今回の最高裁判決は、卒業式などの国歌斉唱時に起立しなかった教員をめぐる裁判に判断を示したものです。
卒業式は(入学式もそうですが)卒業生にとって思い出に残る行事です。主人公の卒業生を始め、在校生、卒業生の保護者、来賓、そして教職員が出席して行われる学校行事の中でも最大級の行事です。式のプログラムには、どのようなかたちで卒業生が入場し、どのようなかたちで卒業証書を授与するか。いつ校長が式辞を述べ、どの来賓が祝辞を述べるか。ここで卒業生が起立し、ここでは卒業生・在校生が起立し、ここでは全員が起立するなど細かく定められて式が進行します。主催者側の教職員がこの式の流れに反する行動を取ることは、最高裁判決を受けるまでもなく、おかしな事です。卒業生を始め、他の出席者に失礼です。
日本中で開催されているいろいろな催しなどで、主催者側の者がプログラムの流れに反する行動をとるということは、あまりないでしょう。
今回の判決の補足意見の中で裁判官は『思想、良心の重みに照らし、命令に踏み切る前に、寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮が望まれる』としており、起立斉唱を命ずる側にも配慮を求めています。また『国旗国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何より重要である』とも述べています。
教職員の思想・良心の自由は尊重するとして、一番の心配は子どもたちへの影響です。小学校へ入学して子どもたちは初めて国歌「君が代」に出会うはずです。それが中学校卒業時に校歌は大きな声で歌うが、国家は歌わない生徒となって卒業していくのです。
日本がこれまで歩んできた戦争などの歴史の中で、国歌「君が代」や国旗「日の丸」に対する日本国民の思いは様々で、その認識の違いには奥深いものがあるのはたしかです。国歌や国旗のもとに国民がひとつになれない。これは日本が抱える大きな不幸ではないかと思います。世界の中でも日本人ほど国歌、国旗に対する敬愛の念がない国民は、他に例をみないのではないかと思います。
よく外国では、他国を批判するデモや暴動などで、その国の国旗を焼いたりすることがあり、反日デモでも日の丸が焼かれたりします。これはその国に対する最大の侮辱ですが、これらの行為に対する日本人の怒りの程度は低いのではないのでしょうか。
国旗、国歌のもとで国民がひとつになれない国をつくってきた、これまでの“大人たち”にも責任があります。このまま日本は何を目指して、どこを目指して進んで行くのでしょうか。今回の最高裁判決は一つのかたちを示したに過ぎません。
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