橋本くん、佐々木くんと、銀座で会ってビールを飲んだ。北海道・幕別町の、「十勝木のうつわ工房」の佐々木要くんが、松屋銀座で「木の百面相展」をやっているのだ。
橋本時比彦くんと佐々木要くんは、帯広三条高校合唱部だった。全国大会に出場していたから、なかなか優秀だったのだ。橋本くんは、テノールで、部長だ。野球でいえば、甲子園出場チームのエース・ピッチャーみたいなものだ。橋本くんは、リーダーシップがあって、物静かでハンサムで、学業成績優秀だった。ハンカチ王子・斎藤佑樹という感じかな。
橋本くんとわたしは、三条高校の1年のとき、おなじEクラスで、高島くんと3人で帯広労音のサークルをつくっていた。「エマノン」という名前だった。労音とは、勤労者音楽鑑賞協会という共産党系の鑑賞団体で、昭和30年代から40年代は日本で最大の洋楽招聘組織だった。
(わたしたちの「エマノン」の名前は、ジャズの曲名からのパクりだ。no-name 、ジャズのれんちゅうも名前をつけるのがめんどうで、ノウ・ネームのスペルを逆にして、eman-on というタイトルつけた。高校生1年のわたしは、それをパクった)
当時、北海道・帯広で、演歌以外の生のコンサートは、ほとんど労音主催だった。わたしは、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズも、タンゴのプグリエーセのオルケスタも、ディキシーランド・ジャズのジョージ・ルイスも、カウント・ベイシー・ビッグバンドも、原信夫とシャープ&フラッツも、帯広労音主催のコンサートでみた。(日本の交響楽団もいくつかみたが、あまり感動しなかったのか、名前を覚えてない)。中学生から高校生のときだ。
中学生のときは、労音会員だった叔母さん(母の妹)がチケットを買ってくれた。三条高校に入って、クラスメイトの橋本くんと高島くんとわたし、3人でサークルをつくって会員になったのだ。高校一年生3人で毎月の例会を楽しみに、帯広市民会館にいったものだ。
あれから45年以上……。銀座1丁目の、野外のテーブルでビールを飲んだ(今夜も暑いのだ。わたしは、短パン、サンダルだ)。おたがい、とんでもないジジイになってしまった。でも、いまも、橋本くんと音楽のはなしをすると、つきない。帯広三条高校1年Eクラスのときと、心はおなじだ。