TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

動物園 動物写真その89 『ユーラシアカワウソ、フンボルトペンギン 』

2017年10月16日 | 動物園 動物紹介
『ユーラシアカワウソ』です。
ズーラシア動物園で、飲んびり日向ぼっこしていました。
ユーラシアカワウソはユーラシア大陸や北アフリカに住んでいます。



野生では川や湖、沼、森林、草原などで生活しています。
身体がかゆいのか、毛づくろいかわかりませんが、しきりに気に身体をこすりつけています。



1匹から数匹で行動し、泳ぎが上手く、主に水辺で暮らしています。
最近は毛皮を狙われて狩猟されて、生息数が激減しています。



食性は動物食で、魚、エビ、カエル、ネズミなどの小動物を食べます。
川や湖などの付近の他、平原や森林地帯など広く住んでいます。
水が少ない季節は、山の岩穴などで休むこともあります。



ユーラシアカワウソの尾は、平らで艶のある防水性のある毛皮で覆われています。
4本の足には水かきがついていて、水中で何時間も泳ぎまわることができます。
遊ぶことも大好きで、木に身体をこすっているのは遊びなのかもしれません。



『フンボルトペンギン』です。
名前はアレクサンダー・フォン・フンボルトという地理学者に由来しています。



フンボルトペンギンの生息域は暖かく乾燥した地域で暮らしているため、ペンギンのイメージとは違い寒さに弱いそうです。



エサは魚・イカ・エビ・オキアミなどを食べます。
イワシはフンボルトペンギンの大切な主食で、摂食時にエサを海水ごと飲み込んで塩分だけ血管から体外に排出するという仕組みを持つため、水分はとらないそうです。



夫婦は海岸近くの岩穴・割れ目・藪・砂中に掘った穴を巣とします。



日本の気候はフンボルトペンギンにとって最適なようで、飼育技術と相まって繁殖に成功し、今では全生息数の1割が日本で飼育されているとさえ言われています。




次回の動物紹介は『ボウシテナガザル、ミナミアフリカオットセイ』です。

動物園 動物写真その88 『アカアシドゥクラングール 』

2017年10月15日 | 動物園 動物紹介
今回は世界一美しいサルといわれる『アカアシドゥクラングール 』の紹介です。



ズーラシアで何回かいい写真を撮りたいと挑戦しましたが、動きが早いのと金網越しなので、いつも失敗でした。
今回何とか、何枚か焦点があった写真が撮れましたので、ラッキーでした。
アカアシドゥクラングールは単にドゥクラングール、或いはドゥクモンキーとも呼ばれ、ベトナムやラオスの低地から高地の森林地帯に生息しています。



毛は長く、毛色は暗灰色や茶色を帯びたような濃灰色、また灰褐色などですが、黄色や肌色などの顔のまわりには、白くて長い頬毛があり、かなり特徴的な顔をしています。



こちらの写真はズーラシア動物園の動物紹介での写真ですが、いつかこの子供のサルに会えるのを楽しみにしていました。



日によっては子供のサルは公開していない時が多く、いつも空振りでした。
今回は少し大きくなっていましたが、ようやく撮ることができました。



何とも愛らしい顔をしたアカアシドゥクラングールの子供です。
ズーラシ動物園が人工哺育に国内で初成功したそうです。



完全な樹上性の動物で、めったに地上に降りることはなく、樹上での動きは非常に敏捷です。
木の葉を主食としてイチジクなどの果物や種子などを採食しています。



熱帯雨林やモンスーン林に普通は4~15頭程度の群れで生活しています。
複数の群れが集まって、時に50頭程の群れをなすこともあります。



尾や肘の下から手首にかけては白く、膝から足首の下辺りまでは栗色やオレンジ色をしています。



これが「アカアシ」の名前の由来になっているそうですが、アカアシドゥクラングールはかなりカラフルな体色をしているといえます。



次回は『ユーラシアカワウソ、フンボルトペンギン 』です。

トッポ家初孫成長記 その40 『初孫5歳、秋の運動会』その2

2017年10月14日 | 初孫成長記
園児のダンスが始まりました。



幼稚園児の踊りは、仕草がかわいいので、家族の声援がいっぱいです。



孫もニコニコ笑いながら踊っていました。



男の子も女の子も同じユニフォームなので、望遠で覗いていないと誰だかわからなくなってしまいます。



組体操もありました。
以前、小学生の組体操での事故?があり、心配しましたが、みなさん頑張りました。
一番下の子に負担が来ないように、2段目は前かがみの手つきで、重さを分散しています。
孫は背が高いほうなので、来年は一番下だと嘆いていました。



これ、年少さんの父母参加の競技です。
親子で入場し、親が背を向けている間に、子供たちがバラバラに散り地面に小さくうずくまります。
結構自分の子供を探すのが大変なようで、靴か靴下に特徴がないと、簡単ではないようです。



卒園生の綱引きです。



親子で参加の競技です。



親のほうが頑張りすぎて、スピード出しすぎの親が多いです。



最後は年長さんのクラス対抗リレーです。
先生が線の内側を、園児が転ばぬように一緒に応援しながら走っています。
先生は連続の走りなので、激務ですね。



好天に恵まれ、楽しい運動会でした。
おかげで、帽子をかぶっていなかった爺さんは、日に焼けて顔面ヒリヒリでした。

トッポ家初孫成長記 その40 『初孫5歳、秋の運動会』その1

2017年10月13日 | 初孫成長記
全国的に運動会の季節です。
トッポパパもカメラ片手に観に行くことにしました。



早朝より、場所を確保するために家族は大変なようです。



大きな幼稚園のようで、園児の総人数は300人を越えるほどで、大きな運動会です。



幼稚園児のころから、きちんと整列できるようです。
この規律ある行動が、礼儀正しい日本人の原点だとテレビで話していたことを思い出します。
一部の国を除き、海外では自由奔放に動き回ってしまうという話も聞きます。



全員で準備体操です。



玉入れ競技です。
歓声が響き渡ります。



徒競走が始まります。



孫がトップで快走しています。
走り方はフォームもいいし、爺さんに似て運動神経はよさそうです。
これはブッチギリでゴールと思ったのですが.................!????
何と最終コーナーで、突然靴が脱げて! アレマー、がっくりでした。
こういう、ちょっと間抜けな面が爺さんに似たのかもしれません。



それでもほかの競技で、メダル?はゲットできたようです。



父兄、祖父母参加の競技も結構あります。



続く............................................................。

動物園 動物写真その87 『 ニホンツキノワグマ』

2017年10月12日 | 動物園 動物紹介
ズーラシア動物園の『 ニホンツキノワグマ』です。



世界には8種類のクマがいるそうです。
日本国内には北海道に生息するヒグマと、本州以南に生息するツキノワグマの2種類のクマがいます。
環境省の調査によると、北海道の約55%の地域はヒグマが、本州の約45%の地域にはツキノワグマが生息しています。



ニホンツキノワグマは、中型のクマの仲間で、アフガニスタンやイランから、中国、朝鮮半島などに分布しているヒマラヤグマ(ツキノワグマ)の日本固有亜種とされています。



日本に生息するツキノワグマは、日本が大陸と地続きであった30~50万年前の氷河期に、大陸から渡ってきたと考えられています。



胸に白色の月の輪模様がありますが、まれに無い個体もいます。
今回は残念ながら、立ち上がってくれませんでした。



ニホンツキノワグマは木登りがうまく、クマ剥ぎという習性があり、樹の皮を根元から2~3m程にわたって剥ぎ取り、爪痕や歯痕を残す習性があるそうです。
これが原因で、枯死を引き起こす為、害獣とされているようです。
おとなしく動いているツキノワグマは、遠目で見る限りはぬいぐるみのようにも観えますけど、実際は近くで見れば大きくて恐怖感を感じるのでしょう。



ニホンツキノワグマの耳は思っているより随分後ろの方に付いています。
全身真っ黒で遠くだと表情が判りづらいですが、結構可愛い顔をしています。
大きさもパンダと同じぐらいなのに、白と黒では大違いの人生(熊生?)ですね。



野生では、冬に岩穴、土穴、大木の樹洞などで冬ごもりをし、メスはこの期間の2月ごろに出産します。



平均的な個体で、頭胴長(頭の先からお尻まで)は110~130センチ、体重はオスが80キロ程度、メスが50キロ程度です。



しかし、個体差や季節の変動が大きく、最大で約130Kgにもなり、1967年に宮城県で捕獲されたオスは、体重220キロもあったといいます。それでも、世界のクマ類と比べると、小型-中型になります。



次回の動物の紹介は『アカアシドゥクラングール 』です。

動物園 動物写真その86 『 ニホンザル』

2017年10月11日 | 動物園 動物紹介
人にもっとも近い動物で,人とともに哺乳綱霊長目をなしています。



ニホンザルの体長はおとなのオスで54-61cm、体重は10-15Kgで、メスは一回り小さくなります。



大人のニホンザルは顔と尻が赤くて毛が少なく、尻の左右には楕円形の尻だこがある。尻尾は10センチくらいと短いです。



最近の調査報告では、野生のニホンザルにおいては、群れを統率するリーダーなどはなく、ボスザルという役割も存在しないそうです。



ボス的な振る舞いが出てくるのは、餌づけによって同じ食物を狭い場所で各個体が同時に争うという特殊な状況が生まれたからだという
説があります。



ニホンザルは三十数種類という多様な音声をもつことが知られています。
しかしその多くは、怒りや恐怖といった激しい感情に裏打ちされたものや、あるいは遠距離にいる不特定の仲間に対して発せられるものです。
しかし感情的に1対1の間で交わす機能をもつ音声は少ないそうです。



野生においては、群れは年間を通じて遊動域内で過ごしますが、季節ごとの食物の分布の変化に応じて、移動します。



夜間は樹上で眠り、採食は午前と午後に2回集中的に行い、果実、若芽、種子などの植物性食物を中心に、昆虫、クモ、カニ、鳥の卵のほか、海岸にすむものは貝も食べます。
積雪地にすむものは、厳寒期には、もっぱら樹皮に頼っています。



野生のニホンザルの群れは、おとなメスを中心とした母系社会で、メスは生まれた群れを離れることがありません。



じっくり時間をかけて眺めていると、猿山も結構おもしろいです。



次回は『 ニホンツキノワグマ』の紹介です。

動物園 動物写真その85 『 チータ』

2017年10月10日 | 動物園 動物紹介
ズーラシア動物園で初めて、チータのいい写真が撮れました。



地上で最も速く走る哺乳類、チーターの数が激減し、急速に絶滅に向かっていると報道されています。
英ロンドン動物学会の報告によると、野生で生息するチーターはわずか7100頭しか残されていないそうです。



ネコ目ネコ科チーター属に分類される食肉類です。
体は灰色から褐色で、黒色の小斑紋が広がっていて、頭が身体に比べて小さく、スマートな印象です。



小さな頭、細くて長い足、引きしまった胴体で、流線形の体が特徴です。



チーターは、体そのものが高速で走ることに徹した進化を遂げ、爪は、野球やサッカーで使用するスパイクシューズのような働きをしています。



チータが早く走れるのは、チーターの背骨は特に柔軟で、大きくしなることができ、丸く曲げ縮めた背骨を一気に伸ばすことによって大きな脚力を生み出すからです。
つまり胴体も足の一部のように、背骨をバネにして全身で走るからです。



チーターは体重に対する尾の重さの割合が大型野生ネコでは最も大きく、走るときに舵をとる役割を果たしています。



眼の下の黒い模様はティアーズラインと呼ばれ、光の反射を抑える効果により狩りに役立っていると考えられています。



外見は他のネコ科の動物と比べ、頭は小さく、細く長い脚と胴体、出しっぱなしの爪など、とても独特な進化を遂げています。



アフリカのサハラ砂漠と熱帯降雨林を除く全域から小アジアを経てインド北部まで分布し、サバンナや荒地にも生息しています。



次回は『ニホンザル』の紹介です。

動物園 動物写真その84 『 インドゾウ、オランウータン』

2017年10月09日 | 動物園 動物紹介
久しぶりに動物紹介に戻ります。
猛暑の夏も過ぎたので、横浜ズーラシア動物園へ孫と一緒に出かけました。



顔出しは叱られそうですが、たまには勘弁してもらいましょう!



ハロウィンも近く、動物園もハロウィンイベントがあるようです。



一番好きな動物は何か?と孫に聞くと、yはり『ゾウ』と帰ってきます。
孫は大きな動物、ゾウ、キリン、カバなどが好きなようです。
で、まずはインドゾウの噴水ショーです。
飼育員から、ホースで水をかけてもらい、思いっきりやめこんで観客に向けて吹き出します。
歓声と悲鳴が沸き起こります。



インドゾウはアジアに分布しているアジアゾウの亜種で、ネパールからインド、ブータン、バングラデシュなどを経て、ミャンマーやタイなどのインドシナ半島やマレー半島、中国・雲南省南部の一部などに分布しています。
インドゾウは知能もかなり高くて記憶力もよく、幾つかの芸を披露することができます。
歓声や拍手をすると、耳をパタパタさせて喜ぶそうです。



インドゾウと人との関わりは長く、アジア南部などでは古くから重要な荷役動物として樹木などの運搬に使用されてきました。
現在でも荷役動物に利用されている他、国によっては、様々な儀式においても深くかかわっています。



孫もご機嫌です。



4-5回ズーラシアを訪問しましたが、オラウータンの写真がいつも撮れませんでした。
だいたい寝ている時が多く、運よくとれた写真は数枚だけです。

ボルネオオランウータンはインドネシアのカリマンタン(ボルネオ)島に散在的に分布している類人猿で、体はゴリラに次いで大きいです。
オランウータンは世界でボルネオ島とスマトラ島にしか生息しない、最も人間に近い霊長類のひとつです。



雄の方が体が大きく、体重は60~110kg、雌では40~50kg程度ですが、飼育下のものではもっと大きくなり、雄で200kg、雌でも100kgを超えるものもいるそうです。
オランウータンとは、マレー語で「森の人」という意味です。
主に低地の湿地林や丘陵地の熱帯雨林、二次林などに生息し、果実の多いところを好みます。
成熟した雄は「フランジ」と呼ばれる平たい出っ張りが頬の両側に張り出してきて、雌とはまったく違う顔になります。



主な食べ物は果実、葉、樹皮です。
花、着生植物、ショウガ、キノコ、シロアリや、アリなどの昆虫を食べることもあります。



次回は『チータ』の紹介です。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その10

2017年10月08日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
スタジアムのそばに噴水があります。



噴水が野球場みたいになっています。
木や花で野球のアートが造られています。



ボールはお花です。
なかなか面白い構図です。



水の広場です。
1887年(明治20年)に創設された横浜水道の100周年記念の年にあたる1987年(昭和62年)、当時の公園整備の担当者が構想・デザインをし、横浜水道100周年の記念として水の広場を作りました。
不思議な妖精「水の精」です。
トチノキの下に妖精と水瓶を置いたのは、ここが水源だということを表し、妖精が水源を守っているということになっています。



4体の像の一つ、獅子です。
全部の写真は以前紹介しましたが、4体の像はそれぞれ、馬→馬車道、獅子→市庁舎、龍→中華街、イルカ→港の方角を向いています。
この広場の地下には水道局の保有する地下給水タンクが埋まっており、このタンクをつくるタイミングで、水道局から記念になるものをつくりたいという話があり、広場が完成しました。



横浜スタジアムです。
1896年(明治29年)には当時の外人居留地運動場で、日本で最初の野球の国際試合が旧制一高ベースボール部と外人クラブの間で行われました。



1929年(昭和4年) 関東大震災復興事業の一環として「横浜公園球場」が竣工、こけら落としの早慶新人戦にスタンド満員の15,000人観衆を記録しました。



1934年(昭和9年) ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック率いる米大リーグオールスター来日、 全日本は 4 対 21 の大敗しましたが、 二人の偉業と日米プロ野球の歩みが、日本で唯一横浜スタジアムのスタンドに「メモリアルレリーフ」として記されています。



1945年(昭和20年) 終戦で駐留軍に接収され「ゲーリック球場」と命名されます。



1948年(昭和23年) 日本プロ野球初のナイトゲームがここ横浜球場で開催(巨人 対 中日)開催されました。



中華街と横浜公園、半日かかりましたがいい運動になりました。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その9

2017年10月07日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『彼我庭園』です。
開港当時、在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、遊郭や沼地の跡地に整備され、1876年(明治9年)に開園しました。
外国人専用の洋式公園は1870年(明治3年)開設の山手公園ですが、 日本人も利用できる洋式公園は横浜公園から始まりました。
東京の日比谷公園はドイツ式洋風近代式公園と 日本初を謳っていますが、開園は1903年(明治36年)ですから 横浜公園のほうがかなり古いということです。



閑かな、ほっとする都会の隠れ家的日本庭園は、1909年(明治42年)に横浜市に公園の管理が移管され、『横浜公園』と改称された頃に作られました。



東屋風に竹作りの塀に囲まれた中には、蹲踞と水琴窟があります。



看板の説明によると、 茶室へ入る前に手と口の中を清潔にするための場所を蹲踞と言います。
竹の水管と水たまりのある手水鉢、さらにはその手前に敷設してある大小の石すべてを含めて蹲踞(つくばい)と言って、昔の人は茶席に入る際、ここで手を洗って入ったそうです。
水琴窟は、蹲踞で手を洗う際、ただただ洗った水の一部が小さな穴から地中の空洞に落ち、落ちたときの音が空洞の壁に反響して、
反響音が漏れ聞こえる仕組みです。



庭園の池周辺も綺麗に手入れがされています。



横浜公園も戦後、接収により一度は取り壊されましたが、1978年(昭和53年)の横浜スタジアム建設と同時期に再び整備されました。
現在、横浜公園は、大通り公園とペアで、かながわの公園50選の一つに選定されています。



友好と平和の灯篭「 Peace Lantern(ピースランタン)」 が設置されました。
この燈籠は、米国オレゴン州のポートランド日本庭園内にある雪見灯籠を複製(レプリカ)したものです。



ポートランド日本庭園内にある雪見灯籠は、1954年(昭和29年)頃から、当時の平沼亮三市長が、世界各地に「友好と平和の灯を点ずる」として寄贈したものの一つです。
燈籠には「Casting the Light of Everlasting Peace(恒久平和の灯をともす)」という文字が刻まれており、ポートランドでは「Peace Lantern(ピースランタン)」とよばれています。



横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、安政三年(1856年)に埋立てられ太田屋新田といいました。
横浜開港にともない、新田の沼地約一万五千坪が更に埋立てられ、港崎町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。



この灯籠は、妙音寺から横浜市(横浜開港資料館)に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字から、岩亀楼にちなむものだとわかります。
この灯籠は明治初年頃のものと思われるますが、震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとっては貴重な文化財の一つといえます。



続く.............................................................。


トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その8

2017年10月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
長安道の地久門と善隣門の中間付近にテレビで放映されて有名になった『馬さんの店』、『龍仙』です。
時間によっては店の前に準備されている椅子には「馬さん」が座って、中華街を訪れる人に笑顔で接しています。
上海の味を再現し、 『朝一番のこの粥を食べる者には福きたる』と閑散とした早朝の中華街で、朝食を楽しむ老若男女でにぎわう店です。



関帝廟通りも西側にある、楼門です。
これで合計九つ門を紹介できましたが、あと一つが最後まで分かりませんでした。
自宅に帰り地図を調べたところ、東西南北の門の外側の石川町駅寄りにあることがわかりました。
次回機会がありましたらということで、ご勘弁ください。



『地久門』の名前の由来は、「地のとこしえ(永遠永久)」から来ています。
天地のように永遠と商売繁盛するようにとの願いで、東に立つ「天長門」と対になっています。



日本における新聞誕生の地と記された石碑があります。
ジョセフ彦(浜田彦蔵)が「海外新聞」 を発刊した居館の跡です。
浜田彦蔵は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であり、日本最初の新聞を創刊しました。



碑文、『ここ、横浜の元居留地一四一番は、ーハ六四 (元治元) 年六月二十八日、ジョセフ彦が、「海外新聞」 を発刊した居館の跡である。彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「童子にも読める」新聞精神を提唱した。読みやすく判かりやすい新聞を、創世期の日本の新聞界に植えっけた新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本竜馬など多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人であった。』



ペリー黒船来航から7年後の、万延元年に日本における最初の西洋式ホテル「ヨコハマ・ホテル」がこの地に開業しました。
レストランやプール・バーも実はこの場所が発祥の地だったそうです。



日本初の近代ホテル「ヨコハマ・ホテル」はオランダ人船長C・J・フフナーゲルが開業しました。
シーボルト親子も滞在したそうです。
また、宿泊客のハイネは、ここで美味な料理をとれると賞称賛し、ワーグマン、クラーク等の著名文化人も多数、宿泊し滞在しました。
最新の外国文化の受け入れ窓口として、我が国の近代化に果たしたホテルです。



中華街とお別れです。
中国語ではトイレのことを洗手亭というようです。



帰路、横浜公演を横断して帰ります。
この公園は、横浜の中では山手公園についで2番目に古い公園で、横浜という都市の発展と共に歩んできた公園です。



在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、1876年(明治9年)に開園し、外国人(彼)と日本人(我)の双方が利用できたことから、当時は「彼我公園」(ひがこうえん)といわれていました。



続く........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その7

2017年10月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『関帝廟』に来ました。
関帝廟の外観は工事中でテントが張られていて、ごく一部しか見ることができませんでした。
中に入ると普通にお参りすることはできました。



1862年、一人の中国人が関羽の木像を抱いて、現在の地にささやかな祠を開いたといわれます。
祀られている主神は三国志の英雄として有名な実在の武将関羽(關聖帝君)です。



武人としてだけでなく、帳簿を発明するなど、理財にも精通していたため、中国では「財神」すなわち金儲けや商売繁昌の神として信仰
されました。
關帝廟の天井部分には豪華な装飾が施されています。



關聖帝君は、西暦160年前後の後漢、三国時代にかけて活躍した実在の武将です。
後漢末期宮廷内部は宦官の悪政のため、漢王朝は末期的な症状を呈し、そのため世の中は飢饉と貧困が蔓延し、黄巾賊の反乱が世の中を騒がせていました。
乱世をただすため、關羽様・張飛・劉備の三人は義兄弟の杯をかわし、義勇軍に参加し黄巾賊成征伐に立ち上がります。
トッポパパの愛読書だった三国志に詳しく書かれています。



中華街と言えば、横浜のパワースポットとして知られています。
木像の関帝が小さな祠に祀られ150余年、異国で暮らす華僑の人々の心の拠り所となってきました。
今日では商売繁盛の神として信仰を集めていますが、観光で訪れる人も多く、風水マニアの間でも人気のスポットです。



石獅(狛犬)です。



原石を台湾から輸入し、鎌倉の石匠によって彫られた守護獅子です。
1986年の第三代關帝廟が火災により焼失した後、焼け跡から掘り出され、 關帝廟を見守っています。



香炉です。
受付で購入したお線香を捧げて、本殿内を参拝するためのお清めをします。



中華街関帝廟がパワースポットだと言われるのは、中華街は風水的にもとても良い場所であり、関帝廟はその風水的に一番良い場所の中心部にあるからです。



『関帝廟』の隣は横浜中華学院です。



続く............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その6

2017年10月04日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『アートリックミュージアム』です。
パンダの入り口を入ると錯視錯覚の世界を楽しめるアートとトリックのミュージアムです。
自分自身が絵の中に入り込んでしまう作品から、恐竜の口の中に入り込んだり、本から飛び出るなど、不思議なアートとトリックの世界を楽しめます。
アートリックとは、ヨーロッパで発祥した「トロンプ・ルイユ」とよばれる立体画法(だまし絵)に新しいアイデアを付加して確立したニューアートです。



横浜中華街に何件ものお店がある、『皇朝』です。
中国料理世界大会の歴代チャンピオン4名が在籍する皇朝は、本格中華の味を楽しめます。
累計売上個数1億個を超える大人気の肉まんを中心に、餃子、シウマイ、小籠包など数多くの点心を販売しています。



華街最大の宴会場を誇る中国料理専門店、中華街本通りの『華正樓本店』です。



朝陽門(東門)近くの中華街を代表する有名店で、同店の創業は1939年の北京料理の老舗です。



旬の素材を生かしたアッサリ味の炒め料理から、フカヒレやアワビを使った深みとコクのある煮込み料理まで、上海料理を隅々まで堪能していただけます。



『状元樓本店』を別角度から撮りました。
上海料理の有名店で、テレビ版雲『ゴチになります』にも登場しています。



今日も、横浜中華街のお粥専門店『謝甜記』です。
謝甜記には昔風の本店と小ぎれいな1号店(2号店)の2店舗があります。
1号店の中は狭くて古いお店ですが、中国で食事をしているような雰囲気があります。



2016年ぐるなび横浜中華街総合予約ランキング1位のお店、『中南海』です。
中南海の料理人や点心師が店内で手作りする本格中華が、リーズナブルに食べ放題のお店です。
トッポママと2人でしたので、こちらで昼食です。
オーダー式の食べ放題だから、でき立てアツアツの料理を楽しめ、B級グルメ(失礼)的ですが、コラーゲン入りの肉汁が溢れだす小籠包やプリプリ食感のエビチリなど、15品も食べてお腹いっぱいです
人気のメニューがたっぷり楽しめる食べ放題コースはおすすめです。



隣のお店が『北京烤鴨店』です。
北京ダック食べ放題もリーゾナブルな値段で満喫できます。



最近は流行なのか、食べ放題のお店が多く目につくようになりました。
こちらは、小籠包専門店『七福』です。
133品食べ放題時間無制限で、値段も手ごろです。
裏道のほうが、本当に味で勝負する店もたくさんあるようです。
超高級店には手の届かない庶民でも、お店によってはそれなりに満足な中華料理を堪能できます。



続く..............................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その5

2017年10月03日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
『横浜媽祖廟』です。
2006年(平成18年)3月17日に、『横浜媽祖廟』は開港から150周年を迎える横浜の新名所として横浜中華街に開廟しました。



額に描かれているように『天后』とも呼ばれます。
中国特有の色使いに装飾が施された門をくぐると、その先には階段と八角形の「廟堂」があります。
廟堂と門との間を繋ぐように赤い提灯が並んでいます。

以下、一部オフィシャルサイトの説明を抜粋して紹介します。
『媽祖』は、北宋時代に実在した福建省・林氏の娘で、生まれて1ヶ月も泣き声をあげなかったため、『林黙娘(りんもうにゃん)』と名付けられました。
しかし、生誕後は幼少より才知に長け、10歳のころには朝晩の念仏を唱えるようになります。



ある日うたた寝している『媽祖』を母が起こしたところ、兄が救えなかったとつぶやき、母が驚いて理由を尋ねると、夢で父や兄弟を海難事故から救助していたと話しました。
帰宅した父や兄弟に話すとその通りだった、という伝説が残り、のちに航海安全の守護神となりました。
16歳で神から教えと銅製の札を授けられたといわれています。
次第にあらゆる苦難に応える神として、信仰を集めるようになりました。



その後、神通力を駆使し、むしろを用いて海を渡り、雲に乗って島を巡回し、札の力で悪や災いをしりぞけ、病を癒す彼女を人々は、『通玄の霊女』と尊敬の意をこめて呼ぶようになりました。
28歳の9月9日に修行を終え天に召された後も、赤い衣装をまとって海上を舞い、難民を救助する姿が見られたので、人々は廟を建てて護国救民の神様として祀るようになりました。



その神通力は国に広まり、歴代の皇帝も『天妃』『天后』『天上聖母』などの名を贈り敬意を表しました。
『媽祖』は、航海を護る海の神様としてのみならず、自然災害や疫病・戦争・盗賊から人々を護る女神様として、現在でも中国大陸・台湾はもとより、華僑が住む世界各地で信仰されています。



横浜媽祖廟は、台南市大天后宮より分霊されたものです。



廟の本殿には媽祖様が中心に祀られています。
その右隣りには『千里眼』が祀られています。
遠くを見る目であらゆるものを見分けて媽祖様に知らせています。
左隣には、『順風耳』が祀られていて、遠くの声を聞く耳であらゆる人々の声を聞き分けて媽祖様に報告しているそうです。



この媽祖廟で観光客を中心に人気なのが「中国式おみくじ」です。



門の裏側の額に『海四澤恩』と描かれていますが、調べても意味がわかりませんでした。



最後に、『太鼓楼』です。
2005年の、横濱媽祖廟新築工事現場より明治・大正期の分銅印手焼きレンガ・機械製レンガなどが大量に出土しました。
これは関東大震災以前及び震災時の中華街の状況を伝える大変貴重な史料でした。
そのご、鐘楼・太鼓楼の建設にあたり、袴部分に約1000枚のレンガを活用しました。



続く..........................................................。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その4

2017年10月02日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
中華街大通りの中ほどで、南に曲がると市場通りに入ります。
門は新しくなりましたが、市場通りは昔の雰囲気を残しています。
狭い路地ですが、市場通りは中華街で一押しの場所です。



市場通りの門は 、中華街の市場としてのにぎやかさを象徴した門です。
台湾料理の『状元郷』です。
パイコー飯、シジミ料理は、ここでしか味わえないと評判です。



トッポパパが昔よく通っていた、『四五六菜館(シゴロク)』です。
トッポパパは双六(スゴロク)と覚えていました。
横濱中華街 点心品評会で金賞を受賞した「四五六小龍包」や銀賞を受賞した「手毬餃子」などの特製点心が有名です。
市場通りに1961年に創業し50余年、以前はこの本館だけでしたが、商売繁盛なのか、立派な別館、新館を別の場所に構えています。



関帝廟通りに面したところに、もう一つの門があります。
食料品店『さかもと』店はアジアの調味料、食材をそろえたお店です。



市場通りは2か所の門の間を南北に通る狭い道路で道沿いに多くの中華料理店があり、観光客も多く賑やかです
市場通りという名称の由来は、関東大震災の前大正10年(1921年)頃に、中華料理店とその住民を相手に自然発生的に精肉店、鮮魚店、青果店などが出店しはじめ、当時は朝市と呼ばれた午前中だけの通りでした。
終戦後は物資不足でしたが、この市場通りはだけは、大変な賑わいをみせていました。
昭和40-50年頃から食生活の変化と共に観光地化され、一般商店は撤退し、『中華街の台所』と呼ばれるようになり、その後中華料理店も多く進出し今に至っています。



市場通りから関帝廟通りに出るとすぐ山下町公園があります。
観光客が休憩できるようにベンチも準備され、四阿「會芳亭(かいほうてい)」が公園のシンボルです。
春節の時は、この公園で各種イベントが開催されます。



正面に観えるのは中華街最大級の総合エンターテインメント施設、『横浜大世界』です。
『横浜大世界』は、買い物、アート、くつろぎ、食がすべて楽しめる総合エンターテインメント施設です。
錯視錯覚の世界を楽しめるアートとトリックのミュージアムも人気です。



『横浜大世界』の前にある門が、『天長門』です。
天長門は天のとこしえ(永遠)になることで、永遠に商売繁盛が続く子とを願うのでしょう。
商売の神様『横浜中華街關帝廟』がある通りを象徴する門で、關帝廟東側が『天長門』反対の 西側が『地久門』で、対になっているそうです。



いつも気になっていた、『ぱんだや』です。
黄色い壁に赤のフード、 入口にパンダ親子の像がお出迎えという目立つ外観です。



お店中もバラエティに富んでいて個性的なぱんだ雑貨がたくさんあります。
上野動物園の香香(シャンシャン)誕生で、今年は特別セールの新作が並ぶかもしれません。



続く.......................................................。