Ommo's

古い曲が気になる

モップスの楽器が、雪のなかをやってきた

2008-10-16 | 日記・エッセイ・コラム

ロックンロール’70 ロックンロール’70
 

 それは、1974年の冬のことだ。モップス解散コンサートを北海道5カ所で開いた。楽器を積んだトラックがフェリーで東京からやってきた。その当時は、PAというものがまだなくて、アンプの生音と会場の音響でやっていた。釧路は体育館だったが、ギターアンプ、ベースアンプ、ボーカル・アンプの前に会場のマイクを立てる。ドラムスもトップのマイクとバスドラだけだ。どこの会場もそれでやった。札幌は、テレビ塔近くの市民会館だった。キャパ1000人以上のホールだ。乱暴な話だが、のんきな時代でもあった。(ビートルズの日本武道館公演もいわゆるPAは使ってないのだ)。

 吉田拓郎や泉谷しげるの初期のコンサートも、会場の音響、つまりハウスPAだけでボーカルもギターもひろったものだ。いまのコンサートの音量と比較すると圧倒的に小さい音のはずだが、お客は十分満足した。

 モップスの楽器車が東京を出発する前、マネージャーの奥田さんに、北海道は冷却水が凍結するので、トラックのラジエターに不凍液をいれてきてください、といった。釧路が終わり、北見も無事終わって、旭川へ向かった早朝、走りだしてしばらくするとトラックは水蒸気を吹きあげて止まった。夜のあいだにラジエターが凍結して破裂したのだ。ドライバーのロディーの青年に不凍液をいれてきたかたずねると、たしかにいれたという。
「どのくらい? 」
「2割くらいかな。ちゃんとガソリンスタンドでやってもらったんだです……」
「20%ってこと? それは無理だ。ここいら北見のあたりは北海道でも一番寒いところだ。早朝は、マイナス30度以下になることがある。60%とか、半分以上不凍液でいい」

 ロディーの青年は、なんとしても時間までに楽器はとどけます、という。わたしは主催者だから、早く旭川の会場に行かなきゃならない。わたしは、大粒の雪が降る山のなかにトラックを残して、兄の運転する車で旭川にむかった。(そのころ、興行の仕事が忙しいときは、民芸品部門の魚房山を担当していた兄がツアーを手伝ってくれた。ほかに同乗していたのは、西尾くんと住吉くんだった)。

 楽器は間にあわないだろう……、旭川で代わりの楽器とアンプを調達しなきゃならんな、と思いながら気がせいた。峠をぬけるとガソリンスタンドの電話から、旭川の楽器店の知人に楽器の手配をたのんだ(当時は携帯電話というものがないのだ)。その代わりの楽器を待っていると、なんと、ロディーの青年が運転するトラックが、雪を満載して到着したのだ。

 親切な大型トラックのドライバーが、雪の峠を牽引してくれて、修理屋まで連れていってくれた、というのだ。そこでラジエターの穴を溶接した、と。こうして、リハーサルにモップスの楽器が間に合ったのだった。

 この下の、「たどりついたらいつも雨ふり」の映像で、当時のステージ雰囲気がよくわかると思う。でかい音がほしければアンプを数ならべる。返りのモニター・スピーカーもない。しかし、この感じがじつにいい。日本のロック草創期の情熱と素朴さがある。鈴木ヒロミツさんの歌もいい。 

モップス たどりついたらいつも雨ふり http://jp.youtube.com/watch?v=UzdUOV-Hsls


ベッグ・ボガード&アピスは、1973年の発売

2008-10-15 | 日記・エッセイ・コラム

ベック・ボガート&アピス ベック・ボガート&アピス

 

 今度は、いんげんだ。ニチレイフーズ輸入の中国製冷凍食品「いんげん」から、有機リン系殺虫剤「ジクロルボス」が、国の基準の3万4500倍にあたる6900ppm検出された。食べた50代の主婦が舌に軽症を負ってる。この八王子の事件だけでなく、きょうになって、東京でも千葉でも体調不良を訴える事件が起きてる。毒いんげん被害は、今夜にはもう11件も報告されているのだ。

 もういいかげん学校で反日教育をしている国から食品を輸入するのは、止したがいい。コストが問題なら、ほかのアジアの国もあるし、東ヨーロッパも南米もあるだろう。今回のいんげんや毒ギョウザのように劇的な猛j毒でなくても、中国産食品によって日常的に日本人の健康がむしばまれているのじゃないか? 

 
 今回ノーベル化学賞を受賞したボストン大学名誉教授、下村脩博士の息子、下村努は、コンピュータセキュリティーの分野では超有名人だ。伝説のハッカー、ケビン・ミトニックの正体を見破り、FBIに協力して逮捕した。そのドキュメンタリーをニューヨーク・タイムズ記者ジョン・マーコフと共著で出版している。それは2000年に映画になった。「ザ・ハッカーTakedown」だ。

 原著は、"Takedown"、近藤純夫訳の邦題は「テイクダウン 若き天才日本人学者vs超大物ハッカー」(1996年 徳間書店)。すこし前の本だが、いま読んでもおもしろい。

 下村努は、カリフォルニア大学サンディエゴ校のサンディエゴスーパーコンピューティングセンターの主席特別研究員senior fellow を務めている。父はノーベル賞、親子で優秀なんだね。

 

 アメリカが、北朝鮮のテロ支援国家指定を解除した。核査察を拒絶して、核実験の準備をしてる北朝鮮の恫喝に、アメリカはまるで腰砕けだ。

 だいたい、アメリカの交渉担当者、クリストファー・ロバート・ヒル国務次官補という人物は、弱腰というより、北に取りこまれているとしか思えない言動が多い。いつも北朝鮮側に立ったじつに不可思議な行動をとる。今回も北に呼びつけられて平壌に出かけて帰国すると、ブッシュの方針が豹変した。

 北が核兵器をもったまま、テロ支援国家指定を解除されたわけだ。日本は、国民を拉致されたまま、のんきにかまえているときではないだろうな。

 

 ワールドカップ・サッカー・アジア地区最終予選、ホームだというのにウズベキスタン戦は、1-1の引き分けだ。毎度のことだが、日本代表の試合は、見ていて、精神衛生によくない。あまりにも弱い。今夜も見なきゃよかったと後悔した。

 「ベッグ・ボガード&アピス」は、1973年(昭和48年)に発売になってよく売れたアルバムだ。ティム・ボガードとカーマイン・アピスは、ヴァニラ・ファッジのメンバーだった。ジェフ・ベックはもちろん、エリック・クラプトンのあとの元ヤードバーズのギタリスト。ヤードバーズのあと、自らのグループ、ジェフ・ベック・グループを結成して4枚のアルバムを発売した。その後「ベッグ・ボガード&アピス」を結成したが、このアルバムと日本でのライブ盤、たった2枚のLPを出しただけで解散した。

 ジェフ・ベック・グループの4枚のアルバム。1968年の2枚のボーカルはロッド・スティアートだ。
   「トゥルース」 TRUTH(1968)
   「ベック・オラ」 Cosa-Nostra  BECK-OLA(1968)
   「ラフ・アンド・レディ」 ROUGH AND READY(1971)
   「ジェフ・ベック・グループ」 JEFF BECK GROUP(1972)

 ジェフ・ベックのオフィシャル・サイト http://www.jeffbeck.com/

 ベッグ・ボガード&アピス Superstition http://jp.youtube.com/watch?v=aBpSeyk1z4o


虻田、本堂のお経

2008-10-14 | 日記・エッセイ・コラム

英吉利の薔薇 (イングリッシュ・ローズ) 英吉利の薔薇 (イングリッシュ・ローズ)

  ヒーリング・ミュージックという言葉があった。しかし、音楽はいつも、いやしだ。

 北海道、虻田町の入江貝塚の発掘に参加したのは、6月のブログで書いた。本堂に寝ていたので、毎朝5時ごろ、坊さんの読経がはじまる。まだ起きるまで、1時間くらいあるが、ふとんのなかで、坊さんのお経を聴いていた。これが、じつに音楽的なんだ。つまり、言葉ではなく、サウンドにいやされるのだ、と気づいた。 


坂本直行は、坂本龍馬の姉、千鶴がひいおばあさん

2008-10-13 | 日記・エッセイ・コラム

イーライと13番目の懺悔 イーライと13番目の懺悔

 

 茅場町のぺんてるビル改修工事現場でのことだ。わたしは、竹中工務店にやとわれた工事現場の警備員のおっさんだ。ぺんれるビルの若いガードマンと話しをしていた。寒い日だったので天気の話からお互いの出身地のことになった。

「わたしは、北海道出身なんだ」
「北海道は、どこです?」
「帯広、知ってるかな」
「帯広ですか。ことし夏、行ってきました」
「観光旅行だ」
「いいえ、札幌のおばあさんが亡くなって、納骨に家族でいったのですが、大おじ、つまり、おばあさんの兄さんが絵描きで、帯広のお菓子屋さんの包装紙を描いて、記念館があるというので一家で帯広まで行きました」
「そのお菓子屋は六花亭で、おおおじの絵描きさんは、坂本さん、というの?」
「はい、坂本直行といいます。記念館と開拓したところもみてきました」

「すると、きみも坂本龍馬の直系なわけだ。坂本直行さんは、北海道では有名人だよ」

 坂本直行さんは、坂本龍馬の姉、千鶴の次男、坂本直寛を祖父にもつ画家だ。北大農学部を卒業して、十勝の広尾町下野塚に開拓農民として入植した。開拓農民で、画家で、山岳家だった。

 六花亭のお菓子は、いまは東京でも人気の北海道みやげのお菓子だが、あのパッケージを描いるのが、坂本直行さんだ。

 

 ローラ・ニーロの'When I Die"をBSTがカバーし、フィフス・ディメンションが"Stoned Soul Picnic”をカバーした。ローラ・ニーロが、癌で亡くなって、もう10年たつ。

   

   坂本直行のページ http://matsuyama.web7.jp/chokou/index.html

   六花亭 坂本直行記念館 http://www.rokkatei.co.jp/facilities/index2.html

   高知県立坂本龍馬記念館 http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/framepage.htm


ニペ・ウペを歩く

2008-10-12 | 日記・エッセイ・コラム

フィルモアの奇蹟 フィルモアの奇蹟

 ニペソツ・ウぺぺサンケの間を歩いたことがある。真夏だった。3日間、クマ笹のやぶのなかにいた。ときどき夏道が現れるが、それは無視した。二ッ森隆文、佐々木要、西尾哲、そしてわたし、4人、みんな17才だった。ひたすら地図上の尾根すじを歩いた。わたしが、ナビだった。おそらく、真夏にニペ・ウペを直線的に縦走したのは、わたしたち、4人だけだ。

(しかし、古い夏道がしっかり残っていて、翌年、西尾哲が部長だった帯広三条高校山岳部は、この夏道を歩いて、たった一泊でニペ・ウペ縦走をやった。わたしたちは、5日間、クマ笹とハイマツのヤブをこいだ)。

 ニペソツ岳(2012.9m)、ウペペサンケ山(1834.8m)は、大雪山の南にある休火山だ。中間に丸山、東丸山がある。丸山は、噴火口がある活火山だった。堆積した火山灰のうえに、鹿の足跡がひとつすじあった。その火山灰の上を歩く人間は、わたしたちが最初だ。この火口を見た人間は何人もいないだろう。わたしたちには、未知の惑星に立ったような恐怖と興奮の不思議な高揚感があった。

  「雪のあるときは、縦走できるんだが、夏は無理だ。クマ笹のヤブこぎだ。やるやつはいないよ」と部長の国枝幸吉さんがいった。わたしが、高校一年のときだった。この言葉で火がついた。

 2年生になると、ひたすらニペとウペにいった。ニペ頂上をこえ、大平から音更川に下りる沢くだりもなんどかやった。ウペペサンケは、小学6年のとき登った、はじめての山だ。なんどいっても感動する美しい山だ。ニペも、ウペも、だいたいわかった。しかし、中間の丸山、東丸山のことがわからない。五月の残雪期に歩いた北大山岳部のレポートをなんども読んだ。


Born to Boogie は、T・レックスの曲

2008-10-11 | 日記・エッセイ・コラム

ザ・スライダー ザ・スライダー
電気の武者 電気の武者
1970年(昭和45年)には、ティラノザウルス・レックスが、T・レックスとグループ名を短縮して再登場した。シングル「ゲット・イット・オン」がヒットして、「電氣の武者」(1971年)、「ザ・スライダー」(1972年)と大ヒット・アルバムがつづいてでた。

いま聴いても、「ゲット・イット・オン」は、じつにいい。名曲だ。

わたしは、ティラノザウルス・レックスが好きで、テスト盤を聴いて、シングル盤「ワン・インチ・ロック」を、20枚仕入れた。しかし、1枚も売れなかった。レコード屋になってはじめての仕入れだった。1969年のこと、まだわたしは、まったくレコード商売をわかってなかった。ロックのシングルが20枚も売れるということは、たいへんなヒットだとは知らなかったのだ。

シングルは売れなかったが、LPにはファンがいて、わずかだが売れていた。そのころはまだ、ティラノザウルス・レックスは、2人組のアコースティックなフォーク・ロック・グループだった。

T・レックスの曲はすべてマーク・ボランが書いてる。わたしにとって、マーク・ボランは、ロック史の偉人のひとりだ。

(エルビス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、そして、マーク・ボラン。これが、私的ロック・ヒーロー。)
 
T・レックスになると、グラム・ロック・ブームみたいなこともあって、よく売れるようになった。しかし、1977年9月16日早朝のロンドン郊外、恋人グローリア・ジョーンズの運転する車が街路樹に激突して、同乗していたマーク・ボランは亡くなった。29才の若さだった。

皮肉なことに、マーク・ボランは、自分が車の衝突で死ぬヴィジョンがあって、怖がって運転を習おうとしなかった、という。http://jp.youtube.com/watch?v=5oGcfwKN5jY&feature=related


りりィのLPは、木田高介さんプロデュース

2008-10-10 | 日記・エッセイ・コラム

ジャックスの世界 ジャックスの世界
  夜になって、急に気温があがって蒸し暑くなった。すると突然、真夏の驟雨のような激しい雨になって、また突然やんだ。

 テレビ東京の「たけしの誰でもピカソ」に、りりィが出演して「私は泣いています」を歌っていた。完全アコースティックだった。パーカッションは、箱形の打楽器、カホンをつかっていた。ベースは、コントラバスではなく、4弦のアコースティック・ベース・ギターだった。それにフォーク・ギターというトリオがバックだった。

  りりィは、声量はすこし落ちたようだったが、歌の表現はすばらしい。30年以上歌いつづけている人のみごとな洗練だ。(りりィのデビューは、1972年、アルバム「たまねぎ」)。今夜、りりィは2曲歌った。「アメイジング・グレイス」に、りりィが日本語の歌詞をつけた曲が最初だった。これがじつにいいのだ。

 この番組は、シャンソンの佐々木秀実、50代後半でメジャーデビューした秋元順子も出演した。

 わたしが、りりィの北海道コンサートを開催したのは、1974年のことだ。帯広、釧路、北見、旭川、札幌と、毎晩、打ち上げでビールをあびるほど飲む楽しいツアーだった。「私は泣いています」がヒットしていた。バックバンドは、バイ・バイ・セッション・バンドといった。木田高介さんがドラムスだった。

 リリィは今、ミュージシャンとしてのライブ活動はもちろん、役者としても、映画、ドラマ、CMで活躍している。

 10月17日からは北海道ツアーのスケジュールがはいっているから、北海道の人は出かけてみてはどうだろう。この秋は、恵庭市、栗山町、札幌の3カ所だ。(道東は、ことしの春にまわっていたようだ) 

 りりィの初期アルバム4枚は、木田高介さんがプロデュースをやってる。木田さんのことは、五輪真弓の「恋人よ」のことを書いたときにふれた。東京芸術大学打楽器科入学、元ジャックスのドラムスで、六文銭に加わったあと、アレンジー、プロデューサーとして、フォーク、ニューミュージックの数々のミュージシャンを手がけていた。

 上条恒彦「出発の歌」、かぐや姫「神田川」、りりィ「私は泣いています」、ダ・カーポ「結婚するって本当ですか」などは、木田さんのアレンジだ。1975年からは「高石ともやとザ・ナターシャ・セブン」のメンバーになった。しかし、1980年5月18日、交通事故で亡くなった。31才だった。

 ジャックスは、1968年にシングル「からっぽの世界」でデビューした。メンバーは、早川義夫(Vo)、水橋春夫(G)、谷野ひとし(B)、木田高介(Drms)。1969年には、ドラムスの角田ひろが加入する。角田ひろは、1971年に「メリージェーン」のヒットをとばす、つのだひろだ。

 ジャックスは、はっぴいえんどと同じように、当時は歌詞もサウンドも前衛的すぎると見なされて、あまり売れなかった。しかし、日本語のロックの先駆者だったから、その先進性を理解していたマニアックなファンはいた。

りりィのライブ・ツアー・スケジュール http://www.geocities.jp/lily_yoji/liveinfo.html

ジャックス 時計をとめてhttp://jp.youtube.com/watch?v=dwYEEhd7x3Q&feature=related

早川義夫 サルビアの花 http://jp.youtube.com/watch?v=-5zCfO_9VR0&NR=1


三条高校生は、ジェネシスの新譜を2枚買う

2008-10-09 | 日記・エッセイ・コラム

月影の騎士(紙ジャケット仕様) 月影の騎士(紙ジャケット仕様)

Nursery Cryme Nursery Cryme

 ノーベル文学賞の受賞者は、フランスの小説家、ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオJean-Marie Gustave Le Clézio だった。

 「評論家には、ミーハーといわれる日本の少年少女が、世界のポップス界をリードしている」と、ミュージックライフ元編集長の星加ルミ子さんが、以前、書いていた。それは、クィーンに関しての記事だった。

 サウンドコーナーでも、たしかにクィーンのファースト・アルバム「戦慄の王女 - Queen 」(1973年)は発売になって、すぐに売れ出した。それは、「ミュージックライフ」の影響力もあった。レコード屋としては、在庫を切らさないでおくことが大事だ。エサ箱から売れたら、すぐにストックから補充する。ひとりのお客がいるということは、かならず他にもお客がいるということだ。

 ジェネシスもまた、サウンドコーナーでは発売のとき(1969年)から売れた。だが、全国的にはまだまだだった。それは、十勝の少年少女たちの感性がたしかだったということだろう。ピーター・ガブリエルのファンがたくさんいたわけだ。まだフィル・コリンズは加入してなかった。ジェネシス、プログレのころだ。

 ピーター・ガブリエルがぬけて、フィル・コリンズが中心になって、ポップス色が強くなると、じつによく売れた。フィル・コリンズで大ヒットした「恋はあせらず You Can't Hurry Love」(1982年)は、ダイアナ・ロスとシュープリームスの1966年のビルボード№1のヒット曲だ。

 ジェネシスの新譜LPを、かならず2枚予約する帯広三条高校の女子学生がいた。友達の分もいっしょに予約しているのかと思ったが、そうじゃなかった。1枚のLPは、普段聴くやつ、もう1枚は、針を通さず保存するそうだ。サウンドコーナーに勤めた平井ひろみつくんが、ジェネシス・ファンのこのお客さんと同級生だった。平井くんから、LP2枚予約の真相を聞いて驚いた。

 レコードの場合はCDと違って針と接触するから、聞くほどにレコードの溝は微妙に消耗していく。だんだん溝が白くなっていく。ギターフレーズのコピーをやるために、同じところだけ繰り返し聞いて、その部分だけ白くなった経験があるだろう。

 聴きこむためのLPと、もう一枚予備のLPを買っておく、というジェネシス・ファンもすごい。(予備というより、一枚はコレクション用なのかな?)

 

フィル・コリンズ 恋はあせらず You Can't Hurry Love http://jp.youtube.com/watch?v=K3TesujRfpY

ジェネシスのオフィシャル・サイト http://www.genesis-music.com/

フィル・コリンズのオフィシャル・サイト http://www.philcollins.co.uk/


KISSのフィルムがこない

2008-10-08 | 日記・エッセイ・コラム

地獄の軍団 地獄の軍団
 ノーベル賞は、物理学賞、化学賞と日本人の受賞がつづいた。ここで文学賞が村上春樹とくると、お祭り状態になるのだが、さてどうなるか。発表は、9日1:00pmとノーベル賞財団のwebにある。日本時間では、9日午後8時ころになるのか。

 AIGが経営不振でFRBから850億ドル(約9兆円)の融資をうけて救済された。まさにそれが決まった日に、AIGの幹部たちがうちそろってリゾート地で休暇をとっていた。滞在費がAIGもちで、日本円で約4400万円だという。エステとサウナとゴルフを楽しんでいた、とアメリカ議会の公聴会で幹部が証言した。巨額の税金を投入しているのに、こんな遊興の浪費が許されるのかと問題になっている。会社が傾いているのに、40億円以上のボーナスをとっていたリーマン・ブラザーズの経営者といい、アメリカの金融関係とは、こういう連中の巣窟のようだ。世界経済がおかしくなるのもうなずける。

 いまでは、想像もつかないことだろうが、1969年にレコード屋をはじめたころは、新譜のプロモーションのためにレコード・コンサートというものを月例でやっていた。喫茶店や小ホールを借りてレコードをかけるだけだが、人は集まった。発売前のテスト盤と発売になったばかりの新譜をすこし解説をしながら紹介する。ジャズは、エースという店を借りた。ジャズ喫茶の司には、「司ジャズ・クラブ」があったから、その会が主催してくれたので、レコードを提供した。ロックは、大通り10丁目にあったファンファンを使ったり、市民会館の小ホールを借りた。ビクターやパイオニアが協力してくれて、オーディオ機器を提供してくれた。

  司ジャズ・クラブは、ジャズ喫茶・司に集まるお客さんでつくるジャズ・ファンの集まりだった。信正堂書店に勤める菅原さん(ケンちゃん)が会長で、権兵衛 の鈴木さんが幹事で活躍していた。

 16mmフィルムの上映会をやっていたことは、6月に書いたが、フィルム・コンサートは、このレコード・コンサートの進化したものだ。ロックバンドの映像が16mmフィルムであるのはわかったが、毎月開くほどの数はそろわない。レコードだけのやつをなるべく定期で、そしてフィルムは、ある程度集められるめどがついた時に開催する。しかし、フィルムは、目当てのロック・アーティストは一曲だけで、あとはイージーリスニングとかポップスとかが混じったオムニバスのようなやつや、5分、10分の短いやつがほとんどで、長いライブ・フィルムは、なかなかなかった。    
 

 1975年のころだったか、キッスの長いライブのフィルムがあるというので、フィルム・コンサートに「KISS・Liveもあるよ」のようなサブ・タイトルをつけた。しかし、コンサート前日にとどいたフィルムの中にキッスがない。当日は、デイープパープルとツッペリンとカーペンターズ、そのほかのライブ・フィルムの上映になった。高校生の女の子から「キッスが観たかったのに!」ときつく叱られた。

 映像なしで、それなりのオーディオで、大音量でロックを聴く集りというのは、いまの時代でもありではないだろうか。もちろんレコードである必要はない。CDでかまわないだろう。大きなスピーカーで、壁が震えるほど大きな音で聴くということと、みんなで聴くということに意味がある。

 ここにきて急にアクセスが延びている。一日600アクセスを超える日がある。うれしいことだが、いったいなにが起こっているのだろう?

Kiss - Detroit Rock City http://jp.youtube.com/watch?v=TgsoJrzplUI


安住アナが「春なのに」を買ったのは、サウンドコーナー本店だった

2008-10-07 | 日記・エッセイ・コラム

春なのに 春なのに
 TBSの歌番組で、帯広駅ビルのレコード屋のことが話にでていたと、橋本時比康くんがメールをくれた。その数分後、佐々木要くんも安住アナのことをメールで知らせてくれた。

 司会の安住紳一郎アナウンサーが、ゲストの柏原芳恵を迎えて、「じつは、わたしが最初に買ったレコードは、『春なのに』なんです」といった。中学生のとき、母親が帯広ステーションデパートに勤めていたので、駅ビル地下のレコード店で一割引で買った、と。その店がサウンドコーナー本店なのだ。

 安住アナは、経歴をみると芽室中学校卒業になっているので、柏原芳恵の「春なのに」をもって、十勝バスにのって芽室まで帰ったわけだ。きっとワクワクしながらバスにのっていたのだろう。家に着くまで我慢できなくて、汽車のなかでビニール袋からレコードを出して、ジャケットをながめるのが楽しい、といっていた新得町のお客さんがいた。

 わが同期生の橋本くんと佐々木くんは、やはり、あの番組を観ていた。「あなたが聴きたい歌の4時間スペシャル」、なんと4時間、70年代からのヒット曲がほとんどノンストップで続くという構成だった。きっと30才以上の音楽が好きな人は、なかなかチャンネルを変えられない流れだったろう。中森明菜と松田聖子は、アイドルというにはとびきり歌がうまい、と今さらだがあらためて感心した。わたしは、全部はみなかったが、安住アナが、帯広ステーションデパートで「春なのに」を買ったと話したところはみた。

 「春なのに」は、中島みゆき作品だ。安住紳一郎アナウンサーも中島みゆきも、帯広柏葉高校卒業だ。

 柏原芳恵「春なのに」(1983年1月11日発売) http://jp.youtube.com/watch?v=oVxgyun6XpQ


「ボーン・イン・ザ・U.S.A」は、反戦歌

2008-10-06 | 日記・エッセイ・コラム

ボーン・イン・ザ・U.S.A.(紙ジャケット仕様) ボーン・イン・ザ・U.S.A.(紙ジャケット仕様)
 俳優の緒方拳さんが急死した。死因は発表になっていない。肝臓癌を患っていた、という。

 雨はやんだが暗い夕暮れだった。午後4時には、金木犀(キンモクセイ)の強烈な香りが漂いだしたから、匂いだすには完全に暗くなる必要はないようだ。どのくらいの照度になると匂うのか?

 植物は、動物のようには器官が分化せずに、葉は光合成もするし、視覚や触覚の感覚器官でもあるようだ(オジギソウを見てると触覚があるのがわかる)。そして、きっと全体の細胞をつかって思考する。全身が頭脳の機能をしているのだろう。細胞一個がコンピュータの単位なのだ。

 植物が個人を記憶する、というウソ発見器を使った実験の話をライアル・ワトソンが書いていた。室内の観葉植物にタバコの火をおしつける。その人物が再び室内に入ってくると、植物にセットしたウソ発見器が反応する。つまり、個人を認知して植物の電気抵抗に変化が起きた、というのだ。植物を育てることに特別な才能がある人たちがいる。グリーンハンドGreen Handと呼ばれる人だが、このウソ発見器の話は、何かその人たちの存在の説明になるのではないだろうか。

 ブルース・スプリングスティーンがオバマの集会に出演した。2万人が集まったとある。前の大統領選でも選挙運動をやっていたから、オバマ支持というより、バリバリの民主党支持者なんだ。    

 「ボーン・イン・ザ・U.S.A」(1984年)は、ベトナム帰還兵の苦悩を歌った強烈な反戦歌だが、アメリカ賛歌のように誤解されている。このまったく愛国的ではない歌を、レーガン陣営は大統領選に使おうとしたことがあった。Born in the U.S.A  http://jp.youtube.com/watch?v=BjwzxKzvWUE 


「ドリームガールズ」は、シュープリームス

2008-10-05 | 日記・エッセイ・コラム

ドリームガールズ オリジナルサウンドトラック ドリームガールズ オリジナルサウンドトラック
 柔道世界団体選手権は日本女子が優勝した。中村美里、山岸絵美が強い。北京五輪にはやはり谷ではなく山岸絵美をだすべきだった。男子は、相変わらず、まったくダメだ。五位。ビッグマウスの石井は欠場だ。

 ノーベル賞の季節がやってきた(授賞式は12月10日)。今年も村上春樹の名前が候補にあがってる。べつに村上春樹小説のファンではないが、さすがジャズ喫茶を経営していただけあって、音楽の話はおもしろい。同世代の日本人として、毎年、ノーベル賞の受賞をたのしみにしているのだが、今年はどうなるか。 

 ダイアナ・ロスがリードシンガーのシュープリームスは、1959年結成されたグループだ。「愛はどこへ行ったのWhere Did Our Love Go?」が全米ナンバーワンになったのが、1964年だから売れるまでに5年かかっている。わたしがレコード屋をはじめたころは、「ラブ・チャイルド Lve Child」(1968年)、「またいつの日にか Someday We'll Be Together」(1969年)がよく売れた。

 「ドリームガールズ」は、シュープリームスのサクセス・ストーリーをベースにしたミュージカルだ。1981年のオープニングから4年間で1521回の公演をした大ヒット作だ。2007年には映画になり、これも大ヒットした。映画では、ビヨンセ・ノウルズがダイアナ・ロス役だった。10キロ減量したというビヨンセはじつに美しかった。エディ・マーフィの歌のうまいのも感動ものだった。この映画でエディ・マーフィはアカデミー賞最優秀助演男優賞にノミネートされた。

 物語では、途中でグループをぬけたメンバーが、ソロで復活して、メンバーと和解するというハッピーエンドだが、実際は、オリジナル・メンバーのフローレンス・バラードは、グループがダイアナ・ロス中心になっていくのが不満で、メンバー、スタッフと不和になり、解雇される。その後ソロアルバムを2枚出すが、売れず、1976年に病死する。アル中とも麻薬中毒とも、自殺ともいわれる。映画では、この役をジェニファー・ハドソンが好演して、アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞した。

The Supremes   Baby Love  http://jp.youtube.com/watch?v=23UkIkwy5ZM&feature=related


ギターを弾いて、喝采をあびたいものだが……

2008-10-04 | 日記・エッセイ・コラム

Touch Me in the Morning Touch Me in the Morning
 じつに気持ちがいい天気だ。昼は半袖でいい。快晴、カラッと乾燥して、夕暮れの空に三日月が美しい。旧江戸川から東京湾にたくさんの屋形船がくだっていく。今夜の海の上の宴会は、楽しいだろう。こんなに快適な日は、東京では一年に何日もない。

 Azuさんのコメントにキャデッラクスリムのことがあった。C・スリムに関しては、もう大昔のことだから、さまざまな恩讐を越えるときだろう。たしかに、やり残したことがあって、メンバーもファンも心残りだろう。ならば、再びやることだ。解散のころは、九州、中国地方から西日本全域に火がつきはじめていた、と当時フォーライフ・レコードの社員に聞いた。

 やり残したと思うことがあるなら、またやればいい。再結成してライブをやるのもいいだろう。新曲をつくるのもいい。みんな責任ある仕事をもっている身だから、若いときのようにフルタイムのバンド活動というわけにはいかないだろう。しかし、年一のライブでもいいじゃないか。オヤジ・バンドといわれてもいいじゃないか。全国のかってのファンも優しく迎えてくれるだろう。人生は短い。もう先もみえている。十代のときにやりたかったことに立ち帰ることができるなら、そうするべきだろう。もう成功もメジャーデビューも関係ない、音楽する喜びに立ち帰る。お客が楽しんでくれたときの喜びをまた体験する。心残りのことは、できるうちにすっきりさせるべきだ。やがて、人はだれも、二度とギターも弾けなくなるのだから……。

 人を感動させるギターを弾けるのは、すばらしいことだ。  

 30年くらい前の湧洞湖(ゆうどうこ)のキャンプで、オールナイトのブルース・セッションのときの、ギターを弾く東川くんの姿をいまも鮮烈によみがえる。先日も似内清高くんと話したとき、「あのときの東川は、ほんとうにカッコよかった」、と清高くんがしみじみといっていた。

 ダイアナ・ロスのファースト・ソロは、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ Ain't No Mountain High Enough 」、1970年(昭和45年)の発売だった。爆発的に売れだしたのは、「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング Touch Me in the Morning 」(1973年、昭和48年) からだ。清高くんと会うとなぜか、ダイアナ・ロスのアルバムを思い出す。サウンドコーナーでは、かれの世代にダイアナ・ロスのファンが多かった。Diana Ross - Ain't No Mountain High Enough http://jp.youtube.com/watch?v=3MALBTAG3-I&feature=related


Jesus よりポピュラー

2008-10-03 | 日記・エッセイ・コラム

Rock 'n' Roll Rock 'n' Roll
 靖国神社の境内にはイチョウの実がたくさん落ちていた。ギンナンだ。秋がどんどん深まっていく。夜になると、金木犀(キンモクセイ)が匂いだす。この香りは、妙に感傷をさそう。夜に匂うのは、蛾など夜行性の昆虫をさそって受粉を促す戦略だろう。葉に光のセンサーがあって、日没を感じるのか。しかし、わたしはなぜか、この香りで、若く亡くなっていった友人たちや、わたしのロックヒーローを思い出してしまう。つらい香りだ。

 1980年12月8日、わたしはサウンドコーナーの店内にいて、テツヤくんからの電話を受けた。オノ・ヨーコが銃撃をうけた、といまテレビのテロップに出ているという。へえ、と思った。ニューヨークは危ない。すぐにまたテツヤくんから電話がきた。違う! ジョンが撃たれた、とテレビでいってます! 

 ウソだろ! そんなことがあっていいのか!

 しかし、あとになって考えてみれば、ベトナム反戦運動でアメリカ政府と対立したり、キリスト発言でクリスチャンを敵にまわしたり、ジョン・レノンは、かなり危険な政治的行動をとってきた。とくにオノ・ヨーコと知り合ってからの言動は、常軌を逸したところが多い。反感をもったクレージーなやつらが、どんな過激な行動にでるかわからない。

 射殺されてからの結果論だが、影響力の大きさと知名度の高さ、財産の多さからすると、あまりに無防備すぎた。最強のボディーガード軍団に守られるべき人物だったのに……。成功を嫉妬するやつや、思想、信条に反するグループだけじゃなく、身代金目的の誘拐を商売にする犯罪組織にとっても格好のターゲットだったろう。現にフランク・シナトラの息子は、誘拐されて片耳を切られて、送りつけられたことがある。

 わたしは、マーク・チャップマンの意味のない狂気の犯行と思っていない。射殺犯マーク・チャップマンは、狂信的なキリスト教原理主義者だ。ジョン・レノンが1966年にロンドン・イブニング・スタンダード誌のインタビューに答えて、キリスト教を誹謗したことを根にもっていたのだ。単独犯かバックに組織があるのかはわからないが、キリストを愚弄したと思っての犯行だったのは、たしかだ。

 日本には、「ビートルズはキリストより有名だ」とジョンがいったと伝えらえてるが、実際はもっと過激で、刺激的な言い方をしている。皮肉屋のジョンの本領発揮というところだが、さすがにここまでの放言は、簡単にはおさまらない。

 "Christianity will go. It will vanish and shrink. I do not know what will go first, rock 'n' roll or Christianity. We're more popular than Jesus now. Jesus was all right, but his disciples were thick and ordinary." 「キリスト教は消える。消滅して無くなる。ロックンロールとキリスト教のどっちが先に無くなるかわからない。今は、俺たちのほうがイエス・キリストより人気はある。イエス・キリストはいいんだが、弟子たちが愚かで凡庸だった」

 と、いってしまったのだ。これがイギリス国内だけなら、毒舌家のジョン・レノンらしいやな、で済んだのだろう。しかし、4ヶ月後にこの記事がアメリカのティーンズ雑誌のデート・ブックに転載されてしまう。アメリカで話題になり、全世界に配信されて、騒然となった。世界中のクリスチャンから反撃が開始され、ビートルズのレコードは集めて火をつけられた。ジョン・レノンは、1966年8月11日にシカゴで記者会見を開いて謝罪したが、騒ぎはおさまらなかった。

 この騒動がビートルズがライブをやめたことの遠因だったのはたしかだ。この年、1966年の8月でビートルズは、お客の前で演奏するのをやめた。レコーディングだけのバンドになった。今後いっさいのライブを中止すると発表があって、すぐの8月27日、マネージャーのブライアン・エプスタインが怪死した。睡眠薬の飲み過ぎとも、オーバードラッグともいわれる。また、自殺とも……。

 ジョン・レノンは、1975年にロックンロールのスタンダードを歌ったアルバムを発表して、5年の間、音楽シーンから消えた。子育てに専念していたといわれる。そうして、1980年、わたしたちのところにもどってきたのだが……。

 事件から三十年ちかくたった。マーク・チャップマンの釈放をオノ・ヨーコが息子の安全のためと強く反対している、と伝えられてる。しかし、マーク・チャップマンにとっては、釈放されるより、刑務所のなかにいるほうが安全ではないだろうか。いまも熱狂的なジョン・レノン・ファンは世界中にいる。みんな歳になってきているから、冥土のみやげにジョンの仇討ちをして、と思う老人がいても不思議じゃない。世界中に数十万人はいるかな、そんなジイさんやバアさんたちが……。

John Lennon  Stand By Me     http://jp.youtube.com/watch?v=O4_ghOG9JQM 


世界歌謡祭、司会は、坂本九

2008-10-02 | 日記・エッセイ・コラム

ダブル・ファンタジー ~ミレニアム・エディション~ ダブル・ファンタジー ~ミレニアム・エディション~
 秋晴れだ。きょうは、夜、似内清高くんと新橋で待ち合わせたので、早めに出て、皇居東御苑を散歩することにする。握り飯を二個くらい作って、本丸跡あたりの芝生に座って食おうか。そのあと、日本武道館の前をとおって、靖国神社にお参りする。靖国神社には、月に2回は参拝する。そのあと、いつもは九段坂をくだって、神保町の本屋街をぶらつく。

 1980年、11月13日、九段北のホテル・グランドパレスでは、世界歌謡祭前夜祭というパーティーが開かれた。日本中の名店を集めたという屋台の出店がならび、世界の銘酒が飲み放題で、バーカウンターでは、ハンサムなバーテンがカクテルを作ってくれる。数百人の招待客に混じって、キャデラックスリムとわたしもいた。

 翌日出演するクリスファー・クロス、ルパート・ホルムズ、メアリー・マクレガー、カナダのダン・ヒルなどの演奏があって、つづいて、キャデラックスリムも紹介された。この夜の演奏はなかった。ホテルの部屋は、外国からの出演者と同じクラスだった。夕食用にと7.500円の食券を渡された。ホテル内のレストランで使ってくれ、という。 

 翌14日は、日本武道館での予選だった。楽屋は外国の出演者たちと同じ大部屋だった。ダン・ヒルがギターを弾いて歌うと、外人の出演者がみんないっしょに歌いだした。わたしのまったく知らない曲だった。

 本番の司会は、坂本九とジュディ・オングだった。バンドがセッティングをしている間、司会のふたりは、バンドの紹介をした。
「キャデラックスリムは、北海道の帯広からきたバンドですが、ジュディさん、帯広をご存じですか?」
「いいえ」
「それじゃ、富良野はわかりますか?」
「知ってます」
「その富良野の下、池田の近くに帯広はあるんです」
「そうですか、だいたいわかります」
 

 こうしてバンドの演奏がスタートして、無事におわった。お客の受けはよかった。予選は2日間おこなわれて、16日が本選、なんと3日間にわたる音楽祭なのだ。前夜祭をいれると、出演者は、4日間ホテルに缶詰になった。予選落ちすれば、一日早く帰ることができる。

 15日、予選のすべてがおわり、審査発表があって、C・スリムは本選に残った。近くで観ていた後藤次利さんが握手をしてきた。後藤さんは、C・スリムのデビューレコードのプロデューサーになることが決まっていた。楽屋におりると、星勝さんがやってきて、おめでとう、と言ってくれた。

 翌16日の本選もじつにいい演奏だった。しかし、いろんな賞が発表になったが、C・スリムは何も受賞しなかった。まあ、それでいいだろう。本選に残ったほかの出演者たちはみんな、長いキャリアのあるプロのミュージシャンだ。スリムは、まだデビューもしていないアマチュア・ロックバンドだ。
 

 この世界歌謡祭には、写真家の戸張良彦さんが撮影にきていた。

 きょうは、その日本武道館まえを散歩してくる。 

 この世界歌謡祭が開催された1980年というのは、ジョン・レノンが亡くなった年だ。5年ぶりにアルバム「ダブル・ファンタジー」が発売され、12月8日に射殺された。