多賀城市
多賀城市の蓋に描かれているこれは、「壺碑」です。
簡単な多賀城のお話~。
多賀城は神亀三年(724)大野東人によって建立されたお城で、天平宝宇六年(762)恵美朝カリ(漢字がないっ、獣偏に葛)によって修造されたものの宝亀11年(780)に伊治公呰麻呂の手により破壊、その後数度に渡って回復したものの現在は城趾のみ残っている廃城です。
そんな多賀城のかつて正門のあった辺り、南の小丘に建つ石碑が壺碑であり、鞘堂に収められています。 実際の壷碑(つぼのいしぶみ)というのがこんな感じでお堂の中に石碑が収められています。
そもそも何で多賀城というところに来たのかというと、市名に城がついているくらいだから立派な山城の跡地でもあるのだろうと勝手な想像をして単車を走らせてきたのでした。
この城というのは奈良時代の政庁という意味しかなく、例えば宮城県庁を宮城城と名乗ったくらいのものだったらしい。
あれ?城がかぶった、失敗失敗。 正門側から見た政庁。
空が青くて気持ちい~い、のです。
この階を登って人々は、道を拓いてくれとか、今年の税を待ってくれとか陳情に来たと思われ。
くぷぷ、想像するだけでも楽しいかも、古代人。
多賀城市側溝蓋1
多賀城市の蓋、サクラの花が描かれていますが多賀城市の花はサクラじゃありません、汎用蓋なのかも。
多賀城市側溝蓋2
多賀城市の市章がある以外はこれといった特徴のない蓋、Hパターン。
多賀城市側溝蓋3
市の花アヤメの描かれている蓋、少数ながらこんな蓋もあります。
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下志津駐屯地は高射学校があり、かつては高射砲の運用とか弾道とかを日夜勉強していた所だという話です、追尾の時代となってからはレーダー運用に時間を割かれ技術の発展は兵隊さんにはより一層の苦労を強いているような。
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陸軍を意味する五芒星、右書きの「空気弇」、この駐屯地で一番古い蓋ではないかと思われる陸軍蓋です。
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文字部を拡大、丸文字です。
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上部に右書きで「汚水桝」下部には左書きで「manufacturedbyitogomei.co」
伊藤鉄工さん(IGS)の伊藤合名時代の蓋と思われます、右書きと英語が混在しているので戦後の蓋でしょう。
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この蓋の中央部、朝日と左を向いた鳥が描かれています、警察予備隊のマークに酷似していますが謎っぽい。
ちなみにこの蓋は敷地内に三枚はあるのを確認。
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一応、下部の写真を出しておきます「伊藤合名」
ただこのマークが警察予備隊だとすると色々とおかしくなる可能性があるのも否定できない、陸軍飛行学校→陸上自衛隊駐屯地となったので間の警察予備校と保安隊の時代には使われていなかった。
自衛隊初期には警察予備隊のマークが使われていた説もあるらしいが、
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練馬駐屯地はかつては、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫(いわゆる武器置き場)であった過去があります、1951年(昭和26年)に警察予備隊が移転して以来この西門には門哨所が作られその跡が今の時代に残されています。(今は陸上自衛隊練馬駐屯地です)
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門哨所の案内板、「警察予備隊」の文字がある事に注目(ここは大事)
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そんな練馬駐屯地ですがこの敷地内には二枚の「NPR」蓋があります、あくまで推測の域を出ないのですがこれはおそらく警察予備隊(National Police Reserve)の略ではないかとまことしやかに囁かれていたあの蓋ですっ、ちなみに正門脇にも一枚あります。
ちなみにここだけにしかないという訳ではなく千代田区新宿区などでもこの蓋は確認されています。
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中央部分の写真、NPRですね、ネパールたんでもナポリちゃんでもないれっきとしたNPRですっ(なんだよそのテンション
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久里浜駐屯地はかつての海軍通信学校の跡地に設けられています、簡単に説明すると1930年に海軍水雷学校から独立した海軍通信学校が1939年にここ久里浜に移転してきた、その跡である事を記した石碑がこれです。
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ここがかつて海軍用地である痕跡がこの弁(バルブ)の蓋、くっきりはっきりと海軍のマーク(波と錨)が描かれています、歴史館前にあり車の踏む位置ではない為とはいえこれほど鮮明に残っているとは嬉しい限りです、どうかいつまでも残っていますように。
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駐屯地前の歩道はタイルによって飾られていましたがそのタイルにあわせて電話・通信蓋も擬装されているという、この船は例の黒船サスケハナ号ではないかと、ちなみに左上は神奈川県章です。