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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

大阪市営渡船、落合上渡船に乗りました!

2017年03月10日 | 日記

写真は、大阪市営渡船の落合上渡船の渡船「北斗」です。大正区千島1丁目と西成区北津守三丁目との間を行き来しています。江戸時代、「天下の台所」といわれ、物資の集散地になっていた「水の都」大坂には、その輸送のための水路が縦横に走っており、住民の往来のため、民営の渡船場が各所に設けられていました。明治24(1891)年に、大阪府が「渡船営業規則」を定め、渡船の監督や取り締りを始めました。また、明治40(1907)年には、安治川、尻無川、淀川筋の29ヶ所の渡船場を大阪市が管理することになりました。そして、大正9(1920)年には旧道路法が施行され渡船は無料になり、現在の運行方法が確立しました。現在でも、大阪市には8つの渡船が残り、市民の足として活躍しています。平成27(2015)年には、187万人の方が利用されたそうです。

これまで、5つの渡船に乗ってきました。天保山渡船(「大阪市営天保山渡船に乗りました」2016年11月11日の日記)、甚兵衛渡船と千歳渡船(「甚兵衛の渡しから千歳の渡しへ」2016年11月25日の日記)、船町渡船と木津川渡船(「船町渡船から木津川渡船へ、大阪渡船に乗る」2016年12月11日の日記)の5つです。この日は木津川を渡る落合上(おちあいかみ)渡船に乗ることにしていました。写真は、落合上渡船の千島一丁目側の桟橋に停船していた渡船の「福崎丸」です。

JR大阪環状線の芦原橋駅に着きました。乗車してきた323系の列車が出発して行きました。大阪環状線の最新車両です。

JR芦原橋駅から、落合上渡船の北津守側の乗り場をめざしました。「新なにわ筋」を南に向かって歩きます。

20分ぐらいで、左側に「くら寿司」の看板が見えました。「北津守4」の交差点を右折します。右折した後、突きあたりまでまっすぐ進むと乗り場に着くはずです。

右側にある北津守保育園、その先の「北津守3」の信号を過ぎると、次は南海電鉄汐見橋線の「木津川2号踏切」を渡ります。以前、南海電鉄汐見橋線の岸里・玉出駅から、終点の汐見橋駅まで歩いたことがありました。(「レトロな駅舎が続く 南海電鉄汐見橋線2015年12月17日の日記」)

突きあたりにあった「落合上ノ渡」の信号を渡ると、道は狭い路地のような感じの通りになりました。突きあたりを左折して、木津川の堤防を上っていきます。

大阪市営渡船の桟橋に向かう道にはこのような構造のところが多いのですが、堤防の上で180度カーブして待合室に向かって下ります。目の前に、落合上渡船の北津守側の桟橋と木津川の上流側が見えました。木津川は1級河川。西区の中北部で土佐堀川から分かれ、大阪ドームに近い大正橋付近で西道頓堀川が東から合流し、その後、造船所や倉庫が並ぶ地域に沿って、ここまで流れてきました。

少しカメラを引きます。2つの水門が見えました。このあたりの木津川は大阪湾に近い下流部分にあたるため、防潮水門を設けて、高潮の被害を防いでいます。待合室の上部に見えるのが、アーチ型水門の十津川水門、左側の高いネット状の構造物の下の緑色に見えるところが、三軒家川(この上流は埋め立てられています)にある、防潮樋(ぼうちょうひ)水門の三軒家水門です。形は異なりますが、いずれも水門で高潮を堰き止める働きをもっています。

これは、千島1丁目側の桟橋から見た三軒家水門です。三軒家川は人工的につくられた川でした。大阪市営渡船が運航されている木津川、尻無川、安治川は船につくカキを駆除するのに効果があるといわれ、冬になると、たくさんの和船がここに係留されていました。中でも、木津川が最も多く大混雑していたそうです。明治12(1879)年、西長堀に住む長尾新兵衛が、船溜まりとして使用することをめざして、工事にとりかかりました。その後、大阪府がこの事業を引き継ぎ、明治14(1881)年に完成させました。長く船溜まりとして使用されましたが、港湾の整備が進んでからは、貯木場として使用されるようになったそうです。

これは、千島1丁目側の待合室に掲示されていた付近の地図です。地図の上部から真南に向かって流れ、木津川(地図で太く表示されている川)に合流するのが三軒家川です。もともとは、家数がとても少ないことから名付けられたといわれています。

落合上の渡しは、日中は1時間4往復、15分毎に運行されています。他の渡船と同じように、両岸ともに同じ時間が書かれています。

桟橋付近から見た南側の風景です。木津川は大きく右にカーブして流れています。カーブする手前に橋が架かっていますが、その下に千本松渡船場が、曲がりきって西に向かって流れるあたりに木津川渡船場があります。

渡船の「北斗」が対岸から到着しました。木津川の上流に向かって着岸しました。「次の便にしますから」とお断りしてから、もう一度、堤防の上に戻りました。そこで、渡船の出発を見送るつもりでした。乗務されている職員は2名。1名は運転席に待機、1名はこうして乗船される人の安全確保に携わっておられました。

出発です。対岸まで100m、所用1分ほどの短い旅の始まりです。対岸の桟橋はほぼ正面で正対しています。渡船は少しバックする動きを見せた後、出発して行きました。

大きく左にカーブして、すぐに、向かいの桟橋にまっすぐ進んでいくようになりました。

対岸の桟橋の手前で、右にカーブして、上流側に向かって着岸しました。「北斗」は、大阪府堺市の造船所で建造され渡船です。「平成2年10月竣工」と「最大搭載人員48人 旅客46人」の2つのプレートが船内にありました。

しばらくすると、次の便が出発しました。こちらに向かって来ます。少しバックする動きを見せた後、大きく右カーブしてこちらに向かってきます。大阪市営渡船の運航は、「原則Sの字を描くように進む」といわれていますが、落合上渡船も、そのような運行でした。

渡船は、正面から左方向に進むようになりました。

そこから、左カーブして上流側に向かって進むようになります。

着岸しました。この日は日曜日の昼過ぎでしたが、3人の方が自転車とともに乗っておられました。桟橋には「単車はご遠慮ください」と書かれた看板がありました。大阪市営渡船は、歩行者と自転車を利用される人のために運行されているようです。平成27(2015)年には、1日平均534人の方が乗船されたそうです。

急いで桟橋に降りて乗船しました。あっという間でした。対岸(千島側)の桟橋に着きました。写真は、乗船してきた対岸(北津守側)の桟橋です。大正区千島1丁目です。待合室にあった掲示には「旧地名は、大正区新炭屋町で、江戸時代の宝暦13(1763)年、大坂瓦町居住の炭屋三郎兵衛によって開発された炭屋新田があった」と書かれていました。

待合室から見た上流側です。正面が木津川水門、左側が三軒家水門です。先に、三軒家水門のある三軒家川は、船溜まりとして開削され、後に貯木場として使用されたと書きましたが、「関西随一の木材市場を支えた」大正運河が埋め立てられて、その後は千島公園(渡船場の裏側一帯にあります)になっているそうです。その大正運河への入口が、渡しの南側(下流側)にあったそうです。

千島1丁目側の桟橋から出ました。振り返って撮影しました。落合上渡船の事務所です。

渡船場を出てすぐ左折します。100mぐらい歩いて、道路の突き当たりを右折します。

正面の樹木があるところが千島公園です。関西随一の木材市場があったという大正運河の上につくられた公園です。

公園の手前に、「落合上渡船場200m」の案内看板がありました。

千島公園に沿った市道を南に進みます。目的地は次の落合下渡船場です。

木津川、尻無川、安治川の下流域に、8ヶ所残っている大阪市営渡船。その6番目として、そして、木津川を渡る4つの渡船の2番目として、落合上渡船に乗ってきました。落合上渡船は、他の市営渡船と同じように、住民の生活のための足として、大活躍していました。

JR可部線、廃線からの復活一週間前

2017年03月03日 | 日記

JR可部駅です。現在は、JR可部線の終点の駅になっています。可部線は、明治44(1911)年、広島軌道株式会社によって横川駅から可部駅間が開業しました。その当時は、軌間762ミリの軽便鉄道で蒸気機関車(SL)が運行されていたそうです。その後、昭和5(1930)年には軌間1067ミリへの改軌と電化が完了、昭和11(1936)年には国有化され、昭和44(1969)年には三段峡駅まで延伸しました。

平成15(2003)年12月、非電化区間の可部駅から三段峡駅間が廃線となり、可部駅は再び可部線の終着駅になりました。駅名表示にも、写真のように可部駅の次の駅は書かれていません。

駅構内にあった「電化延伸開業まで、あと 6日」のカウントダウンの表示です。平成29(2017)年3月4日(土)に、地元の熱心な要望がかなって、可部駅から1.6km延伸し電化されて開業することになっています。一度、廃線になった区間が復活するのは、初めてのことだと思います。

可部駅の2番ホームに到着したJR広島駅からの電車です。前方に、駅の東西をつなぐ跨線橋が見えました。下車した乗客はホームの先を下り西出口の改札口へ向かっています。可部線の延伸開業が近いせいか、列車の写真を撮影している人の姿が目につきました。

西出口です。下車した乗客は改札口から出て行きました。駅舎のある東口に向かう人たちは、正面の階段から跨線橋を渡るようになっています。

この写真は、平成25(2013)年に可部の町を歩いたとき(「廃線になった鉄道を復活させた町、可部の町並みを歩く」2013年9月13日の日記)に撮影したものです。廃線部分に向かって撮影したものです。これを見ると、当時は跨線橋はなく構内踏切で駅舎(東口)に向かっていたようです。可部駅から先のホームは、そのまま敷設されていた時と同じ状態で残されていました。

ホームのようすを撮影しました。手前が2番ホームで、乗車してきた列車が停車しています。左側が1番ホームで、黄色塗装の広島行きの列車が停車しています。以前は、左側のホームの左側(当時の2番ホーム)と右側(当時の3番ホーム)に停車していましたが、現在は左側(当時の2番ホーム)は使用されていませんでした。すべての列車が、2つのホームの間(現在の1番ホームと2番ホーム)に停車しています。延伸区間の開業を控えて、現在は広島方面から可部駅に着いたすべての列車が、新しく終点となる「あき亀山駅」まで行く「試運転」が行われています。

この写真も、以前訪れた時に撮影したものですが、終点の可部駅に到着した列車は当時の2番ホームに停車しています。

この写真も、以前訪れた時に撮影したものですが、その当時は線路とその先にあるバスセンターの間にホームは設置されていませんでした。今回の延伸に伴い設置されたもののようです。

跨線橋を通って東口に出ました。改札口と駅事務所です。可部駅は直営駅ですので、職員も勤務に就いておられました。

券売機の上に掲示されていた運賃表です。一番上に書かれた可部線のところに、新駅の「河戸帆待川駅」と「あき亀山駅」の運賃も書き加えられていました。可部駅から「あき亀山駅」までは、140円(1.6km)に設定されています。

以前訪れたときに撮影した、かつての1番ホーム(右側)と2番ホーム(左側)です。頭端式ホームの2番ホームには、車止めとして、オンレール走行型の緩衝装置が設置されていましたが・・・。

1番ホームの車止めはそのまま残っていましたが、2番ホームのオンレール走行型緩衝装置はすでに撤去されていました。

これは、かつての1番・2番ホームの広島方面寄りの部分です。東中野第2踏切のところで進入できないように仕切りがつくられていました。もう、こちらのホームは使用することがないのでしょうね。こうして、従来2面3線だったホームは、相対式2面2線のホームに変わっていました。

これは、現在の1番ホームから「あき亀山駅」方面を撮影したものです。この日は、この後、延伸された線路に沿って歩くことにしていました。

可部駅西口から歩いて5分ぐらいで踏み切りを渡ります。西中野踏切です。「14k144M」と書かれています。距離から考えると、広島からの距離のようです。この踏切は可部線の延伸によって設置されたものではなく、従来から設置されていたものでした。

西中野踏切から見た「あき亀山駅」方面です。国道54号の高架橋の手前に青い塗装の横断陸橋が見えました。

これは、延伸工事が始まる前の線路跡です。このように、線路は途切れていました。

横断陸橋の手前には、かつて、レールの上に踏切がつくられていました。歩行者と自転車専用の踏切で「自転車は降りて押して通行してください」「この踏切は、可部駅~河戸(こうど)駅間の電化延伸時には撤去します」と、掲示板には書かれていました。

現在の踏切跡です。掲示されていたように、踏切は撤去されています。ここから、国道54号の高架橋に沿って進みます、広島信用金庫の先で左折した後は、広島県道267号(宇津・可部線)を線路に沿って歩いていきます。

延伸・電化開業した可部線には、3ヶ所の踏切が、新たに設置されています。国土交通省は、踏切道改良促進法に基づいて「鉄道の新線建設にあたっては原則として道路の立体交差化を進める」という方針をもっており、JR西日本も「踏切を全廃する」と説明しましたが、住民の方々は「生活道路が遮断され不便になる」と反対し、事業主体の中心にいた広島市も「立体交差化は経費面からも困難」ということで、結局踏切が設置されるようになったそうです。目の前にある「デイサービスセンター菜の花」の先を左折します。

細い路地の先に「国安踏切」がありました。計画には「歩行者専用」踏切になっていたようです。「14K544M」書かれています。西中野踏切から400mぐらいのところにあるようです。

「あき亀山駅」方面です。国道54号のバイパスの高架橋が見えました。

県道に引き返して歩きます。広島市安佐北区役所の看板を見ながら進み、「国安踏切」から見えた国道バイパスの高架をくぐり、「安佐北警察署」の案内看板を過ぎると、右側にホームセンター”DAIKI”の広い駐車場が見えてきます。

DAIKIの向かい、県道の左側にあった駐車場から、「河戸帆待川(こうどほまちがわ)駅」のホームが見えました。「あき亀山駅」に向かって右側にホームがある1面1線の駅です。可部駅から0.8kmのところにあります。無人駅でホームの長さ85m。4両編成の列車に対応しています。

その先にあった「河戸帆待川駅」の駅舎です。「開業まであと6日」の日でしたが、駅前広場には、多くのレンガが積み上げられており、作業も進行中でした。駅舎内には自動改札機らしい物が見えました。公的機関の案内看板が続いてきた県道を、さらに進みます。「広島北税務署南」の信号を左に入ると、「高宮踏切」がありました。

「高宮踏切」から見えた「可部駅」方面の光景です。線路の左に「河戸帆待川駅」の1面1線のホームが見えました。

こちらは、「高宮踏切」からの「あき亀山駅」方面のようすです。どっしりとした横断陸橋が見えました。「高宮踏切」には「14K912M」と書かれています。「国安踏切」から400mぐらいのところにあたります。

県道に戻ります。前方の左側にあった「可部四日市郵便局」の手前を左に入ります。

「高宮踏切」から見えた可部線の線路を渡る跨線橋です。写真からは見えにくいのですが、跨線橋の両側にはエレベーターが設置されていました。バリア・フリーになっており高齢者にも車椅子を利用される人にもやさしい道になっていました。

延伸した可部線には3ヶ所の踏切が設置されました。ここまで、「国安踏切」と「高宮踏切」を見てきました。残る一つは、「四日市踏切」です。県道267号の右側に「誓立寺」の広い駐車場が見えました。「誓立寺」の前を左に進むと「四日市踏切」に出ます。

「四日市踏切」です。「15K301M あき亀山駅構内 亀山二丁目30・31の間」と記されていました。「高宮踏切」から400mぐらいのところにありました。このあたりはもう「あき亀山駅」の構内になっているようです。

「四日市踏切」に着いたとき、「あき亀山駅」に停車していた列車が、「可部駅」に向かってやってきました。

列車が通過した跡の「あき亀山駅」のようすです。終着駅は目の前です。

県道に戻って進むと、大毛寺川にかかる20mぐらいの橋梁がありました。名前は分かりませんが、可部線の延伸区間で唯一の橋梁でした。

大毛寺川を越えると、すぐ左側に白い格納庫のような建物がありました。その先が工事中でした。「駐車場をつくっています」と書かれた看板がありました。「あき亀山駅」の駐車場の整備工事のようです。「河戸帆待川駅」と同じように最後の追い込みに入っているようでした。

工事現場の反対の右側にあったカウントダウンの掲示です。「あと6日」、開業を待ちかねている地元の人たちの気持ちが表れています。

その先の交差点を左折して突きあたりまで歩くと、「あき亀山駅」の駅前広場に着きます。路面には、駅舎前から大きく右カーブしながら出て行くルートが書かれていました。「あき亀山駅」は安佐北区亀山南二丁目にあります。「可部駅」から、1.6km、「河戸帆待川駅」から、0.8kmのところに設置されているそうです。

「あき亀山駅」の駅舎の正面です。自動券売機と自動改札機が設置されているのが見えます。駅舎の右にある建物はトイレです。「あき亀山駅」のあるところには、かつて荒下県営住宅がありました。県営住宅の跡地には、広島市立市民病院も移転してくることになっていました。しかし、移転に反対する人たちとの調整のため、駅の設置の方が先になってしまったようです。現在の計画では、平成34(2022)年度に開院する予定だそうです。

「あき亀山駅」と駅舎の入口に表示されています。「安芸」の表示でなく「あき」とひらがな表示にしたのはなぜか、 実は、廃線となった可部線(可部駅~三段峡駅間)に「安芸亀山駅」という駅がありました。その駅は、ここから西に3.4kmほど離れたところにあったそうです。その駅と区別するために「あき」とひらがな表記にしたのだそうです。

「あき亀山駅」のホームです。1面2線のホームになっています。手前側の2線は列車の待機線のようです。4両編成に対応した駅の長さになっています。この日は、開業前のため、駅の内部には入ることができませんでした。

こちらは、「あき亀山駅」の「可部駅」寄りの写真です。広々とした印象です。

こちらは、駅舎の裏側から見たのホームのようすです。写真では見えませんが、実際には金網で仕切られていますので、こちらからは入ることはできません。写真の向こう側から駅舎の壁にそって歩き、ホームに入るようになっています。駅舎の前には車止めがつくられていて頭端式のホームになっています。

車止めの延長線上の写真です。駅舎前にむかう道路のガードレールの向こうに廃線になった可部線の築堤跡が続いています。

可部駅から1.6kmの延伸電化を成し遂げたJR可部線。廃線になった路線が復活するのは、初めてのことだと思います。平成15(2003)年に廃止されてから、延伸電化の要望活動を繰り返してきた地元の方々の長年の努力の賜物だと思います。このブログを書き終える頃には、定期運行が行われているはずです。歴史的な日に少しだけかかわることができたことをうれしく思っています。


1日平均の乗車人員1名! JR芸備線小奴可駅

2017年02月24日 | 日記

私には、仕事が一段落したとき乗ってみたくなる鉄道があります。JR芸備線です。JR備中神代(びっちゅうこうじろ)駅からJR備後落合駅を経てJR三次(みよし)駅へ。そこから、さらにJR広島駅に向かう鉄道です。実際の運用は、JR新見駅から備後落合駅まで行き、そこで、三次駅へ向かう列車に乗り継いで三次駅に向かうようになっています。写真は、JR新見駅の1番ホームです。芸備線の列車はここから出発します。新見駅から広島県に向かう列車は1日に6本運行されており、その内の3本は、広島県に入って最初の駅であるJR東城駅までの区間運転の列車です。終点のJR備後落合駅まで運行されている列車は、1日3本しかありません。

新見駅の1番ホームです。1日3本しか運行しない列車に乗りたくなって、この日も新見駅までやってきました。これまで、沿線のJR内名駅(「1日3往復の”秘境駅”JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)、JR道後山駅(「JR芸備線の”秘境駅”道後山駅」2016年8月27日の日記)、JR備後落合駅(「滞在時間12分、”秘境駅”JR備後落合駅」2016年9月9日の日記)とJR布原駅(「伯備線にあって伯備線駅でない”秘境駅”2014年3月31日の日記)は訪ねたことがあります。JR布原駅は、JR備中神代駅の手前にあるため、正確には伯備線の駅なのですが、伯備線の列車は停車せず、芸備線の列車だけが停車する駅ということで、芸備線に含めました。

備後落合駅に向かう3本の列車は、新見駅を5時18分、13時01分、18時24分に出発します。停車しているのは、ワンマン運転のディーゼルカー(DC)キハ120形車両です。新見駅を出ると、布原、備中神代、坂根、市岡、矢神(やがみ)、野馳(のち)、東城、備後八幡、内名(うちな)、小奴可(おぬか)、道後山の各駅に停車して、終点の備後落合駅に着きます。「Wikipedia」によれば、「2014年の1日平均の乗車人員」は、広島県に入ると減少し、東城駅が9人、内名(うちな)駅と小奴可(おぬか)駅が1人、備後八幡駅と道後山駅は0人(1人未満)という状況でした。乗車人員が余りに少ないと、私は”秘境駅”を連想してしまいます。牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”に布原駅(36位)と内名駅(28位)、道後山駅(43位)、そして、備後落合駅(138位)はランクインインしています。その差はどこにあるのだろうかと思い、今回は、JR小奴可駅を訪ねることにしました。

新見駅から1時間余、乗車してきたキハ120334号車は、14時04分に、小奴可駅に着きました。一面の雪景色です。ホームも雪に覆われていました。ワンマン運転の運転士さんの車内放送では「備後落合から先の芸備線の列車と木次(きすき)線の列車は雪のため、運行を停止しています。タクシーによる代行運転をしております」とのことでしたので・・。備後落合駅からの折り返し列車は大丈夫だろうかと、少し心配になりました。

私を含めて2人が下車しましたが、乗車された方はいませんでした。列車はすぐに、出発していきました。1面1線のホームです。かつては2面2線のホームだったのでしょう。向こう側にホームの跡が残っていました。線路はすでに撤去されていました。

ホームには、金属製の改札口が残っています。駅舎も窓枠はサッシに変わっていましたが、昭和の木造の小規模駅舎の面影が伝わってきます。床面は、長年、雪や雨露に打たれてひび割れもしていて痛々しい状態でしたが・・。

駅名標です。小奴可駅は広島県庄原市東城町小奴可にあります。隣の内名駅からは4.6km、道後山駅へは4.2km、中国山地の奥深いところにあります。標高546.99m、JR西日本管内で5番目に高いところにある駅です。ちなみに、道後山駅は、標高611.58mのところにあり、JR西日本管内で2番目に高い駅になっています。

駅舎内です。ホームの側に向かって撮影しました。ホームへの出口の手前左側に出札口がありました。小奴可駅は発券業務のみを委託している簡易委託駅になっています。下車したときは駅のスタッフはおられませんでした。

外は晴れ渡っています。周囲の窓からは日射しがさんさんと降り注いでいます。駅舎内の待合いスペースです。なつかしい駅舎に接して作られている長いす(ベンチ?)が周囲にありました。中央にある、手前から2つ目の椅子の上にあったケースの中に、新聞記事のコピーが置かれていました。

芸備線(当時は「三神線」と呼ばれていました)が小奴可駅まで開業したときの「大阪朝日広島版」の記事でした。「東城・小奴可の難工完成」と見出しにあるように、「東城・小奴可間、14キロ540メートル・・・東城川(成羽川)に沿った山間部で難工事も多く・・・、橋梁14、トンネル3、勾配25分の1の箇所も多く、工費110万1750圓を要した」と、本文には書かれていました。難工事の末に開通した三神線の開業を喜ぶ人たちの姿が伝わってきました。記事の中のスタンプにもあるように、小奴可駅までの開業は、昭和10(1935)年6月15日のことでした。

しかし、終着駅であった期間は長くはなく、翌、昭和11(1936)年10月10日には、備後落合駅まで延伸し、途中駅になってしまいました。そして、その翌年の昭和12(1937)年、三神線は新見駅と三次駅を結ぶ芸備線の一部となり、現在の路線名に変わりました。駅舎から駅前広場に出ました。丸いポストも長年の風雪に耐えて痛んだ姿になっていましたが、今も現役でした。駅舎は「道後タクシー」の事務所になっています。駅の簡易委託を受託されたのは、このタクシー会社なのでしょうね(未確認です)。

木製の駅名標です。風雪に耐えた現在の姿です。思わず見入ってしまうような味わいのある姿になっています。

駅に隣接しているトイレです。レトロな駅舎とは対照的に、外観も内部もモダンなトイレです。しかも、掃除が行き届いていて、清潔できれいなトイレでした。

駅前のスペースです。駅に関連した業務を扱う事務所が並んでいたところのようです。この日は土曜日でしたが、人の行き来はまったくありませんでした。

左側にあった事務所の跡です。小奴可駅が貨物を取扱っていた時代には、さぞ賑やかだっただろうと感じさせてくれる、大きな看板が残っていました。

駅前で営業されていたスーパーマーケットの近江屋です。自販機で飲み物を購入するために、軽トラックに乗った人が立ち寄られたり、買い物をすまされた方が出て来られたり、利用される方も多いようでした。

駅の周辺を歩いて見ることにしました。小奴可駅に近い旧街道には古い町並が残っています。小奴可は、江戸時代から明治時代にかけて「鉄穴(かんな)流し」で採取した鉄を薪で銑鉄をつくる「たたら製鉄」によって発展した集落でした。できあがった鉄の集散地として知られた東城町につながっていた通りが東城街道で、その街道沿いに、当時の繁栄をしのばせる集落が残っています。旧街道を訪ねるため、スーパーマーケットの近江屋の前から道を下っていきます。

左側に、かつての東城街道を継承した国道314号が走っています。旧街道を拡幅するときに旧街道の東側に新しい道路を敷設したため、かつての小奴可の町並みが残されることになりました。すぐに、”ENEOS”のガソリンスタンドの前に着きました。その手前を左折して進み、国道314号を渡ってさらに歩きます。

その先で、成羽川を渡ります。川の堤には柳並木がつくられています。成羽川は中流域で高梁(たかはし)川と名前を変えて、瀬戸内海に注ぎます。高梁川は岡山県3大河川の一つで、水島コンビナートの工業用水に、倉敷市民の生活用水にも使われています。

右側にある白壁のお宅を過ぎたところ(駐車場の案内があるところ)を左右(東西)に走っている、道路幅4メートルぐらいの通りが、旧東城街道でした。この道を馬の背に乗せて東城に送られた鉄は、鉄問屋の手で、陸路や筏・川船によって成羽(現・高梁市成羽町)に運ばれました。成羽で、積み替えられてから、玉島港(備中松山藩が整備した港)に送られていました。玉島港からは、さらに大阪や高松に向けて積み出されていたそうです。旧東城街道を左折します。

これは成羽川の下流方面に沿った通りの町並みです。通りの左側に、赤い釉薬瓦が美しい、妻入りの商家風の建物が並んでいます。

こちらは、通りの右側にあった和風の建物です。かつての繁栄をしのばせる町並みが中国山地の山深いところに残っていることに、感動してしまいました。この道は、町を外れるあたりで、国道314号に合流します。建て替わっているお宅や空き地もありましたが、幅4mぐらいの通りが続いていました。

この写真は、歩いてきた旧街道を上流側にむかって撮影しました。立派な常夜灯が残っていました。銘を見ると「嘉永申9月」「野田屋六平、地主 増田屋新兵工」とありました。嘉永の申(さる)年は嘉永元(1848)年。この年、六平さんと地主の新兵えさんが寄進したもののようですね。夜を徹して歩いていた人たちにとっては、ありがたい灯りだったことでしょう。

先ほど左折したところまで戻ってきました。ここから、成羽川の上流側に向かって歩きます。旧街道は緩く上っていく道でした。

こちらは、往事の面影を残すところはあまり多くはありませんでしたが、ところどころに雰囲気のある風景が残っていました。

来た道を引き返し、ENEOSの前から小奴可駅へ向かう通りを上っていきます。乗車してきた列車が、備後落合駅から折り返し新見行きになって戻ってくるのは、14時58分です。約50分余りの滞在時間が、残りわずかになっていました。

ホームに出ました。こちらは、到着したときの新見駅方面の風景です。

「お帰り!」。乗車してきたキハ120334号車が、定時に戻ってきてくれました。これで、新見に帰ることができる。ほっとしました。1日3本しかない列車の旅はスリル満点です。1日平均乗車人員が1人という小奴可駅。この日は、他の2人の方と共に乗車しました。1日平均乗車人員の3倍でした。新見駅まで1時間余の列車の旅が、また始まります。

JR小奴可駅は、1日平均乗車人員1名(2014年)の駅ですが、”秘境駅”にランクインしている道後山駅の0人よりは多く、同じくランクインしている内名駅と布原駅の1人と並んでいます。備後落合駅は、1日平均15人が乗車しているけれども、”秘境駅”にランクインしています。牛山隆信氏が、「秘境度」「雰囲気」「列車到達難易度」「外部到達難易度」「鉄道遺産指数」の5つの指標によって評価されているからでしょう。小奴可駅は乗車人員こそ多くはありませんが、スーパーマーケットが駅前にあったり、かつて、繁栄を誇った東城街道沿いの町並みが残っていたり、秘境駅にはふさわしくない雰囲気をもっていました。JR小奴可駅を”秘境駅”と考えるには、大きな無理がある、そんな感じのする駅でした。次回、JR芸備線の列車に乗りたくなったときには、「平均乗車人員0人」の備後八幡駅を訪ねてみようと思っています。


岡山県内最古の木造駅舎、JR弓削駅

2017年02月11日 | 日記

JR津山線の弓削(ゆげ)駅舎です。JR津山線はJR岡山駅と、県北部の中心都市にあるJR津山駅を結んでいます。JR津山線は、明治31(1898)年12月21日に、中国鉄道として開業したことに始まります。JR弓削駅も、このときに設置されました。開業当時の駅舎が、現在も使用されており、「岡山県下で最古の木造駅舎」とされています。

弓削駅の正面入口です。駅舎は建設以来、補修や改修を繰り返してきましたが、「建設当初の形を保存しようとする心意気を感じる(「岡山の駅舎」河原馨著・日本文教出版株式会社)」駅になっています。昭和19(1944)年6月1日に国有化され国鉄津山線となった後、昭和62(1987)年の分割民営化によって、西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)の駅になりました。

弓削駅は、岡山県久米郡久米南町下弓削にあります。久米南町は、昭和29(1954)年に、久米郡の弓削町、誕生寺村、龍山村と神目(こうめ)村が合併して、成立しました。2,277世帯、5,016人が居住(2017年1月31日現在)しておられます。

この日は、快速”みまさかノスタルジー”で、弓削駅に着きました。5~6人の乗客が下車すると、岡山駅行きの”みまさかノスタルジー”は、次の福渡駅に向かって出発していきました。

下車してすぐ目に入って来たのが、「途中下車 させた河童(かっぱ)の 弓削の駅」と書かれた川柳ののれんでした。久米南町は、川柳と河童で町の活性化を進めています。

弓削駅は、相対式の2面2線のホームになっています。駅舎寄りの2番ホームから向こう側の1番ホームへの移動は跨線橋を利用することになります。行き違いがなければ、上り(津山方面行き)列車も下り(岡山方面行き)列車も、2番ホームを使用する、いわゆる”一線スルー”になっています。向こう側の1番ホームには、行き違いのある場合だけ、津山方面行きの上り列車が停車するようになっています。

駅舎と一体になったベンチがありました。開業当初の形を残しています。

この写真は、跨線橋の上から見た津山方面です。中央の白い建物は、久米南町庁舎です。左が1番ホーム。右の2番ホームから出発した列車がそのまま進んでいけるレールの構造になっています。また、駅舎に向かって入っていく引き込み線もつくられていました。使われることがあるのでしょうか。

この写真は、岡山駅方面を撮影したものです。駅舎寄りの2番ホームから出る列車が、まっすぐ次の神目駅に進んでいくレールの構造になっています。行き違いのない場合には、すべての列車が2番ホームを利用しているのがよく分かる構造になっていました。

閉まっていたドアを開けて、ホームから駅舎内に入ります。駅舎の左側のようすです。外観に比べて新しさを感じる駅舎内でした。駅舎内外の改修が行われているからでしょう。「弓削駅」と書かれているプレートのあるところが出札口。中に男性の駅スタッフがおられました。弓削駅は、津山駅管理の簡易委託駅になっています。近距離乗車券のみを販売するなど一部の業務だけを、法人や個人に委託しています。出札口の右側のスペースはかつて駅事務所があったところですが、現在は、岡山県立誕生寺特別支援学校がアンテナショップ「夢元(ゆげ)」を営業しています。週2回(火曜日・木曜日)の昼間だけ開店し、生徒が制作した手工芸品や農産物の販売や喫茶コーナーの営業を行っているそうです。

こちらは駅舎の右側のようすです。テーブルやいすを置いて、列車の到着を待つ人がくつろげるスぺースをつくっています。写真の左側のケースの中には、町おこしに活用している川柳の雑誌が展示されていました。

ケースの中にあった川柳関係の雑誌や句集です。近くには、投稿用の受付も設置されていました。

駅舎の外に出ました。駅舎内は寒いため、入口は締め切っていました。「岡山の駅舎」には「建物財産票」(「鉄駅 本屋 明治31年12月」)の写真が載っていましたが、長い時間をかけて探したのですが、見つけることができませんでした。入口の右側には、川柳の色紙が掲示されていました。久米南町に合併する前の弓削町は、戦後の混乱期に農村の文芸活動は誰にでも気軽に参加できるものでなければならない、そして、川柳なら紙と鉛筆さえあればどこでも手軽にできると考え、日本一の川柳の町をつくることをめざしたのです。昭和24(1949)年に弓削川柳社が発足し、その年の9月には、第1回西日本川柳大会を開催したのでした。この大会は、現在も続いています。

駅舎への出入口にあった駅名標です。

駅名標の右側には、誕生寺特別支援学校の「アンテナショップ夢元(ゆげ)」があります。この日は土曜日でしたので閉店していましたが、ガラスにたくさんの掲示物がありました。「エスプレソコーヒー 100円」に少し興味が湧きました。

弓削駅前のロータリーにあった河童のモニュメントです。駅には、久米南町のマスコットキャラクターである河童の「カッピー君」がたくさん展示されていました。カッピー君の生みの親は、地元在住の國忠敬子さん。川柳とエンゼルによる町おこしを考えていた久米南町は、シンボルマークとともに、全国に公募しました。301点の応募の中から、國忠敬子さんのキャラクターを採用しました。町のマスコットとして定着していた河童がエンジェルになって町に夢や幸福を運んでくるイメージを表現しているそうです。

トイレの前にもいました。

色違いですが、ここにもいます。駅前広場には、カッピー君の姿が到る所にありました。

駅前を津山寄りに歩いて駅舎を撮影しました。先ほど跨線橋の上から津山方面を見たとき、本線から駅舎の側のホームに引き込み線が入っていました。これがその引き込み線です。駅舎の手前には車止めが設置されていました。

これは、駅前を岡山方面に引き返したところから、駅舎を撮影した写真です。「岡山の駅舎」には「駅構内の外れに駅長の宿直していた建物があって、現在は町の集会所に使われている」という記述がありました。たまたま、列車を待っていた方がおられましたので、お聞きすると「それは駐車場になっているところだよ」とのことでした。

駅長宿直室の候補として、私が気になっている建物があります。駐車場の岡山方面寄りにある、写真の中央の白い建物(久米郡商工会久米南支所)の手前にあった黒い建物です。この建物には「下之町集会所」という看板がかかっていました。どちらなのでしょうか?訪ねる機会があれば、もう一度、確認してみたいと思っています。

JR津山線は、概ね、江戸時代の津山往来(現在の国道53号)に沿って敷設されました。JR弓削駅のある久米南町下弓削は、江戸時代には美作国久米南条郡弓削村でした。弓削村など久米南条郡の28ヶ村は、幕末まで、下総国古河藩(茨城県)の領地(飛地)でした。弓削村には古河藩が領地の管理のために設けた陣屋がありました。そのため、江戸時代を通して、津山往来の宿場町として栄えました。やや見づらいのですが、写真は、JR弓削駅に掲示されていた商店街の案内図です。地図中にある最も広い道路は国道53号。弓削駅前から国道53号を横切って北東にむかって延びる細い道が津山往来です。ZAGZAGのところで右折し、その先ですぐ左折して、まっすぐ現在の国道53号に向かっています。ZAGZAGのところは、宿場町に多く設けられていた枡形になっていました。

下弓削の町を、津山往来に沿って歩いてみようと思いました。駅前広場の出口にあった「お瀧道」の道標です。左(津山方向)に向かうように案内がありました。「下之町集会所」という建物があるように、駅付近は下弓削の「下之町」と呼ばれている地域です。

駅から旧街道に向かって歩きます。すぐに国道53号に合流します。横断陸橋で国道を渡り旧街道に入ります。

国道53号を渡った旧津山往来です。静かな通りが続きます。土曜日だからでしょうか? 人通りはほとんでありません。

旧街道の辻に道標がありました。「おたき道」とありました。駅前の「お瀧道」に続く案内でした。近くに「弓削保育園 往生 七面山お滝 泰山寺」の案内看板もありました。

通りをさらに進みます。かつては賑やかだった通りだったはずですが、町並みには空き地になったところもありました。前方の白い建物はZAGZAGです。正面の民家の前で右折します。

枡形になっています。正面のお宅の前で左折します。

その先で振り返って撮影しました。正面のお宅には「優良百貨 本 郡屋商店」と書かれています。左のお宅は本郷商店、杉本商店、近藤書店の順に手前に向かって並んでいます。

白壁の美しい近藤書店の角を右に進むと弓削小学校。近代的な校舎とは対照的に、石の校門が残っています。そして、その上には木製の校名標が架かっていました。

理容室の手前の庭園には、駅にあったと同じ「川柳のれん」がありました。「先人の 汗を河童が 語り継ぐ」。やはり、町の活性化は、川柳とカッピー君ですね。

理容室の前に掲げられていた幟(のぼり)です。「河童街道散歩道」と書かれていました。上之町に入りました。

空き地が目立ちますが、比較的新しいお宅が続いています。「母が待つ ふるさとがある 蒸(ふか)しいも」と川柳のれんがありました。

伝統的なうだつのあるお宅がありました。重厚な造りの門も印象的です。宿場町弓削の資料がないことを悔やみました。のれんの句は、「魚屋も 下駄屋もあった 弓削の町」

「河童街道散歩道」のマップがありました。街道沿いの商家の屋号が書かれていました。二葉屋さんにあったのれんには「川柳で 賑わい戻る
 宿場町」の句がありました。

国道53号への合流点が近づいて来ました。閉店されていましたが、かつての繁栄がしのばれる建物が残っていました。

国道への合流点。「活性化で再発見 川柳のれんのまち」の幟が見えました。旧街道には「よき時代 あったと孫と 旧街歩く」「松屋 懐古する 町へ暖簾の  顔がある」「のれんに賭ける 夢が大きく 町興し」という句もありました。

川柳のれんに書かれた句には、かつての繁栄をしのぶ句や、川柳での町興しへの決意や努力を詠った句が多かった印象です。かつて、津山往来の宿場町として繁栄していた頃の賑わいを、川柳とカッピー君で取り戻そうとしておられる人々の熱い思いを感じました。弓削駅の建設から2年後につくられたJR建部駅は、すでに文部科学省(文化庁)の「登録有形文化財」に登録されています。岡山県に現存する最古の木造駅舎であるJR弓削駅も、地域の活性化への力になればと感じたJR弓削駅の旅でした。







亀のいる駅、JR津山線亀甲駅

2017年02月05日 | 日記

駅舎から亀が首を出しています。個性あふれる駅舎で、全国に知られるJR亀甲(かめのこう)駅です。JR岡山駅と岡山県北部の中心都市にあるJR津山駅を結ぶJR津山線にある駅です。

”みまさかノスタルジー”です。平成28(2016)年4月2日に、岡山デスティネーションキャンペーンの一環としてデビューした観光列車です。JR岡山支社管内のディーゼルカー(DC)は赤色で塗装されていますが、これは、かつての姿を復刻した色彩になっています。現在は、快速列車”みまさかノスタルジー”として、岡山駅と津山駅の間で、1日に2往復が運行されています。

”みまさかノスタルジー”は、キハ4747とキハ471036の2両編成です。これは、津山寄りの車両キハ471036号車の内部です。窓側にあるテーブルの前に、外側に向かって座席が設置されています。両側にありましたので4席が窓に面していました。また、”みまさかノスタルジー”の窓際にあるテーブルにはかつて着いていた栓抜きも復元されています。デスティネーションキャンぺーン中には、岡山駅の(津山線が発着する)9番ホームには、瓶のコーラを買うことができる自動販売機も設置されていました。

JR津山線には、玉柏(たまがし)駅、金川(かながわ)駅、福渡(ふくわたり)駅、神目(こうめ)駅、誕生寺(たんじょうじ)駅に亀甲駅とおめでたい名前の駅が並んでいます。そのため、”みまさかノスタルジー”が生まれる前から走っていた快速列車は”ことぶき”という名前になっていました。「おめでたい」から命名されたのだそうです。この日の朝、思いついて亀甲駅を訪ねてみることにしました。岡山駅発8時44分の津山行きの各駅停車で出発しました。キハ402006号車。ワンマン運転の単行のディーゼルカーでした。県都である岡山駅から津山駅に向かう列車ですが、「上り」の列車になっています。

出発から1時間余、9時57分に亀甲駅に到着しました。亀甲駅は、久米郡美咲(みさき)町にあります。美咲町は、”平成の大合併”により、平成17(2005)年に誕生しました。合併前、久米郡には5つの町がありました。旧久米町は住民投票で津山市と合併する道を選び、旧久米南町は、旧御津郡建部町(現在は岡山市)との合併を検討していましたが、最終的には単独町制を選択し久米郡久米南町のまま継続となりました。残る旧中央町と旧旭町、旧柵原(やなはら)町は合併し、久米郡美咲町になりました。新しく町民になる人たちに公募し、選考委員会を経て、「美しく咲く」という意味をもつ「美咲町」となったのです。美咲町ホームページによれば、平成28(2016)年12月末現在、人口は14,869人の町になっています。

同じ美咲町にある小原(おばら)駅から3.6kmで、亀甲駅の駅舎の前にある1番ホームに到着しました。亀甲駅は、2面2線の駅でした。通常はこのホームに、上りも下りも停車します。2番ホームは行き違いの時だけ下り岡山方面行きの列車が停車することになっています。きっぷは、列車内の料金箱に入れて下車しました。山間部のおだやかな雰囲気の中にある駅でした。

これは、2番ホームです。跨線橋を降りたところにあった待合いのスペースです。雨をしのぐ屋根の下にベンチが4脚置かれていました。

小原駅・岡山駅方面です。1番ホームから2番ホームへは跨線橋で渡ります。

これは、2番ホームの津山駅寄りから見た駅舎です。寄棟の北側の屋根のほとんどを覆うような亀の頭が見えました。

これも2番ホームから見た亀の頭の部分です。眼の中に時計がはめ込まれています。水玉模様も見えます。なかなか愛嬌のあるデザインになっています。

2番ホームの跨線橋の登り口から見た駅舎です。屋根には亀の甲羅のような模様がついています。岡山文庫の「岡山の駅舎」(河原馨著・日本文教出版株式会社)によれば、駅舎は「鉄骨造平屋建、寄棟造りカラー鋼板横葺き」なのだそうです。

これは、跨線橋から見た小原駅・岡山駅方面です。2番ホームから出る列車はこの先で1番ホームから伸びる線路に合流し小原駅に向かって行きます。

跨線橋から見た津山方面です。1番ホームがまっすぐ津山方面に向かって延びています。1番ホームに上下線ともに入線するというのが納得できる構造になっていました。

ホームから駅舎内に入ると、すぐ「ありがとうございました」という明るい声が・・。入ってすぐ右の事務所におられた駅スタッフの女性の声でした。亀甲駅は簡易委託駅になっています。駅の業務のうち、近距離乗車券の販売など一部の業務だけを個人または法人に委託している駅です。駅舎内には大きなテーブルが置かれていました。

実は、亀甲駅に来たら絶対に見てみたいものがありました。そのため、駅舎からすぐに外に出ました。駅舎を出て右側に久米郡商工会の建物がありました。その前にあった掲示板にめざすものが書かれていました。「亀甲岩」です。「亀甲駅」の名前の由来となった岩です。さっそく訪ねることにしました。

駅への取付道路を歩きます。すぐに、左右に走る通りに出ました。正面の突きあたりの建物は美咲町の庁舎です。美咲町庁舎は、旧久米郡中央町役場だったところに置かれています。

通りの左側のようすです。昭和の雰囲気を残す商店街が続いています。JR津山線は、基本的には、江戸時代に備前の国の岡山城下と美作の国の津山城下を結ぶ津山往来を引き継いだ国道53号に並行して走っています。津山往来の街道沿いには、宿場町や在郷町の面影を残すところが数多くあります。

庁舎にあった「花と自然と笑顔のある町」の標識です。自然にあふれた町で、幸せに生きている人々の姿が浮かんできます。

旧街道に戻って、右側の津山方面に向かって歩きます。通りの左側にある白い2階建ての「ふれあい亀太郎ロビー」の建物の手前を左折し10メートルぐらい進むと「美咲町第2庁舎」に着きます。右折して進みます。

右側の歯科医院の建物の先に、岩が見えました。ありました! 「亀甲岩」です。これだけは見て帰りたかったのです。

「昔、ここで行き倒れになった巡礼の旅人がいました。哀れに思った村人は、この地に葬り、ねんごろに供養したといいます。すると、月の青い夜、巡礼者を葬ったあたりから、大きな岩が弘法大師の尊像を乗せてせり上がってきた」と伝えられています。この岩の姿が亀の姿に似ていたので、「亀甲岩」と呼ばれるようになったそうです。

駅舎に戻りました。駅舎に向かって右側に置かれていた亀の像です。

駅舎の左の「JR亀甲駅」のロゴの下にあった亀の像です。JR津山線は、明治31(1898)年に中国鉄道が開通したことに始まる鉄道です。町のシンボルである「亀甲岩」から命名された「亀甲駅」もそのときに開業しました。現在の駅舎が建設されたのは、平成7(1995)年8月でした。駅舎を亀の形に改修したり、駅の内外に様々な亀のモニュメントを設置して、特色ある駅舎に生まれ変わりました。そして、昭和62(1987)年の国鉄分割民営化により、JRの駅になりました。
 
駅舎内です。正面の右のドアの向こうは「まちかど図書館」。午前8時30分から午後6時まで利用できるようです。その左には「亀甲駅舎内 定食 MICRO」。まだ、“CLOSE”、になっていましたので、スタッフの女性にお聞きすると「お昼には開店していますよ!」とのこと。おもしろかったのは図書室の手眼の通路にあるプラスチックの容器(写真の右下の部分にある2つの白いケース)に、「生きた亀」がたくさん入っていたことです。

駅舎の中は掲示物でいっぱいです。小さな博物館という雰囲気です。

これは、駅舎内に掲示されていた、開業当時の駅舎の写真です。見えにくいのですが、駅舎の下におられる人はみんな和服を着ておられます。明治の香りがする写真です。

駅前にあった観光案内です。山里の棚田と卵が写っています。美咲町でよく知られているのは、棚田と、西日本最大の養鶏場があること、そして、卵かけごはんだそうです。特産品としては、米、なし、ぶどうだそうです。

大垪和西(おおはがにし)の棚田の写真です。JR亀甲駅から車で20分ぐらいの、標高400mのところにあり、850枚の棚田が、360度すり鉢状に広がっています。明治時代から昭和20(1945)年頃までに開かれた棚田だといわれています。旧旭町にある小山の棚田とともに、「日本棚田百選」に認定されています。ちなみに、岡山県からは、この2ヶ所以外に、隣の町、久米南町にある北庄(きたしょう)の棚田と上籾(かみもみ)棚田も「日本棚田百選」に認定されています。

卵かけごはんの案内「黄福物語」です。美咲町の棚田から収穫したごはんでつくる卵かけごはんがよく知られています。この町の出身で、明治時代に活躍したジャーナリスト、岸田吟香が愛好し全国に広めたといわれています。

駅スタッフの女性の明るい声に送られてホームに出ました。ホームにいた亀です。3匹が向かい合っていました。

JR亀甲駅は駅舎が亀の形をしていることは知っていましたが、駅舎の中や周辺の風景を見たのは初めてのことでした。駅舎内にぎっしり並んだ掲示物や数々の亀の像、まちかど図書館や定食屋さんも取り込んだ亀甲駅は、豊かな自然と産物に囲まれて生きる地元の人たちの思いが詰まった駅でした。「花と自然と笑顔のある町」に住む人たちの豊かな心を感じる駅でした。





JR四国最高地点の駅、繁藤駅を訪ねる

2017年01月27日 | 日記

屋根や壁の三角形の装飾が美しいJR繁藤(しげとう)駅の駅舎です。高知県香美市土佐山田町にあります。海抜347.7mのところに設置されており、JR四国の最高地点の駅として知られています。

こちらも三角形の屋根が印象的なJR阿波池田駅の駅舎です。JR岡山駅を出発してから、瀬戸大橋を渡り、坂出駅、多度津駅、琴平駅で普通列車に乗り継いでここまでやってきました。高知駅方面に向かう普通列車は2時間後に出発します。高校野球で全国的な人気を誇った池田高校がある三好市池田町は、訪ねたことがありました(「阿波池田、うだつの町並み」2012年8月16日の日記)。

阿波池田駅1番ホームで出発を待つ高知駅行きの普通列車です。2時間待っていたので、やっと乗ることができてほっとしました。11時57分、出発しました。

乗車したJR四国のディーぜルカー(DC)の1000形、1025号車の内部です。ワンマン運転の単行DCでした。車内のプレートには「平成2年 新潟鉄工」と書かれていました。JR阿波池田駅からの土讃線は、名勝大歩危・小歩危の渓流に沿って進み、たくさんのトンネルを抜けて走ります。私がJR土讃線の列車に初めて乗ったのは小学生の時でした。乗車したのは、蒸気機関車(SL)に牽引された普通列車でした。SLの煙を防ぐため窓を閉め切っており、暑いのでかなり退屈していました。「トンネルの数でも数えたら」と同行していた叔母に言われて、「正」の時でトンネルの数を記録したことがありました。

JR繁藤駅は、JR角茂谷(かくもだに)駅から2.1kmのところにあります。阿波池田駅から1時間20分弱でJR繁藤駅に到着しました。運転士さんに、青春18きっぷを示して下車しました。繁藤駅の駅名標です。次の駅である新改(しんがい)駅は、スイッチバックの駅(「JR土讃線、もう一つのスイッチバック、新改駅」2012年8月7日の日記)として、土讃線では坪尻駅(「『秘境の駅』、JR坪尻駅に行ってきました!」2011年3月19日の日記)とともによく知られています。どちらも、牛山隆信氏が主宰されている「秘境駅ランキング」にランクインしている”秘境駅”でもあります。

「7分ほど停車します」と運転士さんが車内放送をされていました。1025号車は、しばしの休憩に入りました。

これは、JR繁藤駅の駅舎に掲示されていた「10分以上停車する列車の案内」です。この駅には、もっと長い時間停車する列車もあるようです。さて、JR土讃線は、讃岐鉄道として、明治22(1889)年に多度津駅と琴平駅間が開業したことに始まります。高知方面からは、大正13(1924)年に、高知線として、高知駅より西部の須崎(すさき)駅と日下(くさか)駅間が開通したのが始まりでした。その後、両側からの工事が進み、JR繁藤駅は、昭和5(1930)年に、「天坪(あまつぼ)駅」として開業しました。土佐山田駅・角茂谷駅間が開通したときのことでした。

繁藤駅付近は旧名の「天坪(雨の坪)」からもわかるように、雨が非常に多いところです。この日はそんなことを忘れるぐらい、晴れ渡ったいいお天気でした。ホームから見た高知駅方面のようすです。駅舎は前方の跨線橋を渡った右側にあります。山地にある駅ですが、広々とした印象を受けます。
 
こちらは、反対側の阿波池田方面のようすです。樹木が刈り取られた山が見えました。それを見て、昭和47(1972)年7月に起きた集中豪雨の影響で、繁藤駅前の山が地滑りで崩壊し、死者60名を出す大災害を起こした「繁藤災害」を思い出しました。このとき、繁藤駅に停車中だった高松駅行きの4両編成の普通列車も巻き込まれ、牽引していたDF5045号機と1両目の車両が駅前の穴内(あなない)川に埋没、2両目は残った基盤に宙づりとなりました。土讃線の復旧に23日を要した大災害でした。

繁藤駅は2面3線のホームになっています。左側に、土讃線と平行して走る国道32号線が見えました。

跨線橋の上り口です。山深いところですから、夜は暗いのでしょう、白い構造物の屋根の下側に蛍光灯が設置されていました。

跨線橋の下から見た高知駅方面です。跨線橋の降り口の先に繁藤駅舎がありました。

島式のホームから見た駅舎です。木製のベンチが見えます。

跨線橋の上から見たホームです。乗ってきた1025号車は、まだ、停車しています。

跨線橋を下りきると、駅舎です。白を基調にした清潔感あふれる駅舎です。

駅舎前のホームから見た跨線橋と島式ホームです。

こちらは、駅舎前のホームから見た高知駅方面です。手入れの行き届いた庭園がありました。

このとき、乗車してきた高知駅行きの普通列車が、次の新改駅に向かって出発していきました。うっかり対向(追い越し?)した列車を確認するのを忘れてしまいました。次のJR新改駅まで、6.3kmです。

「高知線の歌」(中山登喜男作詞 岡村浩補作 昭和7年7月制定)がホームに掲示されていました。歌詞には、繁藤駅の旧駅名になった「天坪村」の名が使われています。天坪村は、現在の土佐山田町から大豊町に広がっていた村で、昭和30(1955)年までこう呼ばれていました。駅名が「天坪」から「繁藤」に変わったのは、昭和38(1963)年のことでした。また、歌詞にもある「マンガン礦」を輸送していた石原満俺(マンガン)鉄道がここまで通じていました。マンガンは、鉄の強度を増す性質があり、鉄砲や砲弾等の製造には欠かせないものだったそうです。昭和10(1935)年前後には、月産2,360トンの世界記録を達成したといわれています。石原満俺鉄道は昭和7(1932)年に運行を始めました。

香美市の穴内(あなない)鉱山や南国市の黒滝鉱山でマンガン鉱の採掘が始まったのは、昭和3(1928)年。石原満俺鉄道は、それを、天坪駅(繁藤駅)まで輸送していました。昭和29(1954)年の穴内(あなない)ダムの建設工事が始まり、昭和38(1963)年の竣工までに撤去されてしまったといわれています。この写真は駅舎の前のホームから、高知方面を撮影したものです。石原満俺鉄道は、土讃線の線路の先の広い空き地の付近に軌道跡があったそうですが・・。

駅舎内にあった時刻表です。繁藤駅には、特急列車との行き違いや追い越しのために長く停車する列車がありますが、特急列車はもちろん停まりません。時刻表からもわかるように、阿波池田駅方面行きが1日7本、高知駅方面行きが1日8本の普通列車が運行されています。

待合室のような駅舎を出て国道32号に出ました。こちらは阿波池田方面です。訪ねたのは歳末だったからでしょうか、集落には、雨戸が閉まった状態のお宅が目につきました。晴れ渡った青空がまぶしい繁藤駅付近です。

こちらは、高知方面です。石原満俺鉄道は、繁藤駅付近では、土讃線の左側を土讃線に沿って走っていたそうです。

国道32号の歩道から見た土讃線です。駅構内から単線の土讃線になるところです。林の手前の建物はガソリンスタンドです。

ガソリンスタンド付近から見た土讃線の線路です。その向こう側に杉の木が聳えています。土讃線より少し高く、石原満俺鉄道の築堤かなとも思いましたが・・。

ガソリンスタンドの先にあった加茂神社です。境内に入ります。

加茂神社の本殿前からの土讃線です。ここで、穴内川を橋梁で渡るルートになっています。石原満俺鉄道も土讃線よりも左側で穴内川を渡っていたようです。

加茂神社の先には、カラフルな建物の香美市役所繁藤出張所がありました。このあたりが繁藤地区の中心地ということになるのでしょうね。

JR四国の最高地点の駅、JR繁藤駅を訪ねてきました。広々とした駅構内。高さよりも広さを感じる駅でした。「高知線の歌」にある「蕨(わらび)狩りゆく角茂谷、穴内(あなない)川の清らかに」流れる山里でした。「高知線の歌」は昭和7(1932)年に作られました。「高知線の歌」で「高知線」と呼ばれていた須崎駅・多度津駅間の鉄道が、土讃線と名前を変えたのは昭和10(1935)年のことでした。



JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅

2017年01月14日 | 日記

JR山陰本線の餘部(あまるべ)駅の駅名標です。餘部駅は、牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の133位にランクインしている”秘境駅”です。兵庫県の北西部の鳥取県境に近い地域にあります。餘部駅の両隣の鎧駅(よろいえき・170位)と久谷駅(くたにえき・162位)も、秘境駅の200位以内にランクインしています。青春18きっぷの最後の機会となった日曜日、JR餘部駅を訪ねました。

姫路駅で少し寄り道してしてしまい、予定していた播但線の列車に乗り遅れたため、JR豊岡駅で、13時02分発の浜坂駅行きの山陰本線の普通列車に乗り継ぎました。3両編成の先頭車両は、キハ402007号車。「天空の城」「竹田城跡」のラッピング車両、観光列車”竹田城号”でした。この日は普通列車での運用でした。

キハ402007号車の内部です。播但線で運用する場合の竹田城跡側に、外に向かって3人掛けの座席が並んでいます。ほぼ満員の状態で出発しました。

JR餘部駅の手前で渡った”2代目の余部(あまるべ)橋梁”です。写真の方向が豊岡方面、橋を手前に渡った先がJR餘部駅です。”余部橋梁”といえば、どうしても思い出すことがあります。昭和61(1986)年12月28日(日曜日)の13時15分頃、余部鉄橋を渡っていた回送中の団体臨時列車”みやび”の転落事故のことです。日本海からの突風にあおられ、牽引していたディーゼル機関車と客車の台車の一部を残して7両の車両が転落しました。懸命の復旧工事により、事故から3日後の12月31日(水曜日)午後3時頃に復旧し開通させたそうです。

回送列車の車掌1名と橋梁下の食品加工工場の12名の従業員のうちの5名の方がお亡くなり、客車内におられた日本食堂のスタッフ1名と、加工工場の5名の方、計6名の方が重傷を負うという大事故でした。当時、橋梁から列車が転落したというありえない事故にショックを受けたことを思い出します。事故現場は50mに渡ってレールが曲がり、枕木もずたずたになっていたそうです。写真は、海側から見た”2代目余部橋梁”です。海側に”初代余部橋梁”の橋脚の一部が再現されています。

JR餘部駅には、13時59分に到着しました。当初の予定より1時間15分ほど遅くなってしまいましたが・・。外国人観光客も含めて、20名ほどの乗客が下車されました。さて、JR餘部駅は、兵庫県美方郡香美町香住区余部にあります。昭和34(1959)年、国鉄山陰本線の鎧(よろい)駅と久谷(くたに)駅間が延伸開業したときに開業しました。駅の設置を求める地元の人たちの熱心な要請活動によるものでした。地名から命名すると「余部駅」になるはずでしたが、駅名は「餘部駅」と表記されています。これは、同じJR山陰本線にある「JR余部(よべ)駅」との重複を回避するためだったといわれています。「JR余部駅」は、「JR餘部駅」に先立つ昭和5(1930)年に、開業していたからです。

浜坂行き普通列車は、すぐに出発していきました。この日は、餘部駅発14時34分の普通列車(乗車してきた普通列車の折り返し便)で、帰ることにしていました。25分の滞在時間しかありません。姫路駅で乗り継ぎに失敗したことを、また、後悔してしまいました。

急いで、JR餘部駅を見て歩くことにしました。浜坂駅寄りから見たホームです。1面1線の棒状駅で、山(南)側に線路が敷かれています。
これは、転落事故から24年後の平成22(2010)年、”2代目の余部橋梁”ができあがったときに、付け替えられたことによります。それ以前は、ホームの海(北)側に線路が敷かれていました。写真の線路の先に”2代目の余部橋梁”があります。ホームの左側の白い建物はトイレです。

トイレの向こうにあった待合室です。冬には強風が吹く餘部駅周辺ですが、これなら風を十分防ぐことができます。この日はおだやかな天候でしたので待合室に避難する必要はありませんでしたが・・。

待合室の内部です。正面に二つのベンチ、その間に、多くの”秘境駅”に置かれている”駅ノート”が積まれていました。ちなみに、この”秘境駅”の1日平均の乗車人員は、2013年には57人だったそうです。

待合室の先にあった「空の駅」の石碑です。ホームの海(北)側にかつての山陰本線の線路を再現し、展望台を整備しています。それが「空の駅」。現在の線路は、写真の線路のさらに右側に敷かれています。

ホームを豊岡方面に向かって進みます。駅名標がある付近に、かつての橋梁の鋼材でつくられたベンチが置いてありました。

ホームが途切れるところから「空の駅」に向かう道が分岐しています。「空の駅」に向かいます。

「ここより先は空の駅です」という案内にしたがって進みます。左側には山陰本線の旧線が残っています。

旧線の線路が途切れ、線路跡がコンクリートになると「空の駅」の入口です。「空の駅」は、橋梁と線路が付け替えられた平成22(2010)年から供用が開始されています。門を入って、さらに進んでいきます。

「空の駅」は、”初代余部橋梁”の上に整備されています。作り付けのベンチと、コンクリートの床の上に描かれた線路がありました。下部は橋脚4基と橋台2基で支えられています。現在は、秒速30mまで通行ができることになっているそうです。下には、余部の集落と湾入した海。おだやかな天候でしたので、冬の日本海とは思えないような青い海が見えました。

「空の駅」には、通路から下を覗くことができる設備もついていました。

「空の駅」の突き当たりから見た、橋梁の下のようすです。民家の屋根が見えました。

行き止まりになった「空の駅」の先。線路が途切れたところで、”初代余部橋梁”の橋脚も途切れています。

現在の山陰本線の豊岡方面です。”2代目の余部橋梁”はスマートな印象を残す橋梁です。エクストラドーズド形式のPC(プレストレスト・コンクリート製)の橋だそうです。

「空の駅」から旧線跡を歩いて待合室の手前に戻ります。

そこから、集落に降りていく道を歩きます。

橋梁の下をくぐって線路の山(南)側に進む途中の写真です。手前の赤い橋脚が”初代余部橋梁”のものです。”初代の余部橋梁”は明治45(1912)年3月1日に開通しました。鋼製のトレッスル橋で、全長310.59m、下を流れる長谷川の川床からレールの面までの高さは、41.45mあったそうです。また、橋脚は全部で11基、23連の橋桁がついていたそうです。上は「空の駅」になっています。以前の位置から山(南)側に7m程度寄ったところに、建てられているそうです。

線路の山(南)側に渡り、今度は坂道を上って行きます。こちら側は”2代目の余部橋梁”です。長さは309mで、標高43.9mのところに架かっているそうです。

新しい山陰本線は、ホームの右(山)側の付け替えられました。トンネルの手前で大きくS字にカーブして、トンネルの中に入っていきます。

”秘境駅ランキング”の133位にランクインしている餘部駅は、主宰する牛山氏の評価では、秘境度1ポイント(P)、雰囲気1P、列車到達難易度4P、外部到達難易度10P、鉄道資産指数2Pの合計、18Pを獲得しています。外部到達難易度のポイントが突出して高い評価にになっています。鉄道は普通列車しか停車しませんが、日中は1~2時間に1本程度列車が停車しています。餘部駅は列車で訪ねるには、比較的訪ねやすい”秘境駅”になっていました。

豊岡行きの列車が到着する時間が近づいて来ました。残念ながら、転落事故のとき加工工場があった地上面に降りていく時間がなくなりました。ホームに戻ります。すぐに、JR山陰本線、播但線、山陽本線を経由する6時間の普通列車の旅が、また始まります。



   

構造体だけになったトンネルがある町

2017年01月06日 | 日記

「みなでのらんけ」と呼びかけている阿佐海岸鉄道のASA301号車です。保有車両が2台という、第3セクター鉄道の阿佐海岸鉄道の車両です。1年ぐらい前に、高知県最東端の駅、阿佐海岸鉄道の甲浦(かんのうら)駅を訪ねた日(「所有車両は2両だけ、阿佐海岸鉄道に乗る」
2015年10月12日の日記)、途中のJR海部(かいふ)駅の手前で気になるものを見つけました。

これが、ずっと気になっていた、JR海部駅の手前にあった町内(まちうち)トンネルです。トンネルを覆っていたはずの山が無くなっており、わずかに樹木が生えているだけのトンネルです。青春18きっぷの季節でしたので、久しぶりに訪ねてみることにしました。

片道は特急列車を利用することにして、9時51分に徳島駅を出発する牟岐線の”むろと1号”で牟岐駅に向かいました。キハ185ー23号車(普通車自由席一部指定席)とキハ185ー20号車(普通車自由席)の2両編成でした。

JR牟岐駅で、普通列車に乗り継ぎます。到着したときにはJR海部駅行きの普通列車が待っていました。1232号車。ワンマン運転の単行気動車でした。

JR海部駅に到着しました。昭和48(1973)年の国鉄時代に、四国初の高架駅として開業した駅です。当時は終着駅だったそうです。向かって右側が乗車してきたJR車両の1232号車。しばらくすると、左側のホームには、阿佐海岸鉄道のASA301号車が到着して、次の甲浦駅行き列車になって出発を待っています。阿佐海岸鉄道の駅が開業したのは、平成4(1992)年のことでした。

JRの待合室です。運賃は電車の中で精算するようになっています。海部駅は、徳島県海部郡海陽町奥浦字一宇谷にあります。元の海部町でしたが、平成18(2006)年旧海南町と海部町、宍喰町が”平成の大合併”により合併し、海陽町が発足しました。

阿佐海岸鉄道のホームへは、高架上の構内踏切を渡っていくことになっています。

こちらは、阿佐海岸鉄道の駅名標です。ポップ体の字体です。海部川に生息するオオウナギとホタルのイラストが添えられています。早朝の列車は、JR牟岐駅と阿佐海岸鉄道の甲浦駅間を直通しているので、JR阿波海南駅も表示されています。

JR牟岐駅方面に町内トンネルが見えました。さっそく、行ってみることにしました。

JR側の待合室の裏にある階段を下ります。ホームは3階ぐらいの高さにあるようです。

駅舎です。1階の屋根のある建物は、かつて「海部町観光案内所」がありました。平成27(2015)年から交流施設「あまづの社(もり)」になっています。海陽町児童青少年を支援する会が運営されているそうです。この日は閉鎖されていました。

駅から、JR牟岐線と平行して走る国道55号に出ます。やってきたJR牟岐駅方面に向かって引き返します。空の青さがまぶしいぐらいの暖かい日射しの下を歩きます。

駅から歩いて10分ぐらいで、海部川に架かる海部大橋に着きました。「鞆浦の町並みと法華寺 1.1km」という案内もありました。古くから、海部川の上流地域は木材の山地として知られていました。切り出された木材は、筏に組んで、海部川を使って鞆浦港まで運ばれ、そこから兵庫の港(神戸港)に送られていたそうです。室町時代(「兵庫北関入船納帳」1445年)には、兵庫北関を通過する阿波産の木材の半数が、海部と隣町の宍喰(ししくい)からのものだったといわれています。それ以上に、私にとっては、幼い時から何回も訪ねた広島県福山市の「鞆の浦」と同じ名前のところがあることが驚きでした。福山市の鞆の浦は勇壮な「鯛網」で知られています。

海部川は、阿南地域では最も大きい川だといわれています。川口付近のようすです。案内にあった鞆浦は、写真の右側にありました。

めざす町内トンネルはすでに越えて来ていましたので、国道55号を少し引き返して、JR牟岐線の高架をくぐる道との分岐点まで戻ります。

トンネルの上を覆っているブッシュの下に、JR牟岐駅側からのトンネルの入口が見えました。やや見えずらいのですが・・。尖塔をもつマンションがトンネルと同じレベルで建っています。

高架をくぐってすぐ左折して、牟岐線に沿って伸びる坂道を上っていきます。上り切って、マンションのそばにいけば、トンネルのJR海部駅側の入口が見えると思っていたのですが・・。簡単ではありませんでした。目の前のブッシュをかき分けて進むことになりました。

ブッシュの隙間から撮影した、町内トンネルの海部駅側からの入口です。「町内トンネル 全長44m 徳島起点79K139m71」と白いプレートには書かれていました。ここ以上に間近で、町内トンネルを見ることができるところはないと思いました。

JR海部駅の近くにあった観光案内図です。海部大橋の案内看板にあった「鞆浦」は、駅からまっすぐ海の方に向かった先にありました。「鞆浦海岸」「鞆浦港」「鞆浦漁港」の地名が並んでいます。

「鞆浦」という地名に惹かれて、「鞆浦」に行ってみたくなりました。国道55号を引き返して、JR海部駅の前の交差点まで戻り、左折します。

小さな川に沿った道を進みます。左側に町並みがあります。正面の白いビルの先で左に折れます。

車が一台やっと通れるぐらいの通りの両側に、町並みが広がっています。民家の住所には「海部郡海陽町奥浦字町内」と書かれていました。あの構造物だけのトンネル、町内トンネルは字名である「町内」から命名されたのではないでしょうか?

町内地区からもと来た道に戻り、さらに南に進みます。突き当たりの民家のそばに道標が健っていました。

これがその道標です。「愛宕山」と書かれた右に向かって進んでいくと、「鞆浦」の懐かしい町並みがある地区になります。

鞆浦港です。青い海と空、白い船がまぶしい、美しい港です。港を中心に発展した町。「海部大橋」のところで書いたように、上流で伐採された木材の輸出港として発展してきました。「鞆」は、左手首の内側につけて、矢を放ったときに弓の弦が腕に当たらないようする武具のこと。この地域の地形が「鞆」の形に似ていたことから、「鞆浦」と名づけられたそうです。

これが、鞆浦の町並みです。確かに、三方を山に囲まれ、平地は海に面したわずかな面積だけというこの地域は、福山市の鞆の浦とよく似ています。歴史を経た建物には、大正期から昭和初期に建てられたものが多く、本瓦葺き、間口の広い平入り、千本格子のついた民家になっています。また、2階の窓に装飾的な手摺りのある家が多いともいわれています。

通りに入ってすぐの右側に、祠が祀られている巨石が建っていました。案内によれば、「鞆浦大岩宝永碑(旧暦の宝永4年10月4日の地震)」と「鞆浦大岩慶長碑(旧暦の慶長9年12月16日の津波)」だそうです。正面に「南無阿弥陀仏」と刻まれています。「この二つの碑は、四国において判明している地震の文字を刻した最古の碑である」と書かれているように、災害の状況を記録し後生に伝えているものです。

通りは法華寺の門前まで続いています。海部大橋の案内の「鞆浦の集落と法華寺」らしい通りでした。建て替えられているお宅もたくさんありましたが、かつての雰囲気が十分伝わってきました。この点でも、福山市の鞆の浦のもつ雰囲気とよく似ていました。

日蓮宗法華寺です。この地に住んでおられる人たちの深い信仰心を感じます。法華寺の門前町のような雰囲気を感じる通りでした。

JR海部駅のホームに帰ってきました。町内トンネルです。トンネルとマンションの間が、ブッシュに覆われたところでした。昭和48(1973)年から使われ始めた町内トンネルは、もともと山をくぐるトンネルでした。供用開始から3年後の昭和51(1976)年に、現在のような姿になりました。そして、現在まで、構造体だけのユニークな姿で働き続けています。構造体を撤去してしまっても、機能的には問題はなさそうですが・・。

これは、トンネルの左側のようすです。左側の山の尾根が、マンションの手前につながっているように見えます。

これは、トンネルの右側のようすです。現在、ショッピングセンターが建てられているところで山が削られています。供用が開始された頃の町内トンネルは、トンネルの両側につながっていた尾根をくぐるためにつくられました。しかし、その後、住宅開発のために山が切り崩されてこのような姿になっていったようです。

気になっていたトンネルを訪ねてきました。トンネル以外に、海部大橋と「鞆浦の集落と法華寺」も訪ねることができました。この町の人たちに、町内トンネルをこのユニークな姿のまま、いつまでも存続させてほしいと願わずにはおられませんでした。

帰路は青春18きっぷによる普通列車の旅でした。徳島県最南端のJR海部駅から、JR牟岐線、JR高徳線そしてJR瀬戸大橋線で岡山駅まで、5時間40分ほどの普通列車の旅が続きました。



                       

橋梁上の”秘境駅”、JR保津峡駅から、トロッコ保津峡駅へ

2016年12月29日 | 日記

鉄道につきもののトンネルと橋梁と駅。これらが一緒にある駅に興味があって、これまで、ときどき、橋梁の上にある駅を訪ねてきました。JR土讃線の土佐北川駅(「鉄橋上にある秘境駅JR土佐北川駅」2013年12月2日の日記)、JR福知山線の武田尾駅(「トンネルと鉄橋の駅JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)、愛媛県松山市を走る私鉄・伊予鉄道の石手川公園駅(「伊予鉄道の鉄橋上の駅 石手川公園駅」2015年4月1日の日記)、阪神電鉄の武庫川駅(「鉄橋上の駅 阪神電鉄武庫川駅」2015年12月28日の日記)、石屋川駅(「石屋川の上にある駅」2016年1月30日の日記)、香櫨園駅(「夙川の上にお立ち台がある駅」2016年2月5日の日記)、芦屋駅(「芦屋川の上にある駅」2016年2月19日の日記)、そして大石駅(「まだありました!阪神電鉄の橋上の駅」2016年3月21日の日記)。これら8ヶ所の駅は、すでに訪ねました。今回、久しぶりに、橋梁上の駅であるJR嵯峨野線(山陰本線)保津峡駅を訪ねることにしたのです。

JR嵯峨野線の起点、京都駅です。この日訪ねることにしていたJR保津峡駅は、牛山隆信氏が主催する”秘境駅ランキングの165位(トータル13ポイント)にランクインしている”秘境駅”です。牛山氏は、秘境度4ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度1P、外部到達難易度4P、鉄道遺産指数2Pと評価しておられます。京都駅から14.3km、20分で到達できる、京都市と亀岡市の境界にある駅です。「トロッコ列車」の案内が見えました。

JR園部駅行きの嵯峨野線の列車に乗るため、JR京都駅32番ホームに向かいます。この日は日曜日、4両編成の車両でしたが、沿線にある嵯峨野・嵐山方面に向かう行楽客で混雑していました。列車は、定時に出発しました。嵯峨野線という愛称が使用され始めたのは、昭和63(1988)年に「路線愛称」が制定されてから。国鉄の分割民営化(1987年)でJR西日本になった翌年のことでした。

嵯峨嵐山駅を過ぎると、列車の正面にトンネルが二つ並んでいます。左側がかつての山陰本線の、右側が現在の嵯峨野線の大倉山トンネルです。列車は右側の大倉山トンネルを越えて進みました。かつての山陰本線は、ここから保津川沿いに進んでいました。現在では、トンネルを抜けて、まっすぐ亀岡方面に向かうルートになっています。

JR保津峡駅の2番ホームに到着しました。すでに、多くの乗客は途中駅で下車しており、車内は空席が目立つようになっていました。一つ前の駅、嵯峨嵐山駅から大倉山トンネルを越えた後、第1保津川橋梁を渡り、次に第1保津トンネルを抜けてここまで来ました。下車したのは、私のほかには、高齢の女性グループ4人だけでした。

列車は、すぐに、次の馬堀駅に向かって出発し、目の前のトンネルの中に消えて行きました。

JR保津峡駅は、嵐山に向かって流れる保津川(桂川)に架かる第2保津川橋梁の上にある駅です。写真はホームから見た保津川の上流方面です。急流の保津川の流れの岸(正面)に、かつての山陰本線の線路跡が見えました。この線路跡は、現在、嵯峨野観光鉄道嵯峨野線のトロッコ列車の路線になっています。右奥の方がトロッコ亀岡駅方面、左手前方面がトロッコ保津峡駅方面です。

2面2線のJR保津峡駅は橋梁上の駅であるとともに、二つのトンネルに挟まれた駅でもあります。こちらが、京都側の第1保津トンネルです。ホームの両側にある待合いのスペースも見えます。このあたりまでが、保津川の流れの上にあります。

こちらが、先ほど列車が消えていった第2保津トンネルです。JR保津峡駅は、第1・第2保津トンネルに挟まれた、保津川の上にある駅なのです。かつて、訪ねた橋梁上に設けられた駅の中では、”秘境駅”(秘境駅ランキング200位)であるJR武田尾駅と似た雰囲気を感じる駅でした。複線化工事に伴い、武庫川に沿った旧福知山線をトンネルと橋梁で直線のルートにつけ替え、駅はトンネルと武庫川にかかる第二武庫川橋梁の上に設けられた武田尾駅。旧線跡は一部ハイキングコースとして整備され、市民に利用されていることなど、保津峡駅と経緯や雰囲気がそっくりでした。

ホームの周囲は緑一色です。1番ホーム(嵯峨嵐山・京都方面行きホーム)の向こうに、防災工事が行われた跡と、道路のガードレールが見えています。古くからの道という感じがしました。

JR保津川駅の駅舎は1番ホームの外側にありました。ホームから駅舎へ向かう通路は、第2保津トンネルの入口付近にあります。階段を下り、左折してJR嵯峨野線の下をくぐります。さて、山陰本線保津峡駅は、昭和4(1929)年、松尾山信号場が設置されたことに始まります。昭和11(1936)年4月15日に格上げされ「保津峡駅」として開業しました。当時の駅舎は、現在の嵯峨野観光鉄道嵯峨野線のトロッコ保津峡駅付近にあったそうです。

JR嵯峨野線の線路の下をくぐります。平成元(1989)年に山陰本線の複線化工事が終わり、現在のJR嵯峨野線の新しいルートになったとき、保津峡駅も現在地に移転しました。現在の駅舎が完成したのは、平成2(1990)年のことでした。

地上部分に向かいます。階段の先に駅舎がありました。

駅舎に出ました。乗車券の回収装置のない自動改札機がありました。亀岡駅管理の無人駅だそうですが、委託駅のような高齢の駅員さんがおられました。”青春18きっぷ”を示して外へ出ました。

駅舎内です。保津峡駅の1日の平均乗車人員は345名(2014年)だそうです。コンパクトにまとまった、清潔な駅でした。改札口の向こうに1番ホームに上る階段が見えます。

保津峡駅の駅舎です。木の香りがするようなモダンな駅舎です。後ろのスペースはトイレになっています。

これは、駅前に掲示されていた案内図です。ピンク色の部分がJR保津峡駅。左右の破線は、JR嵯峨野線のトンネル部分。破線の左が第2保津トンネル、右が第1保津トンネル。黄色の部分は京都府道、京都・日吉美山線で、右上の方向が鳥居本・嵯峨野方面で、地図の上方に”ゆずの里”として知られる水尾(みずお)の集落があります。府道から保津峡駅に向かう白色の部分が、駅への取り付け道路(全長230m)で、保津峡駅が設置された時に新設された通りです。水色の部分は保津川で、地図の下部から右に向かって流れています。地図の上部から水尾川が流れてきて、保津川に合流しています。

駅前の広場から見た保津川の流れと保津峡駅です。流れの上に、山陰本線の線路跡(現・嵯峨野観光鉄道嵯峨野線)が見えています。春には、桜の花が美しい路線になっています。その先にある、嵯峨野観光鉄道嵯峨野線の「トロッコ保津峡駅」に行ってみたくなりました。

駅から、地図の白い部分を進みます。がっしりとした重量感のある橋梁が見えました。保津峡橋。幅が7m、長さが54mあるそうです。下には水尾川が流れています。水尾川はこの橋を抜けた後、保津川に合流します。

保津峡橋を渡りきり、振り返って撮影しました。保津峡橋は、日本ではめずらしいラーメン構造でつくられています。橋の袂にあった説明によれば、「ラーメン構造は、橋桁と橋脚が一体となった構造で、昭和11(1936)年、ベルギーのフィランディール教授によって提案された」構造であり、重量感のある構造美に特色があるのだそうです。確かにどっしりとした重厚な造りだと感じます。

保津峡橋を渡ったところが京都府道への合流点です。橋からまっすぐ進むと柚の里水尾への道。右折して進むと鳥居本・嵯峨野方面に向かいます。トロッコ保津峡駅への案内も道標の中にあり、「800m、徒歩15分」と書かれていました。手元の資料には「二つの駅は直線距離では500mであるが、道路を歩くと1,100m」とありました。

トロッコ保津峡駅方面に進むことにしました。光線の関係で、やむなく振り返って撮影しました。

JR保津峡駅に着いた京都行きの列車です。橋梁上の駅と列車、そして保津川。山深い里らしい美しい光景です。右手に深い谷を見ながら、サイクリングの人たちやウオーキングの人たちとすれ違いながら進んで行きます。

山道を5分ぐらい進むと、JR保津峡駅の1番ホームから見えた防災工事の跡付近に来ました。小さいトンネルがありました。入口には、「平安乾域」とありました。出口には「鵜飼隧道」。鵜飼トンネルでした。

トンネルの中にあった案内標識です。新旧二つの保津峡駅への道案内でした。

トンネルを抜けて5分ぐらいで、右手に白い橋が見えてきました。その先に、トロッコ保津峡駅が見えています。

府道から降りて、鵜飼橋を渡ってトロッコ保津峡駅へ向かいます。鵜飼隧道に鵜飼橋、昔、このあたりは鵜飼いが盛んだったのでしょうね。橋の入口にはかつての茶店が残っていました。

鵜飼橋の上から見た保津川の下流側です。周囲の木々を写した緑の水面が見えました。保津川の右岸には、旧山陰本線の跨線橋が見えました。

橋を渡りきって、右の待合室に向けて上ります。

待合室にあった時刻表です。嵯峨野観光鉄道嵯峨野線の嵯峨嵐山方面行きは、毎時46分発のようです。乗車する人は、トロッコ列車の中でチケットを購入するよう書かれていました。

ホームです。信楽(しがらき)の狸が並んでいます。中央の大きな3匹の狸の隣で寝転んでいる狸も含めて、全部で18体。クリスマス前でしたので、赤い帽子を被っていました。

駅標です。木製の重厚な印象でした。山陰本線の旧保津峡駅は、平成3(1991)年4月27日に「トロッコ保津峡駅」として再び開業しました。新しい保津峡駅が開業した翌年のことでした。

やってきました。嵯峨野観光鉄道嵯峨野線のトロッコ列車です。私は、以前乗車したことがあります(「大混雑のトロッコ列車、嵯峨野鉄道」2011年12月3日の日記)。この日は、見送るだけにしました。DE1104号機関車に牽引された、SK300-1・ SK100-1・ SK100-11・ SK100-2・ SK200-1の5両編成でした。「JR西日本から転籍した機関車と、無蓋貨車トキ25000を改造した客車」だと、牛山隆信氏は書かれていました。

機関車の側面にあった「嵯峨野」のプレートです。機関車の先頭部分にもプレートがついていました。

5両編成の列車でしたが、これは機関車の次に連結されていた客車の先頭車両(SK300-1 ザリッチ)です。撮影していたとき、窓の向こう側から女性の外国人旅行客が手を振ってくださいました

ホームには、もう一人訪問客がおられましたが、その方も撮影だけだったようです。列車は、すぐに出発していきました。跨線橋を越えたトロッコ列車は、その先にあるトンネルに入って行きました。一緒にいた方もいつの間にかおられなくなりました。私も、JR保津峡駅に戻ることにしました。

元来た道をゆっくり歩いて、JR保津峡駅に戻ってきました。今度は、駅のホームからトロッコ列車の姿を見ることにしました。折り返しのトロッコ亀岡駅行きの列車には間に合いませんでしたが、次のトロッコ嵯峨駅行きの列車は、見ることができました。ちょうど、撮影しやすいところで一時停車してもらえるのがありがたかったです。

保津峡といえば、”保津川下り”です。明治28(1885)年、観光船による川下りが始まったそうです。最近、若い人に人気があるのが ”ラフティング”。トロッコ列車を待っているときに川を下っていきました。観光船ではなく、ラフト(ゴムボート)で下るのがラフティングです。4人で操りながら下っていく若い人の姿が見えました。

橋梁上の”秘境駅”、JR保津峡駅は、JR武田尾駅と似ている駅でした。”秘境駅”という視点から見ても、牛山氏は「秘境度」と「雰囲気」、「外部到達難易度」を比較的高く評価しておられます。多くの”秘境駅”が「列車到達難易度」のポイントが高いことから考えると、上り下り合わせて1時間に8本の列車がやってくるJR保津峡駅は、異色とも言っていい”秘境駅”でした。この点でも、JR武田尾駅とも共通する”秘境駅”でした。

久しぶりの橋梁上の”秘境駅”の訪問でした。新駅が開業したため、不要になった旧駅が、トロッコ列車の駅として使用されていて、たくさんの観光客を集めているのも嬉しいことでした。

船町渡船から木津川渡船へ、大阪渡船に乗る

2016年12月11日 | 日記

千歳の渡船で大正内港を渡り、大正区北恩加島二丁目から大正区鶴町四丁目に渡った後(「甚兵衛渡しから千歳の渡しへ」2016年11月25日の日記)、船町の渡しに向かいました。千歳の渡しを降りて進み、道なりに左折して鶴町小学校を右手に見ながら南に向かって進みます。

セブンイレブンのある「鶴町二丁目」の交差点を左折。すぐに「船町渡船場」の標識が見えました。右折して進みます。江戸時代に「天下の台所」と呼ばれ、全国から物資が集まっていた大坂には、たくさんの船が航行していました。そんな「水の都」大坂には、船を運航し、庶民の通行のための民営の渡船が代々引き継がれていました。明治40(1907)からは淀川筋の29路線が大阪市営事業として運行されるようになり、昭和7(1932)年からは、ほとんどの渡船が大阪市営渡船となっています。

そのまま、南に向かって進むと、突き当たりに船町渡船場があるはずです。今も8路線が大阪市営渡船として、ほとんどの航路が、大阪市建設局西部方面管理事務所の管理の下に運行が続けられています。船町渡船場に着きました。

「船町」の名前は、「万葉集」の「あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人をとめらが 乗れる船見ゆ」(巻6-1063)から、生まれたそうです。階段を上って桟橋に向かいます。対岸の船町一丁目にある桟橋が目の前に見えました。手前の鶴町一丁目の桟橋には「しおかぜ」と「さざなみ」が停まっていました。停船している位置から考えると、この日は「しおかぜ」が就航しているようです。

対岸まで75m。8路線のうちで最も短い路線になっています。昭和20年代から30年代には、川幅が狭いため、対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて、人や自転車が通行していたそうです。明治30(1897)年から昭和3(1928)年まで行われた大阪湾修築工事が完成し、埋立地として、船町、鶴町、福町が造成されたのに合わせ、木津川と尻無川を結ぶために、昭和4(1929)年に開業したといわれています。昭和初期、鶴町には大阪市電鶴町車庫や外資系の自動車工場があり、船町には木津川飛行場(伊丹の前身)や造船所があったといわれています。

桟橋の岸壁に書かれていた船町渡船場の案内です。このデザインはすべての渡船場に書かれていました。

待合室の内部です。木目が美しい造りになっています。室内は掲示物であふれていました。小上がりがつくられていて、くつろぎの空間になっています。正面に時刻表が掲示されていました。日中は毎時00分、20分、40分の20分毎の運行になっています。

桟橋に向かって下ります。15時00分発に乗船しようと思っていましたが、待合室にいたのは、私一人だけでした。

やはり、「しおかぜ」が運行されるようです。手元の資料によれば、「船町渡船には『ふなづる』と『八坂丸』が就航している」と書かれていましたが・・。ちなみに「『しおかぜ』は千本松渡船に、『さざなみ』は落合下渡船に就航している」と、資料にはありました。

『しおかぜ』に乗船しました。客室から見た『さざなみ』の船体です。『しおかぜも』も『さざなみ』も、上流(東)側に向かって停船しています。平成27(2015)年度に、船町渡船を利用した人は1日平均で193人だそうです。

結局、乗船したのは、結局私一人でした。乗船を待っていた乗務員の方が出入口を閉じて出発です。両岸が狭いので、これまでの天保山渡船、甚兵衛渡船、千歳渡船はS字形の運行で対岸に接岸していましたが、この渡船は左側から乗船して左側から降りるO字形で運行されています。対岸では下流(西)側に向かって停船することになるようです。

乗客1人の「貸し切り」状態で、出発しました。木津川運河の上流方面の写真です。対岸にある工業地帯の煙突が見えました。現在では、川の水が浄化されて、「10月から4月にかけて飛来してきた渡り鳥が、魚をついばむ様子が見られるようになっている」と資料には書かれていました。確認はできませんでしたが・・。

下船してから、対岸にあった船町一丁目の桟橋を撮影しました。折り返して鶴町一丁目の桟橋に帰る『しおかぜ』には、3人の乗客が乗車されています。下流(西)側に向かって停船しています。

桟橋から岸壁を渡って、桟橋から別れて外へ出ました。振り返って対岸の渡船場を撮影しました。私は、ここから、次の木津川渡船場をめざして進みます。中山製鋼所の広い敷地の手前を左折して、工場の敷地に沿って東に向かって進みます。

中船町のバス停付近で、右側前方に新木津川大橋の巨大なループ橋が見えて来ました。木津川を往来する貨物船の運航に配慮して、海面までの高さの高い、このようなループ橋が架橋されたそうです。その手前を右折して、南に向かって進むと木津川渡船場に行けるはずです。

乗り場の案内がありました。新木津川大橋に沿って、さらに進みます。

午後3時半近くになって、太陽の影が長くなってきました。正面にあるスロープ状の橋が渡洗船場の入口のようです。

到着しました。木津川渡船場です。船町2丁目にあります。スロープを上って行きます。事務所と乗務員の控え室もありました。

岸壁を超えて渡船場に入りました。降りきると待合いのスペースになるようです。

待合いのスペースです。ベンチは置かれていましたが、ここでも、待っておられる人はいませんでした。

松丸が桟橋に停船していました。出発時間に少し時間があるため、乗務員の方の姿も見えません。かつて、木津川には、昭和30(1955)年から昭和49(1974)年まで、カーフェリー松丸(134トン)が就航していました。昭和48(1973)年に木津川上流に千本松大橋が開通したため、これ以後、人と自転車のみを輸送する渡船に替わったそうです。

松丸の前には第2松丸が停泊しています。木津川渡船はこの2隻が就航しています。いずれも、「カーフェリー松丸」の名前を継承しているようです。

待合いのスペースにあった時刻表です。日中は45分毎に運行されています。

待合いのスペースから見た木津川の上流部分です。停船している貨物船や航行している船舶など、船舶の往来もかなり頻繁に行われています。

桟橋から見た対岸の平林北一丁目方面です。対岸の桟橋は、松丸の向こうの新木津川大橋の下にありました。

対岸までは238m。船町渡船のところで書いたように、大阪市営渡船場は、ほとんどが大阪市建設局の管理下にありますが、その中で、木津川渡船が、唯一大阪市港湾局管理の渡船でした。掲示されていた説明によれば、「大正区戦災復興事業により、同区内にあった木材関連の施設が、住之江区(当時は住吉区でした)の千林地区へ移転することになり、そこへ通勤する人たちのために運行されるようになった」ということです。制服が他の渡船と異なっていると資料には書かれていました。

乗船が始まりました。待合いから桟橋に向かいます。その途中にあった浮き輪状の案内です。これまでの渡船場にあったかどうか定かではありませんが、「大阪市港湾局 木津川渡船」と書かれていました。唯一の港湾局管理ということで、つくられたのでしょうか?

乗船します。自転車の方二人とご一緒でした。直前に到着された方でした。

松丸の客室のスペースです。木津川渡船の1日平均の利用者は、平成27年度には195人だったそうです。

出発しました。そのまま上流に向かって進み、右にカーブして木津川を渡ります。対岸近くになって、再度、右にカーブして下流に向かい大きく左カーブして対岸に着岸しました。ここもS字状に進んで対岸に着きました。

平林北二丁目側の桟橋で下船しました。こちらはかなり広い待合いのスペースが確保されていました。

木津川運河を渡る船町渡船と、木津川を渡る木津川渡船に乗。りました。これで、大阪市営渡船の8ヶ所の渡船のうち、5ヶ所の渡船に乗船したことになります。次の機会に残る3ヶ所の渡船に挑戦しようと思っています。