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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その216 『横浜中華街と横浜公園散策』 その8

2017年10月06日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
長安道の地久門と善隣門の中間付近にテレビで放映されて有名になった『馬さんの店』、『龍仙』です。
時間によっては店の前に準備されている椅子には「馬さん」が座って、中華街を訪れる人に笑顔で接しています。
上海の味を再現し、 『朝一番のこの粥を食べる者には福きたる』と閑散とした早朝の中華街で、朝食を楽しむ老若男女でにぎわう店です。



関帝廟通りも西側にある、楼門です。
これで合計九つ門を紹介できましたが、あと一つが最後まで分かりませんでした。
自宅に帰り地図を調べたところ、東西南北の門の外側の石川町駅寄りにあることがわかりました。
次回機会がありましたらということで、ご勘弁ください。



『地久門』の名前の由来は、「地のとこしえ(永遠永久)」から来ています。
天地のように永遠と商売繁盛するようにとの願いで、東に立つ「天長門」と対になっています。



日本における新聞誕生の地と記された石碑があります。
ジョセフ彦(浜田彦蔵)が「海外新聞」 を発刊した居館の跡です。
浜田彦蔵は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であり、日本最初の新聞を創刊しました。



碑文、『ここ、横浜の元居留地一四一番は、ーハ六四 (元治元) 年六月二十八日、ジョセフ彦が、「海外新聞」 を発刊した居館の跡である。彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「童子にも読める」新聞精神を提唱した。読みやすく判かりやすい新聞を、創世期の日本の新聞界に植えっけた新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本竜馬など多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人であった。』



ペリー黒船来航から7年後の、万延元年に日本における最初の西洋式ホテル「ヨコハマ・ホテル」がこの地に開業しました。
レストランやプール・バーも実はこの場所が発祥の地だったそうです。



日本初の近代ホテル「ヨコハマ・ホテル」はオランダ人船長C・J・フフナーゲルが開業しました。
シーボルト親子も滞在したそうです。
また、宿泊客のハイネは、ここで美味な料理をとれると賞称賛し、ワーグマン、クラーク等の著名文化人も多数、宿泊し滞在しました。
最新の外国文化の受け入れ窓口として、我が国の近代化に果たしたホテルです。



中華街とお別れです。
中国語ではトイレのことを洗手亭というようです。



帰路、横浜公演を横断して帰ります。
この公園は、横浜の中では山手公園についで2番目に古い公園で、横浜という都市の発展と共に歩んできた公園です。



在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、1876年(明治9年)に開園し、外国人(彼)と日本人(我)の双方が利用できたことから、当時は「彼我公園」(ひがこうえん)といわれていました。



続く........................................................。