花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「三回目のインド旅行」(13)

2014年03月04日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド
《イギリスの植民地から独立に至る経過》

最後にどうしてもインドの近代史を簡単にまとめて置きたくて、文が少し硬くなるが許して欲しい。

振り返ると、イギリスの支配が強まってからも、インド国内には何人もの王がいて、それぞれが支配する幾つもの国に分かれ、支持する宗教も異なり、互いに争いあっていた。
インド中が一つの力にまとまれない中で、イギリスの強権的で狡猾な植民地的支配が続いた。

1857年、イギリスの支配を不服とした「セポイ(イギリス東インド会社の傭兵)の反乱」が起きると、皇帝、僧侶、農民などを含む広範な大反乱に拡大して行った。
「セポイの反乱」のきっかけは、傭兵が渡された新しいライフル銃に使う火薬の包み紙を歯で切って使うようにイギリス人に指示されたが、その紙にはヒンズー教で禁じられている牛の脂やイスラム教で禁忌する「けがれた」豚の脂が沁み込んでいた。傭兵はそれに反対し、デリーを占拠し、「バハードゥル・シャー・ザファール」がインドの独立国君主だと宣言したのだった。しかし、この大反乱はイギリスに制圧された。

これを契機にイギリスは、1858年「インド統治改善法」を発布してインドの直接統治を決定したのだった。これにより「バハードゥル・シャー・ザファール」を廃位し、「ムガール帝国」は滅亡した。

19世紀末になると、インド人エリート達を中心に政治への参加、民族自決の意識が高まり、「国民会議派」が結成された。
やがて独立運動を目指して兵士の氾濫が起きたが、イギリスに弾圧された。
20世紀になると独立派が多いベンガル州の分割を意図したイギリスに反対して、イギリス製品のボイコット、国産品の愛用を決めた独立運動が広がった。
イギリスが運動を弾圧する中で、イスラム教の新しい会派が生まれたり、「国民会議派」が分裂したりした。

そんな中、「モハンダス・カラムチャンド・ガンジー」が1922年、『非暴力と不服従』をスローガンにして始めた運動は、やがてイギリスからの独立を目指す大衆運動になって行った。
中でも1930年にガンジーが始めた「塩の行進」は、イギリス植民地政府が製塩の専売権を持ち、一般人に海水から塩の製塩を禁じた法律に反対して「ガンジー」が先頭になり遠い海まで行進し、塩を作ろうとしたもので、多くの人々が示威行進に参加したのだった。
こうした大衆運動によって、ついに1947年8月15日、イギリスは「インドの独立を容認」した。初代首相には「ネルー」が選ばれた。

独立までの粘り強い運動の歴史を持つインドだが、宗教的な対立は根深く、独立時にイスラム教信仰者が多い北西部と北東部は「パキスタン」として分離独立してしまった。
さらにその後の1971年、東パキスタンは「バングラディシュ」としてパキスタンより独立した。

その後もインドとパキスタンの間には緊張関係が続き、中国との国境を巡る摩擦も終ってはいない。

        
コメント (4)
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