横浜のほほん

横浜のはずれで、のほほんと暮らす男の見聞、考察、感想をつれづれに記す

林道の草花

2011-07-16 07:02:12 | 近所

梅雨明け時期の仁ヶ久保林道は花が賑やかというわけではなかった。
これまでの記事でシシウド、ヨウシュヤマゴボウ、ヤブガラシ、アカメガシワを紹介した。




オカトラノオ(サクラソウ科)
ほかにはオカトラノオの白い花穂がところどころで見られた。





イヌトウバナ?(シソ科)
少しだけ見られたシソ科の花はトウバナの仲間と思われる。





イヌトウバナであろうか。





日向林道に入るとさらに花が少なく、日向川まで下りてようやく小さな草花に出会った。





キツネノボタン(キンポウゲ科)
小さな黄色い花はキツネノボタン。家の近所ではケキツネノボタンが圧倒的に多い。





オトギリソウ(オトギリソウ科)
キツネノボタンと同じぐらいの小さな黄色い花はオトギリソウの仲間だろう。




林道の木の実と花

2011-07-15 06:08:45 | 近所

林道を歩いていると向こうの方の木が赤く見える。





タブノキ(クスノキ科)
近づいて低い所の枝を見るとタブノキの実をつけた茎が赤くなっているのだった。





まだ萼が残っている。いずれ黒く熟すらしい。
赤い茎に比べて実の数が少ないのは、花が咲いても実らなかったのが多いのだろうか。






オオバヤシャブシ(カバノキ科)
オオバヤシャブシもところどころで見られた。






クマシデ(カバノキ科)
ユニーク中たちの実が鈴なりだったのはクマシデ。





オオバヤシャブシと同じカバノキ科だけれど実の形はずいぶん違うものだ。

手前に暈けているのはアカメガシワの花だ。





アカメガシワ(トウダイグサ科)
アカメガシワは雌雄異株で、雄花序は黄色い雄しべが目立つ。





こちらは雌花序。トウダイグサ科に多い特徴で花弁がなくて、3裂した柱頭とイガイガの子房が面白い。





チョウの翅の色

2011-07-14 07:05:48 | 近所

林道にサカハチチョウが飛んでいた。





葉っぱの上に止まると、ゆっくり翅を広げたりまた閉じたりする。





閉じたときの裏翅がずいぶん違った色合いで写っている。
光の当たり方で翅の鱗粉による反射が変化するのだろうか。






もう少し大きくて黄色っぽいものが飛んだので追いかけると草むらに止まった。





初めて見たが、たぶんキマダラオオナミシャクという蛾で、サルナシやマタタビを食草とするらしい。
そういえばひと月前に来た時にマタタビの葉が白くなっていたのを思い出す。






この林道ではそう多くはないヤブガラシでアオスジアゲハが蜜を吸っていた。
ちょっと止まっては別の花序に移るのを繰り返している。





ところがスズメバチが来ると簡単に追っ払われる。
右上に青く暈けているのが退散するアオスジアゲハだ。




林道リベンジ

2011-07-13 06:58:33 | 近所

ひと月ほど前に歩いたけれど途中で道を間違えてしまった仁ヶ久保林道をリベンジした。





この図で、上の方に仁ヶ久保林道と書いてある所から日向林道にぶつかる所までが仁ヶ久保林道。
前回は最初の方の分岐で間違えて行きどまりになってしまった。
今回は間違いなく日向(ひなた)林道に到達した。
左へ行くと大山方向だが行きどまりと分かっていたが確認のために歩いてみた。






ヨウシュヤマゴボウにキチョウ
この部分の林道は傾斜も少なく歩きやすかったが、落石箇所が多くて人には勧められない。
行きどまりのあたりで鹿の声が聞こえた。






前回は人の姿を見なかったが、今回はサイクリングの人が一人だけゆったりと追い越して行った。
この林道はサイクリングをする人たちの隠れた穴場となっているようだ。






行きどまりでUターンして日向林道を「ふれあいの森日向キャンプ場」の方へ下りた。
林道は木陰も多くて楽に歩けたが小川も滝もないのは残念。日向川に出てほっとした。






蕾のヤマユリを何株か見たあと、太い茎の先に大きな蕾がついていてシシウドかなと思った。





しばらく行って仁ヶ久保林道が日向林道に突き当たるところで咲いていた。



梅雨が明けて

2011-07-12 06:10:08 | 近所

梅雨が明けて泉の森を訪ねたら、カイツブリのヒナが巣立って親について泳いでいた。





林の中ではミズヒキの姿がチラホラと・・・





そしてアキノタムラソウも咲き始めていた。





ウバユリはどうかと思ったら少し早かったようだが、蕾にトンボが止まっていた。





コノシメトンボのようだ。かなり近づいても逃げないので羽化して間もないのだろうか。





小さな池の上をコシアキトンボが行ったり来たりしていた。





これは泉の森でなくて田んぼの傍で見たミゾソバ。
すっかり暑い夏だ。




ギンリョウソウ

2011-07-11 07:03:37 | 近所

市民の森のはずれでギンリョウソウが咲いていた。



ギンリョウソウはシャクジョウソウ科の腐生植物。
茎に沿って鱗片状の葉が何枚か見えるが白い葉である。





花も白いが一部うすい紫色が入っているようでもある。





緑の葉を持たず、地中の菌類を経由して樹木の栄養をもらう。
雌しべの柱頭は平たくて青く、その周りに雄しべが見える。





ギンリョウソウが咲いていたのは、このような環境だ。
道路を挟んで左側にマテバシイが何本かある。
右側の少し高い所に向かう斜面の日当たりがよくないところにギンリョウソウが顔を出していた。
このマテバシイの林にはタシロランが咲いていたこともある。




トルコの花や生き物

2011-07-10 06:31:06 | 旅行

トルコのエーゲ海付近を走っていると一番多く見られた木はオリーブだった。
クワの木、スモモにイチジクも多かった。

そして全域でたくさん咲いていたのはキョウチクトウだ。





ホテルの庭では八重のキョウチクトウも咲いていた。





石灰棚から顔を出しているのには驚いた。





石灰棚、ヒエラポリスの近くにはラベンダーが大木になっていた。





トロイ遺跡などに咲いていたのはネムの木。





レストランで飲み物というとチャイやコーヒーのほかにフルーツジュースも種類が多かった。
そんな一つはちょっと酸っぱいザクロジュース。これはエフェソス遺跡で咲いていた。





ビュッフェの野菜サラダ・果物コーナーにはスイカやメロンのほかにサクランボやチェリーもあった。
これは洞窟風ホテルの庭でなっていたサクランボ。





こちらはエフェソス遺跡になっていた洋梨の仲間。





トルコの国花はチューリップだ。
チューリップというとオランダを思い浮かべるが、原産地はトルコだった。
最近、野生の珍しいチューリップを持ちだそうとしたオランダ人が捕まったとガイドが言っていた。


この時期はチューリップを見られなかったが、バラの産地としても有名なのだそうだ。
コンヤのメブラーナ博物館では内部の写真が禁止だったので庭のバラ園を撮った。





ほかにも洞窟風ホテルをはじめあちこちバラがきれいに咲いていた。






バスで走っていると道路際にはずらーっとアザミが並んでいたが、たいていは花後だった。
黄色い草花もいろいろ見られたが何だかよく分からなかった。

白い花で多かったのはこれ。





レースフラワーだ。
車窓で見た黄色い花の中には黄色のレースフラワーもあったかもしれない。





車窓からはタチアオイをたくさん見たが、トロイ遺跡などあちこちでゼニアオイも咲いていた。





カッパドキアあたりで見た青い花。ワスレナグサに似ているが何だろう?





花のほかにとりなどもいろいろ見かけたが写真にはできなかった。
止まっているラクダは人懐っこく撮らせてくれた。





ホテルのプールの傍にカエルが何匹もいた。





体長は2~3cmぐらい。日本では見かけないように思うのだが・・・





長々としたトルコ旅行記を読んでいただきありがとうございました。

イスタンブールあれこれ

2011-07-09 06:49:24 | 旅行

ヴァレンス水道橋はローマ帝国時代の水道橋の遺構だ。
この下を幹線道路アタテュルク大通りが通り抜け多数の車が走っている。

イスタンブールは人口が激増し車の通行も多いが、
旧市街地はトプカプ宮殿をはじめ文化遺産が多いので道路建設というわけにもいかない。





狭い道路に大型バスまで進入し駐車場を探すのも一苦労のようだ。





そんな場所でバスを降りて歩いたのはグランドバザール。
5000もの店がある巨大マーケットで、宝石、絨毯、パシミアその他いろんなものが売っている。

この中央通りの左右に細い道がたくさん分かれている。
値打も相場も分からなければうっかり買い物はできない。





ドネルケバブなど飲食ならそれほど懐を心配することもない。





これはドンドルマというトルコアイス。長く伸びるのが特徴だ。
観光客や子供を相手にユーモアたっぷりだ。





新市街の方も人がいっぱい。
ここイスティクラル通りは両側に店が並び歩行者天国のように見えているが、
通りの真ん中をテュネルからタクシム広場まで路面電車が走っている。





タクシム広場は小さな広場で、建国の父であるケマル・アタチュルクを中心とする共和国記念碑がある。
髪を隠した女性は少ない。観光客のほうが多いのかもしれない。





これはイスタンブールではないが、水タバコを吸っている人がいたので撮っておいた。
トルコではナルギレと呼ばれる。



アヤソフィア

2011-07-08 07:32:22 | 旅行

イスタンブールの歴史地区で最後に見学したのはブルーモスクの傍にあるアヤソフィアだ。

アヤソフィアは元来キリスト教の大聖堂であり、また諸皇帝の霊廟としても用いられた。
東ローマ帝国の代表的な遺構は今は博物館となっている。





キリストと皇帝(10世紀初頭?)
本堂への中央入口はもともと皇帝の典礼にのみ使われたそうで上部にモザイク画がある。、
キリストを取り囲むように聖母マリアと大天使が配置され、キリストに礼拝する皇帝が描かれている。





見学順序は後先だが、まず2階から見た全景。
最初の聖堂は360年コンスタンティウス2世の手によって正統キリスト教会の聖堂として建立された。
2度の焼失ののち537年にビザンティン建築の最高傑作と評価される大聖堂が再建された。





円柱も壁も大理石が使われ柱頭の透かし彫りも素晴らしい。





アヤソフィアのシンボルである中央の大ドームは高さ56m、直径31m。





聖母子と大天使(870年代?)
アプス(半円形の後陣)に残る5m近い聖母子の座像のモザイク画。右側には大天使が見える。






1453年コンスタンティノポリスを占拠したオスマン帝国のメフメト2世は大聖堂を没収、モスクへの転用を宣言した。
十字架が取り外されミフラーブが加えられたが、内部の改修は必要最低限にとどめられた。
ミフラーブはメッカの方向を示すため建物の中央より、ややずれて配置されている。





またスルタンが礼拝するための祈りの席が設けられた。





6mもの円盤に描かれた歴代のスルタンの花押が何枚も掲げられていた。





漆喰を剥がした痕跡
オスマン帝国はモザイク画を破壊することはせず、漆喰で塗りつぶしていた。
1847年アブデュルメジト1世の命により、漆喰が剥がされ本格的な調査が行われたが、
調査完了後ふたたび漆喰が塗られた。
トルコ革命後、1931年にアメリカのビザンティン研究所がモザイクの調査を始め
1950年代までモザイクの調査と漆喰の除去を行った。





ディシス(13世紀後半)
2階ギャラリーに描かれたモザイク画のディシス。デイッスとは「とりなし」の意味。
下部がほとんど剥がれている。





剥がれているモザイクの拡大。




元はこういう絵だったらしい。
中央のキリストにマリアと洗礼者ヨハネが人々の罪を許し救済することを請うている。





聖母子と皇帝ヨハネス2世コムネノス夫妻(1122年から1134年頃)
12世紀に作成された、コンスタンティノポリスに残る唯一のモザイク画として貴重だという。





ベルガマの壺
ベルガモン遺跡の神殿跡の大理石で造られているという壺。
昔は外に置かれイスラム教徒が礼拝の前に体を清めるための水が入っていたらしい。



キリスト教とイスラム教、全く相容れない宗教でありながら、
貴重な建築美術が破壊されることなく残されたのは素晴らしいことであった。


ブルーモスクとトプカプ宮殿

2011-07-07 07:08:45 | 旅行

トルコは日本の2倍の面積に7200万人が住んでいる。
工業、商業も盛んだが、農業人口は国民の40%を占めバスで走っていても麦畑などが目立った。
首都はアンカラであるが、最大の都市はイスタンブールであり、急増している人口は1400万人だとか。


4世紀以来東ローマ帝国の帝都・コンスタンティノープル、15世紀からはオスマン帝国の帝都であるイスタンブール。
城壁と海に囲まれ、壮麗な宮殿と多くのモスクが立ち並ぶイスタンブールの歴史地区は世界遺産に登録されている。





歴史地区にはスルタンアフメト・モスク(通称 ブルーモスク)など多くの歴史的建造物群がある。
スルタンアフメト・モスクはオスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から7年の歳月をかけて建造された。
世界唯一6本のミナレット(尖塔)を持ち直径27.5mの大ドームの内部は青を基調とした装飾タイルやステンドグラスが美しい。





モスクとはイスラム教の礼拝堂のことであり、金曜礼拝を行う大規模なモスクは特にジャーミーと呼ばれる。





礼拝時間になるとミナレットのスピーカーから礼拝を呼びかけるアザーンが大音量で流れる。
アザーンはお経のような歌のような独特の節回しを持っている。

礼拝の時間はブルーモスクを見学できないので、しばらく待ってから入場した。
礼拝の時間が終わっても奥の方は礼拝する人のためのもので見学者は入れない。





イスラムは偶像崇拝否定なので何かの像にではなくメッカの方向を向いて礼拝する。





礼拝を行う前には、「両手・顔・頭・両足」などを洗い体を清めるウドゥーを前もって行う。
モスクの中庭などにその施設があるらしいが、この写真はグランドバザールの傍で見た施設だ。






天蓋などモスクの内壁には16~17世紀に造られたイズニックタイルが2万枚以上使われているそうだ。






少年が着飾って家族の女性たちと楽しそうにしていた。
現地ガイドによると、この少年が笑顔をしているのも今のうちで、家に帰ってから大泣きするという。
つまり彼にはこれから割礼式が待っている。ガイドも痛くて痛くて泣き喚いたそうだ。





イスタンブールにはスルタンの宮殿がいくつか残っているが今回はトプカプ宮殿を見学した。
トプカプ宮殿は15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主(スルタン)が居住した宮殿だ。
元は日本の皇居の2倍ぐらいの広さがあったそうだ。


総門(皇帝の門)には2人の兵士が警護していた。





中に入って第1庭園を進むと聖エレーネ教会が見える。
アヤソフィアができるまでギリシャ正教の総本山だったという。





この中門(儀礼の門)を入ると、いよいよ宮殿だ。
といっても大きな建物があるわけではなくハーレムのほかは厨房跡、宝物館などいくつかの建物だった。





宝物館には数々の宝石、宝飾品が飾られていたが、写真は諦めた。
テラスに出て見ると海が見えた。宮殿はボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。





宮殿の建物にはイズニックタイルがたくさん使われている。





宮殿の大きな部分を占めるのはハーレムだ。






ハーレムはスルタンとその母后、妃、愛妾、年少の王子たちと、それに仕える多くの女官や宦官が暮らしていた。






スルタンの間などいろんな部屋があった。
このステンドグラスがきれいな部屋はカフェス(鳥かご)と呼ばれ、長男でない王子が幽閉されたこともあるらしい。





ハーレム内で最も大きな権力を持ったのはスルタンの母だったという。






ハーレムから出ると軍楽隊が演奏していた。
オスマントルコ以来トルコの軍隊は士気向上のために軍楽隊を連れて船上に赴いた。
演奏される音楽は太鼓とラッパを中心としたメフテルと呼ばれる体系のものである。






どんな音楽かは ↓ のYouTubeなどで紹介されている。

Turkish Ottoman Military Band Mehter




トルコの交通

2011-07-06 07:24:57 | 旅行

カッパドキアから首都アンカラへ向かう途中にキャラバンサライ(隊商宿)があった。
左に見える道は昔のシルクロード。





宿の内部。長い道のりを歩いてきた人々が一息ついて元気を取り戻したことだろう。





さらに進むとバスの窓から大きな湖が見えた。延々と続くのもそのはずで琵琶湖の2~3倍もある。
トウズ湖といい深くても3mぐらいの塩の湖だ。
湖岸が白く見えるのは塩だと思うが下りて確かめることができなくて残念。





ツアーはバスで長距離を移動するのが常で、車窓の景色も楽しみの一つだが、
夏は日差し側の座席になると冷房していても暑くてカーテンを引いてしまう。





今回はバス以外の乗り物で移動することもあった。
まずマルマラ海のはずれダーダネルス海峡をヨーロッパ側からアジア側へ渡るためフェリーに乗った。





つぎにイズミールからセルチュクまでは1時間半あまりのローカル列車だった。
大きめの2両連結だが地元の人も一緒で途中の駅から乗る人も多くて大変混雑した。





エフェソス遺跡の入口セルチュク駅。低くて狭いプラットフォームだ。
横を通過する列車がないので線路に出てもいいのかもしれないが乗降りは大変だ。






アンカラからはアンカラ・エキスプレスという特急寝台車でイスタンブールまで行った。
大体8時ごろには着くかなというおおらかなダイヤだ。

個室で2段ベッド。まずまず良く眠ることができた。





個室の中に洗面台と冷蔵庫があり、トイレは各車両の前後にあった。





6時にモーニングノックがあって、6時半から簡単な朝食。





さほど遅れることもなくイスタンブールに着いた。ただしまだアジア側にいる。
西ヨーロッパとイスタンブールを結ぶ有名なオリエント急行の終着駅はヨーロッパ側の旧市街にある。





今回のツアーではずっと快晴が続いたが、イスタンブール駅から旧市街への1時間ちょっとは雨だった。
イスタンブールではこのような連結バスがたくさん走っていた。





こちらのように連結した路面電車もたくん走っていた。





タクシン広場とテュネルを結ぶイスティクラル通りには昔なつかしい電車も走っていた。





テュネルは世界一短い地下鉄だ。
カラキョイ駅から坂上のテュネル広場駅までの全長573メートル高低差60メートルを3分ぐらいで走る。


自由時間がなく、路面を走る電車やバス
それに普通の地下鉄などに載ってみることができなかったのは心残りだった。


カッパドキア

2011-07-05 07:29:40 | 旅行

4日目の夜はアナトリア高原・カッパドキア・ウチヒサルの洞窟風ホテルに泊った。





朝5時前(サマータイムなので日本の4時前)に起きて朝焼けを見た。





ホテルのすぐ下は鳩の谷と呼ばれている。
凝灰岩のあちこちに穴があけられているのは、鳩に巣を作らせて中の糞を集めてブドウ畑の肥料にしたという。





5時20分にはすっかり日が昇った。





鳩の谷の向こうの方にたくさんの気球が上がった。
上空から見る朝のカッパドキアはどんな光景なのだろう。





明るくなって左手にはっきり見えてきたのがウチヒサルの城塞。
ミナレット(尖塔)がモスクの存在を知らせる。



それにしてもカッパドキアとはなんとも見慣れない地形の集まりだ。




前の日、車窓から白い行きの残る山が見えた。3268のハッサン山だそうだ。





そして朝になって遠くに見えたのはエルジェス山。標高3916m、富士山より少し高い。





カッパドキア地方はエルジェス山やハッサン山の噴火が何度も繰り返され、火山灰(凝灰岩)と溶岩(玄武岩)とが交互に積み重なった。




その後、長い時間をかけて風と雨で浸食されてさまざまな形を生み出す。





これは夜明けに遠くから見たウチヒサルの要塞だ。
尖った形に浸食されているものが多い。





キノコ岩は上部の硬い岩(玄武岩)の方が浸食が遅いためにチョコンと笠が残ったのだろう。





これは3人姉妹の岩と呼ばれている。





こちらはラクダ岩。なるほど。





これにはなんと名付けたらよいだろう。





大きな岩は鳩の穴を作ったばかりでなく洞窟を掘って住まいとしても利用した。
これがそうかどうかは分からないが今でも住居にしている人がいるそうだ。





カッパドキアには単一の洞窟住居ばかりでなく地下8~9回の地下都市が30カ所以上もあったそうだ。





6世紀以降、キリスト教徒たちがアラブ・イスラムの攻撃から身を守るために築いたものだ。
これよりもっと腰をかがめなければならない低く細い通路が迷路のように張り巡らされている。





これはたしか台所だと思ったが、ほかに食堂、寝室、食糧庫、トイレ、教会、教室、通気孔などさまざまな場所があった。






石臼まで残されていた。


綿の城

2011-07-04 07:03:13 | 旅行

3日目の宿はアナトリア高原の最西端パムッカレのパムホテルだった。
若い人たちが遅くまでパーティをやっていた。
バンド演奏やダンスも入り楽しそうだが節度も保ち良い雰囲気だった。
伝え聞くところでは卒業パーティだとか。





この地方には温泉が湧き、ローマ帝国時代は温泉保養地だったらしい。
ホテルにも温泉プールがあった。温泉の出ているところから3段ぐらいになっていて写真は最下段。
入ってみると温度は30度台ぐらい。底に泥が溜まっていて体に泥をこすりつけると美容に良いのだろう。





翌日、朝一番にヒエラポリスに向かう。
ヒエラポリス・パムッカレは世界遺産(複合遺産)に登録されている。





ヒエラポリスは2世紀ごろローマ帝国の温泉保養都市だったが、14世紀の大地震で廃墟となった。





案内板によるとヒエラポリスは段丘の台地にあったらしい。
7番はアゴラ(広場、市場)、4番が門でそこから大通りが続いている。
右の方の白い上にポツっと見える赤い印が、この案内板のあるところ。そのちょっと左上が温泉。





その白い部分はこのような石灰棚。つまりヒエラポリスは石灰棚の上部に造られた町だった。





パムッカレのパムはトルコ語で綿、そしてカレは城のことで、パムッカレとは綿の城という意味だ。
パムッカレに向かう途中の車窓からは山肌に白い城があるように見えた。





段丘に降った雨水が石灰岩に浸透し炭酸カルシウムを含んだ地下水となり、地熱で温められて地表に出てくる。
その温水中の炭酸カルシウムが沈澱して長い年月をかけて石灰棚を作ったものだ。





今は毎日場所を変えて一部の区域だけ裸足で入ることができる。
滑りやすいところを注意しながら歩くと凹凸により足裏が刺激されて気持ち良い。





大きな模様。そして・・・





ごく小さな襞。いろんな造形が見られる。





ヒエラポリスに咲いていた花はケッパー(フウチョウソウ科)で蕾をピクルスにする。
フウチョウソウというと日本ではクレオメを思い出す。





ナデシコも咲いていた。





学名のDianthus(ディアンツス、ダイアンサス)は神聖な花という意味で、
植物学の祖、ギリシャのテオプラストス(BC371~287)が名付けことに由来するそうだ。




トルコの公衆トイレ

2011-07-03 06:12:51 | 旅行

これはエフェソスの遺跡にあった古代のトイレ。





このようにずらーっと並んでいる開放的な公衆トイレは大理石製の豪華なものだ。





下の溝は水が流れるので水洗便所だったそうだ。
この区域は男の小に利用されたのだろうか? それとも上の板がなくなっただけ?





今、トルコの公衆トイレは若干の使用料(25~50円ぐらい)がかかる。
レストランや博物館の中などは無料だが、街中ではこのような料金所があったり係が立っていたりする。





洋式もあるが、このようなトルコ式が多い。
赤い桶に水を入れて流す方式だったようだが、今は上にあるタンクのノブを引けば水洗になる。





男の小のほうは見慣れたものだが、ずいぶん高く設置されているのでやや苦労する。
何十年も前にアメリカ出張した時に驚いたことの再現だ。





文字通り ここを押す 馬鹿は・・・いないか。
下向きの矢印があると分かりやすい。


エフェソス遺跡

2011-07-02 06:58:01 | 旅行

トロイの遺跡を見た翌日、エーゲ海沿岸を南下しエフェソス遺跡にやってきた。
エフェソスは広大な遺跡でまだまだ発掘中だそうで、ガイドについて歩いても一部しか把握できない。
写真としては、どうしても有名なものの羅列になってしまう。




  
ヴァリウス浴場と水道管
エフェソスは紀元前11世紀イオニア人が造った都市国家でエーゲ海沿いの良港として栄えたが、
紀元前287年港が土砂崩れで埋まり疫病も発生したため丘の上のこの地に遷都した。
以来、東ローマ帝国の時代まで長く繁栄したが、8世紀に中東イスラムの勢力拡張に耐えられず滅亡した。





オデオンは2世紀中ごろに建設された音楽堂。当時は屋根もあったらしい。




   
オデオンの階段にはライオンの足がデザインされている。





BC1世紀に建てられた碑で、スラ、その息子ガイウス、孫のメミウスという3代の支配者を祀っている。





クレステ通りに立つヘラクレスの門。ライオンの毛皮をまとったヘラクレスが彫刻されている。





2世紀に造られたころヘラクレスの門の上部にはアーチがあり、勝利の女神ニケの像のレリーフが飾られていた。
ニケは英語ではナイキ。スポーツ用品の名前に使われている。






102~104年ごろに建立し皇帝にささげられたトラヤヌスの泉。
高さが12mもあった実物は修復中で、これは縮小コピーされたものだそうだ。





クレステ通りの脇にモザイクの床があった。





今も威容を誇るセルシウス図書館は117年に完成。1万冊を超える蔵書があったという。

通りを挟んだ近くに娼館があり地下トンネルでつながっていたともいうが、本当だろうか。




 
中に進むと知恵、運命、学問、美徳の4体の女性像があるが、これらはレプリカで本物はウイーンの博物館にある。


 



収容人数2万5千人の大劇場は、他に類を見ない大きさ。
観客席は高さ38m、直径158mの半月形になっている。






エフェソス遺跡に隣接してアルテミスの神殿跡がある。
豊穣の女神アルテミスを祀って紀元前7世紀頃から120年かけて建てられたらしい。
直径1.2m、高さ19mの円柱が127本もあった壮大な神殿だが、今は1本しか残っていない。
背後にビザンツ時代の城塞、イーサーベイ・ジャーミィ、聖ヨハネ教会などが見える。




  
円柱の上にコウノトリが巣を作っている。
そういえば、エフェソスへの入口であるセルチュク駅前の水道橋の上にもコウノトリがいた。



エフェソス遺跡もいずれ世界遺産に登録されることだろう。