ドロー・ザ・ライン |
ロックス |
女優のリブ・タイラーは、エアロスミスのボーカル、スティーヴン・タイラーの娘だ。しかし、10年くらい前のインターネット・ムーヴィー・データベース(IMDb)の、リブ・テイラーのプロフィールには、スティーヴン・タイラーの娘とはなっていなかった。
トッド・ラングレンの娘だが、エアロスミスのファンで、小さいときから自分はスティーヴン・タイラーに似ていると思っていた。母親に聞くと、スティーヴン・タイラーと付き合っていた、というので、自分は娘かもしれないと妄想して、本名リブ・ラングレンをリブ・タイラーという芸名にした。彼女は14才からモデルをやっていた。スティーヴン・タイラーは、タイラーを名のるのも、いいんじゃないかい、と事後承諾した。と、そんなことが10年くらい前は書いてあった。
おもしろい話だな、と記憶していた。そのあと、「ロード・オブ・ザ・リング」のころ、ひさしぶりにリブ・タイラーのプロフィールをIMDbでみると、スティーヴン・タイラーの娘と断定的になっていた。あれ、前と違うな?
こういう話だ。リブ・タイラーの母親、ベベ・ビュエルはモデルで、プレイボーイ・マガジンのプレイメイトをやっていた。スティーヴン・タイラーと付き合っていて妊娠していたが、トッド・ラングレンと結婚した。娘が生まれたが、娘には実の父親を知らせなかった。8才のころ、リブは、スティーヴン・タイラーの娘Miaと出会う。(つまり腹違いの姉妹だ)。双子のように自分に似ているので、母親を問いつめると、実の父親はスティーヴン・タイラーだと告白した。そこで芸名は、リブ・タイラーにした。もちろん継父は、トッド・ラングレンのままリブを育てた。
スティーヴン・タイラー自身は、そのころは、いつもドラッグにラリっていてよくわからない、母親がそういうなら、そうに違いない、と認める。それだけじゃなく、リブが娘だと知って、娘のためにドラッグをやめる決心をした、と告白している。日本のテレビが好んで作る話のようだが、しかし、たしかに、ヘロインとかコカインでメンバー全員ボロボロになって、人気もかげりが出て低迷していたのが、80年代半ばにバンドは復活する。スティーヴン・タイラーとギターのジョー・ペリーは、更正施設に入院して麻薬中毒を治療したのだ。
リブ・タイラーは、実の父親がスティーヴン・タイラー、育てた父親がトッド・ラングレン、まさにロックの申し子なわけだ。しかし、親の七光りで、歌を歌ったりしないのが、いいね。
エアロスミスのファースト・アルバム「 野獣生誕 Aerosmith」は、1973年の発売だった。全国的にはちっとも売れなかったが、将来ブレークするバンドを察知するすぐれた感性の少年少女たちが十勝にはいた。 帯広では、1974年 の「飛べ!エアロスミス Get Your Wings」、1975年 の「闇夜のヘヴィ・ロックToys in the Attic」と確実に売り上げが伸びていった。 なんといってもブレークしたのは、「ロックス Rocks 」(1976年)だった。これは売れた。つぎの「ドロー・ザ・ライン Draw the Line」(1977年)もよく売れた。
Aerosmith - I Don't Wanna Miss a Thinghttp://jp.youtube.com/watch?v=Vo_0UXRY_rY&feature=related
トッド・ラングレンが、NAZZでデビューしたのは1968年だ。NAZZ解散後は、ボブ・ディランのレコーディング・エンジニア、ソロアルバムのヒット、そして、プロデューサーとして、ロックの本流を進む。プロデュースで日本で有名になったのは、グランドファンクの「アメリカン・バンド」のヒットだろうか。ホール&オーツ、XTC、バンドフィンガーなどプロデュースしたバンドは多数ある。日本では、ユートピアのリーダーとしても有名だろう。
サウンドコーナーには、トッド・ラングレンのソロ・アルバムのファンもたくさんいた、日本ではマニアックな売れ方だったが。
トッド・ラングレンのI Saw the Light http://jp.youtube.com/watch?v=EG9LhM7uVZs&feature=related
1980年(昭和55年)11月14日、キャデッラクスリムは、日本武道館で開催された第11回世界歌謡祭予選に出場した。司会は、坂本九とジュディ・オングだった。(坂本九が日航123便の墜落で亡くなったのは、1985年8月12日)。あの世界歌謡祭のことを、あすはすこし書こうかな。
エアロスミス Draw The Line http://jp.youtube.com/watch?v=gMrXO5pK5g4