風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

課題

2008年02月05日 | 雑感
去年の年末くらいから自分の抱えていた大きな課題が現実問題として表面化してきた人が、ぼくの周りにも多数見受けられます。
もちろん、ぼくも年末の数ヶ月は大変に苦しみました。
身動き取れない苦しさでした。
逃げることも先に進むことも出来ませんでした。
ただただ、苦しみの歯車がギリギリ回るのを耐え切ることしか出来ませんでした。
よし、耐え切ってやろうと心の底から覚悟したとき、苦しみの歯車から抜け出せたような気がします。

ぼくの場合は、生まれてから以来の金銭や時間に対するルーズさの問題が一気に片をつけよと迫ってきた感じです。
人によってそれぞれ抱えている問題はもちろん違います。
子供の問題、夫婦の問題、仕事の問題、進路の問題、自立の問題。
問題はそれぞれですが、逃げ道を塞がれて、問題の解決解消をもれなく各人に厳しく迫ってきているような感があります。

長年にわたって抱えてきた課題というのは、課題というよりはその人の隠れた習性になってしまっていますから、
改めて日の光の下に引きずり出されて、解決を迫られると正面から受け取るのが大変に苦痛です。
自分の一部となっているものを容赦なく切り取る作業になるからです。

ただ、不思議なもので、患部を切り取ると本気で心を決めると、いざメスを当てようとすると患部は消えているものです。
つまり、心の患部は心が勝手に作り出していたものに過ぎないのです。

金銭や時間に対するルーズさなんていうのは、なんら心理的実体があるものではありません。
ルーズにするということに甘んじていることに慣れ親しんでいるというだけのことです。
慣れ親しんでいるものを自分の習性として、正面から課題として見据えることを怠り、無問題と心の奥に隠してしまうと、
それは患部として発症し、身の周りの具体的ないざこざとなって発現します。
本気になれば、金銭や時間にルーズでいようと思ってもいれないものです。
それだけのことなのですが、人は都合の悪いものには目に蓋をします。
目の蓋を取ることが、つまりは「今」を生きるということなのでしょう。
ありのままの「今」に取り組み、自分のできることを精一杯しきること。
目に蓋の人生ではいつまでたってもありのままの「今」が見えてこようはずもありません。

そうすると、「課題」というのは怠惰な習性に流され、「今」を見失いがちな人々に、改めて「今」というものを見つめさせるための
天が用意してくれた尊い契機なのかもしれません。

なんにせよ、課題というのはそれから逃げれば逃げるほど後で何倍にも大きくなって目の前に立ちふさがるものです。
逃げられぬものならば、勇気を持って立ち向かうしかありません。
先ほども言いましたが、不思議なもので、立ち向かう勇気を本気で奮い起こしたとき、あれほど大きく目の前に立ちふさがっていた課題が、
消えてしまっていることがよくあります。

「身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」ですね。