花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「エジプト」旅行(10)

2013年01月01日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《ルクソール東岸観光》(1)
「ルクソール西岸観光」を終えて船に戻り、昼食を摂った後は、オプショナルツアーの「東岸観光」(8000円)だった。
私は折角遥々エジプト迄来たのだからと、申し込んだ。
14時から3時間半の観光で、先ずはバスで「カルナック神殿」に向かった。

「カルナック」は、ナイル川を挟んで「東岸」が生者が暮らす町、「西岸」は死者が暮らす来世の町とされていた。
「カルナック神殿」は、東西540m、南北600mの広さに、エジプト最大規模の「アムン大神殿」と「ムート大神殿」「モンツ大神殿」がある。

古王国時代は、王がラーと一体になり、王自身が神として崇められる対象だったが、中王国時代になるとテーベ(ギリシャがナイル川の河畔地域をこう呼んだ)が発展して行くにつれ、「アムン神」(羊の頭をした神)は太陽神「ラー」と結合して最高神となり、王の地位は下がって、神に寄進する立場になったという。

「カルナック神殿」は、入り口から奥に「スフィンクス参道」→「第一塔門」→「第二塔門」→「大列柱室」→「第三塔門」→「第四塔門」→「第五塔門」→「至聖所」と順に造られている。
建築が始まったのは紀元前1800年頃の第11王朝辺りからで、紀元前170~116年に在位していたプトレマイオス8世が完成させるまで実に1700年近い間、何人もの王が様々な建物を次々と寄進し続けたのだ。
(第30王朝が寄進した「第一塔門」は未完成のまま残されている。「大列柱室」と「スフィンクス参道」、自分の「巨像」は第19王朝のラムセス二世が寄進したもの)

まず、入り口にズラリと並ぶ「アムン神」の像が見学する私達を圧倒した。さらに第一塔門から中に入って見た光景の壮大さ、列柱室に林立する太い柱に本当に仰天させられた。

(クレオパトラとアントニウスがオクタビアヌスに敗れた紀元前30年以降、ローマ帝国の属州となった。紀元395年にローマ帝国が東西に分かれると、エジプトは東ローマ帝国領になった。この頃、原始キリスト教の「コプト教」が盛んになり、紀元42年には使徒マルコが布教を始めたという。
「カルナック神殿」の一部にも、彫像が削られて十字型に変えられている場所があった)

  

  

  


実はこの間、紀元前675年に「アッシリア」王がエジプト討伐作戦を命じた。アッシリアの大軍が国内に攻め入り、古都メンフィスが占領された。
(アッシリアは、今のイラクに当たるチグリス川沿いの高原地帯にある地域で、雨が多く農業、遊牧が盛んな豊かな地域であった)
紀元前667年にはカルナック神殿の破壊を免れるためにアッシリア軍に門を開けた。アッシリア軍は宝物を奪い、建物を破壊しつくした。遂に紀元前664年には、覇権国家エジプトは終わりを告げた。
(一方、南方のヌビア軍が攻め入ると、アッシリア軍は敗退し、紀元前609年にはアッシリアも滅亡したという)

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