読書日記

いろいろな本のレビュー

国体論 白井聡 集英社新書

2018-07-26 13:19:03 | Weblog
 「国体」とは、「国民体育大会」の事ではない。「主権または統治権の所在によって区分される国家の形態。共和制・君主制・立憲君主制など」の謂いである。「国体」の危機は太平洋戦争終結時に天皇の戦争責任が問われるか否かという形で表面化した。天皇が戦争責任を問われて、他の戦犯と同じく裁判にかけられることになれば、天皇制は崩壊の危機に直面するが、占領軍は天皇の歴史的権威と国民感情を鑑みて、日本民主化にとって天皇は非常に大事な存在であるということで、戦争責任を問うことはしなかった。その中で、戦争放棄を憲法に明記させ、日本が再び武力を行使できないようにさせたのである。そこで日米安全保障条約を結び、日本には沖縄を始めとして米軍の基地が置かれることになった。ここは治外法権で、日本の警察が入ることは許されない。さらに日米地位協定によって日本における米軍の特権的な地位が定められており、ある意味、日本は独立国としての体をなしていない状況が戦後73年続いている。
 安部政権は憲法改正をその最大の任務と位置づけ、九条の変更を目論んでいる。それは自衛隊を日蔭の身から表舞台に引っ張り出すことである。これが戦後レジームの脱却ということになるらしい。しかし本筋の「レジーム脱却」とは、著者も言うように、憲法9条を廃止して自衛隊を軍隊として位置づけ、米軍基地をなくして戦争放棄を「放棄」することでなくてはならない。そこら辺をいい加減にして対米追随路線を続ける以上、いつまでたっても日本は独立国にはならないのだ。
 著者によると今の自民党は「愚かしい右翼」によって、対米追随が「戦後の国体」と認識され、「愛国=親米」という奇妙な図式がほぼ自動的に選ばれているという。本来日本の国体を言うのであれば、反米ということでなければならない。論理が逆立ちしているのだ。
 著者は、マッカーサーは征夷大将軍のようなものだったと指摘しているが、なかなかうまい指摘である。日本史を振り返ると、天皇を錦の御旗として担ぎ、天皇の臣下として幕府を開設して政治を行なうことが常であった。戦後の日本はこの米軍=征夷大将軍と自民党などの政権政党の二頭だての馬車でやってきたようなものだ。
 戦後レジームの脱却と言いながらますます対米従属を増す現政権。このまま憲法改正を訴えても、まともな議論にならないことは明らかだ。本筋の議論か、枝葉末節の議論か。くれぐれも拙速にならぬようにしなければならない。
 白井氏は現政権批判の先頭を切る人物だが、「国体」の歴史と意味をわかりやすく説明してくれている。