伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

ブログを再開する

2008年05月30日 | 三金会雑記
5/30 曇

ようやく、ブログを書こうという気分に立ち戻った。

後期高齢者がブログを書き続けるためには、それなりの気力・体力が必要なことを痛感した。

この一月ほどブログをほったらかしていた事情を、昨日書いた「三金会雑記」原稿に語らせることで、なにはともあれ「ブログ」再開の辞に代えることにする。

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[三金会雑記夏号原稿]


     「肺炎」に罹る

 いや、今回は本当に参った。一年でもっとも素晴らしい季節である五月のほとんどを棒に振ってしまった。諸兄姉との再会を楽しみにしていた「三金会」の呼子・武雄旅行も急にキャンセルする羽目になり、まことに申し訳ないことでもあった。
 肺炎に罹り一月近くかかってようやく元の身体に戻った今、締め切りを目前にして慌ててこの雑記原稿を書いている。

     *     *     *     *     *     *

 四月末の連休に入る前から、気管支あたりがぜいぜいし、なにか身体にいつもとは違った感じを覚えていたが、そのうちだんだん体調がおかしくなり、咳込むことが多くなった。
熱を測ってみると平熱といわれる三六・五℃。しかし、高齢者の平熱は三五℃台だとも聞いていたから、これは風邪でも引いたかしらん、二、三日もぶらぶらしていればいずれ治ると軽く考えていた。だから少々身体が熱っぽくても当地に住んでから一日も欠かしたことがない朝夕二回の我が家の温泉にも平気で浸かっていたのである。
しかし、熱は下がらないどころか次第に高くなっていき、とうとう最高三八・五度を示すようになった。熱が三八度を超えた時点では、流石に風呂に入る気も起こらなかったのは、今にしてみれば当り前のことであった。
 身体全体の脱力感、身体の節々の筋肉とも骨とも分からないところに感じる重い鈍痛、胃腸あたりの違和感、食い意地がはった日頃の旺盛な食欲もすっかりなくなり、なにを食べてもさっぱり美味しくない。
これはいかん、病院で診察を受けて風邪薬を貰わねばなるまいと思い始めたとき、連休に入ってしまい連休明けまで辛抱するほかなかった。

 ようやく連休が明けて病院に出かけ診察を受けたところ、レントゲンからCTスキャンへと運ばれ、沢山の写真を見比べていた医者から「これは肺炎です」と診断された。
 直ぐに「ロセフィン」という抗生物質の点滴を受け、三日ほどの点滴を受けたところで熱は下がりはじめ、咳も少なくなって小康を保つに至った。
 ベッドに横たわり点滴を受けながら医者に点滴は生まれて初めての経験だと言ったら、「その年齢ではじめてなんて人は珍しい」といわれた。
 第二次世界大戦中、チャーチルが肺炎にかかり出来たばかりのペニシリンで命拾いをしたことを思い出したのもこの時だった。
その後は飲み薬だけの治療を続け、咳が出なくなったのは、それから一週間後だったろうか。
肺炎は治ったものの、これによる体力消耗は激しく元の身体に戻ったといえるようになるまでには随分と時間がかかった。

 以来、新聞の死亡欄を気をつけて見るようになったが、高齢者の死因として肺炎によるものが多いのが目につく。
調べてみると、日本では年間一〇万人が肺炎で死亡しており、死因順位は第四位を占める。そして肺炎による死亡者の九五%以上が六五歳以上の高齢者だとある。その多くは細菌性肺炎、高齢者では発熱、食欲不振、全身倦怠感などの症状が前面に出るという。ペニシリンの発見で坑菌薬の優れた効果は実証済みだが、最近はこれが効かない耐性菌が出現しており大きな問題になりつつあるとある。
経過からみて、どうやら私の場合は耐性菌ではなく、また重症度の判定ではなかったのであろう。

 考えてみれば、生まれてこのかた入院した経験はなく、老後といえる当地にきてから約二〇年近く、病気らしい病気に無縁で過ごしてきたことは幸運だったが、それは同時に危険と背中合わせでいたのだともいえる。
 これからはいつもこうは行くまい。何しろ七八歳「後期高齢者」である。病気に罹らない方がおかしいのかもしれない。
 健康への過信がとんでもない結果に結びつきかねないこと思い知らされたこの一月であった。

 そんなことで思い出したのは、一昨年亡くなったご近所のU女史のことである。
 七〇歳を目前にして亡くなったUさんは、元気そのもの、病気知らずのバイタリティに溢れた一人暮らしの御婦人だった。関東界隈ならどこでも車で日帰りすることなどヘイッチャラ、翌日も全く疲れも見せない化け物みたいな人だった。
 この人のお母さんは九六歳のときフランスへの一人旅から帰国して「ただいま」と玄関のドアを開けたところで倒れて亡くなったと聞きいており、誠にうらやましい人生の終焉だと思う一方、その血を受け継いだUさんに「貴女は百歳を超えていつまで生きるつもりですか?いずれにせよ百歳以上生きることだけは確実ですよ」と話をしていた矢先の事故死だった。
 日頃から自分の健康に自信を持ち過ぎていたのが仇となったのである。
 我が家の庭の管理をしてくれている庭師のOさんが、彼女に最後に会った人である。彼女の庭の芝刈りをしているときに窓越しから「風邪を引いちゃった。鬼の霍乱よ」と笑っていたという。
 どうもノロウイールスだったらしい。彼女のそれまでの言動から察して医者に行くことなど考えもしなかったと思われる。就寝中に嘔吐してそれが喉に詰まっての窒息死で、死後数日たっての発見だった。

 一人暮らしであることを別にすれば私の状況がこれに似ていることに愕然とする。
私の肺炎は風邪によって引き起こされた肺炎だとは思うが、ひょっとしたらより危険な「誤嚥性肺炎」だった可能性も否定できない。寝ている間に気付かないまま逆流胃液を誤嚥した可能性も捨て切れないからである。
 胃カメラの検診で二〇年も前から胃袋と食道との間を扼する筋肉が緩んでいることを指摘され、胸焼けをしないか聞かれていたが、その頃それはなかった。
しかし、加齢とともに裂肛性ヘルニアといわれる食道から胃への入り口の緩みによる胃酸の逆流が食道に炎症を起こし胸焼けすることが多くなった。
 漢方薬の「大田胃散」ではなかなか治らなかったが、医者から処方された「プロトンポンプ阻害薬」オメプラゾールという錠剤を飲めば一発で治っていた。あまりにもよく効くので胸焼けしたときには半分にカットしたオメプラゾール錠を飲みさえすればよく、それがいつしか四分の一にしても効果があることですっかり安心し切っていたのである。
 発病前に気管支がぜいぜいしていたことを思えば、今回の肺炎がそれでなかったとは言い切れない。
 とにかく危ないところであった。これからは胸焼けも軽くみてはなるまい。

 肺炎で苦しんでいたそんなときに三浦君の訃報に接した。われわれの年齢からすれば、いつ「死」が自分に訪れてもおかしくないという冷厳な事実を無意識に受け入れつつある心境の中で、三浦君の死は戦陣に居てまた一人戦友が倒れたか、といった思いにとらわれ、いつしか友の死を悼むことに慣れはじめている己がそこにいることに気付く。
 死線をさ迷ったというには少々オーバーだが、この病を経験したことで私も一つの峠を越えたようであり、すこしばかりこれからの「生と死」に対する受け止め方にも変化が現れたかのようでもある。
 これまで、やらなければならいないと思い続けながら、どうしても踏み切れなかった書庫に置いてある多量の本や資料の整理に実際に手掛けはじめたのも、その具体的な表れといえようか。
 なにも慌てることはないが、ゆっくりだが、着実に身の回りのものを整理していきたいと思っている。
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