最近の自民党の政治姿勢はどうにも困ったものだと感じることが多いのですが、元を辿っていくと安倍さんの「決める政治」が原点だったのではないかと感じています。
それまで自分も含めて「決められなかった」という反省があったのでしょうか、生まれ変わって「決める政治をしよう」と第2次安倍内閣を発足させたのではないでしょうか。
決められなければ物事は前に進まない、だから決めることで物事が効率的に進むだろうと考えたとしますと、一寸発想が単純すぎたのではないかと感じます。
人間は往々間違います。間違わなくても、状況の方が変わって、決定したことが現状に合わなくなることもあります。
そんなときに、決定したからと言ってそれに固執すると物事は動かなくなります。やっぱり物事の「決定」には、みんなの意見を取り入れ、柔軟性を持たせておかないと「効率的」と思っていたことが「硬直的」になって、こじれて前に進まなくなります。
今日のニュースで、政府は例のコロナですが5月8日からコロナを予定通り感染症上の2類から5類に移行することを正式に決定したと言っていましたが、専門家の中には第9波の可能性を指摘する人もいます。
もともと、ゴールデンウィーク明けからという事自体、ゴールデンウィークの人流錯綜の中で、感染者が増える可能性も考慮に入れての事でしょうから、いま無理に「決定」しなくても、「ゴールデンウィークの状況を見ながら、特段の変化がなければ移行しますという方が自然でしょう。
これなどは小さなことで済みそうですが、菅内閣の時の、日本学術会議の提出名簿から6人を拒否といった「決める政治」の行き過ぎは未だにこじれにこじれています。
これも決めてしまったからには、撤回は沽券に関わるという依怙地な頑固さがトラブルをひどくして解決が出来ない状況を作り出しています。
巷では岸田総理は出身大学の「都の西北」の中の「学の独立」の所は歌えないだろうなどと揶揄されたりしています。
さらにさかのぼれば例の「モリ・カケ・サクラ」に至りますが、決めてしまった事は変えないという事であれば、問題はいつまでも「解決に至ることはない」という状態で残るのです。
こうして「決める政治」を容認・放置すると色々と大きな問題も、国民の意向を省みずに進められ、それが起こすトラブルは、解決されないままにトラブルは何時までも残り、場合によっては大きな惨禍を齎します。
心配される大きな例を挙げれば、古くは「働き方改革」で、これも全く一貫性を欠いた儘に問題は放置され、これからの問題は「集団的自衛権」で、これは放置すれば、戦争を放棄した日本にミサイルが飛んでくる客観情勢だけでなく、日本が戦争に参加する可能性すらつくり出しています。
国民の賛成を得ずに「自分が決定すること」満足するような政治の行き着くところは独裁制でしょう。権力は「決定権の行使」という快感に溺れて、急速に腐敗するようです。
そして、種々の問題は解決されずに残りますから、その負の結果は国民が背負うのです。
民主主義で一番大事なことは、決めることではなくて、決めるまでのプロセスに国が国民に相談し、決定に国民が実質的に参加する事です。
そのためには「決める政治」はもうやめて「相談する政治」に帰ることです。これは日本の伝統文化の基本でもあるのです。
それまで自分も含めて「決められなかった」という反省があったのでしょうか、生まれ変わって「決める政治をしよう」と第2次安倍内閣を発足させたのではないでしょうか。
決められなければ物事は前に進まない、だから決めることで物事が効率的に進むだろうと考えたとしますと、一寸発想が単純すぎたのではないかと感じます。
人間は往々間違います。間違わなくても、状況の方が変わって、決定したことが現状に合わなくなることもあります。
そんなときに、決定したからと言ってそれに固執すると物事は動かなくなります。やっぱり物事の「決定」には、みんなの意見を取り入れ、柔軟性を持たせておかないと「効率的」と思っていたことが「硬直的」になって、こじれて前に進まなくなります。
今日のニュースで、政府は例のコロナですが5月8日からコロナを予定通り感染症上の2類から5類に移行することを正式に決定したと言っていましたが、専門家の中には第9波の可能性を指摘する人もいます。
もともと、ゴールデンウィーク明けからという事自体、ゴールデンウィークの人流錯綜の中で、感染者が増える可能性も考慮に入れての事でしょうから、いま無理に「決定」しなくても、「ゴールデンウィークの状況を見ながら、特段の変化がなければ移行しますという方が自然でしょう。
これなどは小さなことで済みそうですが、菅内閣の時の、日本学術会議の提出名簿から6人を拒否といった「決める政治」の行き過ぎは未だにこじれにこじれています。
これも決めてしまったからには、撤回は沽券に関わるという依怙地な頑固さがトラブルをひどくして解決が出来ない状況を作り出しています。
巷では岸田総理は出身大学の「都の西北」の中の「学の独立」の所は歌えないだろうなどと揶揄されたりしています。
さらにさかのぼれば例の「モリ・カケ・サクラ」に至りますが、決めてしまった事は変えないという事であれば、問題はいつまでも「解決に至ることはない」という状態で残るのです。
こうして「決める政治」を容認・放置すると色々と大きな問題も、国民の意向を省みずに進められ、それが起こすトラブルは、解決されないままにトラブルは何時までも残り、場合によっては大きな惨禍を齎します。
心配される大きな例を挙げれば、古くは「働き方改革」で、これも全く一貫性を欠いた儘に問題は放置され、これからの問題は「集団的自衛権」で、これは放置すれば、戦争を放棄した日本にミサイルが飛んでくる客観情勢だけでなく、日本が戦争に参加する可能性すらつくり出しています。
国民の賛成を得ずに「自分が決定すること」満足するような政治の行き着くところは独裁制でしょう。権力は「決定権の行使」という快感に溺れて、急速に腐敗するようです。
そして、種々の問題は解決されずに残りますから、その負の結果は国民が背負うのです。
民主主義で一番大事なことは、決めることではなくて、決めるまでのプロセスに国が国民に相談し、決定に国民が実質的に参加する事です。
そのためには「決める政治」はもうやめて「相談する政治」に帰ることです。これは日本の伝統文化の基本でもあるのです。