川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

シンポジューム「長谷川家と豪商のまち松坂」開催される

2014-10-28 23:16:40 | 日記
 
 「松阪商人の代表的存在の『長谷川家』の文化的価値をあらためて見つめなおし、市民とともに今後の保全・活用について考えよう」と、シンポジューム「長谷川家と豪商のまち松坂」が10月26日松阪市産業振興センターで開催され、203ある席が全て埋まるほどの多くの来場者がありました。

 第1部は「なぜ長谷川家は重要なのか」というテーマで行われ、まず三重大学大学院工学研究科教授の菅原洋一氏が趣旨説明されました。次に報告①では「城下町松坂と長谷川家」というテーマで、松阪市文化財保護審議会委員の門暉代司氏が資料研究の立場から報告され、報告②では「長谷川家の建造物」というテーマで、奈良文化財研究所文化遺産部長の林良彦氏が建造物研究の立場から報告をされました。また報告③では「長谷川家の庭園」というテーマで、京都造形芸術大学教授の尼崎博正氏が庭園研究の立場から報告がありました。

 第2部は「長谷川家から発想する松阪のまちづくり」というテーマでパネルディスカッションがありました。松阪市文化財保護審議会長の下村登良男氏から趣旨説明があり、前述の4氏に、亀山市市民文化部まちなみ・文化財室長の島村明彦氏がまちなみ保全の立場で、また長谷川家の地元の高島信彦氏が市民代表として加わり、この長谷川家という貴重な財産をどうように保全し、どのように活かしていくか意見が交わされました。

 以下、報告やシンポジュームで話された内容を順不同でまとめました。


◆長谷川家の資料
 長谷川家のすごいところは、創業時から明治、大正、昭和、平成の時代まで230余年の資料が連続して残っており、それだけ管理が行き届いていた。松坂特有の文化があり、長谷川家の文化的な短歌、俳句、茶の湯、信仰などの道具類も創業時から平成の時代のものまで残っている。長谷川家から松阪市に寄贈された資料は約6万点で、本居宣長記念館に収蔵する本居宣長に関する資料が1万6000点であることからみても、長谷川家の資料の多さがわかる。

◆明治維新を生き抜いた長谷川家
 江戸時代の多くの商人は、藩に貸していたお金が廃藩で藩がなくなり回収できなくなったことや、明治維新の変革に乗り切れず倒産したところも多いが、松阪商人の多くは幕末から明治への変化を乗り切った。
 松阪もめんを中心としていた長谷川家も、明治維新後自動織機がイギリスから入ってきて苦しい時代を迎えたが、ガラス産業を取り入れるなど方向転換を行った。

 

◆長谷川家の資料の調査・分類・保存・展示・閲覧
 長谷川家の5つの土蔵の他に、建屋の押し入れの中にも多くの資料が入っており、建物全体が収蔵庫になっている。保存するものと処分するものに分ける必要もあり、保存するための土蔵の修理も必要である。保存計画を立てること、そして資料の一般公開や、希望による閲覧も出来るようにしていかなくてはならない。市長はあと2年くらいで全面公開をしたいと言っている。

◆長谷川家からの眺望
 長谷川家の価値は内側だけではなく、屋敷の外とのつながりがあり、池の水は城の堀から引いていた。また離れは明治28年の建設であるが、他の家屋に対して20°ほど傾いており、離れからの眺望は松坂城跡や四五百の森に向かっており、その配置は城跡の眺望を意識したものである。しかし現在はその方向には眺望を遮る無粋な建造物があり、離れから城跡はほとんど見えない。松阪市の庁舎、市民病院、第二庁舎などである。

     
  (離れ座敷は他の建物に対して20°ほど傾けてあり、松坂城跡が眺望できる方向を向いている)

◆長谷川家の庭園の保全状態
 長谷川家の庭園はずーと長谷川家が管理されていてよかった。一時でも他の人の手が入ると方針がめちゃめちゃになってしまう。ただ庭園は手入れをしないと変化が早く、実生の木でも10年も経てば大きくなってしまう。
長谷川家の庭園の管理状態は、池の石が浮いているなど、現在めちゃめちゃに荒れている状態である。どうあるべきであるという議論が必要。今後3年では整備は無理。
 庭園の池に架かる石橋は、現在の庭園のかたちには大きいので目的はほかにあったのではないか、かつては庭園で園遊会など行われていたのではないかと思われる。
                     

◆長谷川家から発想する松阪のまちづくり(第2部の趣旨から)
 長谷川家が佇む魚町一丁目付近は、平成20年に松阪市景観条例の景観重要地区とし、電柱の移設や路面の舗装のし直しが行われたが、空閑地が増え、隣接地の町家の粗壁がむき出しのところがある。一丁目通りと直行する市役所通りからは長谷川家の離れ・庭園・土蔵群が見られるが、
 この通り沿いの長谷川家から購入した市有地には観光拠点施設別館の建設も検討されている。また通りに面した魚町別館を改築して観光拠点施設本館に、三重信の跡地に三越のライオン像を設置する計画など、景観整備が図られている一丁目通りとそぐわないところもある。

 長谷川家の周辺には本居宣長旧宅跡、小津家住宅(商人の館)、三井家発祥の地、国史跡松坂城跡とその城跡内には本居宣長旧宅、本居宣長記念館、松阪市歴史民俗資料館があり、御城番屋敷などを含めた文化遺産が集まる。そのような資源を相互に関連づけるまちづくりが必要となる。

◆私のまとめ
 今から35年ほど前であろうか、私が贈答品の店をやっていたとき、松阪卸センターの「長谷川」という衣類の卸問屋で少しの衣類を仕入れたことがありました。広い店内の棚には多くの商品が整然と並んでいて、物腰の柔らかい番頭さんが応対をしてくれました。1つの商品を示すと番頭さんは、それを木製の床の上に広げて見せてくれました。ほこりの付きやすい衣類を床の上に広げられて一瞬以外な気がしましましたが、同時にこの店の床は毎日きれいに磨かれ、塵一つないという自信のようなものを感じました。
 その時には長谷川家の歴史も、松阪市内にこのような邸宅があることも全く知りませんでしたが、この店の重厚さを感じました。

 これまで観光客に対して「松阪商人」を見せる大きな役割を果たしてきたのが、小津邸の「商人の館」です。多くの人達が、あの建物に昔の商人の暮らしぶりを偲んだのではないでしょうか。ただ観光客目線で見たとき少し展示物が少なく、物足りなさを感じられるのではないかと思います。日野町の「近江日野商人館」ではたくさんの展示物があり、私たち観光客を楽しませてくれました。
 長谷川邸では建物整備や資料調査など、全面公開にはまだまだ時間がかかりますが、その時には観光客を楽しませる多くの資料が展示されることになると思います。シンポジウムのパネラーが言われたように、現在の建物や土蔵が展示館となり、あの敷地内にはトイレなどは別として新たな展示館などの建物を造ることは、長谷川邸の値打ちを下げることになります。

 これまでも予定が重ならない限りこのようなシンポジウムにはなるべく参加するようにしていますが、時には期待外れの「しょうもない」催しもありました。今回のシンポジウムは「長谷川家」という大きなテーマを、資料研究、建物研究、庭園研究、そして町並み保全の専門の講師を迎え、松阪市の歴史研究の双璧下村登良男氏と門暉代司氏が加わり、豪華な布陣で開催されました。また配布された資料も立派なもので、有意義な時間を過ごさせていただきました。

                                            
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