アジサイの花芽とビワの実。黄色くなるのはまだ先だ。
ビワの実をみると運動会を思い出す。小学生の低学年のときは、父子家庭だったが、運動会の昼飯のとき、父が、弁当とビワの実をもってきてくれた。帯広北栄小学校は、まだできたばかりで、西側は芽室までずっと田んぼがつづいていた。運動会の昼ごはん、アイヌの子たちは田んぼのむこうの家に帰っていった。
田んぼのむこう、西16条のあたりに日新会館というアイヌの人たちの集会所があって、その周辺にアイヌの人たちが住んでいた。クラスメイトの相馬くんもそのあたりから通学してきた。各クラスには、ひとりかふたりアイヌの子がいた。わたしのクラスには、相馬くんともうひとりアイヌの女の子がいた。子供は残酷だから、アイヌの子たちは毎日毎日、徹底的にいじめられた。とくに、アイヌの女の子は可哀想だった。
アイヌの女の子は、「ア!イヌがきた」と、はやし立てられた。はやしたてるのは、クラスの女の子たちだった。相馬くんは、おなじの女の子をかばってよくケンカをしていた。アイヌの相馬くんも女の子も、よく学校を休んだ。あれだけいじめられれば、休みたくもなる。
あるとき担任の教師が、きのうはどうして休んだのか、と聞いた。「傘がないんです」と、相馬くんは答えた。たしかに前の日は雨だった。
田植えや稲刈りの農繁期には、相馬くんはまったく学校に来ない。中学校もおなじクラスになったが、中学でのいじめはますます激しく陰険になった。相馬くんは、まったく学校に来なくなった。そして二度と中学校で顔をみることはなかった。
高校生のとき、阿寒湖にいったことがあった。みやげ屋の店先で熊の木彫りを彫ってる青年がいた。相馬くんだった。「相馬! ここにいたのか」、相馬くんは、アイヌの衣装を着て、頭にアイヌ模様のハチマキをして、中学のときよりずっと健康そうで、幸福そうな笑顔だった。
そのつぎ、相馬くんをみたのは、わたしが帯広駅前でレコード屋をはじめたときだ。駅前の花壇で酔って倒れこんでいるおっさんがいた。かたわらにゴードー焼酎の瓶がころがっていた。その汚い服のおっさんは、相馬くんだった。髭だらけの顔は、まるで老人のように老いて疲れていた。ぼくらはまだ21才だった。相馬くんのうす汚れたズボンは、たれ流した小便で濡れていた。