前回のブログで、中村敦夫さんが提唱した環境政党「国民会議」を取り上げてみたが、中村さんは国政の前に各地域で環境政党なり、環境を第一テーマにする議員を増やし、その影響力を国政の場に、と2段階構想的な考え方を持っていたようだが、それからほぼ10年。地方議員や首長の劣化は相変わらずで、議会は住民の声には耳を傾けず、首長と馴れ合った「○○議会村」を固く守っている所が多い。
私の住む長野市はその典型で、市民会館建て替えより優先すべきことがあるではないかという、市民の声は無視。
今日、市民会館の脇を通りかかったら回りは工事用の塀で囲まれ、取り壊しが始っているようだった。
震災以降、あまりに遅く、非効率な国や県の対応を待っていられないと、立ち上がる人々が被災地を中心に出始めているが(市民による放射性物質の測定など)、その活動を通じて「自覚的政治勢力」になっていくのはこれからなのだろう。
国政選挙における「1票の格差」が裁判などを通じてクローズアップされているが、人口に対する1票の格差だけを問題にするのはどうなのか。
それだけを追求していると極端な話、人口の多い都市の議員が圧倒的多数を占めることになってしまう。
格差を言うなら、選挙制度とセットで論じなければ。大政党である自・民は議員定数削減を言う時、すぐ比例部分の削減を策動するが、その根拠は何か。「比例削減なら選挙区割のややこしさがなくて、少数政党は無視していい」というだけのことで、民意の無視、民主主義の破壊にほかならない。
アメリカの惨状を見よ。
アメリカには共和・民主の2大政党しかないように見えるが、実は共産党もある。議席がないだけ。
弱肉強食的経済活動が勝手気ままにできる、したいという意味においての自由主義社会であるアメリカの国是は「反共産主義」。
FBIの潜入捜査官が誰が知りたければ「共産党の集会」にいけばいいという。メンバーの3分の1ぐらいがFBIのスパイだとか。
日本の共産党もこうしたスパイによる内部かく乱に常にさらされてきた歴史があるため、その警戒の習い性が外部から見ると「意固地・独善・猜疑心が強い」と映り、「言っていることは正しいと思うけど、でも・・・」と嫌われてしまう。
ジレンマだ。では「物分りのいい、社民党に近い政党」に変わるのがいいのかというと、それでは共産党ではなくなってしまうのでは?
七〇年代あたりに比較すると衰退してしまった共産党だが、それは社会主義諸国の90年前後の崩壊の影響と活動家の高齢化によると思うのだが、こんにちまでに培ってきた組織力とか調査力、分析力、献身的精神などを、国民の側の政治勢力構築へ協力するフェロー的立場になれば、というのは夢想だろうか。
これも佐高氏が書いた物にあったエピソードだが、政府関係の事務局だったかの職員の各党に対する評価。
公明党員は「頭は悪いけど仕事は力惜しみせずやる」
共産党員は「頭はいいし、仕事もできる」
そして社会(社民)党は「頭は悪いは、仕事はしないは」と散々の評価。
佐高氏自身は高校教員時代の組合活動以来の社民党員かシンパか知らないけど、その彼にして社民党はほめるところがない。
特に地方の社民党はどうしようもない。だけど普通の人を一番反映しているのがこの党なのではないか。
佐高さんもダメ亭主を見放せない世話女房みたいな気持で、社民党と行動を共にしているようだ。
このエピソードを書いた時点では民主党はまだ誕生していなかった。
自民党の評価は覚えてない。評価に値しないということだったかしら。