風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

知恵

2007年02月13日 | 雑感
昨日は快晴、思わず山登りに行きました。
風もなく、スエットの上下だけでも、汗ばみます。
木々も芽吹き始めている感じです。
いくらなんでも、早すぎますね。
すごく快適な山登りでしたが、これから先どんな天候になるのやら。

ここ数日で、トンデモ世界の奥深くにものすご~く入り込んでしまいました。
スサノオ、ユダヤ、ルシファー、UFO、龍と蛇、南米の幻覚作用を持つ植物アヤワスカ、智と胆との戦い・・・。
今まで断片的に聞きかじっていたあれやこれやの知識が統合されたような感もあります。
そんな知識は不要であることも、また気づくのですが。
要は壮大な命の営みを、壮大と感じる想像力が残っていればいいのかもしれません。

そこで気になるのは、クマを射殺することを「駆除」と言い、鳥インフルエンザのニワトリを大量することを「処分」と言うことです。
害獣とか害虫とかいう物言いも嫌です。
生命に対する想像力がまったく働いていない言い方です。
そんなことを言ったら、地球上最も凶悪で、無慈悲で、貪欲な生き物は間違いなく人間です。
「日月神示」ではありませんが、「立て直し」にあたって、このまま生き方を変えない人間はそれこそ「駆除」されてもし方がありません。
どんな事情があるにせよ、生命に対して「駆除」とか「処分」とか使うべきではありませんね。
子供がその言葉を聞いて、生き物を、食べ物を大切にしようと思うはずがありません。
因果の法則からすれば、駆除するものが駆除され、処分するものが処分されてしまうかもしれません。

なにより、そのような言葉を使う背景にある人間の傲慢さと想像力の貧困さが社会のあり方を貧しくするでしょう。
人の人権に対しては大騒ぎするくせに、動物は平気でモノ以下の扱いをする人々のあり方を、天はどんな目で見ているのでしょうか。
全てが支えあって、何一つ無駄なものがない生命サイクルを、ずたずたに切り裂いているのは人間です。
地の恵み、海の恵み、天の恵みに対して「感謝」するというスタンスがまったくありません。

そういう言葉遣いに取り立てて腹を立てているわけでもないのですが、神々がいるのだとしたら、
怒って当然のことを現に人間はしているということが、その言葉遣いにさえも現れているということです。

クマの生態を追ったドキュメンタリーなどを見ていると、なんら人間と代わらない懸命な愛しい生命があるわけです。
それを「駆除」する立場に人間はいつなったのでしょうか。
そのような感覚を容認すると、いつか人間が人間を駆除するのでさえ、理由次第では容認することになります。

畑を食い荒らされた被害者はどうなるんだとなるのでしょうが、なにが何でも人間によければよいうという発想があまり好きではありません。
役所に射殺を頼むなら、森にドングリの木を植えたりなんなり、森からクマが出てこない抜本的な対策を頼んでみたらどうなのでしょうか。
一度、アイスクリームなどの味を覚えたクマは、人間の食べ物に異常な執着を示すようになるのだそうです。
どこでその味を覚えたかというと、あたりかまわず捨てられたゴミを漁ったわけです。
クマをエサの不足する狭いところに追い詰めたのも人間です。
そうして、腹をすかしたクマが畑に出てくれば、被害者でござい、「駆除」しますって、もう・・・。

人間も動物もあらゆる生命は他の命をいただいて生きています。
クマの食い物なんかどうだっていい、ニワトリの命なんかどうだっていいのなら、人間の命だってどうだっていいとなります。
人間の命だけは大切だとする摂理はこの地球上にはないからです。
摂理に反していれば、反した結果は受けなければならなくなります。
「知恵」の使い方が、大きく歪んでしまっているとしか思えません。
自分さえよければいいという生き物が、「知恵」を使えば恐ろしいことになるのは目に見えています。
動物は「知恵」がない分だけ、自然の摂理に従順です。
自分さえよければいいと考え始めた人間は、「知恵」を使って自然の摂理を無視するどころかぶち壊し続けます。
そんなのを「知恵」と呼ぶことができればの話ですが。

自然保護とか環境保護とかを言いたいわけではありません。
愚かであることを愚かであると気がつかないことが危険だと思うのです。
愚かであることを知りながら、愚かなことを続けるのは、なお危険です。
「駆除」とか「処分」という言葉を聞いても、無感覚になることが危険だと思うのです。
「知恵」を働かせば、自然保護とか環境保護とかは、当然の帰結となってくるはずです。

別に感情的になっているわけではないのですが、こういうことを書くと言葉遣いがちょっと過激になるみたいです。
ともかくも、この国は「言霊のさきわう国」から遠く離れてしまいました。