ロックンロール’70 |
それは、1974年の冬のことだ。モップス解散コンサートを北海道5カ所で開いた。楽器を積んだトラックがフェリーで東京からやってきた。その当時は、PAというものがまだなくて、アンプの生音と会場の音響でやっていた。釧路は体育館だったが、ギターアンプ、ベースアンプ、ボーカル・アンプの前に会場のマイクを立てる。ドラムスもトップのマイクとバスドラだけだ。どこの会場もそれでやった。札幌は、テレビ塔近くの市民会館だった。キャパ1000人以上のホールだ。乱暴な話だが、のんきな時代でもあった。(ビートルズの日本武道館公演もいわゆるPAは使ってないのだ)。
吉田拓郎や泉谷しげるの初期のコンサートも、会場の音響、つまりハウスPAだけでボーカルもギターもひろったものだ。いまのコンサートの音量と比較すると圧倒的に小さい音のはずだが、お客は十分満足した。
モップスの楽器車が東京を出発する前、マネージャーの奥田さんに、北海道は冷却水が凍結するので、トラックのラジエターに不凍液をいれてきてください、といった。釧路が終わり、北見も無事終わって、旭川へ向かった早朝、走りだしてしばらくするとトラックは水蒸気を吹きあげて止まった。夜のあいだにラジエターが凍結して破裂したのだ。ドライバーのロディーの青年に不凍液をいれてきたかたずねると、たしかにいれたという。
「どのくらい? 」
「2割くらいかな。ちゃんとガソリンスタンドでやってもらったんだです……」
「20%ってこと? それは無理だ。ここいら北見のあたりは北海道でも一番寒いところだ。早朝は、マイナス30度以下になることがある。60%とか、半分以上不凍液でいい」
ロディーの青年は、なんとしても時間までに楽器はとどけます、という。わたしは主催者だから、早く旭川の会場に行かなきゃならない。わたしは、大粒の雪が降る山のなかにトラックを残して、兄の運転する車で旭川にむかった。(そのころ、興行の仕事が忙しいときは、民芸品部門の魚房山を担当していた兄がツアーを手伝ってくれた。ほかに同乗していたのは、西尾くんと住吉くんだった)。
楽器は間にあわないだろう……、旭川で代わりの楽器とアンプを調達しなきゃならんな、と思いながら気がせいた。峠をぬけるとガソリンスタンドの電話から、旭川の楽器店の知人に楽器の手配をたのんだ(当時は携帯電話というものがないのだ)。その代わりの楽器を待っていると、なんと、ロディーの青年が運転するトラックが、雪を満載して到着したのだ。
親切な大型トラックのドライバーが、雪の峠を牽引してくれて、修理屋まで連れていってくれた、というのだ。そこでラジエターの穴を溶接した、と。こうして、リハーサルにモップスの楽器が間に合ったのだった。
この下の、「たどりついたらいつも雨ふり」の映像で、当時のステージ雰囲気がよくわかると思う。でかい音がほしければアンプを数ならべる。返りのモニター・スピーカーもない。しかし、この感じがじつにいい。日本のロック草創期の情熱と素朴さがある。鈴木ヒロミツさんの歌もいい。
モップス たどりついたらいつも雨ふり http://jp.youtube.com/watch?v=UzdUOV-Hsls