横浜のほほん

横浜のはずれで、のほほんと暮らす男の見聞、考察、感想をつれづれに記す

御室の桜

2012-04-24 07:04:33 | 京都



京都市右京区の真言宗・大内山・仁和寺は宇多天皇により888年に創建された。
出家した宇多法皇が住まいとしたことから御室(おむろ)と呼ばれる。
徒然草にも仁和寺の法師のことが出てくる。






京都には嵐山、平安神宮、円山公園、醍醐寺など桜の名所が多いが、仁和寺もその一つだ。







遅咲きで背の低い御室桜が昔から市民に親しまれている。
子供のころは大人の背丈ぐらいの木と思っていたが、しばらくぶりに見ると思ったより高い。
それでも目の高さで花を見られることには変わりがない。







御室桜は御室有明という里桜で昔は八重が多かったそうだ。
株分けでは一重になることが多いということで今年2月にはクロ-ン苗が植えられた。







昔はお花見宴会もやったものだが今は木道が設置され歩いて見るだけだ。







枝が下の方まで下がるものも多い。







散らばる白い花びらに混じる黄色いのはタンポポだ。







全て日本のタンポポで多分カンサイタンポポなのだろう。







たくさんの人がカメラや携帯を構えている。








雲のような花の上に浮かぶ五重の塔を撮りたいらしい。
みなさん、曇り空なのが残念だったろう。







境内のあちこちには御衣黄や関山などお馴染みの八重桜や枝垂れ桜も植えられている。







ミツバツツジもきれいだった。








御室の桜は背が低く下の方から枝が出たり株立ちしているようなのも多い。
千葉のおーちゃんのコメントにより追加。



保津峡

2011-09-12 10:26:27 | 京都

京都で高校の同窓会があったので参加して、翌日ひさしぶりに保津峡まで行ってきた。




トロッコ電車には乗らずJR山陰線の保津峡駅で降りて下流へ向かって歩く。

保津川下りの船は少なく岸辺で待つ写真屋さんも暇そうにしていた。




落合と呼ばれるところから支流の清滝川に入る。
落合あたりは子供のころ水泳や飯盒炊さんで何度も来たところだ。

鮎を小さな竿で掛け釣りしているらしいおじさんがいた。




1時間ちょっとで渡猿橋が見えて清滝に着いた。
赤い渡猿橋は愛宕山への参道にかけられていてTVドラマにもときどき登場する。

中学の時に毎年冬の学校行事で愛宕山登山があったのを思い出す。
全校生徒が嵯峨釈迦堂清涼寺に集合して清滝を通って愛宕山頂上まで駆け上ったものだ。




渡猿橋からちょっと下流に芭蕉の句碑があった。
昭和47年に建てられたので子供のころにはなかった。

「清滝や波に散りこむ青松葉」

芭蕉は大坂で病に臥し「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が辞世の句とされている。
その夏、清滝を訪れた芭蕉は「清滝や浪に塵なき夏の月」を作っていて、
「旅に病んで」の句を作った翌日、元禄七年十月九日に「清滝や波に散りこむ青松葉」に改作した。
これを芭蕉の辞世の句と主張する人もいるらしい。
その三日後に亡くなるまで作句したり練り直したりしている姿からは辞世とは何だろうと思わせる。

近くに与謝野晶子の歌碑もあった。



のんびりと歩いている頃、高校の同級生は姫路城から大阪城まで100kmのウオーキングをしていた。
彼は冬にも完歩したことがあるが今回は残暑の中、12時スタートから午後の間は相当きかったことだろう。
しかし前回より記録を短縮して18時間半で大阪城に到着したという。その気力と体力は素晴らしい。


奈良まで足を延ばす

2009-11-03 06:00:46 | 京都

同期会を終わってすぐに帰るのはもったいないので翌日奈良へ行くことにした。
関東組5人に地元の3人がつきあってくれた。

興福寺で「お堂で見る阿修羅」というのをやっていた。
東京や九州を回っていた阿修羅像が奈良に戻り、
仮金堂に釈迦三尊、四天王、十大弟子、八部衆が勢ぞろいした。
八部衆の一つ阿修羅像は釈迦如来のすぐ前に安置されていた。

北円堂では国宝の弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像、四天王像が公開されていた。

朝一番に行ったので、10分待ちぐらいで拝観できた。



その後、大仏殿の前を通って東大寺二月堂まで歩いた。



何年か前にお水取りを拝観したのを思い出す。
庭は人で埋め尽くされ頭上に大たいまつの火の粉が舞った。



そんなお水取りの様子を描いた額を見つけた。



お堂の周りにはたくさんの掲額が奉納されていて、ユニークなのも見受けられ楽しめる。
榊莫山師の書。 百華百香と読める。




三笠山のふもとの木陰に腰をおろし、柿の葉寿司で昼食にした。
携帯シングルコンロで湯をわかし作ってくれた味噌汁が美味しかった。



近くの有名料理屋さんの前庭の日陰で一頭の鹿がグッスリ眠り込んでいた。
夏の風景のようだった。




春日神社から猿沢の池まで歩いたら3時を過ぎていた。
奥に見えるのは興福寺・南円堂。


お土産を買って近鉄で京都に戻り夕方の新幹線で帰った。

3日間ずっと好天に恵まれて、ありがたいことであった。


こんな京都も

2009-11-02 07:50:49 | 京都

同期会のために着いた京都駅。
昼食を約束した友人との待ち合わせ時刻まで45分ほどあったので近くを歩いた。

伊勢丹の横を西へ進み右折するとオムロンの本社があった。
われわれの高校時代は近くの御室に本社があり立石電機といった。

新しい本社ビルの南側、敷地内と思われるところに稲荷神社がある。
神社名も分からないが鳥居には文政13年と刻まれている。
1830年だから黒船来航まで20年ぐらい前の時代だ。



オムロン本社のすぐ西、油小路通りに不動堂明王院(霊石不動堂)がある。
堂前の縁起書によると、弘法大師が嵯峨天皇に東寺を建立してもらった時に
鬼門に当たるこの地に不動尊を祀ったという。
この地で見つけた妙霊なる石に弘法大師が自ら不動像を彫りこんだものだ。
この霊石不動が一般の目に触れるのを恐れ、石棺に収め地中の井戸深くに安置したそうだ。
代わりに堂内には不動尊立像が安置されている。
高野山、成田山の不動尊と並ぶ空海作の三体不動尊と称されているとは知らなかった。



不動堂の北隣は道祖神社だ。
猿田彦大神と 天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭神とする本社に加え、
末社として天満宮、稲荷社、幸神社も狭い境内に並んでいた。




さて1泊の同期会も2時ごろに解散となり宿へ行くには早いので、
関東組のうち3人でどこかへ行こうということになった。


嵐電と地下鉄東西線を乗り継いで蹴上から南禅寺方面へ歩いた。

これは何だと思われるだろうか。
実は狛猪の阿形を正面から見させてもらったものだ。



こちらが吽形の猪だ。
南禅寺・聴松院は大聖摩利支尊天を祀っている。
摩利支天は7頭の猪に乗っているということで、本堂を狛犬ならぬ狛猪が守っている。




聴松院から湯豆腐の奥丹の前を通って進むと小さな流れにぶつかった。
疎水の支流だろうか。 友人の推奨で流れに沿って西へ歩く。

この道は野村碧雲荘の生垣に沿っているらしい。



屋敷の南端で右折したこの場所は雰囲気の良い枝垂れ桜の穴場だそうだ。
また野村碧雲荘は非公開だが、6月ごろ前庭の菖蒲は垣間見られるかもしれない。




永観堂門前を通って若王子に来ると有名な哲学の道だ。



しばらく進んだところで疎水を渡ると大豊神社がある。
椿の美しいことで知られ、同じころに咲く枝垂れ梅も京都一だとか。




祭神は少彦名命、菅原道真、応神天皇だが訪れる人はそう多くなく、狛犬には蔦が巻きついている。



境内にはいくつかの社がある。
これは大国社で、ここでは狛犬の代わりに狛鼠が見られる。
大国主命は鼠に助けられたという。


   

やはり阿吽になっている。
左は豊穣や薬効を象徴する水玉を抱え、右側は学問を表す巻物を持っているようだ。




愛宕社と日吉社もあり、狛犬の代わりに狛鳶と狛猿が守っている。


御所の厳島神社

2009-03-05 08:43:16 | 京都

東寺から城南宮までの時間を利用して訪れた京都御苑は京都市の中心部にあり、
東西700m、南北1300mの中に京都御所、大宮御所、仙洞御所などがある。
京都御所は明治遷都まで禁裏と呼ばれ天皇の居所であり、仙洞御所や大宮御所は上皇などの居所であった。

京都御苑には3つの御所のほかに200軒もの宮家や公家の屋敷があったそうだ。

子供のころは玉砂利の広い道と長い塀ばかりの印象であったが、
従兄に連れられて行った弟がセミを捕ってもらったと喜んでいた記憶はある。
きっと終戦後の当時から緑は深かったのだろう。
最近になって環境維持や公園としての整備がきちんと行われているようで、
トンボ池、バッタが原、コオロギの里、出水の小川などと自然を思わせるゾーンが出来ている。

閑院宮邸跡では御所の自然の写真展をやっていて、四季の花や昆虫、鳥など多くを見ることができた。



先ほども触れたように子供のころは玉砂利と塀の記憶しかなく、
このような池があることに初めて気づいた。

ここは五摂家のひとつであった九條邸跡だ。
池のほとりに鳥居が見える。


ここは厳島神社で九条家の鎮守社だったらしい。
広島の厳島神社の分社の一つで、もとは平清盛が勧請したものだという。

この鳥居は中央部分を弓形に盛り上げ、左右になだらかなに流れる破風形が特徴だ。


祭神はつぎの三女神であり、神仏習合により弁財天の神社となった。
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと) 田心姫命(たごりひめのみこと) 湍津姫命(たぎつひめのみこと)
加えて清盛の母の 祇園女御(ぎおんのにょうご)が合祀されている。



御所に関係ないが、城南宮の補足を付け加える。


これは2年前に撮ったヤマアイ

先日の城南宮の記事でヤマアイが源氏物語の若菜下に出ていると書いた。
六条院となった光源氏が住吉参詣をしたときの東遊の舞人の衣裳について
「山藍に摺れる竹の節は、松の緑に見えまがひ・・・」と書かれている。
山藍で摺り出した竹の模様の衣装は、松の緑に見間違えて・・・
ヤマアイを染料としたときの色合いが想像できる。


城南宮の枝垂れ梅

2009-03-04 08:25:05 | 京都


城南宮神苑の源氏物語・花の庭では3月21日まで「しだれ梅と椿まつり」が行われている。





春の山に植えられた150本の枝垂れ梅が花の姿と香りを楽しませてくれる。




紅梅、白梅、一重に八重が花盛り。




人出はそこそこだったが、人が入らないように撮るのはちょっと苦労した。


この春の山には6月になるとササユリも咲くという。



わずかに散り始めた花びらも紅白いりまじっている。




ヒヨドリも花に取り囲まれてご満悦。
見えなかったがメジロも来ていることだろう。


もちろん蜂もせっせと蜜を集めていた。




城南宮

2009-03-03 08:22:09 | 京都

城南宮拝殿

東寺からさらに南へ行って京都市営地下鉄竹田駅の近くに城南宮がある。
都の南の守護神として創建され、以下の三祭神を祀っている。
国土守護の国常立尊(くにとこたちのみこと)
武勇に秀でた八千矛神(やちほこのかみ)(大国主命)
安産と育児の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)




本殿、前殿、左右の翼廊が一体となった社殿は城南宮独特の複合建築、総檜造り。

城南宮のある鳥羽の地は交通の要衝にして鴨川を臨む景勝地で貴族たちの別荘地ともなった。
平安時代の末には白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を開始。
歌会や宴、船遊びや競馬(くらべうま)が行われ華麗な王朝文化が花開いた。
白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と4代150年にわたり政治・文化の中心となり副都心の賑わいを見せた。

また熊野詣の際には城南宮に立ち寄り道中の安全を祈り身を清めて出発する慣わしとなり、
方除け・旅行安全の神としての信仰も広がった。

明治維新に際しては薩摩藩が城南宮に陣を構えて鳥羽・伏見の戦いが始まった。





白河上皇は光源氏の大邸宅「六条院」の理想を追って城南離宮の造営に取り組んだといわれ、
城南宮の神苑には源氏物語を彩る百種あまりの植物が植栽されている。
神苑には春の山、平安の庭、室町の庭、桃山の庭、城南離宮の庭などがあり、
四季それぞれの草木や風情を楽しむことができる。

春の山では枝垂れ梅が見頃であったが明日に譲る。




曲水の宴が行われる平安の庭。
歌人たちがせせらぎのほとりに座ると川上の童子が羽觴(うしょう)を流す。
歌人は流れ来るまでに和歌を詠み短冊にしたためて羽觴の盃をとり酒をいただく。
宴の間では白拍子も舞うという優雅な遊びだった。
曲水の宴




枝垂れ柳のやわらかな姿も平安の庭に似つかわしい。


苑路の脇にずーっと生垣のように植えられたゴモジュに花が咲いていた。
スイカズラ科のゴモジュは沖縄方面に自生し、琉球王城の御門樹から名付けられたとも言われる。



春の山には春の七草も植えられていたが、花が咲いていたのはハコベだけだった。



ヤマアイ(トウダイグサ科)の葉は青摺(あおずり)と呼ばれ日本最古の染物だが、
中国からアイ(タデ科)が伝来し濃い藍色に染められるようになると青摺はすたれた。
万葉集に「山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ」とあり、
源氏物語では若菜下に出てくるらしいが確かめていない。


京都・東寺

2009-03-02 08:39:54 | 京都

京都で用事が済んだ後、東寺、京都御所、城南宮を駆け足で回った。

京都駅の少し南、東寺のお堀ではダイサギが食べ物を探していた。


そのすぐ傍の南大門から金堂を望む。
金堂の屋根の中央部が一段切り上げらているのが特徴的だ。


平安京に遷都された当初は都の正門として羅城門があり、その東西に東寺・西寺があったそうだ。
今は羅城門(羅生門)も西寺もなく東寺(正式名称は教王護国寺)のみが健在だ。


南大門から北へは金堂、講堂、食堂が一直線に配置されている。
この三つは拝観料を払えばゆっくり見られるが今回は時間の関係もあって割愛した。



金堂の東側にある五重塔は新幹線や近鉄の車窓からも見えて東寺のシンボルだ。
高さ約57mは日本最大の木造古塔で、下層の屋根と上層の屋根の大きさに大差がないのも特徴だ。



境内の西北部には大師堂(御影堂)がある。

823年、嵯峨天皇から空海に金堂が与えら、835年には講堂が完成する。
それ以来、教王護国寺は弘法大師(空海)ゆかりの真言宗総本山として栄えている。


この大師堂は弘法大師の住居であったとされていて、
弘法大師座像と秘仏・不動明王坐像が祀られているそうだ。


大師堂の境内には河津桜が咲き、メジロが蜜を吸いに来ていた。


校倉造の宝蔵・・・創建時期は謎が多いらしいが平安初期と考えられている。


シダレヤナギの蕾が膨らみ始めていた。

せんぐり

2008-12-06 08:14:51 | 京都

京都に住むsaganoさんが新聞に連載されている「折々の京ことば」を
切り抜きコピーして送ってくれたので、簡単に製本してみた。


つろくする、えらしり、さら、しがんだ、やつし、はすかいなど54の懐かしい言葉が並んでいる。




窓の外ではメジロが「せんぐり」やって来てマンリョウの実を食べている。
「せんぐり」は 次から次へと、順々に の意味。

おおきに。


____________________________

つろくする  釣り合いがとれる 調和する
えらしり   よく知っていること
さら      新品のこと  まっさら とか さらっぴん も、よく使った
しがんだ   しけた様子の子供(人)
やつし    おめかし  おめかしをする人
はすかい   斜め  斜め前

京都だけでなく大阪など関西弁として使われているものもあると思う。

京都・大沢池

2008-05-21 08:24:24 | 京都

広沢池のすぐ西北に後宇多天皇陵がある。
後宇多天皇は退位後、大覚寺門跡となり大覚寺御所で院政を行ったこともある。
南朝の後醍醐天皇の父だ。

新幹線で京都に近づいたとき山に黄色い固まりがモコモコと見えた。
横浜あたりに比べてシイノキがずっと多いように見えた。


後宇多天皇陵を出て西へ進む途中でも、いろんな木が見られた。


カナメモチ(バラ科)
大きな木の白い花に寄って見るとカナメモチのようだ。
生垣や公園以外の自然なカナメモチは初めて見たような気がする。


嵯峨野には竹も多い。
観光案内には野宮神社に続く竹の小道が紹介されているが、
それ以外の多くの場所で竹林の素晴らしさに出会える。
見るばかりでなく、竹の葉が触れ合い幹がぶつかり合う音を聴くのも飽きない。


太い竹の根元に咲くのはニガナの仲間だろうか。


近くの木に止まったチョウの名前を調べるとサトキマダラヒカゲというらしい。
サトキマダラヒカゲの食草はタケやササの仲間だそうで、なるほどと思う。


やや山のほうへ入ったところに直指庵(じきしあん)がある。
隠元に学んだ独照禅師が黄檗禅の寺として開いた。
その後衰退していたが、幕末に近衛家の老女村岡局が浄土宗の寺として再建した。
四季折々に楽しめる庭園だが紅葉には人出が多いのだろう。


テレビの「篤姫」で星由里子さんが演じている村岡局は、
篤姫の養母代わりとして江戸城にも出向いた。
その後、勤皇活動を熱心に行い安政の大獄では処罰を受けたが、
維新後は名誉回復し直指庵で余生を送った。享年88歳。


直指庵から南へ下がると大覚寺と大沢池に至る。


ここは広沢池以上に映画のロケ地に使われている。


コバンソウ(イネ科)
ある程度自然に任せているためか、おなじみのコバンソウが群生している。
道に沿って広がっているが、写真にはごく一部しか入れることができなかった。


今回は大覚寺の拝観はしなかった。
これは池の北側の心経殿跡に40年ほど前に建てられた心経宝塔だ。
手前に見える大きなクスノキには花が咲いていた。


キツネアザミ(キク科)
心経宝塔の西側にある聖天堂も時代劇に登場することがある。


大覚寺門前の細い溝を覗くと、水辺に小さな青い花が群れている。


ワスレナグサ(ムラサキ科)
自然のワスレナグサは我が家のものより小さく色も薄いようだ。

訂正:ワスレナグサでなくミズタビラコ(ムラサキ科)と呼ぶものらしい。
ちょびママさんに教えていただいた。


嵐山駅に向かう途中、川の傍に小さな石仏があった。
向こうに見えるのは、俳優長谷川一夫が住んでいたことのある家だという。

駅前でお惣菜屋さんをやっている友人と会った後、夜は小学校のクラス会に出席した。
長い記事になったので割愛する。



追記:ワスレナグサとしていたものは我が家のと少し違うと感じていたが、ミズタビラコというものだと教えていただきました。
花の芯が黄色くないのも区別点のようです。
ちょびママさんありがとうございました。  5月27日

京都・広沢池

2008-05-20 08:03:47 | 京都

日曜日に京都で小学校のクラク会があったので、とんぼ返りで行ってきた。
昼前ごろJR太秦駅から北へ向かい、
千代の古道、山越、広沢池、直指庵、大覚寺・大沢池、JR嵐山駅まで
北嵯峨をぐるっと回ってきた


アカメガシワ(トウダイグサ科)
山越あたりは、桜で有名な佐野藤右衛門さんの植藤造園など造園業が多い。
通りがかりにウツギや山ツツジのほか、アカメガシワの新芽を見ることができた。


広沢池(ひろさわのいけ)は子供のころからよく訪れた場所で、
たまには友人たちとボートに乗ったこともあった。


道路を挟んで池堤を降りたところの児童公園も昔からあった。
学生時代には夜に付近を歩き回った後、木製のブランコに腰掛けて話し続けたこともある。


アメリカフウロ(フウロソウ科)
池の傍のアメリカフウロやコメツブツメクサも昔から咲いていたのだろうか。
まったく記憶がない。当時は花に興味がなかった。


池の西畔の道路沿いに児(ちご)神社がある。
成田山新勝寺を開創した寛朝大僧正が後に嵯峨広沢の地に遍照寺を建立した。
僧正が池畔で座禅をするとき侍児が傍に座っていたそうだが、
僧正が亡くなったとき悲嘆した侍児は後を追って広沢の池に身を沈めた。
それを哀れと感じた近在の人が慰霊のためにこの社を創建したと伝えられる。


廣澤山遍照寺は池から少し南へ行ったところにある。
寛朝総状が創建した当時は池の北側、遍照寺山の山麓にあり、
真言宗仁和寺流の根本道場として名声を高め広大な寺領と荘厳な伽藍を有したという。

ここは私の中学1年の担任の先生が住職をしておられたお寺でもある。


テイカカヅラ(キョウチクトウ科)
花などを眺めながら池に戻る。


児神社から少し北へ入ると観音島というごく小さな島があり、小橋で渡れる。
ここは時代劇のロケ地として数多く利用されている。


この壹美白弁財天社の祠のほか、千手観音像がおかれている。


右に広沢池、左に田畑を見て北へ進む。
道路は舗装されたが、景観は昔とあまり変わらない。


ナワシロイチゴ(バラ科)
池を過ぎると右側は山裾になり、後宇多天皇陵へ続く。

残りは明日に。

渉成園

2008-03-08 07:39:06 | 京都

真宗本廟・東本願寺から少し東へ行ったところに渉成園がある。
渉成園は東本願寺の飛地境内地で、
周囲に枳殻(からたち)を生垣として植えたことから枳殻亭(きこくてい)とも呼ばれる。
昨日の智積院の庭は座って見る庭たが、こちらは池泉回遊式であり石川丈山の作庭と伝えられる。

東本願寺のHP 参照
渉成園は10600坪の敷地を有し、
大小二つの池と数棟の茶室、持仏堂、書院群で構成されている。
これは印月池という大きいほうの池で、向こうの島に茶室・縮遠亭が見える。


侵雪橋
この島には侵雪橋と回棹廊で渡ることができる。
頼山陽は渉成園の主な建物、景物を「十三景」として紹介し、その風雅を讃えたという。
侵雪橋や回棹廊もその一つだ。


回棹廊
回棹廊の左側には楓が植えられ秋には紅葉が見事で丹楓渓、と呼ばれる。
回棹廊も昔は朱塗りの反り橋だったらしい。


漱枕居
印月池の西南にある漱枕居は水上に乗り出すように建てられている。
縮遠亭(茶店)、漱枕居(酒店)に、もう一つ代傘席(飯店)と茶室もあって、
煎茶三席がそろった珍しい例らしいが、茶のたしなみがない私にはよく分からない。


漱枕居の近くの双梅檐(そうばいえん)には、紅梅白梅が20株ほど植えられている。


縮遠亭の築山のふもとに石組みの横穴が設けられ底に井筒がある。
縮遠亭で茶会があるときの水源だったが、今は枯れている。


この塩釜の手水鉢は石造宝塔の塔身を転用したもので、
全国の庭園で見られる塩釜の手水鉢の手本となるオリジナルだそうだ。


話は前後するが、渉成園の西門を入るとすぐに石垣が目に入る。
石橋のような長い切石、礎石、山石や瓦などさまざまなものが組み合わされている。


丸いのは石臼のようだ。


庭園の名前の由来となった枳殻があちこちに見られる。
梅、サクラに続いて4月下旬ごろには白い花が咲くことだろう。


智積院

2008-03-07 08:57:04 | 京都

智積院講堂
三十三間堂から七条通りを東に進むと東大路通りを渡ったところに智積院(ちしゃくいん)がある。

真言宗智山派総本山・智積院 は、
成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山をはじめ3000余りの寺院教会を擁する。

弘法大師没後およそ260年、興教大師が高野山に大伝法院を建て教学の振興におおいに活躍した。
その後、根来山へ移し根本道場とした中の学頭寺院が智積院であった。
豊臣秀吉と対立し根来山は焼き払われたが、秀吉の死後は徳川家康の加護により京都の祥雲禅寺を拝領し、
五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院となり境内伽藍が拡充された。
祥雲禅寺は秀吉が夭折した我が子の供養のために発願して出来たお寺だ。
その内部装飾を託された長谷川等伯は長男久蔵や弟子たちと全身全霊で仕事に打ち込み、
800畳とも伝えられる大きな客殿の障壁画などを作り上げた。


その後、金堂などが再度の火災で消失していたが、昭和50年に現在の金堂が建立され、
講堂も平成7年に再建された。



講堂を左へ進んだ向こうに大書院があり、そこから「利休好み」と言われる庭園が眺められる。

智積院の庭は大書院に座って見る庭。庭の池が大書院の縁の下に入り込んでいるのが特徴だという。


庭の正面の右側の石橋より奥が祥雲禅寺時代に作られたもので、
土地の高低を利用して築山を作り、桃山風石組みと刈り込みを主体に庭の外の大きな樹木も借りている。
ツツジなど花の季節にも見たいものだ。


江戸時代に修築された左側の築山は石組みや石塔、鉢、垣などを組み合わせて変化をつけ、
江戸好みの庭は築山と泉水庭の先駆けとなったと言われているそうだ。

祥雲禅寺の客殿を飾っていた障壁画は火事などにより原形の4分の1になっているが、
「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等は国宝に指定され宝物館で鑑賞できる。

通常は非公開となっている宸殿も拝観することができた。
昭和33年にこの宸殿が新築された際に堂本印象が揮毫した26面の襖絵があった。
中でも印象の戦後の作風を顕著に表している「婦女喫茶」が目をひく。
和装洋装二人の婦人がテーブルで野点をしている絵は寺院の襖絵としては奇抜な主題である。
等伯の「十六羅漢図」襖絵もあり、その部屋には先にあげた3大本山の貫主が泊まるそうだ。

障壁画、襖絵などはすべて撮影禁止であるので詳しく伝えることができない。
こちらの 朝日放送のサイト を参照


境内の梅はまだ早かったが、宝物館前の木にはメジロが来ていた。


梅の花が少ないので目を落として地面を見ると、
いろんな小鳥が何かをついばんで歩いている。


ツグミや、このシロハラなどの大きめの鳥に混じって、
やや小型の今まで見たことがない鳥もいた。


すぐには分これがからなかったが、かえって調べたらシメだった。


そして、ちょっと派手なのはアトリのようだ。


ちょっと角ばった頭にギョロっとしたような目が面白い。

京都へ来て、初見の野鳥に会うとは思わなかった。



三十三間堂

2008-03-06 08:23:31 | 京都

ここは京都三十三間堂の長い長い建物。
縁側を利用した宮本武蔵と吉岡伝七郎の戦いや、通し矢で有名だ。
江戸時代、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦が行われた。
軒下を南端から北端へ一昼夜をかけて矢を射続けるという「大矢数」は命を懸けた壮絶な競技だった。
堂内に入ると誰それが何本放って何本通したということを記した額が何枚も掲示されている。
紀州藩・和佐大八郎の総矢数13053本、通し矢8133本が最高記録らしい。

通し矢が行われることはなくなったが、毎年1月15日ごろに弓道大会がある。


さて、この日3月3日には春桃会(しゅんとうえ、もものほうえ)というのが行われていた。
堂内を無料で拝観できる上、特設の高壇から千体千手観音仏を一望できたり、
千手観音仏の前に展示された池坊社中による献華作品を見ることが出来る。
これらを撮影できないのは残念。池坊のHPで、雰囲気だけを伝える。


当日限定女性専用雛守りが用意されていて、妻も手に入れた。


もう一つのイベントが青空説法。


住職をしている天台寺などで青空説法を続けておられる瀬戸内寂聴さんだ。


無常というものの考え方を中心に、
今年が源氏物語千年紀であることから紫式部、光源氏と女性たちの講話をされた。
そのあたりのことは、昨日のNHKスタジオパークでも話をしておられた。


地面に座る人を中心にして2、3000人もいただろうか。
老若男女、みんな熱心に聴き入る。


寒い日であったのに立ったまま1時間も話し続けて疲れた様子を見せられない。
85才とは思えない元気さだ。
立ち姿は大きく見えたが、控え室に入られるときに近くで見ると背は低いほうだった。


近くで見たキュウリグサ。
小さくてもしっかりした花だ。


尚徳

2008-01-24 08:41:26 | 京都

天使突抜を訪ねるために地下鉄を五条で降りて、
花屋町通りを西に歩く。
左に見えるのは東本願寺で、周囲には堀割が設けられている。
このまま進んで堀川通りを渡ると西本願寺がある。


いろんな小道をたどっていると、こんな建物に出会った。
なんとなく学校のように思えたが、
新しい建物なのにコンクリートの外壁でなく木の格子は珍しい。
ぬくもりを感じる。


敷地の一角を区切ったところにクスノキが青々として、
京都ならどこでも見られるお地蔵さんもいらっしゃる。


さらに横には石碑がいくつか置かれていて、
右側のは明治天皇行幸所下京第廿四組小學校と読める。


最近立てられた碑を見て、ようやく建物が中学校。
ここは明治2年に設置された下京第十六番組小学校を始まりとし、
下京第二十四区小学校、新楊小学校、尚徳小学校、尚徳尋常小学校、尚徳国民学校を経て
昭和22年に新制の京都市立尚徳中学校となったものだ。
尚徳は論語の 君子哉若人、尚徳哉若人 に由来している。

その後、市内の少子化が進み生徒数が激減したため、
平成19年3月に尚徳中学校の歴史に幕を閉じ、
近隣5校を統合して新設されたのが、この下京中学校だ。

京都市は市内産木材の需要拡大に力を入れていて、
間伐による森林整備もひとつの施策としている。
下京中学校の建設にあたって、
生徒たちが間伐体験をして間伐材を学校の内装や机、椅子にしたという。
これで外壁の格子が理解できた。


私は京都市でも西のほうにある蜂が岡中学校に通っていたが、
この学校は少子化とは縁遠く当時は10クラス以上あった。
当時お世話になった先生が、尚徳中学校に転勤された後に退職されて、
錦小路でこの豆屋さんを営んでおられる。
80近いが、お元気な様子だった。


参考:論語の「憲問第十四、第六章」

南宮适問孔子曰、羿善射、奡盪舟、倶不得其死然。
禹・稷躬稼、而有天下。夫子不答。南宮适出。
子曰、君子哉若人、尚徳哉若人。

武力によって天下を取りやがて没落した羿(げい)・奡(ごう)にことよせて
当代の豪族を風刺する言葉を南宮适が孔子に投げかけた。
孔子はその旨を察し、心では賛成しながらも、肯定するのをさけて、退出するのを待ってから、
弟子たちに「ああいう人は君子だね。徳を貴ぶ人だね」とほめたのだという。