読書日記

いろいろな本のレビュー

密やかな結晶 小川洋子 講談社文庫

2021-06-24 09:19:20 | Weblog
 本書は今から27年前の1994年に刊行されたが、最近英国の「ブッカー国際賞」の最終候補、2019年度「全米図書賞」翻訳部門最終候補になって新聞で紹介された。小説の舞台は一つの島で、そこの住民の記憶が消えると同時に物が消えていくという状況にある。鳥、切手、帽子、香水、カレンダー、フエリー、左足等々、一つずつモノの記憶が消え、島民の頭の中が空白になっていく。そして次々と失われる記憶を隠し持つものがいないかを秘密警察が監視するという内容だ。主人公は女性小説家であるが、日々言葉の記憶がなくなっていき、原稿用紙が埋められなくなっていく状況に置かれている。一読して全体主義国家の人民統制の図式を思い出した。さらに言えば、ナチスのユダヤ人迫害のアナロジーだと感じた。

 カレンダーの消滅について、元帽子職人のおじさんが「月の終わりに一枚びりびりと破ることができないということだ。つまりいくら待ったって、私たちにもう新しい月は来ない。春は来ないんだよ」と言う。これは為政者が民衆の時間を支配するということと、この抑圧状況が人々の未来を奪うことを意味している。また図書館の本が燃やされる場面は、ナチスの焚書が想起され、主人公が秘密警察から身を隠して、逃亡のチャンスが到来したにもかかわらず、逃亡のリスクを自問自答しているうちにチャンスを逃すという場面は『アンネの日記』の世界を追体験してしまう。

 また主人公が全然体験したこともない「タイピスト」の物語を書くという案を知り合いのおじいさんに言ったところ、「自分が体験していないことでも、小説に書けるのでございますか?」と聞かれて、「見たり聞いたりしたことがなくても、自分で想像して書き表せばいいの。本物の通りである必要はなくて、たとえ嘘でも許される。だから存在しないものを、言葉だけで存在させるの。だから記憶が消えても、あきらめる必要はない」と答えている。ベンの力を信じる作家の意思表明と受け取れる。権力に物申すという気概が文筆家には必要だろう。

 最近の政府がやっている資料の改竄、情報の操作、公共放送の私物化による不都合な真実の隠蔽。政府トップのまともに質問に答えない記者会見。あれだけポイントを外した答えを恥ずかしげもなく何回も述べるというのは、無能故なのか確信犯的なのか。都合の悪いことはそのうち国民は忘れるだろうというレベルならまだいいが、本書のように記憶を消しにかかろうと牙を剝きだしたら怖いことになる。要注意だ。