木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

国という枠組みの中で生きる不条理

2008年11月28日 | Weblog

元厚労省次官夫妻刺殺事件で何が始まるか。
ここ数年、役所のムダ使いに対する批判が高まっていて、朝からテレビでは「ほっとけない!」と追求しているありさま。
特に厚労省は、年金、医療保険、薬害問題とその無責任ぶりが、特に国民一人一人にとって、身近な事柄だけにわかりやすく、「憎悪の標的」になりやすい。
数年前に、政治の中枢にいた人から、「これから、官僚やその家族が標的にされるようになるおそれがある」という話を聞いたことがあったが、その時点ですぐにそのたぐいの事件は起きなかったが、今、その言葉を思い起こしている。
役人に直接攻撃が向かうようになるとどういう対応になっていくかというと、極端な情報隠しに向かっていくような気がする。
現に、官庁の職員録の閲覧が図書館で制限される措置が取られるようになった。
「身の安全」を確保するという口実で、国民に知らされなければならない情報が公開されなくなるというのがこれからの流れとして考えられる。
そして、世の中一層の警備体制にチェック体制が強まっていく。
それがこの事件の結果だ。
そして、容疑者の言っている理由は、第三者から見ると、理由にもならない理由だ。
保健所に犬を殺された、と言っているが、保健所に犬を連れて行ったのは彼の父親だろう。ならば父にその憎悪が向かうはずだと思うけれど・・・。
ここ10年ほど殆ど定職についている様子がなかった、なのに数万円の家賃をきちんと払い、生活している。
借金があったとか、株取引をしていたとかという情報もあるが、それで10年もの生活を持ちこたえられたとはとても思えない。
やはりどこからか、何者からか、何かをすることによって報酬を受けていたのではと思うのだが・・・。
秋葉原の無差別殺人の青年と、今回の事件の容疑者は、よく似た軌跡をたどっている。26歳の青年と46歳の中年という年の差はあるが。
「勉強のよくできる少年時代」から青年時代に「ただの人」どころか、同輩に置いてけぼりを食ってしまった。これを「挫折」というのは私などの世代から見ると「挫折のうちに入らんでしょう。たいていの人が味わう道」というところだ。
人生の辛さ、生きにくさ、それが世の中に向かって爆発したという点で理解が及ぶのは、以前にも書いたことがあるが、19歳で連続射殺事件を引き起こした永山則夫のような場合だ。
私は今回の容疑者、右翼政治結社の一員か、暴力団組員かとも思ったがどれでもないようだ。
よく考えれば、右翼結社も暴力団もコミニュティーの1つだ。
人と人とのかかわりが他の組織より濃密で、上下関係も強要されるだろう。
共同体を拒否する人間、孤立した人間が引き起こす犯罪という点で、秋葉原事件と、元次官夫妻刺殺事件は共通している。現代的事件と言えるのかもしれない。
犯罪事実の重大さに比べて、動機の軽さが特徴だ。自分だけの狭い世界で、憎悪や被害妄想を増幅させていく。
今、見えている限りではそんなふうに思える。



麻生総理の「妄言」「暴言」はどこまでも続くが、その麻生氏の打ち出した「定額給付金」、予算の裏づけもまだはっきりしてない状態だが、この愚策、止められないなら、私達はどう対応したらよいのか、受け取るべきか、受け取らざるべきか。
わたしはまるで高額所得者ではないが、しかし私が「こんなもの」と言って受け取らなくても、そのお金が有意義な使い方に回るわけでもない。
どうしたらよいか、思案して思いついたのが、受け取ってそれをユニセフとか、イラク医療支援を行っている団体に寄付したらいいのではということだった。
何日か前に「朝日新聞」の投書欄を見ていたら、同じようなことを考えている人がいた。今回はこれで何とか気休め的な私的解決ができるが、考えてしまったのは、誰もが「愚策」と思うことを、「愚策」だといって、止められないこの世の仕組みだ。
あの戦争の時代にも「こんな戦争したくない。やめたい」とたいていの国民は思っていたはずなのに、どうすることもできなかった。
人は一人では生きられないが、国や社会に押しつぶされ、翻弄されて不幸になる不条理を思う。
「裁判員制度」という不条理もそこに迫ってきている。



コメント
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