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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その42の2 『高知城とはりまや橋』

2008年03月31日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
板垣退助の銅像です。
戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり会津城攻略では指揮官として活躍しました。
明治維新後は新政府の参議になり、後に高知へもどり、自由民権運動を展開し、そのリーダー的存在となりました。
1881年自由党総裁となり、憲法発布、国会開設へと向かわせます。
1882年、岐阜での遊説途上に、刺客に襲われ、『板垣死すとも自由は死せじ』の名言を残しました。
それを書いた石碑も銅像の右後方に立っていますが、像の題字は再建当時の内閣総理大臣吉田茂の筆によるものだそうです。



『石樋』と呼ばれるものです。
石樋は石垣の上部で、かなり突出しています。 排水に工夫を凝らしたもので、集められた排水が石垣にあたると地盤が緩んでしまうので、直接石垣に当たらないように工夫したものだそうです。



日本に12ヶ所しかない天守を有する、江戸時代以前に建造されたお城の一つです。
四重六階の望楼式天守です。



『内助の功』で有名な山内一豊の城として知られる高知城です。
高知城が、城郭としての体裁を整えたのは、1600年の関が原の戦い後、山内一豊が二十四万石で入封してからです。
山内一豊の関ヶ原での功名は、妻である見性院の卓見によるものだとされています。
この高知城にも、写真の山内一豊本人の像と共に夫人の銅像も立てられています。



追手門から登城するための階段は、戦に備えて足幅に作られいて登りにくく、上方から下りるには都合の良い足幅になっているそうです。
山内一豊の妻は、一豊の死後は出家して見性院となりましたが、名を山内まつ、山内千代とも呼ばれました。
昔、山内一豊が織田家に仕えていた頃、馬市で名馬を見いだしたが、買うお金がなかった。その時、千代は嫁入りの時に実家から持たされた黄金十枚を鏡の下から取り出し、『いざという時の蓄えにしていたので、使ってください』と差し出したと言われています。
その後、安土城下で馬揃えがあった時、その馬が信長の目にもとまり、名馬を購入したいきさつを知り、えらく喜び褒め称えたとされています。



天守は創建時のものは1727年に焼失しましたが、1747年に焼失以前のものを忠実に再建され、高欄を設け復古式と呼ばれる古風な形式をとっています。



『杉の段』からさらに階段を上り、右に回り込むと天守閣北面が見えます。



4重5階の望楼型天守で、最上階には廻縁高欄が付けられています。
『咸臨閣』という別称を持ち国の重要文化財に指定されています。



南北に千鳥破風が付いています。
この辺が撮影スポットなのでしょう。



続く........................................................。