読書日記

いろいろな本のレビュー

解放老人 野村進 講談社

2015-04-20 16:08:42 | Weblog
 本書は山形県南陽市の「佐藤病院」という精神科病院にある通称「重度認知症治療病棟」に長期取材をして、いろんな患者の歩んできた人生と現状を報告したもの。認知症の父母を抱える家庭はごく普通に存在し、その介護の問題は今や国民的な課題となっている。費用の問題、誰が面倒を見るか等々、家族の負担は非常に重い。また介護する病院側も、看護士・介護士の不足の問題、安い給料の問題など難問が山積している。親の面倒を見終わるか終わらないうちに今度は自分の番だ。いつぼけるかわからないという恐怖感は六十歳を超えると切実になってくる。長患いをせずにぽっくりあの世に行きたいというのが老人の願いで、ぽっくり寺参拝のバスツアーもあったりする。これは笑えない現実だ。
 人生の終末を迎えて認知症になることは悲しい。この悲惨な境遇は死によってしか救われないと考えるのが一般的だが、著者は次のように言っている。「〝救い〟という見方が、これまでの認知症への視線からすっぽり抜け落ちていたのではないか。救いのない病と頭ごなしに決めつけられていた認知症に、本当の救いは無いのであろうか。庄一郎さん(過去の体験を思い出しては暴れる患者さん)を〝記憶地獄〟から解き放ち、末期がん患者を痛みから遠ざけ、死期間近のひとに恐怖や苦痛をほとんど感じさせない認知症は、新たな可能性を秘めた〝救い〟という視点から見直せるかもしれない。それによって、死こそを救いとみなしてきた、いや、もっとはっきり言えば、死にしか救いはないと絶望してきた従来の敗北的な認知症観を、根底からくつがえせるのではなかろうか」と。
 目から鱗の発言で、取材した患者に誠実に寄り添った著者ならではのものだ。また続けて、「認知症の発病から死に至るまでの緩やかな過程に伏流水のごとく流れ続けている救いの一局面とは捉えられないか。人体も自然の一部なのだから、自然は陰に対する陽を、さらに言えば苦を補う楽をも、どこかで用意しているはずだ。認知症が内包する救済の可能性に、私は懸けてみたい気さえしている」と述べている。
 宗教者のような言葉だが、人が日々生きることの意味が深く洞察されていて好感をもった。野村氏のノンフイクションは以前から愛読しているが、今回の重いテーマにおいても本領を発揮している。氏のお陰で生きる勇気が湧いてきた。ありがとう。