木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

使い古され、ボロボロにされた「維新」という言葉

2012年11月22日 | Weblog

石原・橋下の極右・暴走コンビがその中身のなさで、急速に色あせ始めているというのに、それに対峙するべき「脱原発・反TPP・反消費税・オスプレイ配備反対」の勢力が結集しきれないでいる。
国民の大多数は安倍自民も野田民主もぬえ公明党も望んではいない。
にもかかわらずこのままだと選挙の結果は「原発再稼働・TPP参加・消費増税・アメリカ軍の横暴続行」を推進する大政翼賛連合政権の誕生を許してしまうことになる。
憲法改定の発議も夢ではない。
石原はますます老人特有の判断力を失った暴言全開でこれをよしとする国民はそう多くはないと思うが。
橋下も大阪府知事や市長としての敵を作っての鋭い?切り込みも国政進出を伺うようになって急速に鈍ってきた。しょせん「大阪場所」のレベルなのだと思う。
マスコミは権力のしもべだと割り切って、これらの言うことはその反対が真実なのだとぐらいに思うようなクセをつけておいたほうがいいのだろう。
全国紙は一紙に収斂されてしまうのではないか?
このところ地方のJRの駅では乗降客の減少のためか、かつてのようなホームの売店がない。従って新聞も売っていない。
それでも地方紙は何とか生き残るかもしれない。沖縄の地方新聞の紙面は本土の作りとは全く異なり、沖縄の最も切実な米軍基地の存在による住民生活の蹂躙を告発・報道することにその第一義を置いて報道の使命を果たしているという。
東京新聞も真摯な原発事故報道で読者を増やしたという。
私が読んでいる新聞は地元信濃毎日だが、地元のことを知りたいということもあって購読している。共同通信の配信に引っ張られてはいるが、購読をやめるという気持にまでは至っていない。
その信濃毎日新聞に歴史家の色川大吉氏の「右旋回の維新八策。熟練する民意に希望」という意見が掲載されていた。
色川氏は橋下大阪維新の会の「維新八策」と坂本龍馬の「船中八策」を比較し、「船中八策」の先見性を評価し、「言葉が歴史上で真に変革性を持つのは一回きりだ」と言っている。
明治維新後の歴史を見ると、大正期には「大正維新」を掲げた右翼テロリストが財閥の主を刺殺する事件があり、これに続くのが青年将校らによって犬養毅首相が暗殺された五・一五事件と、議会政治にとどめを刺した二・二六事件。いわゆる「昭和維新」だ。
明治以降の維新という言葉は傷だらけで、テロリストのため、軍による政党政治の廃絶のためと、基本的に右旋回のために使われてきた。だから本当の維新は一回きり。だとも。
最近少し人気がさがってきたのは「何をやるのだろう」という期待が、実際の八策の中身を見てしぼんだからで、戦前、戦後と何回もゆり戻しを経験し、希望と失望を繰り返すことで国民も鍛えられてきた。かつてのように「右向け右」で動く国民ではない。雰囲気で動く人はいても少しずつ熟練し、自主的判断をする人が増えてきた。それが希望だと。
そうでありたい。

コメント
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