風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

洗脳

2007年02月23日 | 雑感
洗脳という言葉があります。
何かを判断する際に、刷り込まれた思い込みで判断してしまうことです。
自分は洗脳なんかされていないと思い込んでいる人ほど、洗脳されている可能性が高いような気がしています。

洗脳はどういうふうにするかというと、要するに情報を断片的に、恣意的に加工して人に与えることです。
国家が民衆を煽動する時にも使いますし、ニセ宗教家が人々からお金を巻き上げる時にも使います。
テレビでいえば、情報の切り取り方、BGMの使い方などを駆使して、視聴者にある印象を与えようとします。
そんなに簡単に騙されないと思うでしょうが、牛乳が身体によいと思っている人はたくさんいるでしょうし、
納豆を食べれば痩せられると聞けば、スーパーの棚から納豆が消えるのが現実です。

もっともらしい顔をしている新聞だって当てにはなりません。
どの情報をどういうスタンスで取り上げているかは、編集者や社の意向次第でどうにでもなるわけです。
公平な報道を謳っているから、新聞記事は公平なんだろうと思っている読者の裏をかくなんて、やろうと思えば朝飯前です。

じゃあ、どうしたら真贋を見極められるのか。
仕事でくたくたになって帰宅し、スイッチをひねれば流されるニュースのいちいちを疑えということでしょうか。
ぼく個人が思うには、「疑う」という行為は精神衛生上甚だよろしくありません。
では、どうすればいいのか。

ぼくみたいな自営は、自由な時間もたっぷりありますからネットや関連書籍で確かめることもできますが、
勤め人の方や忙しい方はそれもできない人のほうが多いでしょう。

理想を言えば、知識の基礎にホンモノを置いておくことです。
ニセ宗教家に騙されないためには、仏教、キリスト教、神道などの基礎的な知識をしっかり入れておけば、そうそう騙されません。
テレビや新聞の報道に接する時も、テレビ局も新聞社も利益追求団体なのであり、スポンサーや興行関係者の意向を気にするものであり、
視聴率を取る為にはある層に迎合するものであり、プロデューサーや編集者の志向や思想が反映されることもあるという事実を、
しっかりと知っていればいいのです。

ニセ宗教家は信者から金を掠め取るために洗脳します。
「~しなければ地獄に落ちる」だの「~すれば先祖が成仏する」だの、人の恐怖心と幸福になりたい心を操ります。
報道は自分たちに都合のよいことを言ういわゆる識者とか評論家を好んで使い、一般の人々をそんなものかと思わせようとします。

今は、教育現場も大変怪しげな状況だと思います。
「個性を伸ばせばよい」「自分の好きなことをすればよい」などと耳障りのいいスローガンが、今の社会の無軌道を産む温床になっています。
無軌道こそ人間らしいという考え方もあるのですが、その結果の混乱と怠惰には誰も責任を取りませんから、要注意です。

民主主義、人権、平等といった一見もっともな言葉は、これまた注意が必要です。
民主主義が「みなそれぞれ自分の都合で好きなことを思い、言い、行動していいんだ」と解釈されると、
その結果がどんなに世の中の乱れになろうとも、その状況を甘受するしかなくなります。

「みなそれぞれ自分の都合で好きなことを思い、言い、行動していいんだ」
これって言葉自体は全然間違いではないですよね。
間違いではないから厄介です。
ただ、解釈の仕方によっては、無責任、悪行、デタラメ、を容認する言葉にもなりうるから、厄介なんです。

人権、平等もそうです。
解釈の持って行き方で、権利を超えた利権、逆差別、混乱を生むことができます。

こういう言葉の裏に「利他」の理念がないと、めちゃくちゃ自分勝手な人で溢れかえる世の中になりうるわけです。
民主主義、人権、平等という言葉の裏に、「利他」の精神があれば、どれもが大切なスローガンにはなりえます。

でも、「利他」の理念というのは、宗教的な概念でしょう。
宗教的概念というのは、政教分離を立て前とする政治の現場からは排除されますから、「自由」と「自分勝手」の違いというのは、
なかなか分別されるのが難しい話になってしまいます。
他者の幸福に配慮しつつ「自由」に自分を実現することと、わがままほうだいに振舞うことと、「自由」に違いはないということになります。
わがままを自由と履き違えた人(洗脳された人)は、成長過程でたくさんの摩擦を生み出していくでしょう。

なにが洗脳で、なにが洗脳でないかはとても難しい話です。
なにがホンモノでなにがニセモノかもとても難しい話です。
そんなときに立ち返ることができる知識を、ホンモノの知識と呼ぶのかもしれません。

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