トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧東海道石部宿を歩く

2016年07月04日 | 日記
東海道石部宿は、東海道の51番目の宿場として知られています。「京立ち、石部泊り」といわれ、京都を出発した旅人が最初に宿泊する、京都から1日の距離にある宿場町でした。

この日は、JR草津駅から草津線の電車で石部駅に向かいました。

草津駅から10分ぐらいで、めざす石部駅に到着しました。駅の近くでは資料が手に入らなかったので、とりあえず石部宿の入口の落合川橋に向かうことにしました。

石部駅前の取り付け道路をまっすぐ進み、写真の右の狭い道を進み、突き当たった道が旧東海道でした。左折して、旧東海道を東に向かって歩きました。

この日はすごく暑い日でした。ゆっくり歩いて30分、落合川橋に着きました。「これより石部宿」と書かれた看板が見えました。

石部宿の中心部に向かって、歩いてきた道を引き返しました。すぐに、「石部東」の交差点に着きました。ここに「東海道石部歴史民俗資料館」の案内がありました。かつての宿場の姿が復元された「石部宿場の里」があると聞いていたので、行って見ることにしました。石部宿に関する資料もいただけるのではないかと思ったからでした。

資料館までかなり距離があって、汗びっしょりになりながら石部中学校の近くの坂を登って、資料館の入口に着きました。事務所で350円の入場券をを購入。資料もたくさんいただきました。順路にしたがって、「石部宿場の里」に入りました。期待していたのですが、「宿場の里」はこの一角がそのすべてでした。右側が茅葺の農家の建物、左が白漆喰がまぶしい商家の建物でした。写真では見えないのですが、左側の一番奥に「安眠米倉庫」が復元されていました。

復元された一里塚の間を抜けると、目の前に東海道石部歴史民俗資料館がありました。資料館にはスタッフは一人もおられませんでした。しかし、参観するには不便はありませんでした。館内は「撮影禁止」でしたので、写真はありませんが、宿場町を再現した模型には感動してしまいました。

再び、汗びっしょりになって、石部東の交差点に帰ってきました。石部宿の中心部に向かって歩きます。旧街道はほぼ東西に走っています。資料館にあった展示資料では、旧東海道の道幅は2間(3.6m)から3間半(6.3m)ぐらいだったそうです。幅4mぐらいの旧街道の両側の民家はほとんど建て替えられていて、静かな住宅地といった雰囲気でした。

交差点から5分ぐらい、旧街道の左側に「東の見附跡」の案内が立っていました。「道路の中央付近まではみ出していた、幅3m、高さ2mの台場。見附は、番兵が通行人を見張ることから呼ばれた」と書かれていました。もちろん、今はその面影はありませんでした。

案内に添えられていた写真です。石垣のある土塁が見えます。道路の中央に張り出していて、通行人を見張っていたことがよくわかります。宿場の端に置かれていたのが見附ですから、正確にはここからが石部宿ということになるのでしょう。  

資料館にあった「石部宿町並図」を見ると、街道沿いには旅籠屋や商家だけでなく、「百姓」と書かれている家がたくさんありました。城下町とは異なり、宿場町には農家の方も居住していたのです。神社や寺院は、街道から少し奥まったところにあり、参道が通じていました。ここは吉姫神社です。女性の神様が祀られており、旧街道の先にある吉御子神社と対になっているそうです。

真宗大谷派寺院の西福寺の参道です。さて、東海道は、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6(1601)年に、江戸・京都間の人馬と情報の往来幹線として開かれました。天保14(1843)年の記録(「東海道宿村大概帳」)によれば、東西15町3間(1.6km)の石部宿には1606人(男808人 女798人)が居住しており、本陣2軒、旅籠32軒を含めて458軒の家屋がありました。

白漆喰がまぶしい豪邸がありました。その続きに「竹内酒造株式会社」のプレートが見えます。「香の泉」知られる酒造会社です。

すぐ先が、県道113号を渡る「石部中央」の交差点です。その名のとおり、石部宿の中心だったところです。

交差点の左側(南側)の手前(東側)に小さな「道の辺広場」がありました。小さな資料館といってもいいスペースで、石部宿にまつわる出来事が説明されていました。

「お半 長右衛門」には、今も歌舞伎や人形浄瑠璃で上演されている「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」のもとになった、石部宿での出来事が説明されていました。「京都の帯屋の主、長右衛門は、伊勢参りの途中、石部宿の出刃屋に宿泊しました。そこで、丁稚の長吉に言い寄られていたお半をかくまったことから二人は結ばれることになりました。しかし、長右衛門には妻がおり、悩んだお半は死を選び、長右衛門もその後を追ったということです。出刃屋は、ここから、少し西の方にあったということです。

「安眠米倉庫」は、明治13(1880)年、この地の服部善七が創設した制度で、「稲の植え付け時に食べ物のない農民に、安眠米を1農家に1俵貸し付け、収穫時に年貢として5升納める」というものでした。ちなみに、この5升は教育費として使われたそうです。安眠米倉庫は、ここから50mほど東に設置されていたということです。写真は、「石部宿場の里」に再現されていた安眠米倉庫です。

県道113号を向こう(西側)に渡ります。県道の西北の角にある電柱に「問屋場跡」の案内が掛かっていました。「問屋場」は荷駄の継立業務を担っていた役所です。石部宿では、問屋役、年寄役、帳付(ちょうづけ)、馬指(うまさし) 人足指(にんそくさし)の5人の役人が詰めていたといわれています。

石部中央の交差点の北西角にあったヤマサキデイリーストアです。問屋場はこのお宅のある場所に置かれていたそうです。

これは、石部中央の交差点から少し南に進んだところにあった井戸です。約400年前の江戸時代に掘られた井戸だと伝えられています。水道が来る前には近隣住民の命の水でした。その後、地元のロータリークラブが水質検査を実施した結果、「大腸菌は少しあったが煮沸すれば異常なし」とされたということです。

石部中央交差点から、さらに西に向かいます。チリリンという風鈴の音がきこえたので覗いてみると、風鈴が民家の軒下に吊るしてありました。このお宅には、多くの人形や手作りの風鈴が軒下に飾られていました。そのとき、ちょうど帰ってこられたご主人が「持って帰りな!」と、ビニール袋に手作りの飾りを一つ入れてくださいました。

お礼を申し上げて歩き始めたら、このお宅の隅に「三大寺本陣跡」の説明が置かれていました。江戸時代初期の、寛永5(1628)年から明治3(1870)年まで、240年に渡って営業していた本陣でした。天保13(1842)年の記録には、138坪の広さだったと書かれているそうです。膳所藩の代官の勧めによって、膳所藩直轄の本陣を拝命したようで、「文久年間街並図」では、「本陣 三大寺小右衛門」の名が書かれていました。

「いしべ宿驛」という名の休憩所です。「1階には囲炉裏と土間、2階には畳と板間がある」といただいたパンフには書かれていました。ゆっくり、休憩するのに最適の場所なのだそうです。私は休憩なしで歩き続けることにしました。

ひときわ目立つ「明治天皇聖蹟」の石碑のあるお宅が見えてきました。ここが、幕府直轄の本陣、三島本陣跡です。寛永5(1628)年に創建され、承応元(1652)年に、膳所藩主の本多俊次(としつぐ)・康将(やすまさ)の2代に渡る小島氏の顕著な奉公により、膳所藩主から本陣職を許されたそうです。 石部歴史民俗資料館にあった絵図には、明治天皇(当時16歳)の行幸のときには、小島金左衛門が、本陣役を勤めていたようです。

邸宅の前の旧街道には「石部本陣跡」の石碑が見えています。大きい方の石碑にあるように、明治天皇が行幸の際に宿泊したほか、江戸幕府13代目将軍である徳川家茂(いえもち)が上洛の際に宿泊しています。また、後に江戸幕府最後の将軍となる一橋慶喜(よしのぶ)も、上洛の時に小休止しており、幕末の歴史を飾る人々にも利用されている由緒ある本陣でした。興味深いのは、丹後宮津藩主はなぜか本陣に泊まらず、ここよりさらに江戸寄りの三雲の植木屋を常宿としていたことです。

振り返ると、間口に比べて奥行きの長い、宿場町特有の商家が見えました。

三島本陣から、5分ぐらいのところで旧街道は右折します。城下町や宿場町に多い桝形になっているのです。正面にあった「でんがく茶屋」です。天保3(1832)ごろ、歌川広重が石部宿のシンボルとして描いたところだそうです。平成14(2002)年旧石部町制百周年記念事業の一環として再現されたそうです。

でんがく茶屋の左側の道をまっすぐ進むと、先に見た吉姫神社と対になっている男性の神様を祀る吉御子神社があります。石灯籠には「京へ→ 右 東海道」と書かれています。案内に従って、ここで、右折して進みます。

10分ぐらいで、東西の道路にぶつかります。右側に「鉤(かぎ)の手道」の案内がありました。「敵がむやみに侵入しにくい構造になっている。石部宿には街道に8か所の交差点があって、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割を果たしていた」そうです。左折して、再び、西に向かって歩くことになります。

左折して、西に向かって歩くと、やがて左に南に入る道がありました。でんがく茶屋の裏側にあった吉御子神社へ続く宮道です。宮道の向こうにあるお宅のあたりに、かつて、石部の一里塚がありました。

これは、復元された一里塚です。石部宿場の里から東海道石部宿歴史民俗資料館に向かう道沿いにあったものです。「5間4方の塚を道の両脇に築き、塚の上に榎を植えて目印とした」とパンフレットには書かれていましたが、ここは、右(北)側には榎、左(南)側には椋の木が植えられていたそうです。

石部西の交差点です。交差点の向こう側に公園が見えます。そこに、西の見附跡の案内がありました。説明には「見附の西側に、目見改場(めみえあらためば)が設けられていた」ようです。ここが、石部宿の西の出口(入口)でした。

これは、街道沿いの道にあった屋号の案内です。旅籠や旅館の案内を探してきたのですが、それらしいものがありませんでした。西の見附の外側ですので正確には石部宿ではないのかもしれませんが、やっと旅館の屋号を見つけました。街道沿いに1軒だけあった旅館でした。

これが、旅館の平野屋さんです。比較的新しい旅館です。

旧街道の左側にあった「西縄手」です。「縄手は、立場(たてば)から立場への道のこと。石部宿の西にあたるから西縄手。ここで、参勤交代は、宿場町に入るため、隊列を立て直し整列して入った」と、案内には書かれていました。この写真も、光線の関係で振り返って撮影しました。

西縄手のあたりには松並木があったそうです。現在の松並木はまだまだ幼い松の木でした。

京に向かう旅人は、次の52番目の宿場、草津宿をめざして、旅を続けて行くのでした。


私はすでに東海道50番目の宿場である水口宿(2013年3月28日の日記)と52番目の宿場である草津宿(2012年2月10日の日記)は歩いています。そのためもあって、その間の宿場である石部宿が気になっていました。加えて、東海道石部宿場の里がつくられていると聞いて、訪ねてみることにしました。久しぶりに、旧街道を歩くことになりました。多くの東海道や中山道の宿場町と同じように、昔の面影を残すところはほとんど見られませんでした。旧街道沿いに立っている案内や石碑をもとに江戸時代の姿を想像しながら歩く旅になりました。それでも、時間があれば宿場町をこれからも歩いてみたい。風景は変わっていても、江戸時代の人々が、確かに歩いていた道だからです。案内や石碑を見ながら、江戸時代の姿をしのぶことができるからです。




















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