風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

自由

2008年02月09日 | スピリチュアル
自由とは何かと問うた瞬間に自由は逃げます。
生きている限り問い続けるでしょうが、出た答えからはスルリと身をかわし続けること。
出た答えから逃げ続ける、そんな態度は無責任とそしられます。
巷に溢れる責任論。
何かことあるたびに、誰の責任だ、どいつの責任だと犯人探しが始まります。
誰にどんな責任があるというのでしょうか。

ぼくの人生はぼくのものです。
誰にもぼくの人生の責任など負って欲しくはありません。
冗談じゃありません。
ぼくの日々考えることや思うことや感じることに他人が介入していると言い張られるのには我慢が出来ません。

もちろん人は誰しも関係性の中で生きています。
でも、恣意的な関係性の中にまで責任論を持ち出してくるのは、持ち出してくる当人が他人に依存しているというだけのことです。
関係性はあくまでも当事者の恣意的な選択の結果で築くものです。
家族のしがらみが苦痛なら家出をすればよろしい。
職場の軋轢が嫌なら職を変えればよろしい。
人の意識の選択の自由は誰にも干渉できません。
ただ、何かを「選ぶ」というリスクを当人が責任持って負うばかりのことです。

何かを選ぶに当たってリスクがないわけがありません。
選ぶというのは、何かを選ばないということでもあるからです。
自由というのは、選ぶ喜びと選ばない(選べない)悲しみが背中合わせになって、はじめて味わえる境地です。
喜びだけが自由なのではありません。
誰もが空飛ぶ鳥をうらやましがりますが、鳥は餌となる魚がうようよ泳いでいる海の中に住みたいと思っているかもしれません。

悲しみを背負う覚悟が出来てこそ、自由を楽しむ覚悟が出来るのだといえるのかもしれません。
ここで間違えてはいけないのは、悲しみを背負うというのは否応なしに背負うというだけのことです。
悲しみを解消しなければならない責任などはありません。
悲しみを解消することが出来るとすれば、それは責任などではなく、「慈悲心」でしょう。
「慈悲心」は責任論からは最も遠く離れた心境です。
ただただ自立的に湧き出る心情です。
「~しなけらばならない」だとか「~すべきだ」というところから全く自由な心が躍動する境地です。

自由は誰かに与えられたり、法律で保障されたり、誰かの手から取り戻すことでもありません。
本来自由な魂が、本来自由だと知る、ただそれだけの話です。
一度自由だと知った魂は、誰がなんと言おうが、その自由を手放すことはありません、
自由というのは手放したり、手放さなかったり出来るものではないことを知るからです。

現代は選ぶ自由は充分にあります。
でも、なにを選ばないか、選んでいないかという自由にまで思いを馳せることは少ないように思います。
どちらも自由の側面です。
自由自在というは、己を縛るものを見切った上での境地です。