木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

山口二矢と田母神俊雄

2008年11月14日 | Weblog

航空自衛隊の田母神俊雄というとんでも幕僚長は、60才。私と同年齢だ。福島県の出身だそうだが、私は、私と同時代に「戦後教育」を受けたこの人がどうしてこういう考えを、堂々と公にするような精神構造を醸成させていったのだろうか、とそんなことを考えた。
福島県だから、私の住む長野県と小・中の学校や教師の雰囲気は似通っていたのではないかと思うのだが。
私の小学校時代(昭和30年代)に教えてくれた先生方は、ほぼ全員、日本の戦争の時代には一定の年齢に達していただろうし、だから戦時体験があるし、兵士としての体験を語ってくれた先生もいた。
その時代、好戦的なことを言う先生はまずいなかった。反戦というほどはっきりした考えを持っていたわけではないにしても「馬鹿な戦争をしたものだ」という空気が支配していた。
独善的で反時代的な考えから抜けきれない人々にとって「悪罵の対象」であるところの日教組の組合活動は盛んで、「先生たちのストライキ行動」も職場集会と言うような形ではあったが行われていたという記憶がある。
それでいて、田舎の小学校では、何かの行事、例えば運動会などの時は侵略の象徴であるはずの日の丸も、天皇賛美とされる君が代の演奏をバックに掲揚されていた。
社会科の教科書には、平易に淡々と、明治以来の日本の帝国主義的あゆみが記されていて、その最終的結末が、日本とアジアの人々を犠牲にし、原爆投下という悲惨な結果で終わった「日本の敗戦」であったとされていた。
私は特に小・中・高の時代に「反戦思想」を植えつけられたとは思わないが、「日本は間違った戦争をしたのだ」ということは、教科書で認識していた。
そんな間違った戦争を政府の思惑を乗り越えて暴走した「軍部」という存在は戦後を生きる人々にとってはいわば「軽蔑」の対象になった。
戦後、日本の憲法は、「政府の意思によって武力による戦争は起こさない。そのための戦力は保持しない」と定めた。

しかし世界情勢は、そんな日本の平和主義を許さず、アメリカの要請のもと再び日本は「専守防衛」という条件つきながら「自衛隊」という軍隊を持つことになった。
だが日本国民は「軍隊」を認めていなかった。それは警察予備隊、そして保安隊と「日陰の花」のようにひっそりと咲いたのである。
50年代、60年代、「自衛官」であるとか、「自衛官の子」であるということは決して自慢できることではなく、戦後の平和の世にあっては、そんな職業は奇異の目で見られる雰囲気があった。それは今でも基本的には変わらないと思うが。
私はここで、1960年、当時の社会党委員長浅沼稲次郎氏を刺殺した右翼少年山口二矢(おとや)を思い出す。彼の父は自衛官だった。
世の中は「安保反対」の声で埋まり、そんな空気の中で、「自衛官の子」は、まるで突っ張るように右翼政治結社に居場所を求めていった。
田母神氏の親族が自衛官だったかどうか知らないが、防衛大学校に進学した彼が劣等感とその裏返しの虚勢で、今の立ち位置を築いたように私には思える。
山口二矢と田母神俊雄はつながっている。
情けないのは当時17歳だった少年と60才の還暦の男が同レベルだというところだ。
田母神が駄々っ子のように歴史の事実をひっかきまわす言動を悪びれることなくできるのも、今の与党の政治家に同レベルの者がいるからではある。
その代表が麻生総理。「創氏改名は、朝鮮の人々が望んでしたこと」という認識は、「朝鮮半島は、日本政府と旧日本軍の努力によって圧制から解放され、生活水準も格段に向上した」という田母神の言い分と見事に一致する。
自分達のした行動と、その結果について相手がどう感じるかということに関して、まったく洞察力というものを持たないとこういう考え方になる。



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