅JR布原駅」2014年3月31日の日記)、43位の道後山駅(「JR芸備線の秘境駅JR道後山駅」2016年8月27日の日記)の3つの駅もランクインしています。なお、布原駅は正確には伯備線の駅ですが、伯備線の列車は停車せず、芸備線の列車しか停車しないため、便宜上、芸備線の駅にカウントしました。この写真も「奥出雲おろち号」に乗車したときのものです。

青春18きっぷでJR伯備線の新見駅に向かい、そこから、13時01分発の備後落合駅行きの芸備線の列車に乗り継ぎました。備後落合行きの列車は、13時01分発のほかには、新見駅5時18分発と18時24分発の2本のみ。新見・備後落合駅間の芸備線は、超過疎路線になっています。

新見駅は2面4線のホームになっています。備後落合駅行きの列車は1番ホームから出発します。隣の2番ホームは津山方面に向かうJR姫新線のホーム。もう一つの島式ホームは伯備線の上下線が発着しています。

備後落合駅行き列車が入線してきました。キハ120340号車。トイレ設備のついたディーゼルカー(DC)です。ワンマン運転の単行列車でした。ホームで待ち構えていた、たくさんの鉄道ファンが乗車しました。平素は空席が目立つ列車ですが、青春18きっぷのシーズンには、鉄道ファンで賑わっています。ちなみに、ワンマン運転は平成3(1991)年に始まっているそうです。

13時01分、定時に出発しました。列車の一番後ろから撮影した新見駅の構内です。かつて、多くの列車が発着してにぎやかだった頃を思い出してしまいました。

車内です。席の3分の2ぐらいが埋まっています。乗客のほとんどの方が、備後落合駅で三次行きの芸備線の列車に乗り継いで、広島駅をめざす人たちでした。地域輸送が大きな役目である芸備線の新見駅・備後落合駅間ですが、地元の方の利用は多くはないようです。

新見駅から1時間10分。前回訪ねた”秘境駅”、JR道後山駅に着きました。道後山駅は、初めに書いたように43位の秘境駅で、芸備線の最高地点にある駅でもあります。下車する人もなく発車しました。道後山駅から先は、初めて乗車する区間です。列車は、備後落合駅に向かって下っていきます。

道後山駅から備後落合駅間は全長6.8km。新見駅から備後落合駅間での最長区間です。高い橋脚をもつ鉄橋と、車窓から見える田園風景が美しい区間です。ちょうど、実りの季節、収穫を待つ稲穂が黄色く輝いていました。小坪トンネル、国司トンネル、柏ヶ原トンネル、小持原トンネル、宮ノ谷トンネルと、5つのトンネルを抜けて走ります。

黄色い稲穂の中に見える白い部分はそばの花が咲いているところだそうです。稲穂の黄色に負けずに頑張っています。時速25km、55km、また25kmと、速度制限が続く線路をゆっくりと下っていきます。

道後山駅から変化に富む景色を見ながら進むこと4分。14時25分、定時に備後落合駅に着きました。新見駅から1時間24分の鉄道の旅でした。乗車して来たDCの行先表示は、すでに「新見」に変わっていました。14時37分には、新見に向かって出発します。滞在時間が12分しかありません。備後落合駅は、平成9(1997)年から無人駅になっています。

備後落合駅で下車する人はいないようです。ほとんどの乗客は、乗り継ぐべき三次駅行きの芸備線の列車が入線するまで、駅の各所で撮影に忙しく動き回っておられます。三次行きは14時38分の出発です。こちらも、滞在時間は13分という短時間です。

駅舎に入りました。緑の掲示板が際立つ待合のスペースです。カウンターの上には、”秘境駅”にはつきものの”駅ノート”が置いてあります。掲示されている運賃表。新見駅からは970円でした。青春18きっぷ様さまです!

待合室にあった時刻表です。新見駅方面が1日3本。宍道駅方面に向かう木次線が1日3本(他に、臨時列車の”奥出雲おろち号”が備後落合駅・木次駅間に1往復あります)、芸備線の三次駅方面行きが6本あるようです。この駅で下車してしまうと、次の列車の待ち時間が、とてつもなく長い時間になってしまいます。運行している列車本数が少ないことで、”秘境駅”であることを実感します。

外から見た駅舎です。備後落合駅は、昭和10(1935)年に開業しました。三次駅側から進んできた延伸工事が備後西城駅から備後落合駅間で完成したことによります。新見駅側からは、翌、昭和11(1936)年に小奴可駅・備後落合駅間が完成し開業しました。こうして、起点である備中神代駅から、備後落合駅を経由して三次駅(当時は備後十日市駅でした)の間がつながりました。昭和12(1937)年には国有化され、備中神代駅・広島駅間が芸備線となりました。木次線が全通したのもこの年でした。現在、この駅舎は乗務員の宿泊施設としても使われています。20時43分に備後落合駅に到着する三次駅からの列車は、翌日の6時40分に三次駅行きの列車として出発するまで、この駅で滞泊するからです。

周辺のようすを眺めます。下の国道沿いに民家が見えました。折り返して、三次行きとなる芸備線の列車の到着時間が気になりましたが、少し歩いてみることにしました。駅への取り付け道路を下ります。この道は、国道までが県道234号線(備後落合停車場線)となっています。かつては、美容室や新聞販売店、タクシーの営業所があったということですが、坂を下ったところに1軒大きなお宅が残っているだけでした。かつて、人気の旅館があったといわれていますが、それがこのお宅なのでしょうか。

集落の手前にある小鳥原川(「ひととばらかわ」とプレートに書かれていました)に架かる駅前橋を渡って、2車線の国道に出ました。こちらは、道後山駅方面です。5、6軒の人家が見えましたが、その先のカーブで人家は途切れてしまいます。

反対側です。こちらはまったく人家は見えません。

時間が気になって、引き返すことにしました。駅前橋から備後落合駅に向かいます。県道234号線を進みます。

三次駅からやって来る芸備線の列車が到着する14時31分を過ぎました。突きあたりが備後落合駅です。

三次駅からの芸備線の列車がすでに到着していました。急いでホームに戻ります。2面3線のホームで、駅舎に近い1番ホームは木次線、2番・3番ホームが芸備線のホームになっていました。跨線橋はなく構内踏切で移動するようになっています。

2番ホーム(写真左側)に停車しているのが折り返して三次駅行きとなるキハ12021号車。JR広島支社三次鉄道部の所属だそうです。3番ホーム(写真右側)が、乗車して来た新見駅行きのDCです。こちらはJR岡山支社に所属しています。いずれも、ワンマン運転の単行列車です。長いホームに1両の列車が停車している”秘境駅”らしい光景です。

ホームにあった駅標です。次の停車駅が二つ書かれています。「ひばやま(比婆山)」駅は三次駅行きの芸備線の、「ゆき(油木)」駅は木次線の駅になります。

これは、比婆山駅と油木駅方面の写真です。線路が2本、緩やかに右にカーブしながら伸びています。芸備線と木次線はそれぞれどちらなのでしょう?

これは三次駅行きの芸備線の列車が停車する線路の上から撮影したものです。お聞きすると、「このまままっすぐ進み向こう側で右カーブしている線路が芸備線。現在はポイントが外れていますが、手前から右にカーブして、芸備線の手前を下っていくのが木次線」なのだそうです。 

14時37分に出発した新見行きの列車から見た備後落合駅のホームです。三次駅行きのDCが、ぽつりと取り残されているように感じました。

備後落合駅での滞在時間はたったの12分。折り返し便に乗れなければ、次は20時12分まで、新見駅に向かう列車はありません。寒い季節ではありませんが、辛抱して6時間近く待つことはとてもできません。たったの12分では見えるところは限られていました。かつての転車台が雑草に覆われて残っているとも言われていましたが、確認することができませんでした。山深い地域で生活する人々の姿を見ることもできませんでした。ほんとに残念でした。やはり、車で来ないといけないのでしょうか。「列車到達難易度、5P」と牛山氏が評価したように、列車で来るのが難しい「秘境駅」でした。

新見駅に向かう列車には、三次からの列車で来た人たちが、たくさん乗車されていました。新見駅着は16時00分。1時間23分のJR芸備線の旅が、また始まります。



JR芸備線の”秘境駅” 道後山駅

2016年08月27日 | 日記

岡山県西北部にあるJR新見駅です。この駅から、広島県北東部の備後落合駅に向かう超過疎路線があります。JR芸備線です。正式には、JR伯備線の備中神代(びっちゅうこうじろ)駅から備後落合駅を経て、JR広島駅までの159.1kmの路線です。この日は、芸備線にある「秘境駅」、道後山駅を訪ねるため、岡山駅からここまでやって来ました。

新見駅の1番ホームです。道後山駅は、牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の43位にランクインしています。JR芸備線からは、道後山駅を含めて4つの駅がランクインしています。道後山駅のほかには、28位の内名駅(「1日3往復の秘境駅JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)、36位の布原駅(「伯備線にあって伯備線の駅でない秘境駅JR布原駅」2014年3月31日の日記)、138位の備後落合駅の3駅です。このうち、布原駅は正確にはJR伯備線の駅ですが、伯備線の列車は運転停止以外ではまったく停車しない、芸備線に入る列車しか停車しない駅であるため、便宜上芸備線の駅としました。

JR芸備線のホームにあった時刻表です。平成17(2005)年から、新見駅発の芸備線の列車は1日6本、そのうち、3本は広島県に入った最初の駅、東城駅行きの列車でした。東城駅から先へ行く列車は1日3本しかありません。5時18分発の「快速」と18時24分発とこの列車でした。最初に、「超過疎路線」と書いたのはそのためです。ちなみに、JR芸備線の1日の平均通過人員は、備中神代駅から東城駅までは1日平均84人、東城駅から備後落合駅間は1日平均8名とのこと。東城駅から先が1日3本というのも、やむを得ないことなのかもしれません。

やがて、JR西日本岡山支社に所属するキハ120339号車が入線していました。13時01分に新見駅を出発し、備後落合駅までの51.1kmを、1時間24分で走り抜ける列車です。ワンマン運転の単行列車でした。ちなみに、芸備線でワンマン運転が始まったのは、平成3(1991)年だそうです。

芸備線の列車に乗ってびっくりしました。平素は空席が目立つ車内ですが、この日は満員で立客も出ています。乗車していた方の大部分は、青春18きっぷで鉄道の旅をされている「乗り鉄」の方だったのではないでしょうか。途中駅で下車される方はほとんどおられませんでした。

新見駅から数えて11番目の駅、道後山駅に14時11分に着きました。新見駅から44.2kmのところにありました。写真は、車内にあった運賃表です。新見駅からここまで840円でした。広島県に入ってすぐの駅、東城駅は標高312m。そこから、備後八幡(びんごやわた)駅、内名(うちな)駅、小奴可(おぬか)駅(標高546.99mにあり、JR西日本で5番目に高い駅になっています)と、山地を少しずつ登って来ました。道後山駅の標高は624m。芸備線の駅の中で最も高いところにある駅です。東城駅からの19kmで312m(東城駅の標高と同じ高さ)を登って来たことになります。かなりの急勾配でした。

道後山駅で下車したのは、私と地元の方らしい女性との二人だけでした。「秘境駅」を訪ねて、地元の方が下車されたのは、この道後山駅が初めてでした。もちろん乗車する人はいませんでした。

列車は、終点の備後落合駅に向かって、すぐに出発していきました。列車を見送って駅舎を見ると、この女性の姿はもう見えなくなっていました。1日3往復しかありませんので、備後落合駅から折り返してくる14時52分までが滞在時間になります。乗り遅れると20時27分まで列車はありません。絶対に乗り遅れる訳にはいきません。

列車を見送ってから駅舎に向かいます。駅舎の手前の建物はトイレでした。ホームとの間にある植木は、手入れが行き届き、ホームにもごみ一つありません。清潔感あふれる駅でした。

ホームの新見駅方面から見た道後山駅舎です。ガラスのないところは物置になっているようです。

駅舎の中にあった消防車。駅舎の元の事務所部分は、今では消防機庫になっています。そのため、消防団員の方の集会所のようにも使われているようです。駅舎の美化にも消防団員の方々の助力があったのではないでしょうか。

長い歴史を感じさせる改札口から駅舎に入ります。さて、JR芸備線は、昭和5(1930)年2月に、国有鉄道三神線として、備中神代駅と矢神駅間が開業したことに始まります。工事は順調に進み、その年の11月には広島県側の東城駅まで開業しました。備後落合駅まで開業したのは、昭和11(1936)年のことでした。道後山駅は、備後落合駅までの開業から1か月遅れて、11月21日に開業したそうです。

駅舎内部です。駅事務所があったところは閉鎖され、境の壁には掲示板が設置されています。その向こう側が消防機庫になっているところです。ベンチの隣のカウンターには、「秘境駅」ではおなじみの「駅ノート」が置かれ、国鉄時代の駅標が立てかけられていました。

駅舎の反対側の窓の上には、絵が展示してありました。地元の人が描かれたものではないでしょうか?

絵の下には、懐かしい小さなベンチ。窓からはトイレが見えます。

トイレの内部です。秘境駅には思えない、すごいトイレでした。消防団の方々が使用されることもあるのでしょうね。

外に出て駅舎を撮影しました。駅舎入口です。入口の左側のシャッターには「庄原市消防団西城方面隊」「高尾班格納庫」と書かれていました。滞在時間は余すところ30分程度。乗って来た列車が戻ってくるまで、急いで駅の周辺を歩くことにしました。

駅の向かいにあったお宅です。ドアの上に「国鉄旅行連絡所」のプレートが残っていました。国鉄の民営化から、すでに30年近くが経過しているので、懐かしさ満点でした。国鉄の委託を受けて仕事をしておられたのでしょう。道後山駅は、かつて道後山スキー場と駅のホームの向かいにあった高尾原スキー場の最寄駅でした。スキーシーズンにはさぞかしお忙しかったことでしょう。

駅への取り付け道路です。正面右側のお宅には、誰も住んでいらっしゃらないようでした。

取り付け道路の突き当りにあった建物です。「学校法人 順正学園 道後山セミナ―ハウス」という看板が建っていました。
高原での活動は研究や教育の効果を上げることでしょう。

セミナ―ハウスの看板のそばにあった「記念碑」です。そこには、国有鉄道三神線の道後山駅開業に貢献された人々を顕彰する内容が刻まれていました。

これは、駅の向かいの山裾に広がる集落です。この地に生きる人たちの姿にふれたいと思いました。

順正学園のセミナーハウスから山裾の道に出ました。道標には「東城」「西城」「道後山」と書かれていました。「道後山の山裾から小奴可、内名、備後八幡に向かう道は、江戸時代に石見銀山から産出された銀を運んだ道だった」そうです。いかにも昔からあった雰囲気で道路幅も昔の通り、私には、この道が「銀の道」だったように思えました。まったく未確認で、根拠はありませんが・・。

集落の中を歩きます。この地に生きる人々の生活がありました。駅にあった絵と同じタッチで描かれた絵を飾っておられるお宅もありました。 さて、道後山駅は秘境駅ランキングの43位。牛山氏の評価では、秘境度6ポイント(P)、雰囲気7P、列車到達難易度17P、外部到達難易度5P、鉄道遺産指数8Pの合計43Pとしておられます。 やはり、「列車では到達するのが難しい」ことから「秘境駅」になった、そんな駅でした。でも、空き家になっているお宅もありましたが、今、この地で生きている人々の姿にふれることができました。

駅に戻ってきました。駅のホームの前にあった、高尾原スキー場のゲレンデの跡です。平成23(2011)年に閉鎖されたそうです。 今は、その跡地に道路を建設するための工事が進行中でトラックが行き交っています。線路と並行した新しい道路ができる日もそう遠いことではないでしょう。

そのとき、道後山駅はどうなるのでしょう? そして、1日3往復になって久しいJR芸備線の行く末は・・・。 
「秘境駅」道後山駅の行く末を考えた旅でした。


JR四国、もう一つの臨時駅、田井ノ浜駅

2016年08月13日 | 日記
先日、JR予讃線の「津島ノ宮駅」を訪ねてきました。8月4日、5日に行われる津嶋神社の夏季大祭の日にだけ営業する駅でした。めずらしい臨時駅ですが、JR四国には、もう一つ「臨時駅」があります。JR津島ノ宮駅を訪ねた日(「1年に2日間だけ営業するJR津島ノ宮駅」2016年8月6日の日記)、この「もう一つの臨時駅」を訪ねようと決めました。

その駅は、JR田井ノ浜駅。JR徳島駅から南に向かうJR牟岐(むぎ)線にある駅で、徳島県海部郡美波町田井にありました。牛山隆信氏が主宰されている「秘境駅ランキング」の122位(2016年度)にランクインしている「秘境駅」でもあります。

JR牟岐線の普通列車はJR徳島駅の3番ホームから出発します。ホームの案内には「田井ノ浜停車」と書かれていました。

10時前に2両編成のディーゼルカー(DC)が、3番ホームに到着しました。JR阿南駅からやってきた徳島駅行きの列車のようでした。ここで1両が切り離され、ワンマン運転の単行列車として、牟岐駅に向かうようです。1500形の1569号車。1500形DCは、排ガス中のチッ素化合物の割合を従来より60%削減した、JR四国が誇る「エコ車両」として知られています。平成18(2006)年から徳島県のJR(高徳線、徳島線、牟岐線)の路線で運用されています。

10時09分、立客が出るほどの乗客を乗せて出発しました。その後、降車される方もおられましたが、乗車される方も多く、多くの乗客を乗せて、田井ノ浜駅の一つ前の由岐(ゆき)駅に着きました。ここまで来ましたが、まだ立客もおられるような状況でした。以前「牟岐線の秘境駅 辺川(へがわ)駅」を訪ねた(「バリアフリーの秘境駅、JR牟岐線の辺川駅」2015年9月21日の日記)時と比べたら、尋常でないほどの人が乗っておられました。ちなみに、辺川駅は秘境駅ランキングの183位(2016年度)にランクインしています。

由岐駅のすぐ先にあったトンネルを抜けると、左(南)側に海水浴場が見えてきました。この辺りでは、JR牟岐線は東から西に向かって走っています。徳島駅から1時間07分ぐらい、JR田井ノ浜駅に着きました。たくさんの乗客のほとんどが、ここで降車されました。徳島市や沿線の小松島市、阿南市などから田井ノ浜海水浴場に来るために、JR牟岐線を利用される方がたくさんおられることに驚きました。

降車された乗客は次々にホームから海水浴場に降りて行かれました。やがて、DCの1569号車は、次の木岐(きき)駅に向かって出発していきました。さて、田井ノ浜駅は、昭和39(1964)年の7月11日、臨時駅として開業しました。開業当初から海水浴客の乗降のためだけに開設された駅だったようです。

1569号車が出発し、降車された方が海水浴場に降りて行かれた後のホームです。1面1線のホームには、屋根だけの待合スペースがあるだけです。田井ノ浜駅は海水浴場の開かれている期間だけ営業している臨時駅です。それでも、1年に2日だけ営業する津島ノ宮駅よりは営業日数ははるかに長く、「田井ノ浜海水浴場」と書かれた布製の幕が、とても誇らしげでした。

こちらは、木岐駅方面(西)側の海岸のようすです。海水浴場には、ホームから直接降りて行くことができるので、ホームも海水浴場の一部と言っていいのかも知れません。

こちらは、由岐駅方面(東)側の海岸です。空と海の青が目に染み込むような美しい海水浴場でした。でも、海水浴客は海水浴場の広さの割には、多くはなく、のんびり水遊びが楽しめるような、そんな雰囲気を醸し出していました。

ホームから見た牟岐駅(東)側方面です。正面の山にくぐって来たトンネルがあります。そして、駅の山(北)側には道路が見えました。徳島県道25号日和佐・小野線だそうです。

ホームから海水浴場へ降りることにしました。ホームに隣接している2階建ての建物は海水浴場の監視台になっています。1階部分に掲示物がありました。

これは、海水浴場の側から見た監視台です。この日は「台風5号の影響で波が高いので、注意して行動するように」という放送がなされていました。こちら側には「JR田井ノ浜臨時駅」と布製の幕には書かれていました。

掲示物を見てびっくりしました。すべての普通列車が停車するものと思い込んでいて、最近の時刻表でチェックしていなかったからです。次に田井ノ浜駅を出発する普通列車は、14時32分までありません。暑い砂浜で3時間も待つことは不可能です。掲示によると、田井ノ浜駅は、7月16日から8月7日までの23日間営業するようなっていました。

残念ながら、帰りに乗車しようと思っていた12時18分初の列車は通過列車になっていました。

とりあえず、海水浴場から駅周辺を歩いてみようと思いました。多くの乗客が入っていかれた「海の家」です。涼しげでした。

カラフルなテントが点在しています。こちらも景色に彩りを添えています。昼食をとっている家族連れもおられました。

靴が埋もれるような砂浜を歩いて、東側の田井川までやってきました。海への出口です。素晴らしい景色です。絵になりますね。

こちらは、上流側です。右側にある白い建物は民宿。正面のグレーの構造物は田井川水門です。

田井川を渡って駐車場を抜けて、東側の道路に出ました。駅の裏(北)側をめざして歩きます。カラフルな民宿「明山荘」の前を通って牟岐線の線路に向かいます。

これが、牟岐線の線路です。線路の左がJR田井ノ浜駅方面。正面が先ほど、田井川河口から見えた白い色の民宿です。

田井ノ浜第一踏切です。「45k519m」と書かれています。徳島駅からの距離を表しています。踏切から見た由岐駅方面です。カーブの先にトンネルがあるはずです。

こちらが踏切から見えた南(田井ノ浜駅)側。手前の田井川に架かる鉄橋の先に、かすかに田井ノ浜駅のホームが見えます。

踏切から民宿の裏に向かいます。田井川河口から見えた田井川水門。昭和57年5月、「紀伊水道高潮対策」としてつくられたものだそうです。右側に道標が見えました。

この道は四国八十八か所を巡る「遍路道」になっているようです。道標には「二二番 平等寺 三九.八km 二三番薬王寺 一五.三km」と書かれていました。

ホームの北側の道路から見た、田井ノ浜海水浴場。砂浜の先に紀伊水道の広々とした海が見えました。

田井ノ浜駅の西側から見たホームです。田井ノ浜海水浴場の手作りの案内標です。

道路を引き返して、先ほど通った民宿「明山荘」まで帰って来ました。カラフルな民宿です。自動販売機で飲物の補充をしていると、民宿の方が出て来られましたので、由岐駅への道を教えていただきました。

「民宿から、この先を左に向かい大きな峠を一つ越えて下ったら右へ行きなさい」とお聞きしたとおり、15分ぐらい歩いて、由岐駅に着きました。13時14分発の特急むろと4号で、阿南駅に向かうことにしました。

JR牟岐線の臨時駅、田井ノ浜駅に行ってきました。これまで何回か通過はしていたのですが、下車するのは初めてでした。空の青と海の青が美しい素晴らしい海水浴場でした。田井ノ浜駅は海水浴場の一部を構成している生まれついての臨時駅でした。

また、田井ノ浜駅は「秘境駅」でもありました。牛山氏の評価では、秘境度1ポイント(以下「P」で表示)、雰囲気2P、列車到達難易度(15P)、外部到達難易度1P、鉄道遺産指数1Pでトータル20Pで125位になっています。臨時駅ですから秘境駅に認定されるのは当然かも知れません。確かに、海水浴場が開かれていない時期は秘境駅の雰囲気を強く感じましたが、この日は、とても秘境駅とは思えませんでした。たくさんの海水浴客が訪れて海と戯れている明るい駅だったからです。こういう二つの面があることも含めて、JR田井ノ浜駅は、とても魅力的な美しい駅でした。



1年に2日間だけ営業するJR津島ノ宮駅

2016年08月06日 | 日記

香川県の西部に位置する三豊(みとよ)市の海岸から、沖合にある津島に鎮座する津嶋神社に向かって延びる橋が見えます。この橋は、1年に2日しか使われない橋なのです。「子供の神様」として、多くの人々の崇敬を受ける津嶋(つしま)神社の参道になっています。

JR予讃線の多度津駅に掲示されていた津嶋神社の夏季大祭のポスターです。毎年、8月4日・5日に開催される夏季大祭の2日間で10万人の参拝者があるといわれる神社です。津嶋神社の祭神は素戔嗚命(すさのうのみこと)。「牛馬の神」「子供の神」として信仰を集めてきましたが、大正時代の後期から、「子供の守り神」として親しまれています。昭和27(1952)年、それまでの「津島神社」から「津嶋神社」と改称されたそうです。

この写真は、最寄駅のJR予讃線の津島ノ宮駅の構内です。津嶋神社の夏季大祭の行われる2日間だけ営業する臨時駅です。予讃線の列車も、この2日間以外は停車しないで通過していきます。右側のツートンカラーの平屋建ての駅舎まで、年間で2日しか営業しない駅には場違いのような、広いスペースが確保されています。

営業されていない日のようすを見ようと、夏季大祭の1週間ほど前にJR津島ノ宮駅を訪ねました。このときは、JR土讃線との分岐駅である多度津駅から観音寺行きの電車に乗り継ぎました。津島ノ宮駅は、多度津駅の次の海岸寺駅と、その次の詫間駅との間にありました。海岸寺駅からは3.3km進んだところ、詫間駅からは2.2km引き返したところだそうです。そのため、詫間駅まで行って引き返しました。津島ノ宮駅は1面1線のホームをもち、ホームは大きくカーブしてつくられていました。

多度津駅側からの津島ノ宮駅への入口にあった大見踏切です。高松駅から39.8kmの地点、踏切名のとおり、津島ノ宮駅は三豊市三野町大見にあります。大正4(1915)年5月7日に、仮乗降場として開業しました。その後、昭和44(1987)年10月1日に臨時駅になったそうです。今年の営業は、8月4日は9時から22時まで、5日は9時から13時まで、この間、4日には上下42本、5日には上下10本の列車が停車することになっています。たくさんの人が乗降しているようですが、2日間で乗車した人の数は1日あたりにならすと、2014年では5名にしかならなかったようです。臨時駅でも仕方がないのかもしれませんね。

津島ノ宮駅から歩いて5分ぐらいで、津嶋神社の遥拝殿に着きました。平素はここにお詣りするのでしょう。

その遥拝殿の脇にあった本殿への参道、津島橋の入口です。昭和8(1933)年に、地元の大見村長だった倉田弥次郎氏が発起人となって、架橋したといわれています。平素は通行禁止で、橋の入口は封鎖され、橋桁に敷き詰められている木製の板も撤去されているそうです。大祭の1週間前には、橋桁の上の板はすでに敷かれていました。大祭の準備が、順調に進んでいると感じました。

まっすぐに延びる250mの津島橋の向こうに、津嶋神社の本殿と鳥居が見えました。本殿は、江戸時代中期の宝永3(1706)年に、当時鼠(ねずみ)島とも呼ばれた津島に、富山安兵衛によって造営されました。現在は、銅板葺きの立派な建物になっています。

8月5日の大祭の日。たくさんの子供連れが待つJR多度津駅ホームに、観音寺行きの普通列車が入ってきました。その人たちと一緒に、津島ノ宮駅に向かいました。

乗車して5,6分で、津島ノ宮駅に着きました。ほとんどの乗客が下車しました。子どもの姿が目立ちます。ホームに待ちかまえていた駅スタッフが忙しく動き始めました。

駅スタッフは、子どもたちが電車から降りるときの介助にあたっているのです。停車した電車は、カーブの内側(ホームの反対側)に向かって、かなり傾斜しています。ホームとの間には、高さも幅もかなりの段差ができています。怖くて降りられない子どもたちを抱え上げてホームに降ろしているのです。

広い構内を埋め尽くす人たちです。下車した人は、駅舎の左側に開設されている改札口に向かって進んでいきます。

これは、1週間前の駅舎のようすです。入口には、鍵もかかっていました。

大祭の日の駅舎のようすです。駅スタッフの詰所と精算所、出札口が設けられていました。

屋根の下の壁面には「つしまのみやえきちゃん」の顔が描かれ、その下には、長い歴史を感じさせる「津島ノ宮駅」の駅標も掲示されています。駅舎と線路の間には、乗客の案内や介助にあたる駅スタッフの詰所がつくられていました。葦簀(よしず)や簾(すだれ)をかけて暑さ対策もなされていました。

改札口付近につくられた精算所です。簾と扇風機で暑さをしのぎながら、仕事に精を出す駅スタッフの姿が見えました。

鉄道グッズの販売店も店開きしていました。駅名のキーホルダーは、税込み500円。JR予土線にある「半家(はげ)駅」のキーホルダーが「一番売れているよ」とのことでした。半家駅は、かつて、名前に惹かれて訪ねた駅(「海洋堂ホビートレインに乗って「はげ」駅へ行きました」2014年7月25日の日記)でした。

改札口の外にあった出札口です。線路側と同じように「つしまのみやえきちゃん」が描かれています。「きっぷうりば」の看板や運賃表が掲示され、改札口らしく改装されています。

改札口を出て左に向かう参道には、屋台が並んでいます。祭礼にはつきものですが、1週間前には想像もできなかった華やかさです。

警備詰所を右折すると津島橋に続く通りに出ました。手洗所と狛犬、鳥居が並んでいる先に、津島橋が見えてきました。

1週間前の鳥居の前のようすです。ずいぶん雰囲気が違います。

参詣を終えて、アイスクリームを食べながら歩く人の姿をたくさん見かけました。どこで買ったのだろうかと思って歩いていたのですが、このお店のアイスクリームだったようです。

「しあわせ橋切符売場」。津島橋を渡って本殿にお詣りする人は、ここで、300円(子どもは150円)の切符を買ってから渡ることになります。

子ども連れの人が多いので、ゆっくりと歩いて行きます。大変な暑さでしたが、海の上は心地よい風が吹いていて快適でした。江戸時代には、このあたりは潮干狩りができる遠浅の海が広がっていたそうです。また、本殿の裏は瀬戸内海の美しい島々が連なっていたところだったようです。

250mの橋だそうですが、ゆったりと歩いているせいか、ずいぶん時間がかかりました。

やっと、対岸に着きました。階段を上れば本殿です。

本殿から見た津島橋と遥拝殿方面です。遥かに、三豊市三野町大見の町が広がっています。本殿を離れていく、たくさんの参拝者の姿も見えました。

戻ってきました。遥拝殿の前です。屋台が並んでいるすぐ裏でしたが、大変静かでした。

屋台の間を通って津島ノ宮駅の東の入口にある大見踏切まで帰ってきました。踏切には2人の駅スタッフがおられ、列車が通過するたびにロープを張って遮断機の代わりにして、安全に努めておられました。

畑の中の道を通って改札口から構内へ入ります。昼前になり日差しがかなり激しくなっていました。

ホームにある駅標の裏には「日本一営業日が短い駅」と書かれたイラストが書かれていました。これをバックに集合写真を撮る家族がたくさんおられました。現在、日本で一番営業日が少ない駅は、JR東日本磐越西線の猪苗代湖畔駅で、年間営業日は”0”だそうです。しかし、平成19(2007)年から営業停止扱いになっているそうで、実質的に「日本一営業日が短い駅」はここ津島ノ宮駅になります。現状では、この駅はこの先も営業停止扱いには決してならないでしょう。これだけの人が参拝に訪れる駅ですから・・。状況が激変しない限り、「日本一」の座を他に譲ることはないのではないでしょうか。

「お願いします」という声が聞こえたので、振り返ってみると、駅スタッフに撮影を依頼する女性の姿が・・。電車の到着時間を気にされながら、乗客の要請に応じる駅スタッフの姿が見えました。誤解がないように付け加えますが、こうして乗客の支援をされていても、まったく、本来の業務に支障はありませんでしたよ! 酷暑の中、参拝される人と、参拝される人のために働く人、どちらも本当にお疲れ様でした。

テントとパイプ椅子の待合室です。日差しだけは遮ることができそうです。参拝される人に対する配慮がしっかりとなされていて、見ていて気持ちのいい駅になっていました。

JR四国には、もう一つ臨時駅があります。JR牟岐線の田井ノ浜駅(「JR四国、もう一つの臨時駅」2016年8月6日の日記)。こちらは、海水浴場が開かれている期間だけ営業する臨時駅です。次は、田井ノ浜駅を訪ねようと思いつつ、津島ノ宮駅を後にしました。






予讃線の天井川トンネル、大明神川トンネルを訪ねる

2016年07月24日 | 日記

長年気になっていた大王製紙の専用線を見た日(2016年7月15日の日記)、JR伊予三島駅から松山方面に向かう普通列車に乗りました。めざす駅はJR伊予三芳駅。伊予三芳駅が開業したのは、予讃線が伊予桜井駅まで開業した、大正12(1923)年のことでした。

伊予三島駅から、1時間15分。列車の前方に、このところ見慣れた光景が見えてきました。今治小松自動車道路の高架下を、平べったいほぼ水平に見える地形の下をくぐるトンネルの姿です。山地の多い日本にあっては、列車にはトンネルがつきものです。しかし、日本で最初につくられた鉄道トンネルは、山岳地帯ではなくJR東海道線の大阪・神戸間にあった石屋川トンネル(「日本で最初の鉄道トンネルの跡地を歩く」2016年6月19日の日記)でした。六甲山系から大阪湾に流れる天井川の下をくぐる鉄道で、明治7(1874)年に開業しました。

列車は、跨線橋のようなトンネルをくぐりました。このトンネルは大明神川トンネル。大正12(1923)年に開業した大明神川の川底をくぐる天井川トンネルでした。石屋川トンネルの開業から、約50年後に開業しました。私は、このところ、JR東海道線の芦屋川トンネル(もう一つのJR東海道線天井川トンネル跡」2016年6月3日の日記)や住吉川トンネル(「跨線橋の上に川が流れていた」2016年5月27日の日記)などの天井川の下をくぐるトンネルを訪ねて来ました。今回は、四国の予讃線にある天井川トンネルである大明神川トンネルを見るため、ここまでやってきました。

全長65m。大明神川の川幅だけのトンネルです。あっという間に、大明神川トンネルを抜けて、やがて列車は2面2線のホームをもつJR伊予三芳駅に入りました。丸い屋根の駅舎が進行方向の左側にありました。

JR観音寺駅からJR松山駅まで3時間半かけて走り抜ける普通列車は、すぐに出発して行きました。松山駅まで、まだ1時間半以上も走り続けないといけません。

駅舎の中です。すみずみまで掃除が行き届いている駅舎には、座ぶとんが置かれています。地元ボランティアの方々のご尽力があればこその駅舎です。ガラスの向こう側には、地元ボランティアに対するJR四国の社長からの感謝状が掲示されていました。

天井川トンネルに向かって出発しました。振り返って見た駅前ロータリーです。

この案内図は、駅前ロータリーからまっすぐ進んだ消防署のところにあったものです。天井川である大明神川が、案内図の下(南)から上(北)に向かって流れています。先ほどくぐって来たトンネルは、案内図の上(北)の下流側にありました。

左折して「天井川大橋」の方に向かって歩きます。道路に沿って住宅が並んでいます。

やがて、天井川大橋が見え始めると登坂になり、登り切ると天井川大橋でした。

天井川大橋の真ん中から見た大明神川です。天井川らしく、たくさんの土砂が堆積しています。川は瀬戸内海に向かってゆったりと流れていました。

大明神川を渡って、大明神川の右岸を下流(北)に向かって歩くことにしました。

天井川大橋の東詰めを左折し、川の堤につくられた道路を歩きます。川の向こうに、今治小松自動車道の高架が見えています。

視線を右に移すと、堤の下の民家が見えました。民家の屋根が道路より低いところにあります。川が土砂をたくさん堆積するため、流域の人たちは洪水を防ぐため高い堤防をつくります。しかし、川の堆積する力が強いため、洪水をふせぐためには堤防をさらに高くしないといけません。こうして、現在のような集落の姿になっていったのです。

目の前に今治小松自動車道の高架が見えました。大明神川トンネルは目の前です。

自動車道の先の大明神川です。流れが急激に下っています。おそらく、ここがトンネルの下流側(北)の端にあたる部分でしょう。

流れが急激に下っているところから見た東側、伊予三島駅方面です。まっすぐな線路が続いています。

右岸の道路から、伊予三島駅方面に向かって降りて行きます。向こうに見えるのは山中踏切です。

線路のすぐ脇から見た大明神川トンネルです。ここから見ると想像もできませんが、トンネルの上を大明神川が流れているのです。

再び、堤の上の道路に戻り、下流(北)側に向かいます。天井川大橋の一つ北に架かる六高(ろくこう)橋です。この橋を渡り、大明神川の左岸に渡ります。

六高橋から見た大明神川です。水量はありましたが、流れはさらに細くなり、写真の右側の部分だけになっています。

大明神川の左岸に渡りました。そして、道路から降りて、トンネルの西側の坑口を撮影しようと思いました。しかし、残念ながら、草が生い茂っていてうまくいきません。

再度、道路に戻り、左岸を上流(南)側から下に降りていきます。自動車道の下に、撮影できるところがありました。トンネルの西(松山)側の坑口を、やっと撮影することができました。

そのとき、松山行きの普通列車が大明神川トンネルを抜けて、伊予三芳駅に向かって通過していきました。

伊予三芳駅に向かって戻ることにしました。トンネルと伊予三芳駅の間にあった六反地(ろくたんち)踏切。脇にある器具庫には、「129K762m」と書かれていました。高松からの距離のようです。

六反地踏切の道路脇にあったお地蔵さまです。「昭和43年9月建立」と刻まれていました。手を合わせ、帰路の安全を祈って伊予三芳駅に向かいました。帰路は、JR伊予西条駅、観音寺駅、多度津駅で区間列車を乗り継いで、JR坂出駅まで、乗り継ぎ時間も含めて3時間超の旅になります。

四国にある天井川トンネルを見るため、ここまでやってきました。予想通りのトンネルで、また一つ、経験を積むことができました。いつものことですが、暴れ川の天井川と共存するために、創意工夫を繰り返しながら対策を講じ続けて来られた近隣の人たちの努力に思いをはせる、そんな旅にもなりました。