All Photos by Chishima,J.
(コヨシキリ 2008年6月 北海道中川郡豊頃町)
先日、図書館で資料集めをしていた時のこと。書架の片隅に長らく探していた文献を見つけた。この文献は40年以上も前の帯広近郊の鳥についてのもので、この地方の鳥類リストとしては最古の部類に属するものかもしれない。古本屋や友人・知人の本棚にも見たことが無く、入手は困難かと思っていたところでまずは安心した。
私は図書館のような静かすぎる環境では、却って集中できない性質である。自宅で、文献の山を机の上にだらしなく広げながら、気になる箇所に赤線を入れたり、疑問点を口で反芻しながら読み進めるのが一番身に付く。そんなわけで、館外持ち出し禁止のこの文献を、管内のコピー機で複写させてもらい、複写願と共にカウンターに持って行った。
キョウジョシギ(夏羽)
2008年5月 北海道中川郡豊頃町
カウンターでのチェックといっても通常は書類で申告した枚数と、実際の複写枚数が一致しているか程度の簡単なものなのだが、この日の職員は自己の職務に極めて忠実な方だったらしい。私が複写したのは「出版後50年を経ない単行本」であるので、著作権法により一冊の半分以上の複写を認めるわけにはいかないと言う。しかし、私が調べたいのは鳥類全般についてであり、特定の分類群のみではない。すべてのページの情報を必要としている。そのことを伝えた。それでも首を縦には振ってくれないので、くわえてこの本は出版後長い年数を経過していて事実上入手不可能であること、これを全部コピーしたところで営利目的になど利用のしようが無いこと等を説明したが、二言目には「著作権法」を持ち出してダメの一点張り。
気長に説明を試みていた私も、余りにステレオタイプで役所的な対応と、こんなことに貴重な時間を費やされていることに腹が立ってきて、「著作権だ権利の侵害だの言うが、小説や随筆のように売り物になるわけではない書籍に、自分の観察データを託した(この本は発行は教育委員会であるが、中身は完全に一鳥見人の観察記録である)筆者が、50年近く後にそれをコピーしたいという願いを嫌がるのか?自分もそうした報文を細々と書く身だが、もし同じ立場だったら嫌がるどころか草葉の蔭からでも大喜びする!」という旨のことを、少々語気を荒げて伝えた(他にも幾多のやり取りがあったのだが、省略する)。
黙り込んでしまった職員は「少々お待ち下さい」と裏方に消えてしまった。少々とは縁遠い時間の後、再び現れた彼女の口から、著者と連絡が付いて複写の許可が出たので、コピーは持って帰ってよろしいと伝えられた。今までの不毛な議論とは打って変わっての親切な対応には謝意を表したいが、本をコピー機にかけてから優に一時間以上が経過していた。
キタオットセイ(オス成獣)
2008年5月 北海道羅臼沖
今回の文献は教育委員会の発行であるが、古い時代ゆえ製本も粗末で、おそらく発行部数もかなり少ないはずで、せいぜいや官庁や学校等に配布された程度と推察される。このような曲りなりにも「公的な」出版物の他に、地元のナチュラリスト達が手弁当で自分たちの観察結果を印刷したものが各地に少なからず存在する。彼らが身銭を切ってまでそうしたものを出版するのは、自分らの結果を公にすることによって学問の進歩、また地域の自然の保全に反映されることを望んでのことだった筈である。また、それらを図書館等に寄贈するのは、ネット時代の現代ならともかく、そこに置くことによってより多くの人への情報の伝達が可能と考えたからであろう。それを、著作権法を盾に後世の人の知りたいという思いが規制されるのは、何処か腑に落ちないものを感じる。著作権法が著者の権利を保護するものであるとしたら、科学文献、特に自然史系の分野においては、規制すべきは複写の分量ではなく、そこに書かれている事実や写真を無断で使用する、あるいはそれらを意図的に無視するといった行為ではないだろうか。
ツメナガセキレイ(亜種ツメナガセキレイ;夏羽)
2008年7月 北海道北部
ケマダラカミキリ
2008年6月 北海道上川郡上川町
ツバメシジミ
2008年5月 北海道河東郡音更町
堆肥上のタンチョウ・成鳥
2008年7月 北海道十勝川下流域
(2008年8月1日 千嶋 淳)
大津への帰省は、8/11~8/19でフェリーの往復の為、現地には8/12PM~8/17滞在します。あの辺をうろうろしていますので、もし見かけたら声をかけて下さい。
いつもこの時期なので、なかなか鳥種も限られますが、その度に、違う出会いを楽しんでおります。
冬期の伊勢崎にも顔を出して下さいね!
私は12~14日まで道東に出かけていて、14日日中の帰路に大津周辺に出没する予定です。お会いできれば幸いです。
夏鳥はもう下火になっているかもしれませんが、海岸でシギチやカモ類、タンチョウ、アカエリカイツブリ等は堪能できると思います。
伊勢崎にも最近じっくり帰れていないので、この冬あたりはと思っています。その折には探鳥会にも顔を出させていただきます。よろしくお願いします。
しかし、
今改めて図書館での勤務経験もあるウチのカミサンに読んでもらったところ、これはこの図書館職員の「著者に了解をとってコピー許可を取った(許可なしの全コピーはとれない)」対応が正解とのことでした。
図書館は「著作権を侵さない」前提で部分コピーを許可しています。そこには一定の規制が必要です。それは自然系の文献であろうが何であろうが著作権が生じているものについては等しくかかってくるのは当然のことです。
○○系という区別は主観によってどうにもなることですし。
そもそも「本を貸す」という事業は様々な権利に踏み込む行為です。そこを各種法律を整理して貸せる状態にしているのです。たとえば、図書館法に基づく司書がいなければ博物館といえども貸し出しはできないなど、かなり厳密に決まっているものです。
そこで著作権を侵さない前提となっている決まりを破ったらどうなるか?図書館自体が成立しなくなります。
だから、法を守った図書館が悪いかのような印象を与えてはいけないと思う。
世の中には法を守らないどころか、ろくに勉強もしないで仕事しているところがあるのは自分のブログで表現したつもりだ。
そういうことを考えれば、この場合の図書館の対応はお手本といっていいでしょう。
件の文献の著者の現住所はサークルの卒業生名簿の2番目にありますが、やっぱり電話番号をつけた方がいいのかなぁ。
図書館に悪印象を与えるのは本来の意図ではなかったのですが、文章の流れ上そのように感じられる個所もあり、その点は失礼しました。
一番言いたかったことは、学会誌ですら数年前のものはネット上でのダウンロードがフリーでできるものが少なくない昨今、論文や報告書のコピーにもう少し寛容な著作権法であってほしいということです。逆にコピーを禁止することでそれが守れるのか?という思いもあります。例えば館外貸し出しが可能な文献であれば、借りて行ってどんだけコピーしようとお咎め無しですよね。また、著者の了解を得るのも今回みたく可能な場合は勿論そうすべきですが、音信不通や海外長期出張などにより連絡がつかない、あるいは既に死亡している(が出版後50年を経ていない)場合などは、これまた厄介だなと。
しかしながら、「全コピーする権利」を法律的にどのように規定すれば良いのでしょうか。規定できなければ公的使命を帯びたところでは実施できません。
施設の内規レベルではなく、やはり著作権法によって規定しなければいけないと思います。
これは大変難しい問題になると思います。
また、
「著作権」「著作権法」「図書館」のそれぞれについて理解する必要があると思います。
さらに、利用者のコピー権ってなにさ?と考えると、ちょっと複雑な様相を呈すると思います。
・図書館が「全コピー可」をうたえば、すべての著作権が成立しなくなる恐れがあるし、それに対して図書館は責任が取れない。
「個人」がコピーするのと「公」がコピーするのとでは意味合いが全然異なる。
・ジャンルを区切った場合。「ではなにが自然系論文」では「ない」のか?境界線を引くことはおそらくできないだろう。
・学会論文であることを境界線としたとき、今回の場合は外れてしまうし、そもそも学会からダウンロードせい、という話になる。
・そもそも「絶対全く書き写すな」という話になっている訳でなく現実的にはほとんどの場合が入手可能である。これによって利用者としての「知る権利(?)」が侵されているとは法律的に判断できるかというと困難だろう。むしろ「十分に保証されている」という法判断になると思う。
・これなら可能性が広がる案。
教育委員会名で出す場合は「執筆者」の著作権が生じ得ないようにする。委託執筆にして著作権は教育委員会にすれば公文書であり、おそらくは公文書の公開と同じような扱いが可能かもしれないし、仮に同じような著作権が生じたとしても連絡がつかなくなる可能性は無い、検索も楽?
・上の場合、自分が執筆者だったらすこし寂しくないですか?自分は仕事上そういうことがよくあるけど。
著作権の原点のようなものはそのような気分辺りにもあると思います。
・著作権を守るということは「表現・出版」の自由を守るということと関係していると思う。ここのところを踏まえて、この便利すぎる世の中で空気のような著作権に自分も守られている現実について理解する必要があると思う。
・いやまあ現実には、厳しそうなものは図書館以外で可能性を探るか、手で書き写すか、別々な人で行って半々コピーするかどれかでしょ!そこは無精するなということじゃないの?
ひとつは徹底した規制。
もうひとつは野放図な(いわゆる)自由。
その点、いまの状態は融通が効きすぎるくらい利いていて、自由とそれを支えているものの恩恵が感じられにくいのが少し怖いです。
まあ、著作権の問題はそのごくごく片隅のことにすぎないかもしれませんが。
手書きで要点を写すことも無論考えたのですが、件の文献は文章量が多く、一回二回の通読では頭に入ってきそうにないので、精読することが私なりの著者への敬意の表し方だと考え、コピーを希望しました。そこで私の立場と図書館(=著作館法)の立場が異なったということですね。
だからこれはある意味「いい立腹」。
ほめてあげて欲しいなと思ってます。
ただ、現行の著作権法に全く問題も不備もないとは思わないし、法の運用も含めて時代とともに変化できるような論議はできないとイカンと思います。特に現在は音楽の分野については顕著だけど、特に昔の学術論文・報告についても時代に即した保護と利用の根拠が構築されてしかるべきだね。だんだん貴重さが増す訳だから。それは図書館の問題というよりは法の問題ね。