平成28年7月の或る日,恵庭市民会館エントランスホールにある小さな石彫刻が目についた。近づいてみると,台座のプレートに「YÛKÔ,友好都市提携記念,2016.3.26,寄贈静岡県藤枝市」と記されている。恵庭市と藤枝市の友好都市提携協定締結を記念して,藤枝市から贈られたものである。作者は,石彫家の杉村孝。
◆友好都市「藤枝」
筆者が静岡県東部(伊豆国)の片田舎にある高校生だった頃,進学校でありながらサッカーも強い高校が駿河国藤枝にあると認識したことが,藤枝市を知る最初だったと思う(サッカーでは中山雅史,長谷部誠等が知られる)。それから50余年後,第二の故郷となった恵庭市が藤枝市と友好都市提携を結んだとのニュースがあり,同郷人として「藤枝」を再び意識することになったのである。友好都市の交流は災害時相互応援協定など具体的な形で動き出しているので,ウイン・ウインの関係が発展することを期待したい。
ところで,藤枝市は静岡市の西方に位置する人口14万7,000人余りの市である。江戸時代は東海道22番目の宿場町であり,直轄地である駿府の西の守りとして田中城が置かれ,幕末の本多家の時代には水戸藩の弘道館と共に武道の二関と呼ばれた「日知館」があったことでも知られる。かつて,伊豆下田出身の儒学者石井縄斎の経歴を調べていたとき,彼が日知館の創設に関わり漢学師範を務めたことを知った。いろいろな場面で繋がりは出てくるものだ。
◆杉村孝作品「双体童(わらべ)像」
恵庭市民会館にある「双体童(わらべ)像」の姿は,二人の子供(童)がしゃがんで肩を寄せ合い,互いの人差し指を胸の前で合わせている。地蔵尊のように細部に拘らない素朴な造形で,安らぎを醸し出す雰囲気がある。顔と身体のバランスから童(わらべ)であることに間違いないが,表情に子供らしい無邪気さはなく,むしろ悟りを開いた仏の顔だ。固く結んだ口元,二人が合わせた指先に,意志の強さが感じられる。作品には,平和を願う気持ち,友情・友好を高めて行こうとの思いが込められているように思える。作者のコメントには,「ふたつの市が仲良く寄り添い,友好の絆を深め,手を取り合いながら発展していく願いを込めて制作した作品です」とある。
俗に「双体地蔵」(一組の人像を並列させた地蔵尊)と呼ばれる地蔵尊(道祖神)があり,長野,山梨,静岡,群馬,神奈川県などに多く残されている。多くは江戸時代以降設置されたものであるが,路傍に置かれ,村落とそこに住む人々の安寧を見守っている。この双体童像の佇まいは,広い目で見れば双体地蔵の延長線上にあるのではなかろうか。
作者の杉村孝は,昭和12年(1937)藤枝市の石材店の三男に生まれ,小学校時代に右目を失明,その後石彫の世界に入ったという。市民会館の彫像には「・・・石彫刻・北川薫に師事。太平洋美術学校に学ぶ。中日展,富嶽文化賞展,現代美術展記念展などの美術展で受賞経験をもち,数々のわらべ地蔵の制作でも知られている。日本美術家連盟会員」と作者紹介文が付されている。
杉村孝の作品は多いが,藤枝市の滝の谷不動峡にある高さ10m,幅7mの不動明座像(磨崖仏,1981年から8年の歳月をかけて刻んだ作品),京都三千院の庭などに置かれた童(わらべ)地蔵の作品群,藤枝市岡部町の「おかべ巨石の森公園」に置かれた249トンのモニュメントなどが良く知られている。
中でも,童地蔵作品群の愛好者は多い。「可愛い」と表現する人もいれば,「悲しみを癒された」と語る女性もいる。恵庭市民会館の彫像は,その形から見て童地蔵の範疇に入るだろう。わらべ像の表情は穏やかである。「悲しみも苦しみも引き受けます」と寛容さを滲ませている。
その他,作者杉村孝に関する出版物があるので紹介しておこう。石彫家フォトエッセイ「わらべ地蔵,悲しみを地蔵さんにあずけて・・・」(藤原東演・杉村孝,鈴木出版1996),「石屋の小僧が彫刻家になった途々の話」(杉村孝,静岡新聞社1995),「独眼竜一石,杉村孝といふ男」(岡村直子,静岡新聞社2015)などである。
彼に関する資料や作品を眺めていると,制作モチーフの根底に脈打つのは弱者に対する思いやり,平和を願う心,反戦・反権力であるように思える。彼にとって作品制作自体が平和活動であるのかもしれない。「数奇な人生」という言葉も目についたが,行動が真摯であるが故の評価であり,彼はむしろ芸術家として純粋さを評価されたと喜んでいるかもしれない。
恵庭市民会館を訪れる楽しみが,またひとつ増えた。