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左翼の道具としての”芸術” 不気味な巨大顔に思う

2021-07-18 17:30:30 | 社会・政治
東京都渋谷区。原宿の西隣にある代々木公園の上に巨大な男性の顔が出現して一般の人々に恐怖感を与えている。主催しているのは東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京であり、企画は現代アートチーム「目」ということだ。

『都民騒然...「巨大な顔」代々木公園に出現 「進撃の巨人?」「首吊り気球を思い出しました」』

これについては既に各方面で議論されているのだが、圧倒的に否定的な意見が多いようである。それはそうだろう。企画した”芸術家”たちはその企画意図等を述べているのだが、その内容を聞いても普遍性が欠如していて全然共感できず、”芸術家”たちが一般的な感覚・価値観から大きく乖離したところで自己満足的に展示を行っているようにしか見えないのである。それは何も知らない一般人に対して自分たちの美的感覚を一方的に押し付けるだけのマスターベーションに過ぎないからである。

この展示(イベント)には「美」が無い。美しくなく、ただ一般人に対して悪い意味での驚愕と恐怖感・不快感を押し付けるだけの悪趣味な展示であり、作者の身勝手な思い込みと思い上がりしか感じられないものである。ジャーナリストの有本香氏も「普段はアートに対しては自分の意見は控えるようにしているが、(今回の)これは”ない”よね」という趣旨の発言をされている。それほど醜悪で不快な印象しか感じられず、人々の心理に悪影響しか与えないものになっている。

”芸術家”が自らの価値観や感性を形にして展示することで一般の人々に見てもらおうとする事自体は否定されるものではないが、一般人の五感に有無を言わさず直接訴求されるものであるならば、誰にでも通じる「普遍性」は持ち得ているべきであろう。それは芸術家として最低限の礼儀でもある。だが、この作品にはその「普遍性」は微塵も感じられない。だから「”芸術家”たちのマスターベーションに過ぎない」、と断定されるのである。

例えばあのバンクシーの絵とアクションは市井の一般人の目に止まる領域で展開されるのだが、誰にも通じる「普遍性」と「良い意味でのインパクト」が存在している事はどなたも納得されるところであろう。バンクシーの絵を見て「醜悪さ」や「恐怖感」から生理的嫌悪感をもって否定的な態度になる人はいない。

確かに芸術には、その深さ故に「誰にでも通じるものではない領域」というのは存在する。音楽でもそうだ。優れたクラシック音楽やジャズ音楽の演奏が必ずしも普段ヒットチャートの音楽しか聴いていない全ての人々全員に通じるものでもないのは事実である。だが、そうした音楽は音楽ホールやライブハウス等の閉じられた空間で、それの価値が判る人々が集って鑑賞するものである。今回のように、誰にでも通じる表現ではないのにも関わらず、不特定多数の一般人の眼前に突然無理やり押し付けるように出現させるそのやり方は極めて乱暴である。(*1) 暴力的で不自然で無神経が過ぎるというものだろう。こうした「人に不快感・嫌悪感を与えておきながら、自分は良いことをしている」と悦に入っている有り様が、あたかも共産主義独裁国家に見られる独善的で残酷な圧政の有り様とオーバーラップして見えてくる。


共産主義独裁国家と言えば…この巨大な顔が中華人民共和国初代国家主席である毛沢東氏の若き日の顔に似ている、とする議論が各所でなされている。

毛沢東:顔の比較

毛沢東氏の顔を意図的に採用したのかどうかは不明だが、企画演出したチームが左翼的な立場を持つ人々なら可能性としてあり得るだろう…とは言える。

そして…。

やっぱり関係があったのである。下記の記事を参照されたい。

坂東忠信氏のツイート

今回の「顔」を企画制作したチームの主要メンバーの一人である南川憲二氏は、あの「あいちトリエンナーレ/表現の不自由展」芸術監督で昭和天皇の写真を燃やして土足で踏みつける展示や大東亜戦争で日本の為に戦った英霊の皆さんを侮辱する展示など極左のプロパガンダに過ぎないものを”芸術”と称して展示強行した津田大介氏(*2) の仲間だったのである。

こうなってくると、あの代々木公園上に浮かんで人々に恐怖を与えた「顔」の正体が若き日の毛沢東氏であっても納得できる、というものだ。しかも、中華人民共和国建国以降の毛沢東氏の顔を使えば一発でバレてしまうだろうが、若き日の毛沢東氏なら判る人にしか判らないだろうという読みがあったのではないか、という推測は容易である。

あいちトリエンナーレ・表現の不自由展に於けるあの醜悪で嫌悪感しか与えない酷い展示といい、今回の悪趣味な巨大顔展示といい、そこに左翼の人たちの一方的で身勝手な価値観と感性の押し付けがあるところは共通しており、それは彼らの根底にある左翼思想が正に通底しているからにほかならない、と言えよう。

坂東忠信氏が言うように、「この違和感は現代美術作家に特有のもの?それとも彼ら特有のもの?」という疑問が浮かぶのは自然な流れである。同じ現代美術でしかも極めてアナーキーな存在であるバンクシーに対しては決して抱かないタイプの嫌悪感を左翼芸術家には感じてしまう。それは確かである。


左翼・極左の活動家たちは彼らのプロパガンダをそのまま発信するだけでは世の中に伝わらないが故に「芸術」という衣(ころも)をまとって一般の人々にアピールしようとしているのかもしれない。芸術(アート)という衣をまとうことで(一般人に対しては)左翼のいかがわしさを隠すことができるからである。津田大介氏の表現の不自由展がどう見ても芸術ではなく単なる極左のプロパガンダでしかないのと同様に、今回代々木公園上に浮かんだ巨大な顔もまた、彼らの大好きな共産主義独裁国家である中国へのオマージュなのかもしれない。



冒頭に記したように、今回の「顔の気球」イベントがオリンピック・パラリンピックが開催される東京を文化の面から盛り上げる「Tokyo Tokyo FESTIVAL」の中核事業として実施したのは東京都である。都の役人の感性が致命的に貧弱であることはこの一件でよく判る。或いは、都の役人もまた中国にシンパシーを抱く左翼思想の持ち主であるが故にこうした展開になった可能性もあるだろう。中国の侵食は東京都の内部にまで及んでいる、ということになる。そして、このような極左活動家の為に公金を投入したのならどんでもない事である。



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(*1)
精神的に幼い人間が欲望のままに己のエゴを押し付けている・・・そのような図式で捉えられるだろう。

(*2)
そもそも津田大介氏に対して芸術監督という肩書を与えるところが既にいかがわしいと言えよう。彼の何処が芸術家なのか?という疑問は多くの人が持たれるところであろう。彼は左翼の活動家であって芸術家ではない…それが多くの人の認識であると思う。


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