ワーク・ライフ・バランス再考
今回は少しへそ曲がりなことを書きそうです。
近年「ワーク・ライフ・バランス」言葉が広く使われるようになりました。カタカナですから勿論外来語で、いまだに適切な日本語訳はないようです。
この言葉が出て来てから、いろいろな所でこのタイトルで書くことがあり。そのたびに、基調的には「自分の人生の時間配分だから、自分で決めることが最も大事でしょう。」と書いてきました。
ところで今回に視点は少し違ったものです。大体ワーク・ライフ・バランスなどという言葉は日本人の考え方には馴染まない(本当は欧米でも)と思うからです。
言葉というのは大変大事で、間違った言葉を使ったり、間違った解釈をしていると、考え方まで間違ってくることがあります。例えば、「情けは人の為ならず」は、「情けを掛けることは人を甘やかしてスポイルする」という意味だ、などと言った解釈も横行します。
ワーク・ライフ・バランスにも同じような面があって、ワークとライフ相反する別物で、だから長時間労働は生活時間を圧迫し良くないと単純に理解し、法律で労働時間を短縮すればバランスが良くなる、などという理解が進みかねないのです。
英語でもライフというのは「人生」でそれとは別に“working life”という言葉があって、職業人生とか労働生活とかいうことでしょう。
日本で「労働と人生のバランス」といえば「人間の生涯の中での労働の意義」といった高邁な思想につながるでしょう。
キリスト教社会では二分法(dichotomy)がよく用いられますから(「神と悪魔」で成り立つ世界)、workとlifeを対立概念として対置するのかもしれませんが、この欧米流の理解は日本には本来馴染まないのではないでしょうか。
日本人には包括的思考(holistic approach)が一般的と言われますから、本来、職業人生とか労働時間は人生の中に包含されていて、「労働時間対生活時間」という表現はどう考えても不適切ということになります。
さらに言えば、労働時間の中にも、所得のために自由時間を犠牲にするといった時間もありましょうし、また人生の中の最高の時間が仕事に生きがいを感じる時といった場合もあるでしょう。
男性でも女性でも、振り返ってみれば、子育ての時間こそが人生の中で最も素晴らしい時間だった、という方も多いでしょう。
現状では、家事労働は賃金を支払われないからworkではなくlifeだ、ということなのですが、他人の食事を作ったり、よその子の子育てをすればworkで、家事労働としてやればlifeであるといっても、本当に納得できるものではないでしょう。
workとlifeを対立概念にして、「どうバランスをとるか」などと考えるからおかしなことになるので、本当の問題は、国民のそれぞれの人生が本人の選択をできるだけ生かして、それが社会的にも最も合理的になるような社会ステムを考えることなのでしょう。
workとlifeの誤った定義が、世の中に無用な混乱を起こすようなことのないよう、安易に二分法を使うのではなく、日本らしい総合的アプローチで問題の本質的な解決にアプローチすることが求められているのではないかと思うところです。
矢張り、言葉とその解釈を正確にすることが基本なのではないでしょうか。
今回は少しへそ曲がりなことを書きそうです。
近年「ワーク・ライフ・バランス」言葉が広く使われるようになりました。カタカナですから勿論外来語で、いまだに適切な日本語訳はないようです。
この言葉が出て来てから、いろいろな所でこのタイトルで書くことがあり。そのたびに、基調的には「自分の人生の時間配分だから、自分で決めることが最も大事でしょう。」と書いてきました。
ところで今回に視点は少し違ったものです。大体ワーク・ライフ・バランスなどという言葉は日本人の考え方には馴染まない(本当は欧米でも)と思うからです。
言葉というのは大変大事で、間違った言葉を使ったり、間違った解釈をしていると、考え方まで間違ってくることがあります。例えば、「情けは人の為ならず」は、「情けを掛けることは人を甘やかしてスポイルする」という意味だ、などと言った解釈も横行します。
ワーク・ライフ・バランスにも同じような面があって、ワークとライフ相反する別物で、だから長時間労働は生活時間を圧迫し良くないと単純に理解し、法律で労働時間を短縮すればバランスが良くなる、などという理解が進みかねないのです。
英語でもライフというのは「人生」でそれとは別に“working life”という言葉があって、職業人生とか労働生活とかいうことでしょう。
日本で「労働と人生のバランス」といえば「人間の生涯の中での労働の意義」といった高邁な思想につながるでしょう。
キリスト教社会では二分法(dichotomy)がよく用いられますから(「神と悪魔」で成り立つ世界)、workとlifeを対立概念として対置するのかもしれませんが、この欧米流の理解は日本には本来馴染まないのではないでしょうか。
日本人には包括的思考(holistic approach)が一般的と言われますから、本来、職業人生とか労働時間は人生の中に包含されていて、「労働時間対生活時間」という表現はどう考えても不適切ということになります。
さらに言えば、労働時間の中にも、所得のために自由時間を犠牲にするといった時間もありましょうし、また人生の中の最高の時間が仕事に生きがいを感じる時といった場合もあるでしょう。
男性でも女性でも、振り返ってみれば、子育ての時間こそが人生の中で最も素晴らしい時間だった、という方も多いでしょう。
現状では、家事労働は賃金を支払われないからworkではなくlifeだ、ということなのですが、他人の食事を作ったり、よその子の子育てをすればworkで、家事労働としてやればlifeであるといっても、本当に納得できるものではないでしょう。
workとlifeを対立概念にして、「どうバランスをとるか」などと考えるからおかしなことになるので、本当の問題は、国民のそれぞれの人生が本人の選択をできるだけ生かして、それが社会的にも最も合理的になるような社会ステムを考えることなのでしょう。
workとlifeの誤った定義が、世の中に無用な混乱を起こすようなことのないよう、安易に二分法を使うのではなく、日本らしい総合的アプローチで問題の本質的な解決にアプローチすることが求められているのではないかと思うところです。
矢張り、言葉とその解釈を正確にすることが基本なのではないでしょうか。