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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR三江線・尾関山駅を訪ねました!

2017年08月06日 | 日記

JR三江線を走っているキハ120形気動車です。広島県の東北部のJR三次駅と島根県のJR江津(ごうづ)駅を結ぶ、全長108.1kmの路線ですが、残念ながら、来年(2018年)の4月1日に廃止されることがすでに決まっています。「廃止されるまでに、一度は・・」と、この日は、三次駅の次の駅であるJR尾関山(おぜきやま)駅を訪ねてきました。

JR広島駅で、JR芸備線の快速”みよしライナー”に乗り継ぎ、1時間20分、三次駅1番ホームに到着しました。広島県北部のターミナル駅である三次駅には、三江線と芸備線のほか、JR福塩線も乗り入れています。1番ホームには、芸備線の上り(JR備後庄原駅方面行き)と下り(広島駅方面行き)の列車と、福塩線(JR府中駅方面行き)の列車が発着しています。三江線は、平成22(2010)年3月13日までは、1番ホームの広島駅方面につくられた切り欠きの0番ホームに発着していましたが、三次駅前の整備事業のため廃止され、現在は3番ホームが使用されています。

三次駅では”ICOCA”の使用ができないので、改札口には、運賃の精算をされる人の長い列ができていました。三次駅の駅前一帯は、平成18(2006)年から始まった整備事業によって、バスセンター、観光案内所、駅の南北をつなぐ自由通路などが整備され、利便性がずいぶん向上しています。写真は、観光案内所等が入居する三次市交通観光センターです。ここで、三次市にかかわる情報とマップをいただきました。

三次駅舎です。白と黒のツートンカラーのすっきりとした建物になっています。手前の黒く塗装されたところには、セブンイレブンが入居していました。三次駅は、昭和5(1930)年、芸備鉄道、十日市駅(昭和8=1933年に備後十日市駅に改称)として開業しました。

観光案内所でいただいた観光マップです。窓口でお願いするとパソコンでコピーを打ち出してくださいました。マップの右下の十日市町地区にある三次駅から、グリーンの線に沿って進み、巴(ともえ)橋で馬洗(ばせん)川を渡って、古くから舟運によって財をなした商人の人々が居住していた三次町に入りました。

全長172mの巴橋です。馬洗川の上に架かっています。

これは、巴橋から見えた三江線の鉄橋です。巴橋の左(馬洗川の下流)側にありました。ここから、いただいたマップに載っている中央部の上下(南北)の通りを歩いて、三次中学校(上の「文」のマーク)と三次小学校(下の「文」のマーク)の間の通りに着きました。そこから、左(西)に向かって進みます。

正面が、三江線の尾関山駅です。この日は、14時15分に、尾関山駅を出発する列車を駅で迎えることにしていました。暑さに挫けそうになりましたが、なんとか14時前に着くことができました。

駅前広場に着きました。小さな駅舎です。三江線は、昭和5(1930)年4月20日に石見江津(当時・現在は江津)駅と川戸(かわど)駅間が開業したことに始まります。その後、北と南の両側から工事が進みましたが、工事の中断などもあって、全通したのは、昭和50(1975)年8月30日のことでした。工事が始まってから45年経って、全通した鉄道です。そして、昭和53(1978)年3月31日、全線の直通運転が始まりました。

駅舎の右側には、トイレが設置されています。白い外壁には積年の傷みも見えました。尾関山駅の開業は、昭和30(1955)年3月31日、三次駅・式敷(しきじき)駅間が、三江南線として開業した時でした。

駅舎の内部に入りました。尾関山駅は三江南線の時代には、三次駅とともに有人駅でした。正面にはホームへの通路。左側は、当時の出札口があったところで、今は「駅ノート」の置き場になっていました。現在、JR西日本米子支社浜田鉄道部が所管する無人駅になっています。自動券売機も自動改札機も設置されていませんでした。

その隣にあった掲示物です。夏場の気温の上昇時には、列車の運行を見合わせるということのようです。この日も大変な暑さでした。

駅舎の右側の部分は、待合いのスペースになっていました。椅子が12脚設置されていました。かつての賑わいがしのばれます。手前に自転車が写っていますが、青年とお呼びするより少年とお呼びする方がふさわしいぐらいの若い方が乗ってきたもので、この後、彼は自転車の折りたたみを始めました。列車に乗車されるようです。

駅舎内にあった時刻表です。14時15分発の列車はJR口羽(くちば)駅行きでした。三江線の列車は、尾関山駅から北に向かう列車が、1日5本だけ。そのうち、江津駅まで行くのは、早朝に出発する1本のみ。約3時間をかけて江津駅とを結び、さらに、1時間余りかけて山陰本線の浜田駅とを結んでいます。他は、石見川本(いわみかわもと)駅、口羽駅、浜原(はまはら)駅までの区間運転の列車になっています。

駅舎からホームに向かう通路です。ホームまでが長く感じるのは、現在は撤去されていますが、ホームの手前に線路が設置されていたからです。昭和30年開業という比較的新しい建設でしたので、洗練されたつくりになっています。石段を登ってホームに上がりました。

三次駅方面の光景です。1面1線のホームで、右側にホームが設置されています。先ほどふれましたが、かつては、島式ホーム、1面2線の行き違いが可能な駅でしたが、駅舎側の線路を撤去してから、現在の形になったそうです。三次市の市街地にある駅なので、周辺には人家がかなり見られました。

こちらは、粟屋(あわや)駅方面です。列車は、この先で、桜や紅葉の名所で知られる尾関山公園のある下をくぐって進んで行くようです。ホームでは、先ほどの若い方が自転車を袋に詰め始めました。お聞きすると「三江線の全線を訪ねようと思っています。とりあえず、所木(ところぎ)駅に行きます」とのことでした。

駅名標です。尾関山駅は、三次から2.0km、粟屋駅へ3.0kmのところにあります。

三江線活性化協議会は沿線の活性化と利用促進を図るため、三江線の各駅に愛称をつけています。尾関山駅は「紅葉狩(もみじがり)」駅。近くの尾関山が、紅葉の名所であることから名づけられたそうです。

その隣にあった「名所案内」です。長年、ここに立っているようですね。尾関山公園と馬洗川の鵜飼の案内がされています。江戸時代前期の寛政9(1632)年に、広島藩2代藩主浅野光晟(みつあきら)の異母兄、浅野因幡守長治(ながはる)が、三次に支藩を立藩(5万石)しました。三次藩主浅野長治が、尼子氏の落ち武者が始めたこの地にうかいを、鵜匠制度を確立するなど、手厚い保護を与えたことで盛んになったといわれています。なお、藩主の屋敷は、三次小学校の北側、現在、三次コミュニティセンターが設置されているところにありました。

14時15分発の口羽行き普通列車が到着しました。キハ120331号車。ワンマン運転の単行気動車でした。出発間際に高齢のご夫婦が来られて、若い方とともに3名で乗車されました。1日平均乗車人員はどのくらいになるのでしょうか?

列車は、座席の半分ぐらいの乗客を乗せて、定刻に出発していきました。ゆるやかに左にカーブしながら、尾関山公園の下にあるトンネルの中に消えて行きました。

しばらくして、尾関山の左側にある鉄橋上に、再び、姿を現しました。馬洗川が合流した江の川を渡って、粟屋駅に向かって行きました。

ホームから駅舎に帰ります。ホームから見た駅舎です。ホームと駅舎の間には多くの樹木が植えられていて、小さな駅舎を守っているかのようです。絵になりそうな光景です。

ホームと駅舎の間に残っていた花壇の跡です。かつては、ここにきれいな花が咲いていたはずです。

駅舎の脇から見た駅前広場です。広い道路がまっすぐ延びていました。昭和60(1985)年2月1日、尾関山駅は無人化され、乗車券の販売だけを委託する簡易委託駅になりました。それも、平成22(2010)年に廃止され、無人駅になってしまいました。

周囲を歩いて見ることにしました。駅前から右(三次駅)方向に線路と民家に沿って進みます。

駅を利用する人が通ることで道路になったような道で、人が一人やっと歩けるという状態のところもありました。

駅前からまっすぐ延びる通りから、1本南の通りです。三江線の高架が道路を横切っています。

高架橋です。がっしりとしたつくりです。

尾関山駅前にある亀屋商店(写真右のお宅)の脇の道を尾関山公園に向かって歩きます。正面のお宅の前で左折して、線路に沿って進んで行きます。この亀屋商店は、簡易委託駅になったとき乗車券の委託販売をしておられたお店です。

振り返って尾関山駅の駅舎を撮影しました。

その先に尾関山公園の下をくぐるトンネルが見えてきました。

少し登って撮影しました。

その先が、桜と紅葉の名所、尾関山公園です。歩いてきた道は、広々とした駐車場につながっていました。

初めて、JR三江線の駅を訪ねました。
尾関山駅は、過疎路線である三江線のイメージを覆すような市街地の駅でした。訪ねるのも比較的楽でした。
三江線の駅は35駅(JR江津駅・JR三次駅を含む)あります。列車本数が少ない反面、駅数が多いので、廃止になるまでいくつ訪ねることができるのか見当もつきませんが、機会をみて、少しづつ訪ねてみようと思いました。


庄原市東城町の家並みを歩く(2)~新町の家並み~

2017年07月02日 | 日記
広島県東北部の町、庄原市東城町は、かつて、中国山地の各地で”たたら製鉄”によって生産された鉄の集散地として栄えた町でした。旧街道に沿った町の中心部には、かつての繁栄の跡をしのばせる懐かしい町並みが残っています。観光案内所である「東城まちなか交流館えびす」でいただいた「街道東城路 ぶらり散歩マップ」を手に、町並みを歩いてきました。前回は、本町から枡形までまとめましたので、今回は枡形から新町の町並みのようすをまとめることにします。

「散歩マップ」にあった観光地図です。かつて、旧街道を本町(地図の右側)から歩いてきた旅人は、枡形で右折して西(地図の上)に向かい、次の通りを左折して再び南(地図の左側)に向かって歩いていました。

これが枡形付近の写真です。正面が西に向かう通りです。その後、黒い車が出てきた通りに入っていきます。

右折した右側には「ポケットパーク」がつくられていました。ベンチが置かれトイレも設置され、町歩きの人の休憩所になっています。心がなごむ文字通り「小さな庭」になっています。

ポケットパークの向かいのお宅です。常夜灯には「新町」と書かれています。道案内も兼ねているようです。東城町の「町並みづくりガイドライン」には、「歴史を感じることができる町並みの形成に努力しましょう」ということで、「木製の郵便ポスト、木製行燈(あんどん)、や木製常夜灯」など「地域の生活に潤いを与える小物、装置、仕掛けを設けましょう」ということになっています。木製の常夜灯で新町を案内しています。

枡形にあった「街角ギャラリー」。このお宅のNさんが撮影された見事な写真も飾られています。

Nさんのギャラリーの端にあった時計。「ここの時計の時刻は、全然あてにはなりませんぞい!」。そして、「会社に、学校に、バスに、電車に、そして人生に乗り遅れるかも・・」と書かれています。遊び心に思わず笑ってしまいました。

新町には、かつての商家の家並みが豊かに残っています。新町筋に入ってすぐ、右側にあった後藤生酢の製造元の建物がありました。シャッターには「赤酢 広島縣備後国東城町醸造元 後藤生酢醸造場」と書かれています。「マップ」によれば、「130年前から変わらぬ製法で、酒粕を原料に地元の硬水を使い『赤酢』の製造をしている」そうです。漆喰の白壁に鏝絵(こてえ)が描かれています。

これが鏝絵です。左官職人が使う道具の「こて」で、漆喰の塗装材料を塗ってレリーフを描いた作品のことで、民家の壁に家内安全などの願いを込めて飾られました。漆喰は説明によれば「消石灰を主原料として、これに『糊』としての『ツノマタ』(海草の一種)と繊維材料としての『すさ』(麻の繊維を短く切ったもの)を加えたもの」なのだそうです。

玄関前に鏝絵のギャラリーがあったお宅です。数軒先の左側にありました。見事なできばえの作品ばかりでした。

後藤生酢の製造元から先の商家の家並みです。じっと見つめていたいような美しい家並みです。

岸森刃物店と常夜灯、そしてM氏邸です。その先の、通りに日射しが延びているところから右(西)に、暁学池(きょうがくいけ)小路が延びています。享保2(1717)年の町絵図には、この奥に「暁学院」(教学院とも書かれている)という寺院が描かれているということです。「暁」の字は呉音では「きょう」と読むのだそうです。

手前が「後藤生酢売捌所」。先ほどの醸造場でつくられた赤酢を売り捌いているところなのでしょう。そこから2軒目に古河印刷所の商家も見えます。古河印刷所のあるところでは、かつて醤油の醸造が行われていたそうです。

通りの左側の家並みです。一番先にあるのが生熊酒造の建物です。

古河印刷所の向かい側にあったのが、生熊酒造の建物です。幕末の慶応元(1865)年創業。正面の伝統を感じさせる大きな看板には「超群 生熊久太郎醸 広島県比婆郡東城町」と書かれていました。「比婆郡(ひばぐん)」の郡名は、東城町が庄原市と合併した時に消滅しました。「超群」のブランドは、昭和元(1925)年に生まれたそうです。岡山県でも、TVのコマーシャルが流れていてよく知られています。平成27(2015)年に醸造場は移転して、ここでは醸造はしていないそうです。格子が目立つ正面からの姿など、特色ある東城の商家が見られます。

生熊酒造前から見た、この先の新町の町並みです。静かな落ち着いた家並みが続いています。

その先で、旧街道は左にゆるやかにカーブします。新町からの出口が近づいてきました。

カーブが始まって、すぐに左側に「谷繁元信球歴館」という看板が喫茶店のような建物にありました。プロ野球の横浜ベイスターズや中日ドラゴンズで活躍し、後にドラゴンズの監督になった谷繁元信氏の記念館のようです。時間の関係で素通りしてしまいました。ひょっとして谷繁監督のご実家なのでしょうか?

新町から広い道路に出ました。正面に見えたヤマモトロックマシン株式会社(旧山本鉄工所)の旧自治寮の木造の建物です。平成28年2月25日、工場棟5棟、旧自治寮3棟が、国の登録有形文化財に登録されました。昭和初期に、地元の棟梁である曽田敏郎氏が建設したもので、「日本の木造建築の黄金期である当時の姿をとどめている」ことが評価されたようです。ガイドに掲載されていた、当時の社員寮だった緑色の3階建ての自治寮を撮影しようと思いましたが、敷地内に入らなければ難しく、これが精一杯でした。

登録有形文化財の建築物群の向かいにあった、ヤマモトロックマシンの工場です。現在の東城町を代表する工場で、削岩機の製造では日本でも有数の企業だそうです。

この後、ヤマモトロックマシンの会社の前の道を進み、五反田橋で東城川を渡って進むと、左側にモダンな建物が見えてきました。庄原市東城支所の建物です。前回、まとめた館町(以前の家中町)に、昭和5年ごろ、東城町役場がありました。発展する東城町を象徴するようなモダンな建物に変わっていました。隣にあった消防署の建物とうまくマッチしていました。

庄原市東城町は、魅力的な町でした。江戸時代から明治・大正・昭和の時代の建物が残り、当時の面影を今に伝えてくれています。
そんな貴重な町並みを守るべく、「町並みづくりガイドライン」を作成し保存につとめておられる多くの方がいらっしゃいます。
私にとっては、時々乗車してみたくなるJR芸備線に乗っているうちにたまたま出会った町で、こんな美しい町並みが残っていることをまったく知りませんでした。
また、訪ねてみたくなるような、いい町でした。

庄原市東城町の家並みを歩く(1)~本町の家並み~ 

2017年06月30日 | 日記
広島県北部の町、庄原市東城町にあるJR東城駅を訪ねた日(「JR芸備線の駅らしくないJR東城駅」2017年5月26日の日記)、駅前の町の案内図を見て、ゆっくり歩いてみたいと思っていました。

この日も、JR岡山支社管内の乗り放題きっぷ「吉備之国 くまなくおでかけパス」をもって、新見駅発13時01分発の芸備線の列車で出かけました。写真はJR東城駅の駅舎とトイレです。どちらもリニューアルされており、モダンな建物になっています。

駅前からトイレに向かう途中にあった観光地図です。東城駅の西側を、東城川が北から南に流れています。東城川のさらに西側に広がるのが東城の町並みです。町並みの中央を旧街道が通っています。中国山地の村は、古くから「鉄穴(かんな)流し」によって砂鉄を採取し、炉で溶鉱して銑鉄をつくる「たたら製鉄」が盛んでした。江戸時代から明治時代にかけて、東城の町は鉄の集散地として知られ、東城川を舟に乗せて、また、東城往来を馬の背に乗せて、運ばれていました。鉄はさらに、東城から成羽を経由して倉敷市(岡山県)に送られ、そこから全国に運ばれていました。こうして、東城は、江戸時代を通して、多くの物資が集まる商業町として栄えていました。

駅前広場から、東城川にかかる駅前橋を渡り、西に向かって歩きます。

ゆっくり歩いて10分ぐらいで東城高校南の交差点に着きました。文明堂という屋号のお店の手前を左折して、旧街道に入ります。中国山地の各地から鉄を運んだ道であった旧街道は、現在は「街道東城路」と呼ばれ、町おこしの中心になっています。

この地図は、この先の「東城まちなか交流施設えびす」でいただいた「ぶらり散歩マップ」に載っていたものです。地図の右側が北の方角にあたります。北から南に向かって、「街道東城路」を歩くことにしました。

旧街道です。かつての街道の面影を残す家並みが続いています。上本町の家並みです。

歩いて5分ぐらいで着いた、右側の大きな邸宅の一角に手作りの案内図がありました。地元の町おこしグループの人たちがつくられたもののようです。この邸宅は「三楽荘」(旧保澤家)で、現在は、東城町に寄贈され東城の歴史と文化を継承する施設になっています。元は、呉服反物商、醤油の醸造業を営んでいましたが、昭和24(1949)年から旅館業に転業し、旅館「三楽荘」として多くの人に親しまれていました。写真の手前の建物は離れと門、いずれも建築当初の建物がそのまま残っています。

旧保澤家の本館と隣接する別館の一部を撮影しました。本館は、明治24(1891)年に、東城の名匠といわれた棟梁、横山林太郎氏によって建てられたものだそうです。内部には、昭和5(1930)年、三神線(JR芸備線の前身)が東城まで延伸した当時の町図が展示されています。
そこには「広島県備後国東城村 醤油醸造 呉服反物 保澤定四郎」と書かれていました。

三楽荘の内部です。どっしりとした、重厚なつくりの内部です。三楽荘は、明治42(1909)年に建設された離れと、土蔵(明治26年建築)、茶室と門(どちらも昭和前期の建築といわれる)が残っていること、今日では入手の困難な高価な木材を使用していることなどにより、平成23(2011)年に国の登録有形文化財に登録されました。

三楽荘(旧保澤家住宅)の本館の前から、街道筋から離れ、東に延びる備中町を東城川に向かって進みます。この道はかつての備中街道。岡山県の西部に向かう道だったといわれています。

東城川の手前、右側にあった「備中町胡(えびす)」と常夜灯(金比羅灯籠)です。江戸時代の元禄年間(1688~1704)、広島の胡子(えびす)神社から勧請されたと伝えられています。東城の町の7ヶ所にあり、「備後東城の7胡(ななえびす)」と呼ばれています。胡様は商売繁盛の神、江戸時代の町衆の心意気を感じます。常夜灯には、「寛政十年仲秋」という銘があり、江戸時代、東城川を往来する川舟に対して、灯台の役目を果たしていたようです。

その先の東城川にかかる大橋です。東城で最も古い橋だといわれています。欄干のデザインや「おおはし」の銘から長い歴史を感じることができます。

大橋の上から見た東城川の下流方面です。左岸には、昭和5(1930)年頃植えられた桜並木が続いています。三神線の開通を祝って植えられたのでしょうか。今は水量がさほど多くありませんが、江戸時代には川舟が往来し、鉄や米などの物資が集まり、鉄はさらに成羽まで運ばれていました。

東城川から三楽荘の前に戻ります。今度は、三楽荘の南側から右に入る通りである「但馬屋小路」に入ります。東城の町は、現在「街道東城路」と呼ばれている本町の通りのような3本の大路とそれらをつなぐ但馬屋小路のような小路によって形づくられています。写真の右側は三楽荘の白壁です。正面に浄土真宗の禅佛寺があります。東城は、江戸時代中国山地の各地から多様な物産が集まる商業町の印象が強いのですが、地元の人々は”城下町”で町おこしをしておられます。

禅佛寺の前を左折します。戦国時代に、宮氏がこの地に五本竹城(ごほんがたけじょう、後に「五品嶽城」と書かれるようになります)を築き、この地を治めていました。関ヶ原の戦いの後、福島正則が広島城主となり、家老の長尾隼人正一勝が五品嶽城に入り東城を治めることになりました。現在の東城の町は長尾隼人正が計画的に整備したものだといわれています。

禅佛寺の土塀の先で、道は枡形になります。しかし、元和元(1615)年に一国一城令が出されて、五品嶽城は廃城となりました。その後、元和5(1619)年には広島城主の福島氏が改易となり、浅野氏が広島城主になりました。それに伴い、長尾氏は美作国津山に去り、浅野家家老の亀田高綱が、続いて、寛永18(1641)年からは、浅野高英が東城の支配者となりました。こうして、幕末まで浅野氏の支配が続くことになりました。

枡形から、山裾を走る国道314号に続く道です。写真の奥の横断陸橋は、山裾を走る国道314号を渡るために設けられています。そこから「世直神社(よなおりじんじゃ)」を経て、五品嶽城へ登る登山道が延びています。観光案内所である「東城まちなか交流施設えびす」でお聞きすると「最近、まむしがでるという話しがありますので・・」とのことでした。江戸時代の初頭の姿がそのまま残っていて、学術的に貴重な城跡なのだそうです。ちなみに、世直神社は、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)を祭神とする神社。天正19(1591)年に、五本竹城の城代だった渡辺内蔵が伊勢から勧請したといわれています。枡形を左に入り、館町(旧家中町)を歩きます。「家中町」という名前のとおり、江戸時代に家老に従った武士(東城勤番家中)が居住していたところです。

これは、三楽荘に展示されていた「三神線東城駅開通当時(昭和5年)の商店広告とまちなみ」の図です。左右の道(大路)が3本町を通っています。一番下の通りから下(西)に延びているのが横断陸橋に続く通りです。その起点にある小さな枡形の右側に「検番」の文字が読めます。「検番所」があったところのようです。そこから道を進んだところにある「東城町役場」と書かれている辺りまで、武家屋敷が続いていたようです。3本あった大路の一つを南(右)に向かって歩きます。道幅の広さや民家の石垣に、かつての武家屋敷の雰囲気を感じることができました。

館町をさらに進みます。左のお店のすぐ先に「街道東城路」とをつなぐ「家中小路」がありました。三楽荘にあった掲示物の「まちなみ」を見ると、家中小路の右側に、以前東城町役場がありました。広島城主の命で東城を治めていた長尾隼人正などが勤めていた陣屋は、町役場のあるあたりにあったといわれています。写真の右側の建物の先の空き地のあたりになるのでしょうか?

三楽荘に戻ってきました。「街道東城路」をさらに南に向かいます。左側に、浄土真宗正翁山徳了寺の山門が見えました。

徳了寺の山門です。慶長9(1604)年、当時この地を治めていた長尾隼人正から、鉄などの商いで財をなした有力商人である大坂屋新左衛門と和泉屋与兵衛が寺地を願い受けて建立した寺だそうです。この中に国境石が保存されていました。

徳了寺の本堂の脇に、岡山県と広島県の県境、二本松峠にあった備中国と備後国の境界に設置されていた国境石がありました。左側の石碑には、正面に「従是西備後国」裏に「奴可郡福代村」、右側の石碑には、正面に「従是西芸州領」、右の側面に「従是西備後国」と刻まれていました。もちろん、保存のためにここに移したものです。

徳了寺の向かい側にあった「上本町胡」です。これも「備後東城の七胡」の一つです。その脇にあった天保年間創業の北村醸造場。清酒「菊文明」で知られています。江戸時代に建てられた蔵を、今も一部使っているそうです。

情報をいただいた「東城まちなか交流施設えびす」です。旧街道の左側にありました。

しまなみ信用金庫の先が「家中小路」。その手前にあった「下本町胡」です。祠だけの胡が多いのですが、この胡は、玉垣のついた立派なつくりでした。ここで右折して、家中小路を進めば、旧東城町役場があったところ(江戸時代に陣屋があったところ)に着きます。

「ぶらり散歩マップ」にあった観光地図です。本町からまっすぐ南に進むと、その先に、城下町や宿場町に多く見られる枡形があります。再び、東城路から離れ、家中小路の入口のところから、今度は左折して東城川に向かって歩きました。

東城川の手前にあった豊国山西方寺の山門です。東城勤番家中の菩提寺として知られています。山門前の「案内」には、「寛文8(1668)年の東城の大火災の際に焼失し、宝暦(1751~1763)年間に再興された」と書かれていました。寛永5(1641)年に、広島藩主浅野家から東城の領主を命じられた家老浅野孫左衛門高英が、西方寺を回向(えこう)所として定めたことに始まります。

西方寺は、2階建ての本堂をもつ寺院としても知られています。

山門から北に延びる通りの入口付近にあった浜栄町胡です。このあたりは、かつての浜栄町で、東城川の舟運で開けた宿場町として繁栄していたところです。現在は後町になっています。この通りが3本あった大路の3つ目です。

「街道東城路」に戻ります。再度、南に向かって進みます。その先で国道314号を渡ります。

枡形の手前にあった、道路脇の溝を渡る石製の橋。かつての雰囲気を伝えています。

枡形です。旧街道はここで右折します。そして、車が出てきていた通りにつながっていました。枡形の先は新町になります。

古い町並みが残る、庄原市東城町。中国山地の商業の中心都市として繁栄してきました。
現在も古き良き時代の雰囲気を残すために、町並み保存に努めています。
次回の日記では、枡形の先、新町に残る商業町の名残を訪ねて歩きます。

JR芸備線の駅らしくないJR東城駅

2017年05月26日 | 日記
岡山市西北部の山間の駅JR備中神代(びっちゅうこうじろ)駅から広島県のJR備後落合駅を経由してJR三次駅にいたるJR芸備線。実際の運行は、JR新見駅からJR備後落合駅、備後落合駅からJR三次駅、三次駅からJR広島駅までの間で、区間運転が行われています。新見駅から備後落合駅まで行く列車は1日3本という超過疎路線であり、広島県に入ってからは、利用者のきわめて少ない、”秘境駅”の雰囲気を感じる駅が続きます。

私にとって、芸備線は乗って見たくなる鉄道です。これまで、備後八幡駅(「帝国製鉄のトロッコ線があった駅、JR備後八幡駅」2017年5月13日の日記)、小奴可駅(「1日平均乗車人員1名!JR小奴可駅」2017年2月24日の日記)、備後落合駅(「滞在時間12分、”秘境駅”JR備後落合駅」2016年2月24日の日記)、道後山駅(「JR芸備線の”秘境駅”道後山駅」2016年8月27日の日記)、内名駅(「1日3往復の”秘境駅”JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)を訪ねてきました。この日は東城駅を訪ねることにして、起点の新見駅に向かいました。今回も、13時01分に出発する列車に乗車しました。備後落合駅行きのワンマン運転の単行気動車、キハ120328号車です。

JR伯備線を北に向かいます。二つ目の備中神代駅から芸備線に入りました。写真の左側は伯備線です。車内には鉄道ファンと思われる方が多数乗車されており、座席も7割程度が埋まっていました。

周辺には、中国山地の集落や田植えを終えたばかりの田んぼが広がっています。

新見駅から約30分、岡山県側の県境の駅、野馳(のち)駅に着きました。改札口の設備がそのまま残っていました。

大竹山トンネルを越えて、広島県に入りました。広島県に入って最初の駅が東城駅です。中国山地の村は、昔からたたら製鉄がさかんなところでした。鉄穴(かんな)流しによって集められた砂鉄を原料に、豊富な木材を燃料にしてつくられた銑鉄(せんてつ)は、馬の背や舟によって運ばれ東城に向かいました。そこからさらに、主に高瀬舟によって成羽に。そこから倉敷まで運ばれていました。東城は鉄の集散地として、江戸時代の最盛期には、たくさんの鉄問屋が軒を連ねていたといわれています。このように、東城は、中国山地の商業・交通の中心地として繁栄していたところです。

野馳駅から6分ほどで、めざすJR東城駅に着きました。下車したのは、地元の方と思われる女性と私の2人だけでした。東城駅の1日当たりの平均乗車人員は9人とのこと。ちなみに、備後落合駅までの広島県内の芸備線の各駅の平均乗車人員は、備後八幡駅0人(1人未満)、内名駅1人 小奴可駅1人、道後山駅0人(1人未満)、備後落合駅15人になっているそうです(データはいずれも2014年)。乗車してきた列車は、すぐに、次の備後八幡駅に向かって出発していきました。

駅名標です。東城駅は野馳駅から5.2km、次の備後八幡駅まで6.5kmのところ、広島県庄原市東城町にあります。東城の町は、関ヶ原の戦いの後、広島藩主となった福島正則の家老、長尾隼人正一勝によって、陣屋町として整備されました。その後、福島氏は改易となり、浅野氏が広島藩主に替わりますが、東城には、家老の浅野孫左衛門高英が配置されることになりました。こうして、明治維新まで浅野氏がこの地を治めました。戦国時代、五品嶽城(ごほんがたけじょう)の城下町として栄えたこともあって、東城は城下町の面影を残した町として知られています。

備後八幡駅方面です。写真からは見えませんが、線路の左側には工場があり、広々とした印象でした。2面2線のホームが広がっています。実際には、向こう側のホームには行くことができません。山の斜面には造成された墓地もあり、都市の雰囲気を感じる駅です。これまで訪ねてきた「芸備線の駅」とは違った空気を感じていました。

こちらは、岡山県側の風景です。跨線橋で、向こうのホームに渡る構造になっています。遠くの山々が見えました。東城駅は、芸備線の前身の三神線が東城駅まで開通した、昭和5(1930)年に開業しました。そして、5年後の昭和10(1935)年に小奴可駅まで延伸するまで、終着駅になっていました。

ホームを跨線橋に向かって歩きます。跨線橋の入口は塞がれていました。「老朽化のため、上らないでください」と書かれていました。ということは、2面2線のホームで、線路はつながっていて信号も作動していますが、実際に使用されているのは、駅舎に近い方の線路(2番線)だけ、1面1線のホームということになります。

跨線橋の登り口のところからホームを撮影しました。駅舎の白い壁が印象的です。清潔でモダンな雰囲気を演出しています。しかし、これまで
訪ねた駅より、数段新しい駅舎です。ホームの柱に貼られていた「塗装管理標」には「平成9年1月」と記載されていましたので、このとき、リニューアルのため塗り直されたのでしょう。

改札口です。これもリニューアルされていました。駅スタッフによる改札のときに使用されるようですね。無人駅になっていましたが、平成16(2004)年から簡易委託駅としてキップの販売だけが復活しています。これからも、スタッフがここに立つことはないのでしょう。

正面から見た東城駅舎です。入口から入って右側は待合いのスペース。左側は駅事務所になっています。

外から見た駅舎の東側です。トイレが設置されています。トイレもリニューアルされていました。

駅舎への入口から駅舎内を撮影しました。赤い自動販売機の奥の柱に貼ってある方形の白い部分は、「建物財産標」です。

「昭和5年11月」と記載されています。三神線が東城駅まで延伸したときに建設されたことを表しています。

駅舎内の左側にあった駅の窓口です。この時間、受託者側のスタッフはおられませんでした。

改札口に隣接した待合室です。

待合室にあった時刻表です。この先、備後落合駅に向かう列車が3本、新見駅方面には6本の列車の発車時間が書かれています。東城駅で折り返す列車が3本あるからです。新見方面行きの始発列車は5時22分、備後落合駅行きの始発列車が5時46分。最終列車の備後落合駅行き19時03分発、新見駅行きが21時00分発になっています。始発の新見駅行きは折り返し運行ではなく、前日の22時21分に到着する列車が夜間滞泊して、翌朝の5時22分に出発するダイヤになっています。

運賃表です。岡山駅まで1,940円。この日は、1,950円で購入したJR岡山支社管内の乗り放題キップである「吉備之国 くまなく おでかけパス」でここまでやって来ました。ほぼ片道の運賃で往復できる「お得なキップ」になっています。

駅舎内にあった備北交通の時刻表です。これによると、広島市まで2時間半ぐらいで行くことができます。ここから、13時37分発の列車で行くと、備後落合駅に14時25分に着きます。そこから、三次駅行きの14時38分発の列車で三次駅着16時00分。16時03分発の広島駅行き快速”みよしライナー”に乗り継いで、広島駅着は、17時29分です。ざっと3時間程度かかります。

東城駅前にある備北交通の車庫です。中型バスが1台休憩していました。

16時50分、新見駅からきた列車が到着しました。この列車は、東城駅で折り返して新見駅に帰る列車になります。駅舎寄りのホームに入線しています。この列車は、この後17時09分に出発し、17時44分に新見駅に到着することになっています。

新見駅から備後落合駅に向かう芸備線は、1日3本しかない超過疎路線です。かつて、備後落合駅を訪ねたときには、次の列車までは5時間35分のインターバルがありましたので、滞在時間12分で、折り返し列車で引き返したことがありました。秘境駅の雰囲気を強く残す、備後落合までの駅の中で、唯一訪ねていなかった東城駅を、この日訪ねてきました。駅舎はモダンで整備が行き届いており新しい駅といってもいいぐらいでした。東城の町は、江戸時代に陣屋町として栄えた、この地域の中心都市です。そういった歴史が駅舎にも影響したのでしょうか。超過疎路線には不釣り合いなぐらい洗練されたモダンな駅でした。












帝国製鉄所へのトロッコ線があった駅、JR備後八幡駅

2017年05月13日 | 日記
私には、ときどき乗ってみたくなる鉄道があります。JR芸備線です。岡山県側のJR備中神代(びっちゅうこうじろ)駅からJR三次駅を経て、JR広島駅にいたる全長159.1kmの鉄道です。実際の運用は、JR新見駅・備後落合駅間、備後落合駅・三次駅間、三次駅・広島駅間で、区間運転が行われています。前回、芸備線の小奴可駅を訪ねたとき(「1日平均の乗車人員1名!JR小奴可駅」2017年2月24日の日記)、次はJR備後八幡(びんごやわた)駅を訪ねてみようと思っていました。この日は、久しぶりに芸備線に乗ってみることにしました。

JR西日本岡山支社管内の鉄道の1日乗り放題キップである「吉備之国 くまなく おでかけパス」をもって、JR新見駅で芸備線の列車に乗り継ぎ、備後八幡駅に向かいました。

芸備線で備後八幡駅に行く列車は1日3本しかありません。新見駅を13時01分に出発するワンマン運転の単行ディーゼルカーのキハ120336号車で、45分余。備後落合駅に着きました。”乗り鉄”と呼ばれている人たちで混み合っていましたが、下車したのは私一人。乗車した人はおられませんでした。ちなみに、備後八幡駅の1日平均乗車人員は、なんと0人(2014年)でした! 正確には1人未満ということになるのでしょう。

備後八幡駅は、広島県庄原市東城町菅(すげ)にあります。一つ前の東城駅から6.5km、次の内名駅まで3.7kmのところです。次のJR内名駅は、牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の28位にランクしている「秘境駅」として知られています。内名駅はすでに訪ねています(「1日3往復の秘境駅、JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)。

これは、備後八幡駅のホームから見た内名駅方面です。2面2線のホームが見えました。しかし、運行される列車が1日3本になった今では、向こう側の線路は分断されており、使用されているのは、手前のホームと線路のみという、1面1線のホームになっています。ホームが途切れるあたりに踏切がありました。また、山の麓にはまとまった集落がありました。

向こう側のホームにあった駅名標の名残です。駅名の部分が剥ぎ取られて本体だけが残っている、痛々しい姿です。

こちらは、東城駅方面。向こう側の線路も途中で途切れています。線路の先に集落が見えています。また、向かいのホームの後方に、工場らしい白い建物が見えました。

東城寄りの線路が途切れているところです。白い工場の建物の中心にブッシュが見えました。この後、この工場を訪ねるつもりでした。

ホームから駅舎に向かいます。駅舎の向こうで、ホームにせり出しているのはトイレ。ホームから駅舎への入口には、改札口の設備の一部が残っていました。

駅舎内に入ります。左側の壁面に掲示されていた時刻表と運賃表です。1日3往復の列車の時刻が記されています。備後落合行きが5時57分発、乗ってきた13時47分発、19時14分。新見行きが7時19分発、15時14分発、20時49分発です。私は15時14分発の列車で新見駅に戻るつもりでした。もし、乗り遅れたら、次は20時49分までありません。芸備線に乗る旅は、いつもひやひやしています。

かつての駅によく見られた、壁に作り付けのベンチが残っていました。改修されているのでしょう、表面はきれいになっています。備後八幡駅は、備中神代駅から西に向かって延伸していった三神線(後、芸備線)が、昭和10(1935)年に東城駅から小奴可駅まで延伸したときに開業しました。木製の柱に開業当時の面影を感じることができます。

駅舎から駅前広場に出ます。駅舎への入口です。ドアの上部の梁の部分に、白い方形をした掲示物が見えます。

掲示されていたのは、「建物財産標」でした。「昭和9年9月」と書かれています。備後八幡駅が開業したのは、昭和10(1935)年6月でした。建設時に貼り付けたのでしょうか? 

駅舎の外観です。備後八幡駅は、かつての駅事務所があった部分を取り壊し、待合いのスペースだけを残したようです。建物の右側にはトイレが設置されています。かつての駅事務所は駅舎の左側、樹木の向こう側にあったようです。

駅舎の左側です。地面にコンクリートが打ってあるところが、かつて駅舎があったところです。

駅舎から左側に上っていくと、民家が並ぶ通りに出ます。

これは振り返って駅方面を撮影した写真です。途中にある白い看板がある赤い屋根の建物は菅簡易郵便局です。現在は、新見駅管理の無人駅になっていますが、備後八幡駅は、平成24(2012)年4月27日まで、200円区間のキップ(東城駅行きと小奴可駅行きのキップ)だけを販売する簡易委託駅になっていました。そのとき、受託していたのがこの郵便局だったそうです。

駅舎の前から、内名駅方面に向かって進みます。ホームから見えた踏切の近くに倉庫がありました。右側に金属の柵が見えています。

壁に書かれていたマークです。おなじみの農協(現JA)のマークです。かつて、貨物輸送が盛んだった頃には、全国の鉄道駅の近くに設置されていた農協の倉庫です。鉄道で輸送する米などの農産物の保管のためにつくられたものでした。かつて、備後八幡駅は貨物の取扱いが多い駅として知られていました。

農協倉庫の右側の柵があるところから下って踏切に向かいます。踏切の中央から見た備後八幡駅です。現在は、使用されていないホームの外側に広いスペースが残っています。

使われていないホームの先に残っていた線路跡です。かつての貨物側線跡です。

現在は、線路もホームも草に覆われてしまっています。左側の道路を進んで行きます。

道路は、備後八幡駅を過ぎたあたりで左に曲がって下っていきます。そして、その先の菅竹(すげたけ)橋で成羽川を渡ります。成羽川の右側に、鉄道の橋梁跡が残っています。ホームから見えた白い工場のところにあった橋梁です。工場の近くで草刈りをしておられた方のお話をお聞きすることができました。

白い工場は、広島和田金属東城工場です。お話では「自動販売機やATMの機器をつくっている会社」だそうで、昭和46、7(1971、2)年頃に操業を始めた」そうです。しかし、ここには、かつて、砂鉄を原料にした製鉄工場がありました。帝国製鉄株式会社の竹森工場でした。

製鉄工場に、備後八幡駅からまっすぐ延びていたナローゲージのトロッコ線がありました。製鉄のために使われた木材や薪、できあがった製品の輸送が行われていたそうです。橋桁の上には枕木が放置されていました。

成羽川を渡る橋梁跡です。お話では、菅竹橋を渡って左に山沿いに進んでいったところに、製鉄工場の従業員の住宅があったそうです。

成羽川を渡った対岸です。トロッコ線の線路跡に上りました。写真の中央から左下に向かう築堤が見えました。角度が悪くて見ることができませんが、中央のブッシュの向こうに備後八幡駅があるはずです。

トロッコ線の延長線上にあったコンクリート製の構造物です。トロッコ線のホームのようにも見えますが・・。

お近くにお住まいの方のお話によると、「大正時代から東京オリンピックの頃まで、砂鉄や木炭を使った製鉄工場があり、この近くの人たちも働いていました」とのこと。「菅竹小学校は、平成15(2003)年に廃校になったけど、子どもたちのために、製鉄工場の資料をつくったこともあった」そうです。自宅に帰って確認したところ、帝国製鉄竹森工場は、昭和37(1962)年に閉鎖されていました。写真は、工場の近くにあったお宅の手前に残っていた水路跡です。「上部も残っているけど上っていくのは難しい」そうです。

お宅の中から許可を得て、水路跡を撮影しました。大きなコンクリート製の水路でした。製鉄所で使用する工業用水が流れていたはずです。

これもお宅の中にあった、「従業員の方が仕事が終わった後、水をかけたり体を拭いたりしていたところだ」そうです。

現在は、1日平均乗車人員は0人(1人未満)といわれるJR備後八幡駅でしたが、かつては製鉄所があり、鉄道輸送も盛んな駅だったようです。お忙しいときにお話をしてくださった地元の方に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

登録有形文化財のトレッスル橋、信貴山の開運橋

2017年05月04日 | 日記

冬にJR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅を訪ねました(「JR山陰本線の”秘境駅”餘部駅」2017年1月14日の日記)。写真は、その餘部駅に接するようにあった2代目の余部(あまるべ)橋梁です。平成22(2010)年8月12日に供用が始まりました。その一部に赤い塗装の部分があります。これは、日本最長のトレッスル橋として知られた初代の余部橋梁(長さ309m)の一部を復元したものです。余部橋梁と聞いて思い出すのが、昭和61(1986)年12月28日の13時15分頃に起きた、回送中の団体臨時列車”みやび”の転落事故のことです。その事故から24年後の平成22(2010)年7月16日、初代餘部橋梁は供用を終了しました。

「ウイキペディア」によれば、平成23(2011)年現在、かつての余部橋梁に代わって南阿蘇鉄道の立野橋梁(長さ136.8m)が、道路橋では旧国道4号の青岩橋(長さ189m)が、トレッスル橋として最長の橋梁だといわれています。写真は、開運橋(かいうんきょう)です。奈良県の信貴山門駅と朝護孫子寺の間にある大門池に架かっている橋です。この橋も、トレッスル橋として知られています。この日は、トレッスル橋で登録有形文化財に登録されている開運橋を訪ねることにしました。

近鉄の鶴橋駅から”大阪・山田線”で河内山本駅へ。そこから近鉄信貴線に乗り換えて信貴山口。そして、ケーブルカーに乗り継いで高安山駅。さらに、近鉄バスで、信貴山門バス停まで行くルートです。鶴橋駅で580円のキップを購入しました。河内山本駅です。

向かいのホームから、近鉄信貴線の電車に乗車します。信貴山口駅まで2.8km。昭和5(1930)年12月25日に、大阪電気軌道(後に近鉄となる)によって開業しました。信貴山朝護孫子寺の西側のルートとして、信貴山電気鉄道の鋼索線(現・西信貴ケーブル)と山上鉄道線(現・近鉄バスの信貴山門バス停まで)とともに開業しました。2両編成で、近鉄信貴線内の折り返し運転をしています。

2両編成(1432号車・1532号車)の電車で5分、頭端式の信貴山口駅に着きました。大きな上屋に覆われている駅です。

西信貴ケーブルの案内にしたがって、下車して進み左に進むと、西信貴ケーブルの乗り場があります。高安山駅まで、7分で上がるようです。西信貴ケーブルは朝夕は30分ごと、日中は40分ごとに運行されています。待ち時間がたっぷりありました。ケーブルカーを楽しむことにしました。

ケーブルカーの乗り場に向かってスロープ状の通りを上っていきます。黄色いケーブルカー”ずいうん”です。ケーブルでつながっているもう一つの車両は”しょううん”です。先ほど書きましたが、昭和5(1930)年に信貴山電気鉄道(その後、昭和6=1931年に信貴山急行電鉄と改称、昭和19=1944年に近鉄に合併)によって開業しましたが、太平洋戦争の戦況の悪化により、昭和19(1944)年4月1日に営業停止となり、施設も撤去されました。

復活したのは、昭和32(1957)年のことでした。近鉄信貴鋼索線として復活し、山上線はバス路線として営業を再開しました。待機していた”ずいうん”号です。イエローの車体に”しぎとらくん”が描かれています。信貴山朝護孫子寺は、この後書きますが、「寅」に深い縁のあるところなのです。

これは、ケーブルの側面にあったプレートです。昭和32年に復活してから、今年で60年になりますが、車両も復活したときにデビューしたもののようですね。還暦を迎えた車両が現役で頑張っています。車両はコ7形。最大乗車人員171人、自重12.0トンです。終点の高安山(たかやすやま)駅の標高は420mですから、高低差354m、距離にして1,263mを、時速11.7kmで7分かけて登って行きます。
  
スロープの脇にあった勾配標です。この地点の勾配は169.5‰(パーミル)です。右側は、構内にあった説明板です。登るにしたがって勾配がきつくなり、最後は480‰。最大(急?)勾配は480‰(1000m進んで480m登る勾配)になっています。

ここで、ケーブルカーに描かれている「寅」と信貴山朝護孫子寺の関わりをまとめておきます。写真は朝護孫子寺の本堂です。毘沙門天王が祀られています。また、真っ暗な闇をたどる戒壇(かいだん)めぐりの戒壇が本堂の地下につくられています。

信貴山朝護孫子寺は聖徳太子が開祖であるという伝説があります。それによれば、聖徳太子が物部守屋を討つための移動中、この山で戦勝祈願をしたとき、毘沙門天王が突如出現し必勝の秘法を授かったそうです。そのときが、奇しくも寅の年、寅の日、寅の刻だったそうです。その後、太子は見事に物部守屋を討ち果たし、伽藍を創建し「信貴山」(信ずべし・貴ぶべき山)と名づけたそうです。この伝説により、信貴山の毘沙門天王は、寅に縁のある神として信仰を集めているそうです。そのため、阪神タイガースの選手が必勝祈願に訪れるところともなっています。これは、朝護孫子寺の赤門の前にある”大寅”です。そして、赤門には「毘沙門天王日本最初出現霊場 聖徳太子御遺跡第二十番霊場」と書かれています。寅と朝護孫子寺とのかかわりが、強く感じられます。

”ずいうん”の内部です。171人乗りのケーブルカーです。天井には扇風機が設置されていました。

出発です。中間地点ですれ違った”しょううん”です。西信貴ケーブルには、前方に貨車を連結する設備がついているそうです。

高安山駅に着きました。正面の建物の中でケーブルの操作をされる方の姿が見えました。階段を上って出口に向かいます。

外から見た、ケーブルの高安山駅舎です。

駅前のバス停から、信貴山門バス停に行く近鉄バスに乗り継ぎます。このルートはかつての信貴山電鉄の山上鉄道線(2.1km)の跡地にあたります。太平洋戦争中に営業停止となり、施設も撤去されました。そして、昭和32(1952)年、ケーブルカーの復活に合わせて、バスの運行が始まりました。

信貴山門バス停から、信貴山朝護孫子寺に向かって歩きます。桜の季節から青葉の季節になった信貴山です。アーケードの先を左折して進むと、信貴山観光ホテルに突き当たります。

信貴山観光ホテルの前を右折して進むと、すぐに”お食事処 松月”です。左折すると、めざす開運橋に着きます。

開運橋です。入口の車止めにも寅のデザインが使われています。開運橋は、手前の奈良県生駒郡三郷町と向こう側の奈良県生駒郡平群町の間にある大門池に架かっています。信貴山にお詣りするためには、池の周りを迂回しなければならない不便を解消するために、昭和6(1931)年12月に、旧橋梁株式会社の社長さんが、開運橋を建設し信貴山朝護孫子寺に寄進したということです。

開運橋から見た開運大橋。車でやってきた人は、この橋を利用して朝護孫子寺に向かいます。開運橋は、すでに、主役の座を開運大橋に譲っているようです。

これは、開運大橋から撮影した、トレッスル橋の開運橋です。「トレッスル」とは「架台」とか「うま」という意味で、橋桁を支える橋脚が鉄骨を組み合わせてつくられていることに特色があります。橋梁を陸上に築く場合には、使用する部材が少なくてすむというメリットがあるそうです。正面にある白い建物は、開運橋に来るときに通った信貴山温泉・信貴山観光ホテルです。

これは、開運橋を渡った先にあった案内板です。開運橋は、平成19(2007)年に、文化庁の登録有形文化財に登録されました。我が国に現存する最古の”カンチレバー橋”であることとトレッスル橋であることが、登録に大きく影響したと説明されていました。

案内板の説明です。それによれば、開運橋は、長さ106m、幅4.2m。トレッスル構造の橋脚が2基、コンクリート造りの橋台が両端にあるという構造になっています。また、橋桁の構造は三角形を組み合わせたトラス式。橋桁の上面を通る上路式の構造です。ちなみに、2つの橋脚の間は105.75mあるそうです。説明の中に黒い三角形で示されたところには「支点」と書かれています。

橋は橋脚と両端の橋台によって支えられていますが、その支えられている点を「支点」と呼んでいるそうです。写真では、橋脚から湾曲してきた橋桁の下部が水平になる、右側の橋桁の下の部分が「支点」にあたるところのようです。

これは、生駒郡三郷町の側の橋脚です。細長い鋼製の部材をトラス状(三角形が基本の構造)に組み立てた骨組みでできた橋脚になっています。これが、トレッスル橋と呼ばれる構造です。

登録有形文化財に登録される大きな要因になった「上路カンチレバー橋で、現存する最古のもの」についてですが、橋桁の構造が、ちょうどプールの飛び込み台のようになっている「片持ち梁(かたもちはり)」のことです。梁(はり)の両端の一方が固定され、他の一方は固定されていない構造体のことをいうそうです。連続した橋桁の途中に鉛直方向に回転が自由なピンを用いて、隣の橋桁を支える構造になっている橋梁のことです。この構造は経済的にできるため、以前は多く建造されたそうです。開運橋は、現存する「上路カンチレバー橋」の中で最古のものであることが評価されたそうです。

トレッスル橋とカンチレバー橋で登録有形文化財に登録されている開運橋は、橋梁会社の社長さんが寄進された橋でした。現在では、橋の中央に、「バンジージャンプ」の体験ができる設備がつくられていました。勇気ある若い人たちが、橋の上から池に向かってジャンプしていました。

距離的には、長くはなかったのですが、近鉄の電車、ケーブルカー、近鉄バスを乗り継いだため、ずいぶん遠くに来たような印象でした。私自身が、構造物より乗り物が好きだからでしょうか、開運橋よりも西信貴ケーブルの方が、印象に残った旅でした。

日本で2番目に古い現存駅舎、JR善通寺駅

2017年04月21日 | 日記
現在、日本にある現役駅舎の中で、最古のものは、明治19(1886)年に開業したJR武豊線の亀崎駅舎だといわれています。現在の東海道線が開通したときに開業しました。しかし、この駅舎は再建されているという説もあり、その場合には、JR土讃線の善通寺駅だといわれています。このところ、明治20年代に開業した現役駅舎を訪ねています。これまで、明治27(1894)年に開業したJR播但線の香呂駅(こうろえき・「明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(2)JR香呂駅舎」2017年3月24日の日記)と鶴居駅(つるいえき・「明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(1)JR鶴居駅舎」2017年3月17日の日記))、明治29(1896)年に開業したJR奈良線の木幡駅(こはたえき・「明治29年の建物財産票のある駅、JR木幡駅」2017年3月31日の日記))を訪ねてきました。今回は、日本で2番目に古い現役駅舎、JR善通寺駅を訪ねることにしました。

現在のJR善通寺駅です。明治22(1889)年5月23日、讃岐鉄道の吉田駅として開業しました。そして、約1ヶ月後の6月15日、現在の善通寺駅に改称されました。以来、120年余の年月、鉄道を利用する人を迎えています。讃岐鉄道として開業した鉄道は、山陽鉄道に買収された後、明治39(1906)年に国有化されました。そして、国鉄の分割民営化(昭和62=1987年)によりJR土讃線となりました。

JR土讃線が予讃線から分岐するJR多度津駅から、土讃線に入って2駅目JR善通寺駅に着きました。金蔵寺駅から2.3km。次の琴平駅まで5.3kmのところにあります。駅舎は善通寺市文京町一丁目にありました。

到着したのは善通寺駅の2番ホームでした。乗降が終わっても出発しないので行き違いがあるようだと思ったとき、駅舎寄りの1番ホームに、岡山駅行きの特急”南風”が入ってきました。善通寺駅のホームは2面3線になっていますが、駅舎寄りの1番線が上下線とも本線となる、いわゆる”1線スルー”になっています。2番ホームは、行き違いがある時の琴平・阿波池田方面行きの下り列車が使用することになっているようです。

乗車してきた列車が次の琴平駅に向かって出発していった後の2番ホームです。「弘法大師誕生の地」と書かれています。善通寺駅は、その名のとおり、弘法大師空海が、弘化4(813)年6月15日に落慶法要を行った五岳山善通寺に由来しています。

琴平駅・阿波池田駅方面です。土讃線は全線単線で、次の琴平駅までが電化区間になっています。

2番ホームから見た多度津駅方面。ホームへの移動には跨線橋を使用するようになっています。

多度津駅方面に向かって、3番線を撮影しました。今は使用されていませんが、側線ともう一つのホームの跡が残っていました。

跨線橋を渡って、駅舎に接した1番ホームに来ました。改札口です。金属製の仕切りが設置されています。自動改札が導入されていない善通寺駅では改札口の脇に駅スタッフが勤務するスペースが設けられています。

改札口の先の跨線橋に近いスペースです。屋根の構造物の機能美が見事です。ゆとりある広々としたスペースになっています。この日は休日でしたが、乗客もさほど多くはありませんでした。ちなみに、この駅の1日平均の乗車人員は1,801人だそうです。

改札口から駅舎に入ります。上にあった看板には、駅舎や市の名前の由来になった五岳山善通寺の五重塔と自衛隊のレンガ倉庫が描かれています。

駅舎内から見た1番ホームです。ちょうど、このとき、岡山駅行きの特急”南風”が到着しました。

駅舎内の半分を占めるのが、セブンーイレブン。現在、JR四国の主要駅で店舗を展開中です。

改札口に続くみどりの窓口と自動券売機。壁面には運賃表、時刻表。コインロッカーも設置されています。

セブンーイレブンの前に設置されていた待合いのスペースです。

土讃線の時刻表です。赤で表示されているのは特急列車です。普通列車も含めて、1時間に3~4本運行されています。

駅舎から外へ出ます。駅舎の本屋の入口の柱の上に「建物財産標」を見つけました。旧日本国有鉄道(国鉄)が建設した様々な建物を用途ごとに分類し、使用開始時期を示したものです。右側の柱の上部に白く見えているところに貼ってありました。「標」は「票」とも表記されています。

これが、その「建物財産標」です。「鉄 本屋1号  明治22年3月30日」と書かれています。しかし、駅舎の建物は、120年を超える歴史があることを忘れるぐらい改修がなされています。

外部から見た駅舎の全景です。寄棟造り瓦葺き、木造の平屋建ての本屋から、切妻造りの車寄せのポーチが張り出しています。大正11(1922)年に、この地で行われた陸軍大演習の際に増築した和洋折衷の木造駅舎です。

車寄せの部分です。善通寺駅は、平成8(1996)年、文化庁の登録有形文化財に登録されています。建物財産標に記されているように、明治22(1889)年に建設された駅舎が、大正11(1922)年の陸軍大演習のときに改修されているのが、現在の駅舎ということなのでしょう。

車寄せポーチです。近くから見ると、太い柱がたくましい、重量感あふれる建物という印象です。

木造の柱と基礎の部分を撮影しました。柱の基礎の部分は、見えない部分と鉄製の金属でつながっていて、安定を図っているようです。

善通寺駅からまっすぐ西に延びる道路は、善通寺市のメインルートです。善通寺市役所、市民会館、四国学院大学などの主要な施設が道路沿いに並んでいます。20分ほどで、善通寺市のシンボルである真言宗善通寺派総本山”五岳山善通寺”の南大門前に着きます。四国八十八ヶ所霊場の75番札所。この日も白い巡礼衣装で杖を手にしたお遍路さんの姿がありました。

正面には善通寺の南大門と、その先にある金堂(本堂)。右側に五重塔が見えました。宝亀5(774)年6月16日、弘法大師・空海は、父、佐伯直田公(さえきのあたいのたぎみ)と母、玉寄御前(たまよりごぜん)の子として、この地に生まれました。現在、善通寺の西院が建つ所には佐伯家の邸宅があったようです。

善通寺の南大門から南にまっすぐ下ったところに、大正11(1922)年、陸軍大演習が行われた、旧陸軍第十四旅団が置かれていました。

南大門から20分ぐらいで、右側にレンガでつくられた倉庫が見え始めました。通りの左側には施設の正門が見えました。陸上自衛隊の「第十五普通科連隊」「第十四後方支援隊」「善通寺駐屯地業務隊」の基地でした。その中に、旧陸軍「第十四旅団」と書かれた門も残っていました。

舗道の先に、善通寺の五重塔が見えました。善通寺駅の改札口のところに飾られていた絵と同じ構図でした。柳並木は時期がやや早い感じでしたが・・。また、以前訪ねた広島市にあった旧陸軍施設の赤レンガ倉庫(「着工から17日で開業・旧宇品線の面影を求めて」2014年2月15日の日記・「宇品に残る宇品線の時代のゆかりの地を訪ねて」2014年3月2日の日記)を思い出しました。


明治20年代に開業して以来、120年間余り現役を続けている駅舎、JR香呂駅舎、JR鶴居駅舎、JR木幡駅舎、JR善通寺駅舎の一つ、その中でも最古の、日本全体でも2番目に古いJR善通寺駅を訪ねてきました。いづれの駅舎も、現在も多くの乗降客に利用されている現役の駅舎として活躍していました。しかし、現役を続けるためにこれまで幾たびもの改修を繰り返しており、建設当時の面影を残すところを見つけるのは難しいことでした。その中で、JR善通寺駅は、「建設後、50年を経過し、①国土の歴史的景観に寄与しているもの ②造形の規範となっているもの ③再現することが容易でないもの」の①から③までのいずれかに該当するものが登録される「有形登録文化財」に登録されている駅舎でした。大正時代の面影を残す由緒正しい駅舎でした。  
















明治29年の建物財産票のある駅、JR木幡駅

2017年03月31日 | 日記
このところ、JRの古い駅舎を訪ねています。最近、JR播但線にある鶴居駅(「明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(1)JR鶴居駅 2017年3月17日の日記)とJR香呂駅(「明治27年開業の播但線の2つの駅舎(2)JR香呂駅」2017年3月24日の日記)を訪ねました。この日は、鶴居駅や香呂駅とほぼ同じ時期に開業したJR木幡(こはた)駅を訪ねました。
これは、JR奈良線にある木幡駅の駅舎です。明治29(1896)年に開業しました。開業から、すでに120年を超える歴史を持っていますが、今も、現役の駅舎として、多くの乗降客に使用されています。
これは、JR木幡駅の入口付近の柱に貼られていた「建物財産票」です。「明治29年1月 本屋」と書かれています。「建物財産票」は「建物財産標」とも表記されますが、国鉄(現JR)が建設した様々な建物を、用途(本屋・倉庫・・・)ごとに分類し、使用開始時期を示したものだといわれています。
木幡駅に設置されていた路線案内図です。JR京都駅とJR奈良駅を結ぶJR奈良線(途中の木津駅・奈良駅間は関西本線)にあります。
京都駅から、奈良線の城陽駅行き4両編成(キハ103系)の普通列車に乗車しました。複線区間を走り、伏見稲荷大社の最寄り駅JR稲荷駅で多くの乗客が下車した後は、立ち客もいなくなりゆったりとした車内の雰囲気になりました。駅間距離が短いため電車もゆったりと走ってきました。稲荷駅の次のJR藤森(ふじのもり)駅からは単線区間となり、京都駅から16分ぐらいかかって、木幡駅の2番ホームに到着しました。写真は、乗車してきた電車の先頭車両(クハ103216号車)です
ホームにあった駅名表示です。木幡駅は京都府宇治市木幡大瀬戸にあるそうです。「木幡」の地名の読み方は様々あり、JR木幡駅は「こはた」駅、京阪宇治線の木幡駅は「こわた」駅、駅周辺には「こばた」と読む地域もあるそうです。京都駅寄りの六地蔵駅から1.0km、次の黄檗(おうばく)駅まで1.4kmのところにあります。
ホームにあった時刻表です。1時間に4本程度の列車が運行されています。「待たずに乗れる」という雰囲気で利用できそうです。
木幡駅は相対式の2面2線のホームになっています。しばらく停車した後、京都駅行きの列車が1番ホームに入線してきました。
木幡駅から見た、奈良駅方面です。2番ホームから伸びた線路は駅の出口で、1番ホームから奈良方面に向かう線路に合流しています。その先に御陵道踏切が見えました。奈良線は、この先のJR宇治駅・JR新田(しんでん)駅間が複線区間になっています。
2番ホームから見た駅舎と1番ホームの姿です。駅舎内の右側に改札口。左に駅事務所がありました。
2番ホームの中央部分です。上屋の下にベンチが置かれています。2番ホームの片面には柵が設置されていました。
2番ホームから見た京都駅方面です。屋根のない跨線橋の向こうでホームが途切れますが、その先が木幡踏切になっています。
木幡踏切より先の京都駅方面の線路です。2番ホームからの線路は1番ホームから来た線路に合流しています。京都方面からは2番ホームに入線する線路が、1番ホームに行く線路から分岐しているという構造になっています。木幡駅を通過する快速列車はまっすぐ進んで行くことができます。
2番ホームから跨線橋に上りました。2番ホームの左側にあるバラスで覆われたところは、線路があったところのようです。
これは、木幡踏切から見た2番ホームの左側のようすです。線路の跡がよく分かります。かつて、木幡駅は2面3線のホームだったのです。平成13(2001)年のダイヤ改正から”1線スルー”の配置になったそうですが、そのとき、真ん中にあった旧2番線が撤去され旧3番線の線路が新たに2番線になりました。しかし、木幡踏切の安全性を高め交通渋滞を緩和するため、写真のホームの左側にあった新2番線(旧3番線)を撤去し、ホームの右側の撤去されていた旧2番線を復活することにして、現在の相対式2面2線のホームができあがったそうです。
こちらは、木幡踏切から見た京都駅方面の撤去された旧2番線の線路跡です。かつての姿がよく分かります。この先で1番ホームから来た線路と合流していたようです。
屋根のない跨線橋を渡って1番ホームに下ります。正面の屋根のあるスぺースの右側、黒く見える屋根がトイレ。向こうの切り妻屋根の建物が駅舎になっています。
1番ホームの奈良駅寄りからみた1番ホームです。ベンチも新しくなっており、かつての面影をしのぶことができるものを見つけることは難しい状況でした。
もう少し、奈良駅寄りから見た1番ホームと駅舎です。1番ホームを覆う屋根と切妻屋根、横板を並べた白い駅舎が見えました。
青春18きっぷを示して、改札から駅舎内に入りました。待合いのスペースから見た自動改札機と、2番ホームに停車しているクハ103系車両の列車です。駅舎内の待合いスペースは広くはありません。5,6人の人がいると動きが取りにくいと感じるのではないでしょうか。
駅舎内です。左に自動改札機、正面に駅事務所。女性の駅スタッフの方は、下車した方が改札を通るたびに、深々と一礼をされていました。清潔な駅舎内に咲いた一輪の花のような方でした。ちなみに、木幡駅はJR西日本交通サービスが受託している業務委託駅になっています。
駅舎への出入口から見た待合いスペース。正面に自動券売機。出入口の柱に貼られた長い「禁煙」のカードの上に、四角の白いカード状のものが見えました。それが建物財産票です。駅舎へ入る右側の柱に貼ってありました。
明治29(1896)年に開業したJR木幡駅は、開業以来120年を超える歴史を持つ駅です。でも、現在の木幡駅は明治の面影をまったく感じることができないモダンな駅になっていました。1日平均2,762人が乗車する(2014年)駅でした。駅舎内から出て、周辺のようすを見ることにしました。駅前にある整備された舗道を、御陵道踏切に向かって歩きます。静かで落ち着いた、そして、モダンで上品な雰囲気を感じる通りでした。線路に接して建てられていた宇治市営JR木幡駅前自転車等駐車場です。
親子で来られた方が建物を撮影されていた、”京都アニメーション”の本社の建物です。この日は休業日だったようですが、壁の垂れ幕には「2017年1月より放送開始! 小林さんちのメイドラゴン」と書かれていました。子どもと一緒だった方は、この垂れ幕を撮影されていたようです。
自転車駐車場の前から木幡駅舎を撮影しました。整備された美しい風景です。時計塔の下の駅舎も風景に溶け込んでいます。
さらに、御陵道踏切に向かって進むと、木幡変電所にぶつかります。その脇をさらに進み、線路沿いに歩くと、御陵道踏切に出ます。
御陵道踏切に向かう道路の先にあった茶畑です。宇治市にいることを痛感しました。山の斜面につくられた茶畑になじんでいる私には、道路脇で育てられているお茶の葉には驚かされました。
御陵道踏切を渡ります。23K823M。奈良線の起点、木津駅からの距離のようです。木幡駅の周辺は、静かな住宅地帯になっています。御陵道踏切を渡ると道は緩やかに上っていきます。
その先にあった「御陵」の「宇治陵」です。案内には「宇多天皇中宮温子宇治陵」「醍醐天皇皇后穏子宇治陵」など20人の御柱の名が書かれていました。
引き帰して、木幡駅の京都駅寄りにある木幡踏切に来ました。こちらには、24K220Mと書かれています。御陵道踏切との間は約400mあるようです。こちらは、長い踏切を短縮する工事をしたところらしく、交通量がかなりありました。これなら、信号で停車する時間が長いのはまずいでしょうね。
木幡踏切から、奈良線を右側に見て撮影しました。緑地公園の「木幡緑道」がつくられています。
50mぐらい歩くと、自転車・歩行者専用道路になります。木幡緑道は、旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場鉄道の引込線の跡地を整備したものです。引込線の跡地を歩いてみることにしました。さて、旧陸軍宇治火薬製造所が建設されたのは、日清戦争後の下関講和条約を締結した翌年の明治29(1896)年のことでした。JR奈良線の黄檗駅付近に建設されました。
これは、綠道にあった説明です。引込線は、緑道が終わると大きく左カーブして、木幡分工場に向かっていたようです。分工場は、木幡池の先の広大な土地にあったようです。旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場がこの地に建設されたのは、明治38(1905)年8月のことでした。日露戦争後の講和会議が行われていた頃でした。
引込線の跡地を歩き始めました。左側に、宇治市立木幡保育所がありました。明治38(1905)年につくられた分工場は、昭和3(1928)年に拡張工事を行い、これ以後、戦時体制に突き進んでいくことになりました。
さらに進みます。やがて、左側の民家の裏に許波多(こはた)神社があるところを過ぎます。木幡分工場は昭和20(1945)年の終戦とともに事業を終了します。そして、昭和58(1983)年、分工場への引込線の跡地が、自転車・歩行者専用道路、「木幡緑道」として整備され、市民の憩いの場として親しまれるようになりました。
駅名標のような案内板がありました。許波多神社の説明です。通ってきた木幡保育所と、この先にある堂ノ川が案内されています。綠道を愛する地域の人がつくられたのではないでしょうか?
線路跡らしくなってきました。線路のあった築堤が続いています。
堂ノ川の手前付近です。ここで、木幡綠道が終わります。しかし、分工場への引込線跡は、この先も残っています。
堂ノ川を渡って、線路跡をたどります。築堤の脇に車道が並んで整備されています。大きな左カーブが始まりました。
   
築堤の両脇の低地には、境界を示す「陸軍用地」と刻まれた石柱が、今も残っていました。
左カーブが終わり直線コースになったあたりに、鉄橋の橋台跡が残っていました。橋桁はありませんでしたが、かつての鉄道のようすをしのぶことができました。
住宅地から100m。2つめの橋梁跡。ここには橋桁が架かっていました。
築堤の上は、危険を避けるため、橋台の手前に柵に設置され通れなくなっていましたので、並行する道路を歩いていきます。京阪宇治線の線路の高架が目の前にありました。
桁下1.2mと書かれた高架下をくぐります。京阪宇治線の上に引込線の橋台跡がありました。
築堤の上に上ってみました。引込線の先の左側にパナソニック株式会社オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社です。その先に木幡池がありました。引込線は木幡池の脇をまっすぐ分工場に向かっていました。
パナソニック株式会社の先の木幡池です。旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場は前方にある住宅地のあたりにあったようです。

JR木幡駅は「明治29年1月」と書かれた「建物財産票」がある駅舎を持つ駅です。長い歴史を経た古い駅舎、人通りのほとんど無いところに残っているという思い込みをもってやってきました。しかし、実際はまったく違っていました。整備された近代的な環境のもと、たくさんの人が乗車する駅のままでした。開業から120年を超えても、なお市民の方々に愛されている幸せな駅でした。


明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(2)JR香呂駅

2017年03月24日 | 日記
日本で一番古い駅舎は、明治19(1881)年開業のJR武豊線の亀崎駅舎だといわれています。しかし、この駅舎は建て替えられているとする説もあり、その場合には、明治22(1889)年に開業したJR土讃線の善通寺駅舎になるそうです。

これは、JR播但線の香呂(こうろ)駅の駅舎にあった「建物財産標」です。それには、「明治27(1894)年8月駅本屋」と書かれています。現在、明治20年代の建物財産標(「票」と書かれて」いるものもあるそうです)を持つ駅としては、他には、JR奥羽本線川部(かわべ)駅と津軽新城(つがるしんじょう)駅(いずれも、明治27年)、JR奈良線の木幡(こはた)駅(明治29年)があるそうです。

これは、前回訪ねたJR播但線の鶴居(つるい)駅です(「明治27年開業のJR播但線の駅舎(1)JR鶴居駅」2017年3月17日の日記)。この駅も、明治27(1894)年に開業しました。当時の駅舎が残っていましたが、改修が行われていて、開業当時の面影を残していたのは、わずかに見える柱だけだったような印象です。建物財産標のある駅には入っていませんでしたので、現地で探してみたのですが、はやり見つけることはできませんでした。

写真はJR香呂駅です。現在のJR播但線が、播但鉄道によって、姫路駅・寺前駅間が開業したときに誕生した駅です。鶴居駅と同じ明治27(1894)年7月26日に開業しました。JR鶴居駅を訪ねた日、鶴居駅からJR香呂駅に向かいました。

鶴居駅から15分ぐらいで、香呂駅の1番ホームに到着しました。香呂駅は姫路市香寺町にあり、一つ手前の溝口駅から2.0km、姫路駅寄りの次の駅、仁豊野(にぶの)駅まで3.0kmのところにあります。

播但線の姫路駅行きの列車です。播但線は開業から110年を超えています。明治27(1894)年に姫路駅・寺前駅間を開業させた播但鉄道は、明治36(1903)年に山陽鉄道に譲渡され、明治39(1906)年に国有化、そして、明治42(1909)年に名称変更により、国鉄播但線になりました。列車の前面には「播但線全線開通110周年 (1906~2016)」と書かれています。

下車してすぐ感じたのが、鶴居駅とそっくりのホームの構造だということでした。対面式の2面2線のホーム、寺前駅方面にあった、2つのホームをつなぐ跨線橋、2番ホームにあった待合いのスペース。すべてが、まったく同じ設計のように感じました。

跨線橋で2番ホームに降り立つと右側(西側)に自動改札機が設置されています。これは、最近になって増設されたところのようでした。播但線では、平成28(2016)年3月26日からICOCAの利用ができるようになっています。

西改札口です。自動改札機の脇のスペースには自動券売機も設置されています。西側の改札口への通路はバリアフリーになっていました。

バリアフリーの先の風景です。かつて、側線があったところのようです。レールが一部残っていました。この先(寺前方面)に第1佐田踏切がありました。

2番ホームから見た寺前駅方面です。2番ホームの待合いスペースです。鶴居駅の2番ホームは2つのスペースに分かれていましたが、香呂駅は出入口にドアのついた1つのスペースになっていました。こちらの2番ホームは、行き違いがあるときだけ、寺前駅方面行きの列車が停車することになっています。一方、1番ホームには、行き違いのない場合、すべての上下線の列車が停車します。これも、鶴居駅と同じ運用になっています。

2番ホームから見た1番ホームと駅舎です。鶴居駅は屋根が瓦葺きになっていましたが・・。でも、駅舎の光景は鶴居駅と同じです。

1番ホームに戻り、駅の東改札口から駅舎に入ります。改札口があったところに、自動改札機が設置されていました。右側に、駅の事務所がありました。この風景も鶴居駅と同じです。

駅舎内から見た自動改札機と1番ホーム方面です。左側に駅事務所。香呂駅は1日平均乗車する人が、1,657人(2,012年)いらっしゃいます。業務委託駅になっており、職員の方が勤務しておられました。右側には時刻表が置かれています。

鶴居駅と同じように、事務室は手前に向かって斜めに広がっていました。事務所の手前の左側には自動券売機が設置されていました。駅舎内は白色を基調にした明るい雰囲気の駅に改修されていました。開業当時のものを見ることができるのは柱だけのようでした。これも、鶴居駅と同じでした。

駅舎の右側に屋根のついた待合室がつくられていました。3方にベンチが置かれています。待合室へは、飲み物の自動販売機の間から入ることができます。鶴居駅では、このスペースは設置されていませんでした。

香呂駅の入口の車寄せです。冒頭の「建物財産標」は、駅舎右側に接した柱から斜めに天井に伸びた木材の上に貼ってありました。車寄せには天井が張ってあり、電灯がついています。駅前のスペースは、平成27(2015)年の工事によって、バリアフリーの構造になっています。

外部から見た駅舎です。手前から待合室、駅舎の入口と並んでいます、駅舎の南のスペースには、昭和55(1980)年に廃止されるまで、有蓋車用の貨物ホームが設置されていたそうです。

駅前から見た駅舎の全景です。跨線橋が存在感を示しています。

これは、1番ホームからみた姫路駅方面です。香呂駅1番ホームから出た列車は、第2西川踏切を越えて、まっすぐに進んで行きます。第2西川踏切は「11K095M」と書かれていました。姫路駅からの距離のようです。

こちらは、香呂駅を寺前方面に出たところにある第1佐田踏切。「11K428M」と書かれていました。香呂駅の「停車場中心」はは「11K190M」となっていました。

第1佐田踏切から見た香呂駅方面です。線路は1番ホームにまっすぐ進んでいます。途中から分岐しているのは、2番ホームに向かうレールです。行き違いがない限り、1番ホームにすべての列車が停車するのに都合のいいレールの配置になっているのも、鶴居駅と同じでした。


JR播但線の誕生時の明治27(1894)年に開業した2つの駅、JR香呂駅とJR鶴居駅を訪ねて来ました。同じ時期にできたからでしょうか、構造や駅舎の形もそっくりのつくりの駅でした。そして、現在の列車の運用についても同じような駅でした。しかし、駅の雰囲気は少し違っていました。姫路市内にある香呂駅には都会的な雰囲気が漂っており、田園地帯をバックにした鶴居駅は、素朴で少しひなびた感じを受ける駅でした。駅周辺の雰囲気こそ少し異なりましたが、どちらの駅からも、1世紀を超える年月を働き続けて来た誇りを感じることができました。

明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(1)JR鶴居駅舎

2017年03月17日 | 日記
日本で一番古い駅舎は、明治19(1886)年開業のJR武豊線の亀崎駅舎だとされています。しかし、この駅舎は建て替えられているという説もあり、その場合には、明治22(1889)年3月30日に開業したJR土讃線の善通寺駅舎が最古の駅舎だといわれています。

JR姫路駅と和田山駅を結ぶJR播但線の車両です。播但線の車両は2両の固定編成になっています。車両の正面に書かれている「3509」は、姫路駅に向かって、クモハ1023509とクモハ1033509の編成になっています。JR播但線は、明治27(1894)年、当時の播但鉄道が姫路駅と寺前駅間で開業したのが始まりです。このときに建設された駅舎の中で、2つの駅舎が今も現役で働いています。

播但鉄道は、その後も線路の延伸と駅舎の新設を続けました。明治36(1903)年に事業を引き継いだ山陽鉄道も、延伸工事を続けました。そして、明治39(1906)年、新井(にい)駅と和田山駅間延伸工事が終わり、現在の播但線の全線が開通することになりました。写真は、JR播但線の「3508」の編成で、姫路駅寄りのクモハ1023508の正面です。「110th 播但線全線開通110周年 播但線 1906-2016」と書かれています。播但線は、昨年(平成28=2016年)、全線開通から110周年を迎えました。1世紀を超えて、今も現役として頑張る2つの駅舎の一つ、JR鶴居(つるい)駅を訪ねました。

鶴居駅です。兵庫県神崎郡市川町鶴居にあります。姫路駅から、播但線の列車で、35分余りかかりました。

鶴居駅の姫路駅寄りのホームから見た駅の遠景です。右側の1番ホームに隣接した駅舎、正面(寺前駅方面)には跨線橋、左側の2番ホームには待合室が見えます。行き違いの無い場合には、寺前行き、姫路行きを問わずすべての列車が、1番ホームに停車します。2番ホームは行き違いのある場合に、寺前駅行きの列車が停車しすることになっています。2番ホームの赤い屋根は待合室。内部は2つに分かれていて、手前の半分が待合室、向こう側の半分は、ベンチが置いてあるだけのスペースになっています。

1番ホームに姫路行きの列車が進入しています。右側に駅名表示が見えます。

こちらは、姫路駅方面のようすです。駅のすぐ先にある「堀の北踏切」です。「24k520M」と書かれていました。姫路駅からの距離のようです。姫路駅方面からの線路がまっすぐ1番ホームに入るようになっています。駅の手前で2番ホームへ向かう線路が分岐しています。

2番ホーム中央部の擁壁にあった「停車場中心 24k520M」のプレート。

2番ホームの待合いスペースから見たホームです。跨線橋の向こうには、駅舎に隣接している鶴居小学校の建物が見えました。

2番ホームから見た駅舎の本屋です。全体に改修が進んでいます。屋根も葺き替えられています。

1番ホームに戻り、かつて改札口があったところから駅舎に入ります。播但線は、平成28(2016)年から、姫路駅から寺前駅までの各駅にICOCAが導入されています。右側が駅の事務所があったところです。現在は無人駅になっています。

駅舎への外部からの入口付近から見た駅舎内です。右側に自動券売機と運賃表、時刻表が設置されています。右側の手前のスペースにはベンチが置かれています。入口にあった手書きの木製の駅名標は、重厚で存在感を感じさせます。

左側の事務所だったところです。白を基調にした壁面が駅の明るい雰囲気を演出しています。窓枠はサッシに変わっています。壁面も天井も改修されています。かつての雰囲気を伝えてくれていうのは、唯一つ柱だけでした。

右側の手前にあったベンチも新しいものが置かれています。

これは、駅舎の車寄せの屋根の部分です。天井はなく、木組みがむき出しになっています。垂木の装飾などにかつての雰囲気を少しだけ感じることができました。

外へ出ました。駅舎です。木造入母屋造りの駅舎です。外壁も改修がなされています。

駅前広場にあった小さな庭です。庭師のお名前と寄贈された方のお名前が石碑に刻まれていました。

周辺を歩いて、鶴居駅の寺前方面にある第2石橋踏切に来ました。「24K718M」とありました。鶴居駅から直線距離で200mぐらいのところにありました。

第2石原踏切から見た鶴居駅方面です。左側が駅舎に隣接していた鶴居小学校です。線路はまっすぐ1番ホームに向かっています。途中から分岐している右に向かう線路は2番ホームに向かっています。1番ホームを多くの列車が通過していることを考えると、理にかなった線路の配置になっているようです。

JR鶴居駅は、明治27(1894)年7月26日に、播但鉄道が寺前駅まで開業したときにつくられた駅でした。これまで、110年を超える期間、現役の駅として使用され続けています。JR播但線は利用される人が多い路線で、特に通学時間帯には高校生の利用が多いそうです。JR鶴居駅の1日平均乗車人員は254人(2012年)。駅舎もそういう状況に対応したために、開設当時の姿を守り続けることは難しかったのでしょう。JR鶴居駅は、「古い駅」というイメージの駅ではなく、「元気で仕事をしている駅」という雰囲気を感じる駅でした。1世紀以上の歴史を感じさせてくれる「古い駅」を期待してきたのは、常識外れだったかもしれません。