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All Photos by Chishima,J.
(エトロフウミスズメ 2012年2月 北海道厚岸郡浜中町)
(NPO法人日本野鳥の会十勝支部報「十勝野鳥だより179号」(2012年12月発行)掲載の「不定期連載学名に親しもう③ウミスズメ類の名付け親 パラス」より転載・写真を追加)
前回この連載が掲載されたのは2009年4月発行の166号なので、約4年弱ぶりということになる。それで連載かとツッコまれそうだが、こうなるのを見越して「不定期連載」と銘打っておいたのは我ながら名案であった。次は次号かもしれないし、数年先かもしれない。閑話休題。学名は通常、属名と種小名の2語によって表記されるが、学術的な目録や専門書では例えば Hirundo rustica Linnaeus, 1758 のように種小名の後にもう1語と4桁の数字が付くことがある。これはその種を記載した人の名前と記載された年で、Hirundo rustica(ツバメ)はリンネ(*注1)が1758年に記載したことが分かる。Ficedula narcissina (Temminck, 1836)のように人名、年が括弧で括られている場合もある。記載時と現在の属名が異なる場合にこのような表記になり、テミンク(*注2)がキビタキを1836年に記載した時には現在とは異なる属名だったことが分かる。なお、記載者名と年はイタリックにしない。
先日、ウミスズメ類についてこの記載者、年入りの学名を調べていたところ、Aethia cristatella (Pallas, 1769)(エトロフウミスズメ)のように、パラスによる記載の多いことに改めて気付いた。ゴマフアザラシの記載者でもあり、カワガラスの学名(Cinclus pallasii)(*注3)やオオマシコの英名(Pallas’s Rosefinch)にもその名を残すパラスがロシア帝国の偉大な博物学者であることは知っていたが、ここまでウミスズメ類を記載していたとは驚いた。ウミバト、ケイマフリ、マダラウミスズメ、アメリカウミスズメ、ウミオウム、エトロフウミスズメ、コウミスズメ、ウトウ、エトピリカの9種にも及ぶのだ。ウミスズメ科の現生種は、絶滅したオオウミガラス(*注4)も含めると世界で24種だから、実にその3分の1以上を記載していることになる。大西洋にのみ分布する3種(*注5)、大西洋と太平洋に分布するため早い時期にリンネらによって命名された4種(*注6)、アメリカの西海岸や日本周辺等ロシアの研究が及ばない範囲の3種(*注7)を除くと、北太平洋に固有な14種(*注8)のウミスズメ類の6割以上が彼の命名である。こうなると北太平洋のウミスズメ類の名付け親と言っても過言ではない。彼の生涯や業績について、もっと知りたくなった。私の知る限り、西村三郎「未知の生物を求めて 探検博物学に輝く三つの星」(1987年 平凡社)は日本語で読める唯一のパラスの伝記である。以下、同書を参考に彼の略歴を振り返ってみよう。
オオマシコ(オス)
2009年2月 北海道中川郡豊頃町
![Img_5348 Img_5348](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/de/775ff7f9117af2718a4380e33ed7037c.jpg)
ウミオウム
2011年1月 北海道十勝沖
![Img_9775 Img_9775](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/6e/d98698a7890dfa5b027779e6951f957d.jpg)
パラス(Peter Simon Pallas)はドイツ人で1741年、有名な外科医を父にベルリンで生まれた。ヨーロッパでは産業革命や、後に市民革命へ続く啓蒙思想が広まりつつあった時代だ。日本は徳川の8代将軍吉宗の治下にあった。幼い頃から生物の好きだったパラスは13歳で大学に入り、動物学と植物学を特に熱心に勉強した。外国語にも才能を発揮し、ラテン語、英語、フランス語に堪能だったという。19歳でライデン大学から学位を取得し、その後はロンドンやオランダ、ベルリンを転々としながら研究を重ね、幾つもの著作を発表しながら博物学者としての名を上げてゆく。
1767年、ロシアの科学アカデミーから探検隊のリーダーとして招聘され、同アカデミーの教授となる。当時のロシアは、進取の気性に富んだ女帝エカテリーナ2世のもと、教育、文化、産業等あらゆる面でめざましい躍進を遂げつつあった。その時代の流れの中で立案、計画されたシベリアから南ロシアまでの広大な地域の探検隊長に抜擢されたのだった。翌1768年にペテルブルグを出発した探検隊は、いくつかの班に分かれて北は北氷洋から南は北ペルシア、西はコーカサスから東はアムール川上流までの広大な地域を6年の月日をかけて探査し、ペテルブルグに戻ったのは1774年であった。調査対象は科学のほぼ全分野を網羅し、地質鉱学、自然地理や動植物学はもちろんのこと、薬学、民俗学、考古学、言語学等にも及んだ。
探検から戻ったパラスはペテルブルグ科学アカデミーの博物学教授として、やはり分野横断的な研究に尽力し、多くの論文や図譜を残し、数多の生物の命名・記載も無論行なった。50歳を過ぎてからロシア南部のクリミア地方への調査旅行や移住を行なう等その精力的な活動は続いたが、1810年故郷のベルリンへ戻り、翌年そこで没した。彼がライフワークとして取り組んだロシアの動物相に関する大作は、死後「ロシア‐アジア動物図誌」として刊行された。一巻と二巻で哺乳類と鳥類、三巻で爬虫・両生・魚類を扱ったこの厖大な業績は、旧北区(*注9)の脊椎動物学全体を基礎付けたものとして高い評価を受けている。
ゴマフアザラシ
2013年1月 北海道厚岸郡浜中町
![Img_0060 Img_0060](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/dd/6706db0ad68029dfc501fc5dcac44581.jpg)
さて、生涯を通じて厖大な新種記載を行ったパラスは、どのような経緯で多くのウミスズメ類の記載に携わったのだろうか?原記載を当たることができないので、ここからは推測である。記載された年に着目すると、種数の多い割に1769年と1811年の2年にすべてが記載されている。1811年は彼の死後に刊行された「ロシア‐アジア動物図誌」の中での記載である。ウミオウム、エトロフウミスズメ、エトピリカの3種のみ1769年である。1769年というと、かのシベリア探検中だ。この探検で重点が置かれたのは南ウラルや西シベリア、バイカル湖周辺等の大陸部で、ベーリング海やオホーツク海には他の班も含め到達していないらしいこと、パラスが探検の最中にも後の報告書の基礎となる執筆を続けるほど勤勉だったとはいえ、多数の標本や文献を渉猟する必要のある新種記載を僻地で行うのは困難であろうことを考えると、これらは前年の旅立ち以前に書いたものがこの年に出版されたと考えるのが妥当である。
エトピリカ(夏羽)
2012年6月 北海道厚岸郡浜中町
![Img_7843_edited1 Img_7843_edited1](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/84/9455e515b793ac5984bdf98f8cd12a37.jpg)
科学アカデミー赴任直後のパラスは、ステラー(Georg Wilhelm Steller 1709-1746)が残した標本整理に情熱を傾けたという。ステラーもパラスと同じくドイツ出身でロシアに仕えた博物学者で、ベーリング(*注10)の第2次カムチャツカ探検に参加し、ベーリングが後に彼の名の冠された島で没した後は隊員を率いてそこから脱出、カムチャツカでも博物学資料の収集を行ったが、ペテルブルグへの帰還途上に37歳の若さで亡くなった。彼がベーリング海やカムチャツカで収集した標本類が、ほとんど手つかずの状態でアカデミーに残っていたのだから若きパラスが夢中にならないはずはない。そんな標本の中に、当時未記載だったウミオウム等を見出したのかもしれない。ちなみに、ステラーはその人となりはともかく、多くの動物名に今日も生き続けている。オオワシ(Steller’s Sea Eagle)やトド(Steller Sea Lion)の英名を聞いたことのある人は少なくないだろうし、発見から僅か27年で姿を消した大型の海牛類、ステラーカイギュウ(*注11)は絶滅動物を語る上で欠くことのできない存在だ。コケワタガモの英名(Steller’s Eider)や学名(Polysticta stelleri)にもその名を残しているが、これを記載したのは1769年、パラスである。1811年に記載された残りの種は、彼の生涯の集大成的な著作中であり、いつ、どのような形で収集されたものかは不明だが、産地の多くはカムチャツカやベーリング海である。ベーリングやステラーが集めたものだったかもしれないし、その後の探検で科学アカデミーに届いた標本だったのかもしれない。こうして見てくると、パラスは彼自身が記載した北太平洋やベーリング海のウミスズメ類の生きている姿を実際に見たことはなかったようである。しかし、たゆまぬ精進によって磨き上げられた直観や鑑別力がウミスズメ類に対しても大いに発揮されたことは、200年以上を経た今日でもその分類の生きていることが確かに証明している。
オオワシ(幼鳥)
2012年12月 北海道中川郡幕別町
![Img_6267 Img_6267](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/fb/efc703b6117722a5ca055f362688eacd.jpg)
トド
2009年11月 北海道目梨郡羅臼町
![091130 091130](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/2b/7a2b861f987f8903e52f7fd8f3e5a304.jpg)
*注1リンネ(Carl Von Linne 1707-1778):スウェーデンの博物学者。学名を属名と種小名の2語のラテン語で表す二名法を確立したのをはじめ、綱、目、属といった上位分類群を階層的に位置付ける等「分類学の父」として現在でも国際的に名を馳せる。
*注2テミンク(Coenraad Jacob Temminck 1778-1858):オランダの動物学者で、ライデンの王立自然史博物館の初代館長を務めた。シーボルトの「日本動物誌(ファウナ・ヤポニカ)」編纂に当たっては、同博物館のシュレーゲルと共に脊椎動物を担当し、日本の大型脊椎動物は彼らによって記載されたものが非常に多い。コマドリとアカヒゲを記載する際の手違いについては、本連載2回目「変更できない過ち」を参照。
*注3:カワガラスを記載したのは上記のテミンクで、パラスの死後の1820年のこと。パラスがシベリア探検で残した標本類の中に新種を見出したのだろうか?
*注4オオウミガラス:かつて北大西洋に生息したウミスズメ科鳥類。体長が75cmもあり直立していたので、その姿はむしろペンギンのようだったという。飛べなかったため肉や羽毛目当てに乱獲され、1800年頃までにほぼ絶滅した。わずかに残っていた個体も繁殖地の火山噴火や標本目的の採集によって追い詰められ、1844年に標本収集者の依頼を受けた水夫によって最後のつがいが殺された。目視記録も1850年代には絶えて地球上から絶滅した。
*注5:オオハシウミガラス(日本で1例の古記録はある)、ニシツノメドリと絶滅したオオウミガラス。
*注6:ウミガラス、ハシブトウミガラス、ヒメウミスズメ、ハジロウミバトで、ウミガラス以外の3種は1758年にリンネが記載している。
*注7:日本近海のカンムリウミスズメ(テミンクが1836年に記載)、北米西海岸のみに分布するセグロウミスズメとクラベリーウミスズメ。
*注8:パラスが記載した9種以外は北米側のマダラウミスズメ、コバシウミスズメ、ウミスズメ、シラヒゲウミスズメ、ツノメドリ。
*注9旧北区:生物地理区分の一つで、ヒマラヤ山脈以北のユーラシア大陸とサハラ砂漠以北のアフリカ大陸を含む広大な地域。トカラ列島南部の渡瀬線以北の日本は旧北区に属する。
*注10ベーリング(Vitus Jonassen Bering 1681-1741):デンマーク生まれのロシアの探検家。2度のカムチャツカ方面への探検を指揮し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きでないことを確認したが、第2次探検の際にコマンドル諸島の無人島に難破し、同地での越冬中に多くの船員と共に息を引き取った。ステラーは第2次探検に参加していた。現在、ベーリング海やベーリング海峡、ベーリング島等にその名を残す。鳥屋であればベーリングユキホオジロも脳裏を過るかもしれない。
*注11ステラーカイギュウ:かつてベーリング海に生息したジュゴン目(海牛目)に属する大型の海生哺乳類で、体長は5mを越え、体重は5-12tに達する現生では最大のカイギュウ類であった。暖かい海でアマモ等の海草を食べるジュゴン等とは異なり、豊富な皮下脂肪を蓄え、コンブ等の海藻を食べていた。ベーリングの第2次探検隊がコマンドル諸島で難破した際に「発見」され、生き残った隊員の貴重な食料源となった。動きが鈍く、人間に対する警戒心の薄いことが災いして乱獲され、発見から僅か27年後の1768年に捕獲されたのを最後に絶滅した。ベーリング島周辺の海底には、現在でも本種の骨が点在するという。
(2012年12月28日 千嶋 淳)