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ある方から聞いた話です。
天上の世界から眺めると、全ての人々の行いがとても愛しく見えるのだそうです。
善悪も、好悪もありません。
母親がわが子を見るように、ありとあらゆる一人一人がとてもとても愛しいのだそうです。
どんなに離れていても、なにを考え、なにを言っているのかも手に取るように分かります。
そういう目で、神は人間のことをみているのだそうです。
ホンモノとされるいくつかの「神示」を読んでいても、神の人間に対するその愛しさというのを感じることができます。
ぼくも人の親となりましたから、その感じが少しだけ分かるような気がします。
で、親の心子知らずで、人間社会はご存知のような有様になりました。
温暖化、イジメ、拝金主義、悪平等、無責任、刹那主義・・・。
問題はいたるところに転がっていて、あれこれ言うばかりで、問題は深刻化していくだけです。
それを一気に掃除してしまうことは簡単だが、そしたらお前たちは行き場所がなくなるぞ、と神示はくどいほど言います。
充分に与えられていることに気が付け、与えられていることに感謝することに気が付けば、
「うれしうれし、たのしたのし」で生きられるようにこの世は作られているのだぞ。
「うれしうれし」の世の中を、苦しき人の世にしているのは、人民様の勘違いが元だぞ、と神示は言っています。
その「勘違い」とは「我善し」を心の中心に据えているからだ、ということです。
つまり、我欲を元に心を自由に泳がせておくと、心は「もっともっと」と我欲をますます太らせ、際限のない不平不満を募らせます。
「感謝」を心の中心において暮らせば、不平不満はありようもなく、全てがありがたいのですから、「うれしうれし」となります。
もちろんことはそう単純ではないのは、神様ももちろんご存知です。
ひとそれぞれの「メグリ」というのがあります。
仏教で言えば、「因果」「因縁」ということになりましょうか。
人間の理知では捉えられない理不尽で、不平等で、時には厳しいものです。
ただでさえ、「メグリ」を真正面から受け止めるのは大仕事です。
それに加えて、人間の頭が作り出した「神は死んだ」「平等」「博愛」「人権」などという合理主義が、
「メグリ」を「メグリ」としてとらえる覚悟や態度を人から奪います。
「どうして私だけがこんな目に会わないといけないのか」と人は嘆き、その救いの場所はありません。
病やら事故やら、理不尽なことが襲い掛かった時、それをチャンスと捉え、「ありがとう」といえるかといえば、ぼくも言えません。
もし、わが子を殺されたら感謝なんかできません。
気が狂ったように後悔と憎悪にさいなまれるでしょう。
人の頭やら心やらをどんなに使っても、それだけ謙虚な態度にはなれません。
何かで読んだことがあるのですが、聖書に「ヨブ記」というのがあります。
これでもか、これでもかと神から過酷な試練を与えられる物語です。
それを読んだ時、なんという残酷で理不尽な話なんだという感想を持ちました。
それをあえて聖書に記す意味が分かりませんでした。
いまでも分かりません。
ただ、分かろうとする意思だけは持とうかなと思い始めています。
天から何事があろうとも、なにをしでかそうとも、慈愛の目で見ている存在を、知ることはないにせよ、感じれたらいいなと思います。
キリスト教でも仏教でもその存在なしには始まらない教えです。
キリスト教や仏教を必要としないまでの「自分」というものは、ぼくの場合、ついに発見できませんでした。
ちょっとくどい話でしたら、ゴメンナサイ。
天上の世界から眺めると、全ての人々の行いがとても愛しく見えるのだそうです。
善悪も、好悪もありません。
母親がわが子を見るように、ありとあらゆる一人一人がとてもとても愛しいのだそうです。
どんなに離れていても、なにを考え、なにを言っているのかも手に取るように分かります。
そういう目で、神は人間のことをみているのだそうです。
ホンモノとされるいくつかの「神示」を読んでいても、神の人間に対するその愛しさというのを感じることができます。
ぼくも人の親となりましたから、その感じが少しだけ分かるような気がします。
で、親の心子知らずで、人間社会はご存知のような有様になりました。
温暖化、イジメ、拝金主義、悪平等、無責任、刹那主義・・・。
問題はいたるところに転がっていて、あれこれ言うばかりで、問題は深刻化していくだけです。
それを一気に掃除してしまうことは簡単だが、そしたらお前たちは行き場所がなくなるぞ、と神示はくどいほど言います。
充分に与えられていることに気が付け、与えられていることに感謝することに気が付けば、
「うれしうれし、たのしたのし」で生きられるようにこの世は作られているのだぞ。
「うれしうれし」の世の中を、苦しき人の世にしているのは、人民様の勘違いが元だぞ、と神示は言っています。
その「勘違い」とは「我善し」を心の中心に据えているからだ、ということです。
つまり、我欲を元に心を自由に泳がせておくと、心は「もっともっと」と我欲をますます太らせ、際限のない不平不満を募らせます。
「感謝」を心の中心において暮らせば、不平不満はありようもなく、全てがありがたいのですから、「うれしうれし」となります。
もちろんことはそう単純ではないのは、神様ももちろんご存知です。
ひとそれぞれの「メグリ」というのがあります。
仏教で言えば、「因果」「因縁」ということになりましょうか。
人間の理知では捉えられない理不尽で、不平等で、時には厳しいものです。
ただでさえ、「メグリ」を真正面から受け止めるのは大仕事です。
それに加えて、人間の頭が作り出した「神は死んだ」「平等」「博愛」「人権」などという合理主義が、
「メグリ」を「メグリ」としてとらえる覚悟や態度を人から奪います。
「どうして私だけがこんな目に会わないといけないのか」と人は嘆き、その救いの場所はありません。
病やら事故やら、理不尽なことが襲い掛かった時、それをチャンスと捉え、「ありがとう」といえるかといえば、ぼくも言えません。
もし、わが子を殺されたら感謝なんかできません。
気が狂ったように後悔と憎悪にさいなまれるでしょう。
人の頭やら心やらをどんなに使っても、それだけ謙虚な態度にはなれません。
何かで読んだことがあるのですが、聖書に「ヨブ記」というのがあります。
これでもか、これでもかと神から過酷な試練を与えられる物語です。
それを読んだ時、なんという残酷で理不尽な話なんだという感想を持ちました。
それをあえて聖書に記す意味が分かりませんでした。
いまでも分かりません。
ただ、分かろうとする意思だけは持とうかなと思い始めています。
天から何事があろうとも、なにをしでかそうとも、慈愛の目で見ている存在を、知ることはないにせよ、感じれたらいいなと思います。
キリスト教でも仏教でもその存在なしには始まらない教えです。
キリスト教や仏教を必要としないまでの「自分」というものは、ぼくの場合、ついに発見できませんでした。
ちょっとくどい話でしたら、ゴメンナサイ。
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