tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

「争いの文化」と「競いの文化」その後

2018年02月19日 22時46分09秒 | 社会
「争いの文化」と「競いの文化」その後
 昨秋、「文化の日」に、 「争いの文化」と「競いの文化」を書きました。文化はまさに人間特有のものですが、残念なことに、「文化」の名のもとに人間が争う事が多すぎるような気が、ますます強くなる今日この頃です。

 人間は巨大な知識を身に着ける事が出来るようになりました。地球も人類も破滅させることが出来るような知識まで作り上げてきました。知識は文化の源でしょうが、そんな知識も「文化」の中に入るのでしょうか。

 今多くの人びとは平昌オリンピック熱狂し、感激し、感動しています。オリンピックは、何故にこれほど人々を感動させるのでしょうか。
 私はその根底に、オリンピックこそまさに「競いの文化」代表的存在だからだと思っています。

 人間の「人に勝ちたい」という気持ちが人類の進歩発展の原動力であることは明らかでしょう。そして、その最も人間らしい発露の代表的なものがオリンピックだからでしょうか。勝っても負けてもそこには清々しい人間性の発露があり、人の心を感動させます。

 ギリシャの古代オリンピックでは、オリンピックの期間中、戦争は止めた(聖なる休戦)と言われています。「競いの文化の祭典」の時は「争いの文化」は封印したという事でしょう。 
 古代ギリシャ人は「競いの文化」を「争いの文化」の上に置くべき、より高度な文化と考えていていたのでしょう。

 さらに言えば、「競いの文化」は、互いの存在を認め合い、互いに高め合う原動力になります。「争いの文化」は相手の存在を認めない破壊の文化に堕していくのです。

 平昌オリンピックの数かずの感動的なシーンを見ながら、今、私は「争いの文化」と書いた事を些か反省しています。比較して解り易いと思って書いたのですが、今言いたいのは「争いの文化」は文化ではない「文化を突き崩す破壊への道だ」という気持ちがますます強くなるからです。
 皆様は、「争いの文化」について、どんなふうに感じておられますでしょうか。