9月16日 (火)
一昨日9/14にNHKスペッシャルで立花隆の「思索ドキュメント-臨死体験」を見る機会を得た。
立花隆は私より10歳若いが、日本で最高のジャーナリストと私は評価してきており、これまで彼の著書を随分読んできた。いずれも私の好奇心を大いに満足させてくれただけでなく、ある種の感銘を受けるものも少なくなかった。
今思えば、私を惹きつけてきたのはその著書に見られる「人間」とは何かという問いに対する彼の強烈な関心が生み出したものだったように思う。
そうであるなら、彼の究極の関心、もしくはその最後にある課題は、疑いなく「人の死」というものになるのではなかろうか。
「死」に関しては、私は以前に彼の著書「臨死体験」を読んでおり、このとき私はじめて自分の「死」を正面から向き合って考えさせられ、おおいに頓悟させられるところがあった。
2013年1月10日 死を考える ─ 立花隆「臨死体験」再読
その彼が4年前に膀胱がんを患ったことで「死」に関する課題の解明はより切実なものとなっていることは疑いなく、その後の思索の深まりを知りたいとかねがね思っていたところであった。
とはいえ、世界のどこにでも出かけていって一流の関連学者などから取材する彼持ち前のバイタリティは最早病身の彼には期待できないのでは、となかば諦めてもいた。
そんなところに、今回のTVの「思索ドキュメント」である。最近の脳科学者の研究現場を訪れてその思索を深め、「臨死体験」を手掛かりに「意識(魂)」とはなにか。「死んだら心はどうなるか?」という根源的な問いかけを精力的に行っている。
これは最後の力を振り絞っての取材活動であろうか、「死んだら心はどうなるか」ということを徹底的に調べ上げた末に、彼は彼なりの結論を得たものだと私は思う。
要約すれば次のようなことか。
「人の意識は脳内の膨大な神経細胞のつながりによって生まれる。その意識は死ぬときに消える」
「臨死体験における神秘的な体験は脳の辺縁系から生まれる。死ぬとき、辺縁系は眠りのスイッチと覚醒のスイッチを入れる。自覚しながら夢をみる常態、「半醒半睡」の状態になる。脳はこのとき神経物質を放出し幸福な気分にさせられ、幸福感に満たされる。」
「死の間際に特別の感覚をもち神秘な体験をするように脳の仕組みができている」「臨死体験とは、誰もが死の間際に見る可能性がある奇跡的な夢」
「なぜそうなるか、は分からない。人類がその長い間の生存の過程で獲得してきた本能では?」
そして最後に、立花t隆は20年前に臨死体験を取り上げたときに感じた「死は恐くない」という感じを今回の取材で一層強く感じた、という。
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この考察を、より即物的というか、医学的に裏付けるような医者が書いた文章もある。
中村仁一「大往生したければ医療にかかわるな ─ 自然死のすすめ」p64-65
「人間は、生きていくためには飲み食いしなくてはなりません。ところが生命力が衰えてくると、その必要がなくなるのです。
「飢餓」では、脳内にモルヒネ様物質が分泌され、いい気持ちになって、幸せムードに満たされるといいます。
また、「脱水」は血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がって、ぼんやりした状態になります。
「死に際になると、呼吸状態も悪くなります。(これは)酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内にとどまることを意味します。
「酸欠状態では、脳内にモルヒネ様物質が分泌されるといわれています。……一方、炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれます。……死というのは……痛みや苦しみもなく、不安や恐怖や寂しさもなく、まどろみのうちに、この世からあの世へ移行することだとおもうのです」
久坂部羊「日本人の死に時」p145-146
「死が苦しくなるのは、人間があれこれ手を加えるからです。放っておけば、そんなに苦しむ前に力尽きてしにます。……治療することで、死が苦しくなるケースの方が多い。身体は死のうとしているのに、無理やり引き止めるからです。」
庭に秋の花が咲く。「人生の頁」がまた一つ繰られる……。