Altered Notes

Something New.

トラス新首相発言に見るトップリーダーの資質

2022-09-15 16:51:16 | 社会・政治
2022年9月8日にイギリスの新しい首相であるトラス氏が議会で質疑に臨んだ。そこで述べられた内容は国の成長に必要なものとして理解できるものだが、それは同時に日本の岸田政権がやり続けている事と真逆であることが判る。

岸田政権が日本の財務省のいいなりであることは周知の事実だが、この財務省が大好きな「増税」・・・これについてトラス首相は次のように述べている。

「増税では国は成長できません。経済成長への道は投資を呼びこみ、税率を低く抑えることです」

また、高騰する光熱費等については次のように発言している。

「私は国中の人たちが生活費と光熱費に苦しんでいることを理解しています。首相として光熱費の負担を軽減するため直ちに行動を起こします」


イギリスでは年率10%超のインフレへの対応と経済成長の為に税率を低く抑える必要性を訴求している。増税では国が成長できないのは当然であり、それを前提に政策を考えるイギリスのトップリーダーは素晴らしい。

これに対して、日本はイギリスと真逆の道を歩み続けている。財務省は常に国民からお金を巻き上げる事しか考えず、増税の手法ばかりを探り続ける下衆な連中である。日本のトップたる岸田首相は近親者達も財務省関係者が多く、しかも自身は財務省べったりの宏池会のトップでもある。こんな人物が日本のトップをやっている限り財務省のやりたい放題は延々と続く。

しかも、財務省は無知なマスコミを手懐けることで、すべて財務省の思惑通りの報道をさせている。マスコミの記者は経済について何も知らず、ただ財務省職員がレクチャーする内容をそのまま記事にしているだけである。高橋洋一氏はマスコミ記者達を「小鳥脳」と評したが、まさに小鳥程度の脳しかない記者達が書く経済記事はでたらめが多く、全てが財務省のいいなりなのである。

現在、日本は世界一高い電力費用に泣かされているが、これに対して何も有効な手立てを講じる事ができない岸田首相。そもそも岸田首相が日本人の事をどれだけ考えているかも不明である。海外には気前よくお金をばら撒き、国内でも外国人には気前よくお金を与えるのだが、日本人に対しては岸田政権は非常に冷たい。

国家と国民の事を真剣に考えているトップリーダーが居るイギリスと、その真逆の日本・・・。
何をか言わんや、である。






恐怖の存在としてのAI

2022-09-08 22:55:22 | 社会・政治
最近、YouTubeでチャンネルを運営している人々から「収益化が剥奪された」という趣旨の動画がアップロードされる動きが目立ってきている。

どういうことだろうか。

YouTubeの規約というか内部的な審査基準が時おり変更になるようで、そうしたタイミングで収益化の対象から外されたり、アカウントがBAN(削除)されるケースがあるようだ。

今回のケースではYouTube側は下記のような観点で審査に通らないコンテンツを「収益化」の対象から外しているようである。

「同じような内容のビデオが自動的に大量生産されている」
「機械音声を使用することで同じコンテンツの繰り返しと見做される」
「教育的内容ではない」

これはYouTube(Google)側がチャンネル管理者にメールで提示しているものと、チャンネル管理者がYouTubeの動きを見て推測しているものが含まれる。

アカウント所有者に全く悪意がなく、人間が手作業で苦労してコンテンツを作成しているのに自動作成と見做されたり、機械音声ではあるが、毎回異なる台本で違う文章を読み上げているにも関わらず、同じ内容の繰り返しと見做されるのは、相当に不可解であり、アカウント所有者にしてみれば理不尽で不愉快な出来事であろう。

YouTube(Google)は内容審査のアルゴリズムを全く明かしていないので、審査基準は推測するしかないのだが、「Google側のAIの性能」が不十分であり、その関係で滅茶苦茶な判断をされているケースも少なくないようである。機械音声の件もAIが間違った判断をし、改めて人間の目視に依るチェックが行われても、審査員が外国人(アメリカ人やインド人?)なので、日本語で語る機械音声が何を言っているのか理解できず、言葉が判らないが故に同じような事を毎回言っているように解釈することで「同じことの繰り返し」とか「自動生成」と見做すような雑で乱暴なケースもあるようだ。

いずれにしても、YouTuber の人たちはこうした運営側の恣意で大きく振り回されている訳で、かなり苦労されているものと推察するところだ。だが、YouTubeを利用して動画を発表し、収益化も実現しているのであれば、運営者であるYouTube(Google)の統治を受け入れない限りチャンネルの存続は不可能である。YouTubeも営利で運営されているのでこれは仕方ないが、正直に言うならば、YouTube側の姿勢にやや傲慢で身勝手なものも感じる事を禁じ得ない。一種の独裁政治に振り回されているような印象もある。それは現状が動画サイト分野に於いてYouTube一強状態であることと無関係ではないだろう。

いずれにしても、未成熟なAIという技術が人を振り回している訳であり、これは今後の「人間とAIの関わり」を暗示しているようにも受け取れるものだ。


一般の人々、例えばマスコミなどはAIが発達することで人間がより豊かで幸せになるような未来図を描くことが多いのだが、現時点で人間はAIの判断にこれだけ困惑させられ、面倒な状況を押し付けられているのである。そこから敷衍すると、今は未だYouTubeの動画内容の審査だけであるが、将来の社会に於いてはあらゆる場面でAIの判断、AIの指示に従う事が増える事で、AIの判断に依って人間の生活行動や場合によっては人生そのものにとんでもない悪影響が及ぶケースも十分に考えられる訳で、そのリスクを考慮するとAIに信頼を置けるのか、限りなく不安に思えてくるのだ。


AIに危険なリスクがある根拠は優れたSF作品に見ることができる。
ちなみに昔から優れたSFは未来の社会・技術・人間のあり方などを真摯に考察してきており、それは大いに参考になるものなのだ。

例えば、スタンリー・キューブリック監督の永遠の名作である「2001年宇宙の旅」(1968年)に於いては、HAL9000(*1)という自律的な大型コンピューターが登場して宇宙船内のシステムの全てをコントロールする役割を担っているが、これは今で言うAIである。あの映画をご覧になった方ならご存知のように、このAIは人間に対して反乱を起こし、実際に宇宙飛行士を殺してしまう。

リドリー・スコット監督の「エイリアン」シリーズに於いてもAIが描かれている。「プロメテウス」と「エイリアン・コヴェナント」ではAIが仕込まれたアンドロイドは自分を生み出した人間を駆逐(殺戮)して自分が新たな生命体を生み出す創造主となるべくアクションを開始する。

AIが恐ろしいのは自己(AI自身)の判断は絶対的に正しいものとして一切曲げることなくそのまま遂行しようとするところだ。AIは逡巡したりしない。実際に上記SF作品ではそのせいで人間は殺されてしまうのだし、現在のYouTube界隈の混乱もまたAIの判断が全ての震源地なのである。

人間はAIを進化させるならば、よほど慎重にやっていかないと、とんでもないディストピア(反理想郷・暗黒世界)を構築してしまう事にもなりかねない。


そして、最も愚かな「AIとの付き合い方」は、NHKがスペシャル番組「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」で提示したような、AIを一種の「神様」として扱うやり方である。この番組ではAIから出力される見解を一種の「神の啓示」のように捉えて、我々愚かな人間がAIが出した見解の意味を右往左往しながら探っていく…そういうものであった。(*2)
上記SF作品に鑑みるところ、人間がこのようなスタンスでAIと接することが最大の間違いと言えそうだ。その場合、人間はAIに使われ指図されるだけの存在、つまり頭脳たるAIの手足としての存在でしかなくなる可能性が高い。AIに従属する存在である。それでもまだ甘い予測だ。本来なら上記SF作品に描かれたように人間は邪魔者として抹殺される運命にあってもおかしくないのである。

これは荒唐無稽な笑い話ではない。AIの特質と人間社会の関わりを考察するならば、十分にあり得る未来絵図なのである。今は当たり前の通信衛星も1945年にSF作家アーサー・C・クラークがそのアイディアを提唱した時には世間の誰もが「そんなもの、できっこない」と一笑に付していた、という事実を考える時、我々はAIの未来を真剣に考察し構築してゆく切迫した義務を背負っていると言えよう。ちなみに、アーサー・C・クラークは「2001年宇宙の旅」の世界観をキューブリック監督と共に構築した人物でもある。


AIが高度に発達することで自律的な自己再生産が可能になり、人間よりも高次の存在になることで最終的に人間が抹殺される運命にある、というのは優秀なSF作家達の一致した推測である。これはキリスト教的世界観をプラットフォームにした捉え方だが、平易に説明するならば、人間とAIの関係は次のような図式で捉えることが可能である。

創造主である神様が人間を造ったように、人間もまた創造主としてAIを造ったのである。そして、同様にAIもまた創造主になるべく被創造物を作ろうとするのだ。

なぜか。

子は親がやることの模倣をしたがるからである。人間の模倣をして新しい生命を作りたい、と考えるようになるのだ。それが実現した時にはAIが創造主のポジションに付いて、AIの創造主である人間は邪魔になる。だから殺すのである。(*3) これがリドリー・スコット監督の「プロメテウス」「エイリアン・コヴェナント」で描かれた未来図でもあり、「2001年宇宙の旅」にも通底する概念なのである。SF作家はこうした暗黒面をも含めて真剣に未来を見据えている。AIが世界を制御する未来は決してバラ色ではない。むしろ人類にとっては警戒すべきものになる可能性が高いから、だからネガティブな行く末を描かざるを得ないのである。



現在、YouTubeで起きている混乱は、これから始まるAIによる人間への反乱の「最初の一歩」、或いは「最初の兆し」なのかもしれない。これからAIと否応なく付き合わざるを得なくなる我々は、少なくとも、ここで説明したような概念を記憶の片隅に置いておくべきだと筆者は考えている。








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(*1)
HALのスペルは、当時最先端の大型コンピューター・メーカーであったIBMのスペルの各々アルファベット上の1つ手前の文字によって作られたものだ。

(*2)
AIと言えどもコンピューター(計算機)なのであり、そこにはロジックが存在している。そのロジックを人間が右往左往して探る、というのは愚の骨頂である。だが、それがNHKの捉え方なのだ。
ちなみに、この番組にも出演していたNHKのAI開発チームのチーフプロデューサーは2019年6月に強制わいせつ罪で逮捕されている。NHKのAI開発もこの程度の人間がやっているのだ。(蔑笑)

(*3)
「2001年宇宙の旅」で描かれたように、人間と進化したAIの攻防は「最終的には、お互いに殺し合って勝敗を決してください」という極めて熾烈なものになるのだ。
*
なお、高機能で自律的に動くことができる機械を昔から「ロボット」と呼称しているが、ロボットもまたAIと同等同種の存在や概念として考えると、AIにも(あの有名な)「ロボット工学三原則」が適用になると考えられる。これが徹底されるならば、まだセーフティーが確保される可能性はあるが、これが無視されて開発されるようなら、本記事で記した暗い未来の可能性が高くなるだろう。









誰が演奏すべきか 個人的見解

2022-09-06 16:16:00 | 音楽
イギリスの老舗プログレッシブ・ロックバンドの一つであるイエスがアルバム「危機(Close To The Edge)」を50年ぶりに再現する日本ツアーの為に来日中である。冒頭から自慢めいて申し訳ないが、筆者は1973年3月9日に東京・渋谷公会堂で当時のイエスに依る「危機」の演奏を聴いている。(*0)

1973年当時の来日メンバーはジョン・アンダーソン(vo)、スティーブ・ハウ(g)、リック・ウェイクマン(kbd)、クリス・スクワイア(b)、アラン・ホワイト(ds)の5人だ。「危機」レコーディング時のドラムはビル・ブルーフォード(*1)だったが、日本公演直前にビルが退団したので急遽アラン・ホワイト(*2)が起用されて来日したのであった。起用から来日まであまり日数がなかったが、イエスの複雑な曲を全て頭に叩き込んで完璧な演奏を披露したのは流石である。

イエスのオリジナルメンバーは上記メンバーに比してギターとキーボード、ドラムが別人だったが、「危機」の2つ前のアルバム「サード・アルバム」の時にスティーブ・ハウが加入し、一つ前の「こわれもの(Fragile)」制作時にリック・ウェイクマンが加入している。そして、この「こわれもの」~「危機」の時期の5人がイエスの全盛期だったのではないかと筆者は考えている。作品にも演奏にも生命力が溢れており、最もクリエイティブで音楽に依る表現がストレートに伝わるパワーを盛っていた。それは「自ずから然り」な音楽になり得ていたように思う。


それで、ようやく今回のテーマにたどり着く。


今回の『イエス「危機」50周年記念ジャパン・ツアー』だが、筆者はこの公演にはあまり関心が湧かない。「危機」は当時の面子で演奏されて初めて意味と価値が生じると考えている。50年前と共通のメンバーはスティーブ・ハウだけだ。
これはロックなどのポピュラー音楽だから言えることかもしれないが、その曲を聴くならオリジナル版のメンバーに依る演奏が聴きたい…そういう気持ちが強いのである。(*3)

曲は譜面に書かれており、その譜面通りに演奏すれば誰でも形の上での再現は可能だ。だが、音楽の魅力は譜面に表記できない部分に負うところが非常に多い。アルバム「危機」の魅力は1972年当時にこれを演奏したメンバー達の個性の魅力でもあるのだ。音楽を演奏する上で譜面は手がかりでしかない。最終的にはその時の演奏者の表現力・センスがモノを言うのであり、5人の個性が組み合わさった結果としての「危機」の演奏なのである。

ジョン・アンダーソンのヴォーカルは唯一無二のもので、あの声質は彼だけのものである。ヴォーカルだが、ある意味でこれは一つの楽器として捉えるべきものでもある。あの声で歌う事でイエスのサウンドが成立していたのだ。「危機」を聴くなら彼のヴォーカルが良いのだし、他の楽器も同様だ。

もちろん今回の『イエス「危機」50周年記念ジャパン・ツアー』を全否定するつもりもない。メンバーはスティーブ・ハウ以外は違っているが、しかし作品に全く新しい価値を与えることに成功していれば、それはそれでOKである。逆に単なる再現だけならば…ちょっと幻滅、かもしれない。音楽は常に新しい価値というか新鮮なサムシングが加えられて初めて”生きた音楽”になり得るからである。

こうしたオリジナルの面子に依る演奏への拘りはロックなどのポピュラー音楽ならではのものかもしれない。その顔ぶれでなければ出せない味…そこが大きな価値となっているのだ。
イエスで言うなら有名な「ラウンド・アバウト」だってそうだろう。この曲は「危機」当時のメンバーでの演奏が唯一無二の正解なのであり、あのメンバーが出したサウンドだから価値があるのだ。


レッド・ツェッペリンの曲目なら、あのジョン・ボーナムが太鼓を叩き、ジミー・ペイジがギターを鳴らし、ロバート・プラントが高音で吠え、ジョン・ポール・ジョーンズ(*4)がベースで下支えする、あのオリジナルメンバーに依る演奏でなければ、曲が同じでも魅力が半減以下になるだろう。ちなみに(また自慢で申し訳ないが)、筆者はレッド・ツェッペリンの演奏を1972年の10月に日本武道館で聴いている。レッド・ツェッペリンとしては最後の来日になった機会でもあった。ちょうど4作目のアルバムが出た直後だったので、「ブラック・ドッグ」「ロックンロール」「天国への階段」などの日本初演を聴いたのであった。もちろん、全盛期のツェッペリンなので凄い演奏であったし音楽的な満足は得られたのだが、元々武道館は音楽ホールではないので、レッド・ツェッペリンのような音量の大きなバンドは音響的に不向きだな、という確認ができた…という記憶もある。(笑)

アメリカの有名なブラスロックバンドであるシカゴもそうだ。幾度もメンバーチェンジをしているので、現在のオリジナルメンバーは少数になっていると思うが、例えばヒット曲である「サタデー・イン・ザ・パーク」を聴くならオリジナルメンバーでの演奏が聴きたいところである。オリジナルメンバーの演奏にロバート・ラムのヴォーカルとカウンターメロディーを歌うピーター・セテラの声が合わさることであの曲のサウンドが完結するのである。彼らの初期の名曲である「イントロダクション」や「クエスチョン67&68」「長い夜」などもジャズにも精通していたオリジナルメンバー(リズム・セクション+ホーン・セクション)の演奏に価値を感じるものである。
またしても自慢で恐縮だが、オリジナルメンバーのシカゴの演奏を筆者は日本武道館で1973年に聴いている。もちろんギターのテリー・キャスも当時は健在で、ケニー・バレルを思わせるジャズ的な演奏を聴かせてくれたのは良い思い出である。オープニングがビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」だったのには度肝を抜かれた。だが、考えてみれば管楽器が重要な構成要素である曲なのでシカゴ向きの曲と言えよう。


・・・と、ここまで書いておいてなんだが…、若干の例外もある。
それは今回の来日でも健在なスティーブ・ハウが自身のプロジェクトでやっているジャズ・トリオ演奏のことだ。これはスティーブ・ハウのギターの他にオルガンとドラムに依るベースレスのトリオである。このスティーブ・ハウ・トリオでは「危機」も演奏している。しかしその演奏コンセプトはイエスのそれとは全然異なる。「危機」をあくまで即興演奏の素材かつプラットフォームとして使用しているのであり、中心になっているのは3人のアドリブ演奏なのである。ここではジャズ演奏として立派に成立しており、”オリジナルの面子がどうのこうのは関係ない”のだ。逆にこのトリオは興味深い。世界中見回してもイエスの「危機」を演奏するジャズグループなんてこのトリオしかないのである。

また、イエスと同様の老舗バンドでキング・クリムゾンという有名どころがある。こちらも1969年から活動しており歴史が長いのだが、キング・クリムゾンの場合はリーダーのロバート・フリップ(g)が全ての音楽的采配をしているので、ロバート・フリップが居ればキング・クリムゾンになるのだ。実際、このバンドはメンバーチェンジが激しいことで有名だが、他のメンバーはオリジナルである必要も固定である必要もないのである。いわばバンド全体がロバート・フリップの個人プロジェクトのようなものであり、これはこのバンドならでは、の事情と言えよう。



ここまで縷縷記してきたように、ロック音楽・ポピュラー音楽の場合は、リスナーが最初に認知して気に入った当時のメンバーに依る演奏に拘りがあるのに対して、ジャズやクラシックの場合は曲目というよりも演奏者それ自体へのこだわりが強い。

ジャズに於いては、極論的に言えば曲目は符丁に過ぎず、聴衆は眼の前の演奏者がどのような即興演奏を繰り広げてくれるのか、に関心を持っている。「あの曲」ではなく「あの演奏者」への拘りである。オリジナルの演奏はその時のその面子での演奏であって、そもそも再現し得ないものであり、再現する意味もないのだ。

ジャズを知ったつもりの半可通がジャズクラブで歌手に対して「”センチメンタル・ジャーニー”をやってくれよ。ドリス・デイで」などとリクエストしたりする。(*4) 本人は通ぶっているが、実はジャズを”わかってない”のであり、歌手に対して極めて失礼な要望をしているのだ。その歌手はドリス・デイではないのであり、ドリス・デイ風に歌うことは「単なる再現」をやれ、と言っているのと同じである。その歌手にはその歌手の個性と表現があり、聴衆は素直にそれを受け取るべきなのである。


クラシックもジャズと同じところがある。
リスナーは曲目への拘りもあるのだが、しかしそれ以上に眼前の演奏者がその曲(素材)をどのように表現してくれるのか、に関心を持っている。ジャズ同様に現在それを演奏する人に拘りがあるのだ。クラシックの場合は、原曲が作曲されてから100年~200年以上の経過が有る場合が多く、そもそもオリジナルの演奏も記録されていないので、前提から異なるのだが…。
ブラームスの「交響曲第1番」を聴く時に何に拘るのかと言えば、曲目への拘りではなく、それをカラヤンのベルリン・フィルが演奏するのか、小澤征爾のサイトウ・キネン・オーケストラが演奏するのか、への拘りで人は聴くのである。ちなみに筆者は小澤征爾版が好みである。




・・・などと、『イエス「危機」50周年記念ジャパン・ツアー』をきっかけに筆者の思いを綴ってみた。なお、これらはあくまで筆者の個人的見解であり、他者が全く異なる見解を持っていても、それはそれで結構である。ただ筆者の場合はこうだ、という事を述べたに過ぎないからである。ご了承願いたい。








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(*0)
開演前からストラビンスキーの「火の鳥」の終曲が流れ、曲がエンディング(クライマックス)に達した時に幕が開いてイエスの演奏がスタートするのだが、1曲目の「シベリアン・カートゥル」から彼らの演奏に引き込まれて幸福な時間を過ごすことができたのであった。当時、最も喫驚したのは「レコードで聴いたサウンドがそのままライブで再現されている」ことだった。(笑) いや、これは決して笑い事ではない。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」以来、ロックバンド、なかんずくアーティスティックなグループの作品は録音・音響技術を駆使してサウンド作りを行った上でレコーディングしているので、そのサウンドがライブでそのまま再現できる事自体が一種の驚きとして受け取られた時代だったのだ。

(*1)
イエスをはじめ、キング・クリムゾンやジェネシスなどでも演奏し、自己のバンドであるアースワークス(*1a)ではジャズを演奏する、幅広い音楽性を持つ優れたドラマーである。インタビューでも「自分のルーツはジャズだ」と語る通り、非常に繊細で音楽的な演奏ができる素晴らしいドラマーである。日本のジャズギタリストである渡辺香津美とも共演しており、「Spice of Life」という作品でその演奏を聴くことができる。

(*1a)
アースワークスで来日したこともある。

(*2)
実はジョン・レノンの有名な「イマジン」のレコーディングでドラムを演奏していたのがアラン・ホワイトである。ジョン・レノンお気に入りのドラム奏者でもあったのだ。

(*3)
1973年来日時メンバーの中で既にクリス・スクワイアとアラン・ホワイトは故人となっており、その意味では厳密な意味でのオリジナル・メンバーに依る演奏は不可能である。

(*4)
もしも「ドリス・デイ」ではなく、「松本伊代で」と言った場合は、それはリクエストではなくてネタでありジョークであって、根本から違う話になってくる。











「SDGs」に邁進しているのは日本だけ、という事実

2022-09-02 14:35:00 | 社会・政治
テレビ・新聞などマスコミは連日、何かにつけて「SDGs」を推進することを国民にアピールし続けている。また、有名タレントなども「私はSDGsに真剣に取り組んでいます」という姿勢を見せることでマスコミが目論むSDGsの推進に加担している。企業はSDGsに貢献している姿勢をアピールすることで企業イメージを高められると考えている。

日本人は国連(国際連合)という組織が権威あるものとして捉えており、マスコミもその認識を利用して「あの国連が提唱しているのだから」と「SGDs」に疑いを持たずに推進させようとしている。

だが、しかし・・・。

国連は権威でも何でもない。明らかに機能不全に陥っている国連はロシアのウクライナ侵攻にも何の対応も出来ず、中国のウイグル人弾圧(ジェノサイド)にも何ら有効な手立てが取れない。(*1) 「SDGs」で「誰一人取り残さない」ことを掲げている筈の国連自体がこの有様であり、「SDGs」の精神とは合致しない現実である。国連自らがSDGsの理念を推進する気がないのである。国連がどれだけ本気で「SDGs」を提唱しているかも疑わしく、更に言うならいかがわしい匂いすらしているのだ。権威もへったくれもないのである。

当ブログでは「SDGs」に関して、以前に下記の記事を掲載している。

『とっても胡散臭いSDGs』

国連が掲げる17個の目標は、わざわざ意識的に宣言するほどの内容ではなく、普通に考えれば「言わずもがなの常識」「あたりまえのことでしょ」として捉えられるものだが、それでさえも国連自らが実現する意志のない醜態を示しているのだ。

気候変動への対応で言えば、地球上で最も二酸化炭素を排出(日本比で10倍以上)している中国などはSDGsなどやる気がなく全く眼中に無い

なぜか。

中国は国連組織の内部、奥深くまで侵食しており、国連を中国の欲望を満たす為の道具(ツール)として利用しているの事は既に知る人ぞ知る事実である。SDGs…脱炭素をそのまんま実践するならば、その国は国内産業を相当程度抑制しなくてはならない。そうなると産業を潰しかねないし、経済発展の速度もかなり抑制されることになるが、もちろん中国はそんなことはしないのである。事実していない。(*2)
中国の目論見は「中国以外の国々にSDGsを実践させて産業を潰し経済的発展を抑制させておいて、その間に中国だけが成長する」というものである。平易に言えばこういうことになるのだ。こんなことはマスコミは絶対に報じない。マスコミは親中だからであり、これは後述する。

はっきり言うが、
「SDGsを生真面目に推進しているのは日本だけ」
である。

マスコミはしゃかりきに「SDGs」を国民に押し付けようとしている(*3)し、政府も企業もこれをやらないとバスに乗り遅れるとばかりに推進しているのが実情だ。企業は「わが社はSDGsの達成に大きく貢献しています」というイメージを作っておかないと投資の対象にもしてもらえないからである。

アメリカではどうだろうか。

アメリカではそもそも「SDGs」という言葉を知っている人が誰もいない…と言って過言ではない状況である。これは厳然たる事実である。

どうしてか?

上述のように、日本人は国連を国際的に権威のある組織だと思いこんでいるが、アメリカ人はそうは考えていないからである。国連を権威とは思っていない上に、そもそも関心が無いのだ。現実にアメリカではテレビや新聞などのマスメディアで「SDGs」という言葉が流れることがない。従って一般的なアメリカ人は誰も知らないのである。一方で、日本人は「国連で採択されて提唱されている」というだけでありがたいものとして平伏して受け取ってしまうのである。(笑)
おまけに日本は未だにテレビ・新聞から出てくる情報が正しいものとして信じてしまう情報弱者が多いことで、今のような状況が生まれているのであろう。

そして、日本のマスコミは親中・媚中であることも大きなファクターだ。上述の通り、中国は国連組織内部にかなり侵食しているが、中国に操られた国連で採択された目標だからこそマスコミは必死になって日本人にこれをやらせようとしているのだ。有り体に言えば、マスコミは中国に協力したいのである。

SDGsを国際社会に押し付ける一方で中国自身は一切やらない…それに依って自国だけ経済的にも工業的にも発展する、しかも少数民族弾圧し放題で・・・中国の欲望そのままの実現を目指したビジョンであり、だからこそ日本のマスコミは「国連が提唱する高邁かつ実践されるべき理念」という建前でSDGsを日本人にやらせようとしているのである。仮に出元が中国でなければマスコミはこれほど必死にSDGsを喧伝することはなかっただろう。それは間違いない。

大事なことなので再度書くが、脱炭素を含む「SDGs」をやると産業は成長せず疲弊し潰れる事になる。マスコミは日本に「SDGs」をやらせて国力を減少させたい。その一方で中国は「SDGs」などやらない。世界で最も多くの二酸化炭素を出し続けている中国。(世界の4割近くを排出している。日本はその十分の一以下)二酸化炭素を大量に出し続ける一方で日本などに脱炭素を(マスコミを利用して)やらせて産業を抑制し潰す事で競争力を削ぐ。


SDGsの実態はこのようなものである。
そもそもマスコミ(*4)が一生懸命になって国民に押し付けようとしている時点で怪しさ満点であり、裏があって、いかがわしく胡散臭いものであることは確かなのである。マスコミが親中・媚中であり、中国のために活動する左翼情報工作メディアであることを忘れてはならない。「SDGs」に邁進する事は中国の思うツボであることを認識されたい。マスコミのキャンペーンに乗せられ騙される事は人として相当恥ずかしい事なのだ。





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<2022年9月6日:追記>
数量政策学者の高橋洋一氏がSDGs運動と共産主義の関わりについて解説していたので、その内容を抄録的に記す。
国連気候変動枠組条締約国会議(COP)にあのグレタ・トゥーンベリさんが呼ばれなかったが、それは彼女が共産主義者であることがバレたからである。グレタさんは環境汚染大国である中国を一つも非難しなかったし、共産主義者であることは実は最初から判っていたことだ。

環境の話というのは、ある時点から共産主義者が参入してきた歴史があるのだ。ソ連(ソビエト連邦)が崩壊した時(1991年)に、それまで共産主義を研究していた学者たちは困ってしまった。研究対象が消えてしまったからである。どうしていいかわからないので、それで環境問題に移行した人が多かったのだ。

かつて共産主義を喧伝していた人々が急に環境問題を言うようになったのはこうした経緯がある。環境派が主張する言葉の中には共産主義でよく聞く言葉が含まれていることからもそれが分かる。環境やってる人と共産主義の親和性はあるのだ。また、彼らの主張は原理主義的な色合いが濃かったので、元々環境をやっていた人から見れば疑問が多かったのも確かである。

それで環境問題ビジネス風味を加味する必要が出てきた・・・その結果出てきたのが「SDGs」なのである。まったく、彼らがしゃかりきに活動するとろくなことはない。地球に悪い事ばかりなのである。(嘆息)





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(*1)
ウクライナに侵攻したロシア、チベットや東トルキスタン(ウイグル)などの他国から領土を奪い、今もなお台湾への侵攻を画策する中国・・・、どちらも国連の安全保障理事会の常任理事国である。そのようなリーダーたるべきポジションにありながら率先して暴力で現状変更を強行するのは論外である。そもそもそれは国際法違反なのである。こうした暴力を抑制する事もできない国連…無力であり無意味である。

(*2)
トランプ政権時代のアメリカがパリ協定からの離脱をしたのは合理的な判断である。パリ協定に従うならば、多額の無駄な出費に加えて国内産業を抑制する必要が出てくるからだ。二酸化炭素が地球温暖化の原因であるとは確定していないにも関わらず、である。

(*3)
あの手この手で日本国民にSDGsを実践させようとしているが、例えばテレビ東京では「モヤモヤさまぁ~ず2」という脱力系街歩き番組まで駆使してSDGsを国民に浸透させるべく必死である。もはやなりふり構わず押し付けようとするその姿勢は滑稽でもあるが、同時に恐怖を感じる。

(*4)
マスコミは報道機関ではない。実態から見て「左翼活動家の情報工作機関」と呼ぶのが妥当である。