Altered Notes

Something New.

我が世の春を謳歌する芸人たちの実像

2020-08-16 06:08:38 | 社会・政治
現代は芸人がブームであり、ほとんどのテレビ番組に芸人がキャスティングされる、というある意味で常軌を逸した状況が現出している。

芸人にとっては正に我が世の春を謳歌する時代であろう。芸人が引っ張りだこなおかげで実力のあるベテランから駆け出しのペーペーまでテレビ番組に出演できる機会を得ているのである。ある程度スキルのある芸人に至ってはお笑い芸人であるにも関わらず、ひとかどの知識人や文化人のような顔をして世相や社会を評論したりする者までいる。そのコメント内容が本当に知識人・文化人としての重みと奥行きがあるものならば認めるにやぶさかではない。しかし現実はそうなってはおらず、中味のない薄い人間性に対して一人前の外見という鎧を着てそれらしく見せているだけ…そこに面白くもないユーモアを調味料程度に加えて…といった風にしか見えないのが実態だ。視聴者を舐めているとしか思えないのである。(*0)


現代は芸人にとっては誠にパラダイスな時代であろう。

だがしかし…。

このパラダイスな状況にあぐらをかいて分不相応な態度をとるようになってしまった芸人も少なくないようである。単純な話で、人間はチヤホヤされることに慣れてしまうと段々態度が大きくなってくる。やがて崇め奉られて当然、という不当に尊大な態度に到達する。「不当に」というのは本人の「人としての程度」にそぐわないレベルで、ということだ。残念ながら芸人にはこうした不当に尊大な態度を是とし、それが当たり前のようになってしまった例を多く見かける。

実はそうした芸人たちは「そもそも」のレベルで社会における自分らの立ち位置が正しく認識できていない。

どういうことか?

本来、芸人やタレントというのはモラル・エコノミー(moral economy, 道徳経済論)の中で生かしてもらっている存在なのだ。

芸人という芸能人とその芸を楽しむ一般人との関係はモラルエコノミーの考え方で捉えられる。芸能人は一般人よりも上位のヒエラルキーに位置しており一種の特権を持つ存在とされる。

モラルエコノミーに於いては

「特権というものはそれを持たない人への義務に依って釣り合いが保たれるべきである」

と考える。芸能人は社会の規範となるように振る舞うべき、つまり社会的責任を追う立場である、ということだ。この場合の規範とは社会一般の常識的な規範はもとより、視聴者の心を傷つけたりしない、夢を壊さない振る舞いなども含まれる。

芸能人は社会に人気者として君臨しており、世間一般の好感度に依って支えられている。こうした人々は社会の規範に対してこれを強く遵守することでその存在をより純化するような役割がある。これがモラルエコノミーの考え方である。

これをもう少し平たく言うならば、芸能人はその人気によって存在することができるのであり、その人気に見合ったモラル遵守の義務を追う、ということだ。

一般的に芸能人の不祥事などでしばしば問題が起きて追求される事態が発生するのは、単純に倫理や道徳の問題というよりもモラルエコノミーの問題として捉えた方がより正しい、と言える。

そしてこれは例外なく全ての芸能人にあてはまる原理原則なのである。

その意味で、そもそもこの原理原則が全然理解できておらず認識すらできていない芸能人がわんさか存在している。それがこの稿で最初から挙げている「芸人」たちなのである。

彼らはチヤホヤされることに慣れてしまい自分たちがある種の「お偉いさん」と化してしまっており、必然的に一般人を「素人」と蔑んで見下すようになる。特権を持つ芸能人が一般人を「足蹴にしていい存在」として(無意識裡に)認識するようになるのだ。

興味深いことに昭和の時代の芸人たちにはまだ矜持というものが存在し、視聴者・受け手・お客さんは絶対に貶めなかったのである。貶めるなら自分や自分の仲間を貶めて笑いにする。爆笑を取りながらも謙虚な姿勢は絶対になくさない。(*1) 破茶滅茶をやりながらも最低限の矜持は確実に維持していたのである。(*2)

翻って現代の芸人は「いじり」と称して平気で(本気で)視聴者・客を見下し馬鹿にする。例えばオードリーの若林氏などはその一例(あくまで一例である)だろう。

若林氏は己が上述のモラル・エコノミーの中で生かしてもらっている存在であることを全く理解していない。それは彼のパフォーマンスが如実に示していることだ。若林氏には芸人として以前に人として未熟でなってないと思える言動・態度が時おり見受けられる。 一つの完結した芸としての笑いではなく、一般人を「素人」と呼び本気で見下し本気で馬鹿にして笑いとばす、という瞬間が彼の普段の言動・行動の中に多々見受けられるのである。(*3)それは彼にとって一般人を見下す言動自体が快感なのであり、自分(若林)が一般人よりも「上位」に存在していることの再確認に依って快感を得ているのだ。彼の笑い声は実に下品で聞くに耐えないサウンドだが、そういうところにも人格は滲み出ているのである。これは幼い子供が友達をいじめることで得る快感と同じレベルのものだ。また、「素人」は差別語であり蔑視感情をベースにした単語だ。彼が一般人を「素人」と呼ぶ時は、あたかも幼い子供が気にいらない人間に対して感情むき出しで悪口雑言を投げつけているような低次元な姿を晒している時であり、客観的に見て「人としてみっともない」姿を現している、と言えるだろう。テレビの世界でチヤホヤされた結果、彼は思い上がりの権化になってしまったのである。単純と言えば単純だが、それは正に幼い精神性故であろうし、そうした彼の人間性は彼自身の目つき顔つきにも現れているようにも思える。正に彼は芸人としては凡庸で不徳な人物なのである。繰り返すが、彼はモラル・エコノミーに於ける自分の立ち位置、という意識が全くないのであり、そこに若林氏の人としての厚みの無さが如実に表出しているのである。

こうしたことは他例で言えば土田晃之氏などにも見受けられる事だが、”思い上がり”という人間的な嫌らしさばかりが見えてしまって見ていて普通に見ていて実に不愉快なのだ。

また、陣内智則氏などはロケで偶然出会った市井の人が言った言葉が「ダサい言い方」としてはっきりと見下していた(*4)のだが、実はそれは単に陣内智則氏の無知・無学が原因で街の人の言葉を理解できていなかっただけ、という恥ずかしい結果を生んでいる。実に無様であり、これこそ「下衆の極み」ではないだろうか。(*5)

無名の一般人を見下して笑いとばす…という極めて低次元な言動行動しか取れない未熟な芸人がやっているのは一般人に対する一種の”いじめ”である。いじめの快感に酔いしれるというのは無意識内の「影(シャドウ)」に翻弄される弱き心・精神の現れである。

一般人を見下しいじめることで彼らは自分が一般国民よりも上位のポジションに立っている幻想に浸り愉悦を感じて安堵する…そこで起きているのはこのような心的動向であり、それが全てと言っても過言ではないのが実態だ。なんと小さな人間性か。これは少なくともプロフェッショナルの有り様ではないだろう。モラルエコノミーの中で生きている自分を意識するなら絶対にとれない言動であり行動なのだ。


彼らが今後自分たちの愚かさに気づいて変わっていけるかは不明だが、彼らを甘やかし堕落させるテレビ屋という存在が大きな支障になるであろうことは容易に想像できる。だが、地上波テレビの長期的な凋落傾向を見るに、今が最後のあがきを見せているだけなのかもしれない。がん細胞や病原ウィルスがその宿主に浸透することで宿主共々死んでしまうように、芸人たちもテレビと一心同体のままゆっくりフェイドアウトし消えてゆくのかもしれない。それは自業自得である。





---------------------------



(*0)
それは現代が社会・経済・政治・国際問題といった各分野において今までのような訳にはいかないシビアな本気の対応が求められる厳しい時代に突入している事が背景にある。もう口先だけの戯言や与太話をしていればいい時代ではないのである。

(*1)
この時代の芸人を代表する一人が上岡龍太郎氏であろう。
名言_上岡龍太郎_ [YouTube]
これは上岡龍太郎氏一流の「韜晦」であるが、上岡氏は自分らの存在を卑下するように見せて実は誇り高き佇まいを見せている。この「粋」を今の芸人のほとんどは持っていない。

(*2)
昭和の時代、いわゆる「やすきよ」と呼ばれる漫才師が居た。横山やすしと西川きよしのコンビである。正に”本物”の芸人であり、その存在感の大きさは誰もが認めるものだった。横山やすしは真に破天荒な芸人であり不祥事は毎度のことであったが、彼らはそうしたマイナス要因の全てを笑い(爆笑)にもってゆく凄まじいエネルギーとセンス(才能)があった。観客もそれを充分理解しているので心の底から楽しめたのである。また、観客などの一般人へは常にリスペクトの姿勢を持っていた。もちろんパフォーマンスとしての客に対するおふざけはあったが、それは芸人と観客の間に共通の信頼感・価値観が共有された状態が前提になっており誰も不愉快になどならなかった。今どきの未熟な芸人達のように本気で観客を見下し馬鹿にするような軽率な事は一切無かったのだ。本物の芸人の芯というか根っこの部分は本当に謙虚であり観客への感謝と尊敬は絶対に忘れなかったのである。

(*3)
筆者が偶然見聞きしたものだけでもいくつも実例がある。例えば番組内で一般人である指圧師に対して若林氏が持っていたファイルで頭を思い切り殴る、ということがあった。また、これも番組内で宮崎県知事と会話した際に若林氏は敬語を使わずタメ口で話していた。見ていて(聴いていて)非常に不愉快なシーンだった。彼は常識的な礼儀すら持ち得ていない未熟な人物なのだ。また、ラジオ番組の中では一般人を本気で「素人」と呼ぶ事を認めている。彼が一般人に対する蔑視感情を確実に持っている事を自ら明かしているのだ。

(*4)
NTV「ヒルナンデス」のロケに於いて、街中でロケをしていた陣内智則氏一行が道を尋ねるべく偶然通りかかった年配の男性に話しかけて、返ってきた返答の中に「丁字路(ていじろ)」という単語があった。もちろん丁字路は既存の言葉であり、道路が漢字の「丁(てい)」のような形で枝分かれしている交差点を指すための法律用語である。ところが教養の無い陣内智則氏はこの「丁字路」という単語を知らなかった。彼は男性が英語の「T」を訛って発音したように捉えた。(「T字路(てぃーじろ)」と言おうとして訛って「丁字路」になった、と陣内氏は誤解したのである。)陣内智則氏は一般人を見下して笑ったつもりだったが、実際は「丁字路」という言葉を知らなかった陣内智則氏の無教養さが暴露されただけ、という恥ずかしい結果になったのであった。

(*5)
さまぁ~ずの二人なども同様だろう。長期に渡って続いているロケ番組があるが、この中で偶然出会った一般人を彼らは見下して笑いものにする。芸人と一般人では価値観も慣習もあらゆる観点から異なるだろうが、彼らは自分達の観点や価値観を標準として、そこからずれたもの(人)を全て笑いものにして公に晒すのである。それは純然たる笑いではなく相手を貶める態度として解釈できるものだ。笑いものにされた市井の人は表情を変えなかったり苦笑していることもあるが、内心は不愉快な思いをしているケースも多々あると思われる。視聴していて憤りしか湧いてこない。彼らは基本的に上から目線で一般人を見下しており、そこをベースに物事を判断している。それは彼らの言動や行動からも明らかである。思い上がった醜悪な芸人の姿がここにもある。余談だが、筆者は彼らの出身高校の先輩として恥ずかしく思う。






どっちを向いても芸人ばかりのTV番組

2020-08-15 08:43:23 | 放送
異常事態と言える。どのTV番組を見ても出てくるのは芸人である。民放だけでなくNHKまで芸人で埋め尽くされている。もう、うんざりだ。

NHKに至ってはEテレの番組も芸人だらけである。Eテレとは昔で言う教育テレビだ。そもそも人間として規範になり得ない連中(*1)が教育テレビでレクチャーする側に居る事の不自然さったらないのである。そもそも今どきの芸人は全く面白くない。下品な連中も多く退屈の極みである。そんな芸人達が蔓延しているテレビから視聴者が離れていくのは当然と言えよう。

また、芸人の中でもいわゆる売れっ子はどのチャンネルのどの番組にも出てくるので訳がわからなくなるほどだ。どの番組でも同じ芸人がMCをやっていることもある。CMになったらまた同じ芸人が出ていたりする。うんざりだ。そもそも芸人など見たくもない視聴者にとっては食傷気味を通り越して胃もたれを起こすような惨状である。視聴率が落ちるのも当然だ。

TV業界がここまで芸人依存になってしまったのは、端的に言えば「楽だから」であろう。芸人は番組のアウトラインを与えれば、後は自分で笑いを作ってくれる。ディレクターは収録後に面白そうなシーンをつまんで編集すれば一丁上がりである。制作者側が番組作りの苦労を味合わずして番組が作りたい…と願うならついつい手を出してしまう麻薬のようなもの…であろうか。しかも芸人ブームであるが故に「芸人出しときゃ(数字は)なんとかなる」くらいに考えているのだ、連中は。また、テレビ屋は楽することしか考えてないので「芸人依存以外の方法」を考え出すこと…パラダイムシフトができないのである。「違うもの」を作る苦労が嫌だから「流行り物」「芸人依存」に逃げ込んでいるのである。日本では何かが流行るとみんな右へ倣えで同じようなものばかり並ぶのが恒例である。(*2) こちらは「違うもの」を欲しているのに、である。同じような番組同じような出演者ばかりで変化がないからやがて全部揃って沈滞してゆくのである。阿呆の典型であるし、視聴者を馬鹿にしている姿勢が如実に判る。

もちろん番組というのは言うほど簡単に作れるものではないが、ここで訴求している内容は大きな傾向としては間違いない。また、新しい芸人たちを「第7世代」などと囃し立てているが、これはデビューして間もない芸人達を売るための仕立てにほかならない。デビュー間もない芸人を使えばギャラ、つまり制作費も抑えられるメリットがある。WEBに侵食されて予算も大きく削られているTV屋にとっては最も安直に制作できるのが芸人起用、という形態である。

だが、それが逆にTV屋の首を絞めているとも言えるのであり、良いものを作る「志」を失った地上波TVの連中がさらなる窮地に追い込まれる過程を今我々は見ているのかもしれない。特に経験も少ない芸人のパフォーマンスは超絶つまらないのであり退屈である。

なにしろあらゆる番組に芸人がキャスティングされている現状は日本のTV史上、あまりにも異常な事態であり、こんなのは世界でも日本だけだろう。外国から見たら相当奇異に映る筈である。だが、渦中にある日本のテレビ界は当事者であるが故にその異常性に気が付かないのである。有り体に言って馬鹿だ。芸人が大嫌いな筆者にとっては視聴に値する番組は皆無である。

地上波TVメディアはある意味で腐敗の極みに到達している。制作面では上述のように芸人に依存して少しでも楽しようと手を抜き、コンテンツ内容においては「何かの宣伝」ばかりになっているのが実情だ。TV番組を視聴していて普通の番組かと思っていたら実は「映画の宣伝」「新番組の宣伝」「新商品の宣伝」等だった、という経験は多くの視聴者が味わう幻滅の一つである。これでは視聴者は離れる一方だが、それが自覚できない愚かなテレビ屋たちなのだ。

だから多くのまともな視聴者はとっくの昔に地上波を捨ててネット番組やCS放送・ケーブルテレビに移行しているのだ。そこでは少なくとも視聴者の関心を引く番組があるからだ。それはすなわちTV放送、少なくとも地上波放送にはもう既に「何も無い」事をみんな知っているからである。


地上波TVはもう終わりだろう。
電波という権力にあぐらをかいた無神経で無責任かつ醜悪な姿勢は多くの視聴者を遠ざけてしまった。言い換えれば「嫌われる努力」に勤しんだ、ということだ。一度潰して解体した方が(本当に)良いのだろうと思えるのだ。もう既に地上波テレビ局が潰れる兆候は出てきている。一日も早く潰れることを願っている。有害無益なテレビ屋に未来はない。




----------------------------




(*1)
そもそも芸人は人間のクズである。そう定義したのは私ではない。上岡龍太郎氏だ。上岡氏の発言「クズな奴の中で腕の立つ奴はヤクザになり口が立つ奴が芸人になる」とは上岡龍太郎氏一流の韜晦ではあるが、一面の真実を突いてもいる。芸人たちが引き起こす不祥事は毎年のように後をたたない。それも暴力・恫喝・反社勢力との繋がり・闇営業・未成年淫行・不倫トイレ性交など、次元の低い”しょーもない”事件ばかりで正に人間のクズであることを実感させるものばかりだ。そんな連中が事もあろうに教育テレビで偉そうにパフォーマンスしている様は「世も末」な終末感と絶望感を味あわせてくれる、というものだ。
しかも、昨今は芸人を一角の人物として崇め奉る無知で無頓着な若年層が増えてきている。これはこの先の日本のあり方にも影響を与える現象の先がけになるかもしれない。


(*2)
流行ものについては、テレビは一番最後に乗ってくるのが通例である。テレビ屋の感性は致命的に貧弱だからだ。以前は「テレビで扱われるようになったら終わり」と言われたものだ。
逆に、テレビ屋が意図的に流行を仕掛ける場合も多々あるが、この場合は流行を報じるのではなく、流行を作ることで商売を目論む意図がある場合がほとんどだ。事ほど左様にテレビ屋は下衆なのである。






マスコミが報道しない「尖閣諸島防衛」

2020-08-14 14:41:00 | 国際
最近の尖閣諸島防衛に関して評論家の江崎道朗氏による解説があったので抄録の形で紹介する。

8月9日に中国海警局の船4隻が尖閣諸島の領海内に侵入して1時間半ほど領海侵犯を続けたが、その後接続水域に出た。領海侵入は7月14日以来であった。

少し前まで100日以上に渡って日本の領海に侵入してきた中国艦船だが、最近になってその動きが一時止まった。領海侵入中止になった原因として2つの大きな要因が考えられる。


[1]米国海兵隊の特殊部隊の沖縄配備協議

バーガー米海兵隊総司令官が中国の海上民兵専用の特殊部隊とミサイル部隊専用となる最新鋭の海兵部隊を編成しているのだが、この特殊部隊を沖縄に配備する協議を日本政府と始めた、という情報を7月25日に明言している。


[2]日米共同で尖閣防衛にあたる

7月29日にケビン・シュナイダー在日米軍司令官が記者会見を行った。そこで司令官は「私達は尖閣で米軍自衛隊の軍事行動を続けている」「今後も日本との相互協力及び安全保障条約に従ってこれを行う」と言明した。

尖閣諸島防衛について「日米でやってます」と言ったのだ。

実は日米安保条約が発効して以来、こういうことを明言したのは初めてのことである。これまでは大統領が「いざというときには尖閣を守ります」と言っていた程度だったが、実際に「米軍と自衛隊で防衛行動をやってます」はっきり明言したのは初めてのことである。

これはつまり、アメリカ政府は尖閣防衛に関しては扱いの「フェーズを上げた」ということにほかならない。


トランプ政権サイドは、これまでは「領土問題についてはアメリカは中立を保つ」として領土問題についてはあまり言わない立場だった。しかし、トランプ政権は今年5月に方針を変更し、「同盟国の領土問題については自由主義陣営の立場を守る」とした。

このようにアメリカ側がフェーズを上げて対応するようになった為に中国側もいったん引かざるをえなくなったのである。

そうなると「アメリカさんに守ってもらってるのか」と言われそうだが、そうではなくて日本の安倍政権側がトランプ政権に以前から継続的にこういう話をしているのである。日本側も米軍と一緒になって海上自衛隊がずっと裏で尖閣周辺を動いているのだ。航空自衛隊も動いている。海でも空でも凄い勢いで動いているのだ。おかげで自衛隊隊員は緊張状態が続いて大変なようである。

それくらい一生懸命やっている中でいったん中国は引いた、ということだ。

こうした動きを日本のマスメディアは全然報道しないのだが、現在、表に出てないだけで「日米vs中国」で相当な神経戦が行われているのである。






明石家さんまの限界

2020-08-14 05:48:48 | 人物
現在の芸人ブームもあって何処へ行っても芸人はもてはやされる。そうしたぬるま湯のような状況下で芸人たちは総じて浮かれてしまっており、その思い上がった醜い姿はあちこちのテレビ番組で見ることができる。テレビ局もまたありとあらゆる番組に芸人を起用することがもはやデフォルトの状態になっている。教育番組にまで芸人…というのはもはやTV局の思考停止を如実に表しているのではないか、と思えるほど異常である。

その中で今や巨匠と言える明石家さんまもまた浮かれて思い上がってしまった人間の醜悪な姿を晒している。しかも本人はそれに1ミリも気づいていないのがなんとも痛々しいところである。


それは例えば下記の記事でも的確に指摘されている。↓
明石家さんまがYouTuberを「素人さん」と呼ぶことの違和感


さんまについて記す前に、ラリー遠田氏の文章に一つだけ異を唱えておきたい。氏の記事中、冒頭に次のような文章がある。

「芸人や俳優などの芸能人が一般人のことを自分たちと区別して「素人」と呼ぶのは普通のことだ。そこに差別的な意識は含まれていないことが多い。」

これは違うだろう。「区別」ではなく「差別」しているのは明らかである。そもそも「素人」というのは差別語なのである。上から目線で相手を下に見る時にこの言葉は登場する。そこには差別感情と自己の優位を前提とした愉悦感が基本にあるからだ。

何故か。

収入や身分の保証もなく安定もしない芸人という立場から一般人(一般の安定した企業に務める人々等々)を眺めた時、その思いは毀誉褒貶入り乱れて複雑である。そうしたベースになる感情があっての愉悦感なのであって、一般人を見下す蔑視感情は全ての「前提」になるものなのである。

そもそも、芸人たちが市井の人々に向かって「素人」と呼ぶのは根本的におかしい。

例えば「プロの芸人を目指しているアマチュア」を指して「素人」と呼ぶのはまだ理にかなっていると言えるが、そうではなく、芸人たちは普通の市井の人々を指して「素人」と呼んでいるのだ。これは完全に差別感情無しには説明できない事例であろう。芸人たちが存在しているポジションである「芸能界」「放送界」をヒエラルキーの「上位」とする前提で彼らは一般人を「素人」と言っているのだ。

そしてこれは芸人だけではなくテレビ局の人間にも言える現象でもある。テレビ局の人間は総じて一般の市井の人に対して横柄で上から目線である場合が多い。報道取材などで一般人が粗末に扱われたりするのはそれが理由である。国家から借用しているTV電波は一種の「権力」である。その権力の中に居るだけで自分が一般人よりも偉い(上位に居る)かのように勘違いしている痛い連中…それがテレビ屋なのである。

こうした芸人にしろテレビ屋にしろ、一般人を見下す事で自分達が圧倒的上位に存在している事の確認をして、そこに愉悦を感じているのは間違いないところだ。それを思わせるエピソードは無数にある。トロフィーワイフを過剰に顕彰したがるのも彼らの特徴であり、そこに極めて低次元な(幼い)精神性が見て取れるのである。

だから芸人達が一般人を「素人」と呼ぶのが「普通」であるほど彼らの意識は舞い上がり思い上がっている、ということであり、「差別的な意識が含まれてない筈はない」のである。むしろ一般人への差別意識が前提条件になっていると言えよう。それでも「差別はない」と捉えるのなら、ラリー遠田氏もまた芸人寄りのバイアスが強烈にかかっている、ということだろう。


さて、明石家さんまである。
前述の思い上がった芸人根性の一種の典型例が明石家さんまと言っても過言ではない。

明石家さんまは一般人のYouTuberを見下しマウンティングしているのだが、まずはさんまほどのポジションにある人間がわざわざ一般人に対して明示的に見下す事がみっともない、と言えよう。芸人の中でもトップに君臨している自覚があるのなら、己が大物であるという自覚があるのなら、下位に居る筈の一般人に対して鷹揚な態度を取れるはずである、本来は。それを「おまえら一般人は下やんか」とわざわざ申し伝えて確認を取りに行くというのは笑止千万だ。どんだけ器が小さいのか、と。ここで明石家さんまは多くの良識ある人々から「嘲笑されるようなこと」をしているのだ。つまり「笑いを取った」のではなく「笑われた」のである。しかし本人は全く気づいていない。みっともないし阿呆である。(蔑笑)

まずはっきり言えることは、明石家さんまはYouTuberが作るコンテンツが全て「芸人たちがやっていることのマネ」であるという前提に立ってものを言っているのであり、そもそもそこから誤解している。芸人風(タレント風)おもしろコンテンツなどというのは数多あるコンテンツのごく一部に過ぎないしYouTuberの全てがそうなのではない、という事実をさんまは知らない。ここが認識できていない時点で明石家さんまに本件を議論する資格はない、と断言できる。

以下は、百歩綴って「明石家さんまが考える前提」の上で考えられる諸点を記す。

さらに、さんまが言う「プロが作るYouTubeコンテンツの方が上」だから「プロが参入したら素人さんが可哀想」という論理には全く説得力がない。

では、さんまは何を根拠にこうした論理を口にしたのか?

「プロの知名度」や「パフォーマンスのスキル」「TV番組の作法を心得ている」といったようなところだろうが、これは全く的外れである。

まず、「プロは知名度がある」は全然意味がない。視聴者は馬鹿ではない。知名度があるから「見てみよう」と思うのはせいぜい初回だけだ。それでつまらなければ二度と戻っては来ない。視聴者がコンテンツを選択する基準はそれが「自分の関心事かどうか」「面白いかどうか」だけだ。

その『面白いかどうか」も、テレビを主戦場とするタレントの価値基準がベースにはならない事を明石家さんまは知らない。つまり、一般人は既にテレビ屋の番組作りの作法に飽き飽きしている事をさんまは知らない。未だにテレビ屋の作法が最上位にあってこれが一番面白いと思い込んでいる。盲信している、と言っても良いかもしれない。特に地上波番組の酷さは目を覆わんばかりの惨状だ。それが証拠に地上波の視聴率は年々下がり続けており、スポンサーも地上波から逃げてゆく動きが加速している。明石家さんまが地上波番組の作法がもっとも優れていると考えるなら、現在の地上波衰退をどのように説明するのか?説明はできまい。しかもテレビ各局とも芸人を多く起用しているこの現状での衰退だ。(蔑笑)

実際に知名度のあるプロのタレントが作成したYouTubeコンテンツで再生回数が全然伸びないものは沢山ある。知名度やTV局の番組作法など関係ないことはすぐに判ることだ。そもそも「そういうことじゃない!」ことを明石家さんまは知らないのである。

テレビ界でちやほやされてすっかり王様気分のさんまだが、実態は紛れもなく裸の王様である。(蔑笑)

テレビ番組はその創成期以来、数多の試行錯誤の中から番組作りの作法を確立して磨かれてもきたのだが、前述の通り、現代に於いては完全に行き詰まっている感が強いのが実態だ。そもそも番組制作者に「良いもの」を創ろうという「志」が皆無で多くのしがらみに巻き込まれながら小手先の技術だけで作り上げているようなものだ。そこには形だけ整っているが魂が入ってない番組がほとんどである。しかもそれは視聴者ではなくスポンサーの方を見ながら制作したものである。もちろん広告収入がメインなのでそれは当然なのだが、実態は「視聴者を見下し馬鹿にする姿勢」をベースにしていることがミエミエだからそっぽを向かれているのに、それに気づかないから駄目なのだ。

そして明石家さんまもまたこの腐敗したテレビ屋の世界でのみ生きてきた芸人であり、視聴者を当たり前のように見下している。元々は落語家を目指したのに才能が足りず夢を叶えることができなかった。偶然実演した素人芸が受けたことでテレビ屋に重宝されてここまで生き延びてきた、というのが実情だ。つまり、「プロ芸」を身につけることができなかった劣等生が「素人芸」でテレビ屋の世界に居付いた、ということだ。テレビ屋もまた腐敗した連中であり、相性は抜群に合っていたのだろう。(蔑笑)・・・そういうことだ。さんまは確かに巨匠と呼ばれるほどその地位をテレビ界で確率しているが、所詮は素人芸の人間なのである。

重要なポイントを記す。
コンテンツ作りにおいては、明石家さんまはテレビ屋の作法しか知らず、従ってコンテンツ作りのセオリーも一つ(TV屋のそれ)しか知らないのだ。何なら、さんまは「YouTuberはさんまが携わる番組と同じものだけを作ろうとしている」と思い込んでいるのではないか。とんでもない勘違いであり、恥ずかしいレベルである。映像コンテンツ全体の世界の広さに比べればテレビの世界など実はちっぽけなものでしかない。映像コンテンツの世界は数多のカテゴリーがあり、またカテゴライズできないものを含めれば実に広大無辺な世界である。繰り返すが、テレビの世界はその内のごく一部でしかない。しかし明石家さんまはそうした「テレビ以外の世界」を知らないのであり、だから上述の暴言を吐けるのであろう。もっともさんまはテレビ以外の外の世界を知ろうともしないのだが。

なぜか。

教養が無いからである。

ビートたけしも指摘しているが、さんまにハイブロウな話は無理である。不可能だ。「ホンマでっか!?TV」もせっかく専門家が重要な示唆を含んだ話をしてもさんまは同じレベルでは理解できず従って言葉を返せない。結局は日常的な話に矮小化して自分の世界に引き込んで笑いを作ることでしか対応できない。あの番組を見ていていつも不満に思うのはそこである。あれでは専門家を呼んでいる意味も無い。(*1a)(*1b)

明石家さんまの話は常に人間の日常生活から一歩も外へ出られない。男と女が好いた惚れたとか、あそこの飯屋がうまいまずい、どこそこの女優がどうした、あいつが下で俺が上、等々の極めて表面的で薄っぺらく低次元な話に矮小化されるのが常である。

さんまは映像コンテンツを評価する基準や価値観が数多存在することも知らないだろうし、そもそもパラダイムが異なる世界を認識するのは無理というものだろう。教養の無さは明石家さんまという人間の幅を極端に狭くしているようである。

話を戻すが、さんまほどの巨匠が一般人に対してわざわざマウンティングを仕掛けるのは間違いなくみっともないことであるし、そのような謙虚さが微塵も無い態度が取れてしまうということは、明石家さんまはそもそも自分がモラルエコノミーの中で生かされている、という客観的な事実すら認識できていないことを現しているのである。

なぜか。

教養が無いからであり、エゴが異常に肥大化して自分自身を客観視できなくなっているからである。反面教師といえばまだ聴こえは良いが、人間、こうはなりたくない負の姿がここにある。

明石家さんまがどんなに頭の回転が速く当意即妙の受け答えができたとしても、それを見ているこちらはさんまの姿に「不愉快」「苛立ち」「生理的嫌悪感」しか持てない。(*2) 偏見ではない。さんま自身がその方向に導いているのであり、自然にそうなってしまうのだから仕方がない。(*3)

そうした素朴な事実の裏に潜む問題を今回は解説させていただいた、ということである。





-----------------------------




(*1a)
「ブラタモリ」とは大違いである。

(*1b)
だから結局さんまは専門家ではなくゲストで呼んだタレント相手に低次元な与太話で笑いを作ることしかできない。

(*2)
さんまの一般人に対する過剰とも言える見下した感情は、テレビ屋の視聴者に対するそれと同一である。彼らに共通しているのは「視聴者・一般人を(当然のように)見下していること」だ。

(*3)
TV界の巨匠がわざわざ一般人に対してマウンティングするのだとしたら、逆に明石家さんまは、実は「余裕がなくなってきている」のかもしれない。加齢によるものかどうか判らないが、そういう可能性もある。





中国:対米外交の転換 と 香港:周庭さん逮捕/釈放の真の意味

2020-08-13 19:06:00 | 国際
最近、中国が「対米講話路線」に転じたようである。その裏には北戴河会議があり、そこで習近平が吊るし上げられる苦しい立場に追い込まれている、という実態があるようだ。

この件について作家で中国ウォッチャーでもある石平氏による秀逸な解説があるので、それを抄録の形で紹介したい。

2020年8月5日と7日の二度にわたり、中国の外交の責任者の二人が米中関係に関わる重要な発言を行った。それはアメリカに対して関係改善を求める内容であった。

その一人が王毅外交部長(外務大臣に相当)である。8月5日に中国の新華社の単独インタビューで語っている。その内容は「中米は分離ではなく協力によって両国関係の発展を推進すべき」というものだ。

米中関係についての王毅発言のポイントは下記の4つである。
-----
・「底線(容認できる限度)」を明確化して対抗を回避
・意思疎通のルートをか開いて対話を行う
・分離(切り離し)を拒絶し、協力関係を保つ
・ゼロサム的考えを捨て、責任を共に担う
-----

中国のアメリカに対する一種の熱烈なラブコールといった内容である。

上記の3番目に記された「分離を拒絶」というのは、恐らくトランプ米大統領の6月18日の発言「中国との完全なデカップリング(切り離し)の選択肢は維持する」に対するレスポンスであろうことは容易に想像できる。デカップリングとは今後一切中国との関わりをなくすということだ。

しかし、この王毅氏の「分離を拒絶する」というのはおかしな話である。相手(アメリカ)が中国に対して拒絶して離れていこうとしているのに、それに対して「分離を拒絶」というのは意味が通らない。王毅氏が「拒絶」という言葉を使うのは、自分のメンツを保ちながらも本音では「アメリカが去っていくことが嫌だ」「本当は付き合いたい」「相手にしてもらえないと困るんですけど」と子供がごねているようなもので、そういうメッセージをアメリカに送っている、ということである。


二人目の発言を紹介する。

中国の外交担当のトップであり共産党政治局員でもある楊潔篪(ヨウ・ケツチ)氏の発言である。
楊氏は8月7日に新華社通信に米中関係についての記事を寄稿している。その内容は王毅発言と軌を一にするもので、米中関係を維持して安定化させるべき、というものである。

楊潔チ氏が寄稿した記事内容のポイントは次の通りである。
-----
・米中関係の維持と安定が最重要だ
・アメリカ側は米中関係を一方的に壊してきた
・アメリカ側は過ちを改め、中国と共に意見の食い違いや対立を管理し、協力を拡大しWIN-WIN関係を構築すべきである
-----

王毅発言と楊潔篪寄稿の共通点は下記の通りである。

・相手の意向とは関係なく「米中関係の重要性」を一方的に表明し、関係の維持と拡大を求める
・自らの非を一切認めず、関係悪化の責任を全て相手に押し付ける
・中国が「しつこくて支離滅裂」「付き合いたくない」「嫌な奴」の典型になっている


現在のアメリカは中国に対して経済・政治・軍事のあらゆる面で制裁措置を発動しており、封じ込めを進めている。それに対して中国は「やめてください。米中関係は大事です」と、良い関係を作ろうと一方的に求めている。自分を振った相手に対して「もっと付き合いましょう」と求めているのだ。しかも振られた原因を相手側に押し付けているのもお笑いである。相手との付き合いをなくしたくないなら、今までの自分(中国)の悪いところ、至らないところを素直に認めて反省するのが本来の筋であろう。しかし誇り高い(笑)中国は「自分に非があった」とは口が裂けても言えないのである。謝るのはアメリカ側だ、と言うのだ。どう見ても理不尽な話だが、中国にはこれが理不尽であることが理解できないのである。(蔑笑)

実際、中国側の態度は「ストーカー気質で言ってることが支離滅裂で平気で責任転嫁してくる嫌な奴」の典型、と言えるだろう。


8月5日と7日に相次いで上述のような対米講話路線を突然打ち出してきた中国だが、それまでの中国はアメリカを敵視して徹底的に対抗してやる、という姿勢であった。反米プロパガンダ映画まで作って国民の反米感情を煽りに煽ってきたのである。

8月に入って中国の中で何が変化したのであろうか?
ポイントはここにある。

そのポイントとは、現在開催中の中国の「北戴河会議」であろう、と石平氏は推察する。


そもそも「北戴河会議」とは何であろうか?
それについて産経新聞がまとめた記事から内容を紹介する。

-----
[中国共産党の北戴河会議]

場所:河北省秦皇島氏北戴河(北京から約270キロの避暑地)

時期:通常は8月上旬頃に2週間程度

参加者:共産党中央幹部や長老、有識者ら

方式:各人の別荘などで非公式な会合や食事会を繰り返し、重要政策や人事についてコンセンサスを醸成

起源:水泳好きの毛沢東が渤海に面した北戴河を避暑地として、党幹部らも集まるようになった
-----

北戴河は中国共産党高級幹部専用の別荘群がある避暑地である。現役幹部と引退した長老たちが直接会ってアドバイスしたり話し合ったりする唯一の機会でもある。

これはそのまま長老たちが現役の幹部たちに現在の政治に対する不平不満をぶつける場でもあるのだ。

産経新聞の8月5日の記事では、会議が既に始まった、と伝えている。実際に北戴河会議が始まっているのは間違いないだろう。7月31日までは中国の人民日報や新華社通信の記事は毎日のように習近平主席や李克強首相たちの動静を伝えていたのだが、8月に入った途端にどの動静を伝える記事がピタッと止まったのである。党幹部たち全員が姿を消したかのような状態になった。それはすなわち全員が北戴河の別荘地に入った、ということなのである。

現役幹部たちとは別に参加する長老たちはどのような顔ぶれなのか。その顔ぶれを石平氏が予想している。

-----
「北戴河会議」に参加しうる長老のリスト

・江沢民(94歳)共産党元総書記、元国家主席
・胡錦濤(78歳)共産党元総書記、元国家主席
・温家宝(78歳)共産党元政治局常務委員、元首相
・朱鎔基(92歳)共産党元政治局常務委員、元首相
・曽慶紅(81歳)共産党元政治局常務委員、元国家副主席
-----

江沢民氏は高齢故に健康上の問題で北戴河会議に出席していない可能性もある。曽慶紅氏は江沢民氏の側近中の側近であって、江沢民の名代のような立場であり、懐刀のような存在である。


問題は今年のこの会議だが、例年と異なる状況がある。それは今年に入ってからの習近平主席の失政・失敗があまりにも多すぎることだ。それに対して長老たちが集中的に批判し責めるであろうことは想像に難くないところである。

長老たちは具体的にどのような事を責めるのか?


-----
長老たちが習近平主席の失政を責めるポイント

・一帯一路の失敗、香港「一国二制度」の破壊、「台湾統一」はますます不可能となっていること
・米中関係の徹底的な悪化、国際社会から孤立化
・「集団的指導体制」と「最高指導者任期制」の破壊
-----

香港問題については、香港をイギリスから返還させるにあたって種々の役割を果たした江沢民や曽慶紅たちから見れば、習近平がやらかした「一国二制度」の破壊は間違いなく不満であろう。これによって中共の念願である「台湾統一」も実現が遠のいたからである。米中関係の破壊もそうだし、内政については「集団的指導体制」と「最高指導者任期制」を破壊したことが気に食わないのは明らかであろう。江沢民や胡錦濤は任期制のルールに従って退いているのだ。にも関わらず、習近平は任期制を壊して終身権力者として君臨しようとしている。これは長老たちには大きな不満として映るであろう。


しかし、実は長老たちが習近平主席を批判し責め立てる最大のポイントがある。

それは「米中関係の悪化」である。
米中関係を悪化させただけではなく、それに伴う米国の制裁措置のエスカレートを招いてしまったことが長老たちには我慢ならない不満なのである。長老たち自身とその家族の「核心的利益」が脅かされるからである。

アメリカは中国高官たちや彼らの親族の財産の凍結または没収も行うとアナウンスしている。こうなると最も困るのは長老たちなのである。長老だけでなく彼らの親族はアメリカをはじめ世界各国に莫大な財産を持っている。長老たちの子孫の未来を託しているのはアメリカである。習近平がアメリカとの関係を破壊したことでアメリカが中国に制裁を加えることになると、中国がよく使う言葉で「核心的利益」というのがあるが、これが脅かされる事になって困る、ということになる。だから習近平を批判するのだ。

長老たちは一致団結して「これ以上の関係悪化は許せない。いい加減に米中関係を改善せよ」と求めるのである。さもないと長老たちは「習近平を許さないぞ」ということだ。


現在開催中の北戴河会議では実はこうした事が展開されているものと推測されるのである。だからこそ、北戴河会議が開始された直後の8月5日と7日に外交責任者二人の発言が出たのであろう。外交責任者と言っても実態は習近平の部下である。つまり、北戴河会議で吊し上げを食らった習近平の指示で二人がそのようなメッセージを発信した、と考えられるのである。

更に言うなら、そのメッセージはアメリカに対するものと言うよりも、怒り心頭の長老たちを”なだめる”目的の方が大きいのだろうと思われる。(苦笑)

図式を簡略化して説明するなら、「北戴河会議で長老たちに米中関係を破壊した事の責任を問われて吊し上げを食った習近平が怒りの長老たちをなだめて圧力を回避する為に部下である二人に関係改善という路線転換のメッセージを発信させた」ということになるだろう。


ここで最大の問題点を指摘する。

習近平は果たして本気で対米関係を改善する意志があるのだろうか?・・・ということだ。現段階ではそこまでは判らないのが実情だ。前述のように、習近平は長老たちからの圧力をかわす為だけに一種のポーズをとった、という可能性もあるのだ。

もう一つの可能性は、長老たちの大きな政治的圧力に屈することで習近平は本当に対米講話路線に転じる決心をした、というものである。


では、どこでそれを見分けたらいいのか?


8月9日にアメリカのアザー厚生長官が台湾を訪問した。そして蔡英文総統との会談を行い、トランプ大統領からのメッセージを伝えた。これは中国から見れば「底線」つまり「容認できる限度」を超えるものである。このアメリカの厚生長官訪台を中国はどのように受け止めたのか?そこが中国の姿勢を見極める試金石になるのである。

このようなケースでは中国は事前に強い態度を示して恫喝するのが通例である。案の定、8月6日に中国外務省報道官はこのアザー長官の台湾訪問に対して「中国側は有力な対抗措置を断固として取る」と発言している。報復するぞ、と言ってるのである。

8月6日から中国のメディアでは上述の報道官の言葉をタイトルに使って記事を掲載している。人民日報系の環球時報では「(厚生長官の訪台に対して)中国は場合によっては武力行使する可能性がある」と明言している。アメリカに対する軍事的恫喝である。

アメリカはそんな恫喝を無視して長官の訪台を実行した。そして長官が蔡英文総統と会談する時に中国軍機が中台中間線を超えて飛行し台湾側の領域に侵入したのである。それに対して台湾軍機がスクランブルかけて飛んでいくと、中国軍機はすぐに引き返して中国側領空に戻ったということである。これでは恫喝にもならない。

次に、8月10日にアザー長官と蔡英文総統の会談が行われたが、それについて中国外務省の報道官は「アメリカは今までの台湾に関する約束に違反した」と述べ、さらに「中国はアメリカと台湾の政府間往来に反対する」と述べている。

まだ続きがある。さらに「中国はこの件でアメリカと厳正なる交渉を行った」と発言しているのだ。これは実は中国流の言い方である。つまり中国にとってこの件は「既に終わった」と言っているのだ。この件はもう幕引きしたいのだ、中国は。


これら一連の対応を見るに、石平氏が考える結論は下記の通りである。


-----
アザー長官訪台で見た中国対米が意向の腰砕け

・訪台前の8月6日、中国外務省報道官「断固として有力な報復措置をとる」
・蔡英文総統と会談後の8月10日午後に中国外務省報道官「断固として反対、既に厳正なる交渉を行った」
・「報復措置」への言及は無し ←(これが大きい)
・一方的に「幕引き」を宣言
・事実上の対米降参。腰砕け外交となった
-----

中国がやっていたのはヤクザ・チンピラの喧嘩のやり方である。上述のように中国の対米外交は「降参」であり、腰砕け状態になっているのである。


上で「見分ける」と書いたが、中国の姿勢の変化を見きわめた結果、やはり対米講話路線への政策転換は事実であった、ということになる。


注目の北戴河会議は現在、既に終了したそうである。中国メディアの記事で中国のNo.3の高官が北京に戻って政治活動をしている記事が出たので、これはすなわち北戴河会議が終わった、ということになる。


結論は下記の通りである。

習近平は北戴河会議で長老たちに吊るし上げられた結果、対米強硬外交からの一時的な路線転換を余儀なくされた…ということである。


そして、中国はアメリカへの報復として民間人を含むアメリカ人への制裁措置を発表したのだが、アメリカ人への制裁と言ってもトランプ政権の高官は対象外で、政権に関係ない政治家や民間人が対象であり、実質的に無意味な内容となっている。

そして、先日の大きなニュースである香港に於ける周庭さんと黎智英さんの逮捕である。なぜか逮捕した翌日には保釈されたというよくわからない対応に日本でも疑問として注目されている。

このアメリカ人への制裁と周庭さん逮捕という2つの事案には何の意味があったのだろうか。

中国政府が何より気にしているのは国民の目である。国民からの支持がなければ政権は崩壊する。上で説明した通り、対米外交は腰砕けに終わり、アザー長官の訪台もある。中国としては国民の目をなんとか他に逸らしたいところだ。そこで前述の2つの案件を実行したのである。特に周庭さん逮捕のニュースは世界中で話題になり、見事中国政府は国民の目を逸らすことに成功したのである。目的がそこにあったのだからすぐに保釈しても全然構わなかったのである。国民の目を逸らして中国のメンツを保つ為の「茶番」であった・・・そういうことなのである。