All Photos by Chishima,J.
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トド 2009年11月 以下すべて 北海道目梨郡羅臼町)
初冬には珍しいくらい穏やかな羅臼の海を、船は緩やかに進んで行く。時折、シノリガモやヒメウが脇を通り過ぎる。平らな海面に褐色の点が幾つも散らばっていた。点だけでなく、三角定規の細長い方が突き出しているようなのも見える。トドの休息集団だ!調査員やカメラマンを乗せた甲板は俄かに色めき立ち、船はゆっくりと、だが確実にトドへ近付いて行く。向こうもこちらの存在に気付き、大きな口を開けた直後、咆哮が耳に飛び込んで来た。「オーッ、オーッ」。点に過ぎなかったトドの頭部や背中の赤褐色が、肉眼でもそれと認識できる。三角定規は、前・後肢だったのだ。
こう書くといかにも、「世界自然遺産」や「原生的な自然環境」と云ったイメージの強い知床の、人里離れた桃源郷の沖合での出来事に思われるかもしれない。しかし、実際には下の写真を見れば明らかなように、トドの群れ泳ぐすぐ後ろにはテトラポッドが堅固に組まれ、そのまた後ろには人家が建ち並ぶ漁村の前浜での遭遇である。凪いだ海面は背後の家々を反映して、所々白や茶や様々な色に染まっている。夏に千島列島などで繁殖したトドは、11月頃から羅臼の沿岸に回遊して来る。観察されるのは沖合よりもむしろ、特定の岸近くの「付き場」と呼ばれる海面が多い。この日出会ったもう一群も、すぐ背後は車の往来する道路だった。両地点とも岸からもはっきりと見えていたはずだ。いや、むしろ陸からの方が距離は近いかもしれない。水深やコンブの養殖網のため、船はごく沿岸へは進入できないのを、彼らは知っているのかもしれない。
岸近くのトドの群れ2点
2009年11月
幾つもの頭にくわえて、三角定規のような前肢も見える。
トドの後方、水面が淡色に見えるのは家を映しているから。
こうして初冬の羅臼で平和な日々を送っていたトド達も、1月中旬頃からは様子が変わる。船の接近に対して非常に敏感になり、時にはイルカのような激しい跳躍を伴ってそれを交わそうとする。有害獣駆除としてのトド撃ちが始まるからだ。メスでも体長2mを超えるトド(羅臼に来遊するのはメス成獣が多い)は無類の大食漢で、1回の摂餌量の平均が18㎏(羅臼における捕獲個体の胃内容物重量から推定)との報告がある。餌生物にはスケトウダラ、マダラなどのタラ類をはじめ、カレイやサケの仲間など人間にとっての有用魚種も多く含まれる。ゆえに漁獲物や漁具への被害が発生し、駆除という措置が講じられることになる。
跳躍して船から逃げるトド
2009年1月
サケ科と思われる魚を捕食中のトド
2009年1月
オオセグロカモメの若鳥がおこぼれに預かろうと付き纏う。
大きな餌は口にくわえて振り回し、細かくしながら食べる。
一方でトドは分布域の多くで生息数を減少させており、アメリカやロシアでは絶滅危惧種として保護されている。北海道に隣接した千島列島でも、1960年代の2万頭から1990年代の4000頭まで著しい減少を示した。北海道における駆除もその減少に拍車を掛けたと考えられている。環境省のレッドデータブックでは、絶滅危惧Ⅱ類の指定を受けている。羅臼でもかつて見られたような数百頭の大群や、岩礁への上陸は近年とんと見られなくなったと言う。しかし漁業被害は依然として存在し、全道では100頭以上が毎シーズン駆除されている。知床の自然遺産登録に当たっても、トドの保護か人の生活かといった議論がなされた。
それでも、相変わらず市街地の沿岸にトドがやって来るのは、そこが彼らにとって魅力を持った海域だからなのであろう。漁業との軋轢は深刻な問題であるが、解決を図りながら将来に渡ってトドの来遊を維持できれば、世界遺産の核心地域でも海面保護区でもない前浜に来るトドは、野生動物との共存の新たな風景となるかもしれない。
はえ縄で漁獲され、船に水揚げされるスケトウダラ
2009年11月
真冬の知床半島を海上より望む
2009年1月
(2009年12月17日 千嶋 淳)