風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

公共の電波

2006年08月03日 | 雑感

昨日、何気なくテレビをつけたら、ボクシング、亀田の試合だっだので見てました。
試合が始まるまでの、亀田親子の持ち上げ方にうんざりしつつも、焼酎を飲みながら見てました。
ゴールデンタイムの放送に、これでもかとパチンコメーカーがスポンサーだったというのも気になりました。

で、結果はご存知の通りです。
腹が立つというより、呆れました。
例によって、テレビ局の横暴というか、視聴者を舐めきった興行でした。

ま、2chでも大騒ぎになっていますが。

 

362 :名無しさん@6周年:2006/08/03(木) 13:42:14 ID:g5ym5dgc0
今度亀田が試合するのはチャンピオンだと誤解している人が多い件について
違 い ま す
亀田が試合するのは、チャンピオンではなく
1階級下でやっていた昨年12月で引退する予定だったランダエダという選手です。
(チャンピオンという称号も持っていません。)
階級を1つ落とす亀田vs階級を1つ上げるランダエダ
・・・・実質2階級下の選手、しかも引退予定だった選手と
お互い一度もライトフライで試合をしたこともないのに、
突然1位と2位にランクされて王座決定戦をやるのです


勝谷発言 ムーブ!
http://www.youtube.com/watch?v=PC0i_zBBAtk
http://www.youtube.com/watch?v=SwC8_Qe0jMc


昨年で引退予定のランダエダを不利な1階級上げさせて戦わせるんだから、
TBSサイドから相当の金が出てる。さらにランダエダには因果を含めさせてある。(「お前は負けることになってるんだからな」
「亀田の大晦日の試合はブッキング済みだ」と)


242 :名無しさん@6周年:2006/08/03(木) 13:23:14 ID:D+4xvBVW0
 
● スポーツ局でも893や在日朝鮮人利権と結託して八百長劇を演じ、国民を愚弄するTBS ●

勝谷BLOG ( 2006/8/2 ) http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20060802
 >王座決定戦にもかかわらずウィークデーに試合を設定した理由が
 >いつまでも隠しおおせると思っているかね。
 >ひょっとして知らないなら仰天ものだがだったら今からでもそのスジに詳しい人に聞いてみるがいい。

王座決定戦をウィークデーに設定したのは、亀田の後援会 「全国青少年健全育成会 」 会長が
山口組大幹部の、英五郎 ( はなぶさ ごろう) 組長であり彼の誕生日だから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%BA%94%E9%83%8E

亀田の後ろに立っているグラサン親父が英五郎
( http://www.ikuseikai.co.jp/kouki2.jpg

また亀田の試合はリングサイドに893の大物幹部が顔をそろえることで、常に問題になる。
( http://vista.xii.jp/img/vi5452179582.jpg )

協栄ジムの金平会長は在日朝鮮人だが、
先代会長が具志堅の世界タイトルマッチ戦で相手選手に毒入りオレンジを送り続けていたのが発覚、
日本プロボクシング協会から追放された前科を持つ。
( 国民栄誉賞に内定していた具志堅は、この事件のため受賞取り消しになる )。

TBSの局舎前に飾られた亀田の巨大な写真の一番上には、
在日朝鮮人のシノギであるパチンコ業界の中核企業 ( ㈱京楽産業 ) の名前が堂々と刻まれており、
その不見識さを、8/3の勝谷ブログで断罪されている。

TBSは報道局とオウム・北朝鮮・サヨク過激派との黒い関係に続き、
スポーツ局でも893や在日朝鮮人社会の利権に加担し、八百長劇で国民を愚弄する。
とっととTBSは放送免許剥奪され解散しろや ( 怒り )!!

 


で、大晦日恒例のレコード大賞が、12月30日に移されたのも、亀田の防衛戦を31日に持っていくためだそうです。
高視聴率取るのは間違いないですから。

もう、TBSはやりたい放題ですね。
防衛戦が初めからあるものとしているということは、昨夜の試合の勝利は初めから決定されていたということでしょう。

よくもまぁ衆目が集まる公共の電波を使って、こういう芝居を打てるもんですね。
なめているのか、なんなのか・・・

 

 

 

 


 


放下

2006年08月02日 | スピリチュアル
チューリップの花を見るとします。
ぼくら凡人は「あ、チューリップの花だ」とその経験を言語化し、言語化することでその経験を完了させます。
でも、禅の世界では、その言語化する過程を排除します。

チューリップの花は、チューリップの花と名づける前に、そこにあるものです。
赤と呼ばれる色彩の花を持ち、緑と呼ばれる色彩の葉を持ちます。
チューリップ、赤、緑というような名詞、あるいはキレイ、カワイイという形容詞を使わないで、チューリップを経験しろと、
禅はいいます。

あるものをあるがままに経験しろということです。
ぼくら凡人はあらゆるもの、ことを言葉でレッテルを貼り、分析し、言葉の理解で分かったつもりになります。

チューリップをあるがままに経験するというのはどういうことか。
網膜に色彩が映り、形が移り、鼻には香りが漂います。
そこには赤と呼ばれる色彩があるのではなく、チューリップの微妙に変化・調和した色があります。
花、茎、葉の形も良く見ると一様ではなく、うねうねとダイナミックにうねっています。
そこには赤も緑も、キレイもカワイイもなく、ただ胸のすくような色と形のダイナミズムがあるだけです。
そのダイナミズム=生命をじかに経験しろということです。

空でもそうです。
「青い空」と形容詞をつけて名詞を付けた途端に、経験は行き止まりになります。
頭上に広がる空間をひたすら経験してみろということなのです。
「青い空」があるのではありません。
そこにはその一瞬の空の色があり、光があり、印象があり、感動があり、風があります。

そういう、もの、ことをじかに経験するためにいつも邪魔しているのが人の言葉=思考=思念です。
解釈、分析、判断です。
これは、いくら言葉を重ねても分かってこない境地なのだと思います。
言葉を捨てる行為というのは、日常の世界のはありませんから。

言葉、思考を捨てた世界というのがどんなものなのかということで、なにかぴったりと来るような文章があったので、
紹介してみます。
長くなりますが、ご勘弁を。

以下、引用。


 どのような経験も、いずれは過ぎ去るということ、そして、この世は何一つ永遠に価値あるものを与えてくれない、
ということに気づいたとき、放下は、驚くほど簡単になります。放下をしたあと後も、あなたはたくさんの人に出会い、
経験や活動を共にすることになりますが、そこには、エゴ的自我による欲望や、恐れは存在しません。
これは、別の表現をするなら、状況、人間、場所や出来事が、自分を満足させなければならない、幸福にしなければならない、
という執着心がなくなる、ということです。不完全であり、過ぎ去っていくという性質を、コントロールできないものとして、
すんなり受け入れるということです。
人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなったとたん、不思議なことに、それらは、
あなたにとって満足のいくものに変化していくだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになって行きます。これが、受容の心が起こす「奇跡」です。

ーーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーーーー

 「『いま、この瞬間』を楽しみなさい。幸福になりなさい」。ここでわたしがいわんとしているのは、そういうことでしょうか?
違います。
 「『今、この瞬間』を、そのまま放っておく」。ただ、それだけで十分なのです。
 
 「手放し」は、「今、この瞬間」に対して行うものです。「今、この瞬間」を自分なりに解釈して、
でっち上げる話に対して降伏することではありません。

 たとえば、身体に障害をかかえていて、歩行ができないと仮定しましょう。この身体的状況はありのままです。
この状況に対して、思考はこんなふうな「物語」を、つくり上げてはいないでしょうか?
「これがわたしの人生か?車椅子の世話になるなんて。人生はなんと不公平で残酷なんだ。このわたしがいったい何をしたというのか?」

 「現状」をありのままに受け入れて、「現状」と、「思考がそれについてつくり上げる物語」とを混同しないこと。
これを実践できますか?

 「どうしてわたしがこんな目にあうの?」。もはやこの問いかけをしなくなったとき、「手放し」が起こります。


                        「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」 エックハルト・トール著

以上、引用終わり。

放下というのは禅の世界の言葉ですね。
何を放下するのか。
言葉です。
言葉による解釈、判断、思いです。
言葉を全部取っ払ってしまうと、今ここにあるものがはじめて見えてくる。
そういうことだと思います。

なんか、楽しそうです。




大人の責任

2006年08月01日 | 雑感
今朝、何気なくテレビを見ていたら、高校総体の開会式というのをやっていました。
文部科学省の副大臣、知事、市長と開会の挨拶が続きます。
ぼくが学生の時、こういう行事の時に聞かされたまんまの退屈なつまらない言葉が続きます。
特にひどかったのが、副大臣の挨拶。
顔を下に向けて、ぼそぼそと原稿を読んでいるだけ。
聞いている方の高校生たちは明らかに聞いているのが苦痛で、そわそわしています。
最後に皇太子のお言葉と選手宣誓があって、閉会です。

ちょっとびっくりしました。
オリンピックにしても、ワールドカップにしても、エンターティメント化が如実に進んでいる折、
おもしろくもなんともない退屈そのものの大会進行です。
選手たちが来ているウエアもダサいままです。
こういう大会の関係者というのは世界の趨勢ということには関心がないのでしょうか。
それにしても、こういう大会のあり方を指導改革できる位置にある政治家の言葉が一番陳腐で、低波動です。
世界の趨勢にも興味がなく、ありえるべき大会のあり方というものにも想像力の働かないような人たちが、
この国のいろいろな組織の指導者の位置を占めているような気がします。
ちょっと、言葉が出ないくらいにひどい開会式でした。

よし頑張るぞーなどという顔をした選手なんかひとりもいなかったです。
ひたすら退屈で、早く終われーって感じでした。
なんなんですかね。
おそらく、今の入学式やら、卒業式やら、成人式というのはこんな感じなのかもしれません。
そうだとしたら、ぼくでも暴れたくなるかもしれないなーと思いました。

要するに、式自体が選手たちのことなど見ていないのです。
感動も勇気も激励も、開会式は何も選手に与えてくれないのです。
つまらない大会役員と、つまらない政治家が、つまらない言葉をだらだら並べるだけの式なのです。
どんより沈みきった会場の雰囲気。
なんとういか、参加運営する大人たちはそんなのさえも感じ取ることが出来ないのでしょうか。
ちょっとびっくりしました。

近頃の子供がおかしいとはいつの時代も言われることなんでしょうが、
近頃の大人がおかしいですね、明らかに。

企業にしても、行政にしても、不祥事だらけでしょっちゅう謝罪の記者会見をテレビで眼にするわけですが、
潔く謝っている姿なぞついぞ目にしたことがありません。
言い訳にもならない、責任転嫁の言葉がぐずぐずと出てくばかりです。
責任がないと思うなら、断固謝罪などしなければいいんです。
でも、いかなる理由があろうとも、謝罪すると決めたら、断固潔く謝罪するべきなんです。
潔くないと謝罪が謝罪にならなくなります。

いろいろ会社として、或いは組織として責任はあろうかと思うが、なにも自分が悪いわけではないというような言い訳がましさが、
会見を行う当事者の顔に浮かんでいます。
なんというか、サムライじゃないんですね。
会見に臨んだものは、例えその人間に責めがなくとも、会社の全権を担った代表です。
会社の代表として、潔く謝罪する。
部下の責任は俺の責任だと引き受ける。
それが出来ない大人ばかりになってしまったんでしょう。