横浜のほほん

横浜のはずれで、のほほんと暮らす男の見聞、考察、感想をつれづれに記す

三浦の河津桜

2011-03-04 08:29:05 | イベント

現役時代、40年ぐらい前から20年ほど同じ技術部に所属した仲間たちが三浦海岸に集まった。
今年80歳になるという当時の部長をはじめ11名がリゾートホテルに1泊し旧交を温めた。





翌日は最近有名になった河津桜を見に行った。
三浦海岸駅から線路沿いの約1kmに1000本ほどの桜が植えられている。
足元には菜の花や水仙も咲いて彩りがよい。





並行して京浜急行が走っていて車窓からも楽しめる。






線路の反対側には小松ヶ池公園があり、いろんなカモたちのいる池畔の桜も良い風情だ。

ここは自然が豊かな公園のようなので、また別の季節に訪れたい。











バス旅行

2010-06-15 06:01:41 | イベント

先週の金曜日、会社のOB会行事・日帰りバス旅行を行った。

男女合わせて48名が横浜駅前に集合して2時間程度で潮来に着く。




船で十二橋めぐりをした後、あやめ祭の花菖蒲を楽しむ。





われわれはエンジン付きの30人乗りぐらいの船だったが、
あやめ祭りの時期には手こぎ船も運行されている。

前に潮来に来たのは42年前で、旅館の近くから小さな船で葦の中を廻った覚えがある。
全く思い出につながらないので調べたら、十二橋めぐりは昭和53年に始まったそうだ。





昼食後、対岸の佐原(香取市)へ向かう。
佐原は江戸時代に舟運の拠点であり醤油や酒の醸造業も盛んで大いに栄えた町だ。

佐原が最も栄えていた江戸末期から昭和前期に建てられた木造町家、蔵造りの店舗、洋風建築などが今も残っている。
この正文堂は明治13年築の蔵造りの書籍店で県の有形文化財だそうだ。





油茂(あぶも)製油は創業以来350余年の歴史を有する老舗。
油茂製油の伝統技術・玉締め一番絞りの胡麻油を一瓶買い求めた。

奥のほうに見えるレンガ造りの建物は1914年築の三菱館(旧・川崎銀行)だ。





昔懐かしい防火用水。木の下旅館に残されていた。





木の下旅館は、小野川に沿って立ち並ぶ昔ながらの家並みの一軒で元は船宿だったということだ。





小野川は小さな川だが、すぐ利根川に通じていて江戸との交易を行う主要な河港だった





小野川のところどころに懸かる橋の一つに樋橋(とよはし)がある。
佐原村用水を小野川の東側から対岸の水田に送るための大樋の橋であったが、
のちに人も通行するようになった。
樋からあふれた水が川に落ちる様子から「じゃあじゃあ橋」とも呼ばれる。





じゃあじゃあ橋のすぐ近くに伊能忠敬の旧宅がある。


伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。
伊能忠敬(1745-1818)も商人としての才覚を持ち、伊能家を再興したほか佐原の役職もつとめたそうだ。
寛政6年(1794年)50歳の時に家督を長男景敬に譲り隠居。
翌年江戸に出て江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し測量・天文観測などを修めた。

幕府に命じられて全国の測量を行い、没後の文政4年(1821年)大日本沿海輿地全図が完成した。
200年も前に大変精度の高い日本地図が完成したことには驚くばかりだ。



成田山新勝寺に参詣した後、道路の渋滞もなく予定より早く横浜に到着した。
事故もなく楽しんでもらえたのは幹事一同の喜びであった。


同期会

2009-11-01 07:25:41 | イベント

先日の高校同期会は京都市の西どなり亀岡市にある湯の花温泉で行われた。
亀岡の朝は霧が多いので有名らしい。

参加者は男女半々で、合計57~8名だった。関東からは11名が参加した。
初めてとか久しぶりの参加者も何人か見られて再開を喜んだ上に、
幹事のはからいで祇園から芸妓さんと舞妓さんが来てくれたので盛り上がった。



宴会の後は例によって幹事の部屋で二次会が夜半まで続いた。
それでも朝は定刻に元気な顔を揃え、保津川下りに向かう。



丹波に源を発し桂川から淀川に合流する大堰川(おおいがわ)の亀岡から嵐山あたりを保津川と呼ぶ。
この川は丹波の木材を筏にして京、大阪に運ぶ重要なルートで、天竜寺、大阪城、伏見城の造営にも使われた。

その後、角倉了以が難工事を遂行して舟運のための水路を開いたことにより、
木材以外の諸物資が丹波から京阪に運び出せるようになった。
いまや人専用の保津川下りとして四季それぞれの風景と激流のスリルが楽しめる。

下った舟は3人が綱を引き1人が舵を取って遡っていたが、今はトラックで迂回して亀岡の船着き場へもどす。



大きな鬼瓦が地面に置かれているのが目を惹いた。



保津川下りの終点は嵐山・渡月橋の手前で、そこから少し歩くと天竜寺。
その諸堂の屋根のどこかにあった鬼瓦なのだろう。




天竜寺は夢窓疎石のすすめにより足利尊氏が開基した。
大方丈から見渡せる曹源池庭園は夢窓疎石(夢窓国師)の作庭だそうだ。

この境内にある天竜寺直営の料亭「篩月」で懐石料理の昼食をいただく。
精進料理だが大変おいしかった。



食事の後、法堂天井の加山又造画伯による雲龍図(平成9年完成)を拝観した。

その前の雲竜図は明治32年法堂再建時に鈴木松年画伯が描いたものだった。
修行僧が60余人で摺った墨を使って大筆で一気に描き上げたそうだが、
この硯石をどのように使ったものだろうか。




このあと再開を約して解散した。


夕方まで時間があるので別の場所に回ったが、稿をあらためる。




ヨットとフラワーアート

2009-10-24 06:42:25 | イベント

一昨日は現役時代の会社に入社から20年ぐらいいた職場の人たち11人が集まり、
三浦海岸で1泊し旧交をあたためた。

いろんなエピソードを語り合いながら宴会したり温泉に入ったり楽しかった。。



きのうは一人のメンバーが共同所有しているヨットで城ケ島を一周した。
もっとも帆走ではなくエンジンでのんびり回った。




午後は時間が空いたので、みなとみらいのクイーンズスクエアに行った。
フラワーデザインコンテスト・クイーンズカップを見るためだ。

クイーンズカップ

いつもお世話になっているブログ友の ポージィさん が作品を出展されている。



21~22日はフラワーアレンジ部門の展示。
23~24日はフラワーアート部門とウエディングブーケ部門の展示。

ポージィさんはフラワーアート部門。
この写真の中にある素晴らしい作品「diamond ring」でコンテストに入賞しておられたが、
ご自身のブログで記事にされるのに先走ってはいけないので、ここで紹介するのは控える。



代わりにフラワーアート部門1位入賞の作品「四角いタンポポ」を上げておく。



タンポポの種子の部分に色付けをして四角い板に接着し苔の上に乗せたものだ。




ウエディングブーケ部門もたくさんの作品が展示され人気を集めていた。
花嫁さんを引き立てるものだろうが、うかうかするとブーケに負けそう。



慕古の旅 ふりかえって 完

2009-09-05 06:00:57 | イベント

最終日。福井市内から午前中歩いて永平寺の近くまで来た。
お昼を食べてシャワーを浴びてから、門前町をゆっくりと永平寺に向かう。



正門ともいえる龍門に来た。
向かって右の石柱に「杓底一残水」 左の石碑に「汲流千億人」との道元禅師の教えが刻まれている。
杓に残ったわずかな水も川へ戻せば、その流れの先では千億もの人が汲む。
もっと深い意味があるのかもしれない。



ここが一般の参拝者が利用する通用門だが、我々はこの前を通過した。



整列して唐門に向かう。



かなり手ぶれしているが、永平寺の僧侶の方たちが待っておられる山門に向かう。

永平寺で修行することを許された入門僧がこの山門から入るので、我々は脇から通らせていただいた。



法堂からの眺め。

この後、荷物を置かせていただいて承陽殿に向かう。
承陽とは道元禅師のことであり、
承陽殿は道元禅師御真廟すなわち道元禅師の御霊骨と二世孤雲禅師の御霊骨が祀られている。
特別に中へ入れていただいて献香した。



その後、法堂や僧堂など七堂伽藍を案内していただいたが割愛する。




昼間の助け合いながらの行進、夕食と座禅の後の語らいなど、
初めて会う人たちとの一週間の旅は充実したものであった。
各所で拝登したときに親切にしていただいたお寺の方々や沿道で励ましていただいた多くの人たちに感謝したい。

慕古の旅 ふりかえってー2

2009-09-04 07:56:55 | イベント

27日、大原の宿を出て寂光院の近くを通って途中峠を歩く。
今回の旅は旧道を通ることも多く車道を下に見て草木の中を進む。
途中峠を越せば滋賀県に入る。



途中峠を越えても上り坂はまだまだ続く。
この花折峠、30日の木の芽峠、永平寺を目前にしての越坂峠では、
急坂なのと車がほとんど通行しないので隊列を崩して各自のペースで歩く。
友人は御頂相を背負っても一番で上り切った。
私は木の芽峠で御頂相を担当した。



花折峠を越すと鯖街道は葛川とともに下っていく。葛川は安曇川となって琵琶湖にそそぐ。
この街道沿いには、このような造りの家が多い。なんという様式だろうか。
段々畑に作物がないのがさびしい。



夕方になって朽木(くつき)の 興聖寺に着き献香を済ませた。



このお寺には足利義晴、足利義輝両将軍が落ちのびていたことがあり、
この庭園の石に座って月を眺めたこともあるらしく足利庭園と呼ばれている。



関西花の寺のひとつでもあるそうだが時期的に見るものはなかった。
ただ足利庭園でクワイの大きな葉を見られたのはよかった。



翌日、鯖街道を進む。昔は細い道で木々がうっそうとしていたのだろう。
前を歩く人は77歳。



保坂のあたり。これから水坂峠(みさか とうげ)を越えて福井県・熊川宿に向かう。



若狭の熊川宿は近江に接する国境の宿場町として大いに繁栄していた。

詳細はこちらのサイト 熊川宿 で。


道の駅で昼食のあと、しばらく自由散策で熊川宿の街並みを見る。




ここは復元された熊川番所。道標には小浜へ4里と書いてある。



両側の家々には人が住み商店もあるが、見学者以外に歩く人の姿は少ない。



宿場のはずれに孝子與七の碑があった。
江戸時代、貧しい暮しの与七とその妻は自分達は貧しいものを食べても、
父母にはご馳走を食べさせて孝行のかぎりを尽くし藩主に行いをほめられたそうだ。



三方・若狭町の円成寺は、福井県指定天然記念物の「みかえりの松」でも有名だ。
樹齢250年、樹高12m、幹周り4m、枝張りは全方向に半径15mを広げている。

この日は三方、翌日は敦賀で泊まる。
敦賀の宿は風呂が狭かったので、近所の銭湯を利用してのびのびした。



今回の旅の最大の難所、木の芽峠。
木の芽峠登山口から標高628mの頂上まで細い山道が続いた。
転んで御頂相を壊さないよう気を遣った。

この木の芽峠は平安初期に開かれて以来、多くの旅人に利用された北陸道であった。
親鸞、木曽義仲、源義経、新田義貞、蓮如など多くの歴史上の人物が越えた峠でもある。
茶屋風のこの建物は番所としての役割を果たしてきたそうで、
慶長年間から平氏を祖とする前川家が管理してこられ、現当主は46代目だそうだ。
豊臣秀吉、明治天皇も滞在された部屋がある。



道元禅師は永平寺を開山の10年後、病気療養のため京へ向かうときにこの峠を越えられた。
前川家の向かい側に道元禅師など三師の顕彰碑がある。
道元禅師をはさんで向かって左が同行の孤雲禅師、右が後を託されて永平寺に残った徹通禅師の碑だ。



31日は朝5時に出発し福井市までの46kmを歩き、御誕生寺、龍泉寺、宗生寺などで献香した。





御誕生顕彰碑
曹洞宗では道元禅師を高祖、4世瑩山禅師を太祖と呼んでいる。
瑩山禅師は武生の豪族の子として、この顕彰碑の近くで生まれた。
出家して徹通禅師のもとで修行ののち道元禅師の教えを各地で広めることにつとめ、
54歳のとき能登に総持寺を建立された。

総持寺は永平寺と並び曹洞宗の両大本山の一つであるが、
明治に入って火災にあったため横浜・鶴見に移転した。



曹洞宗管長でもあった板橋興宗師が2002年この地に小堂を建設して御誕生寺を開かれ、
今年に入って本堂も完成した。
全国から集まった十数名の僧俗が坐禅と托鉢そして作務の毎日を送っておられる。
外国人の方も見かけた。



長々とした記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。

慕古の旅 ふりかえってー1

2009-09-03 07:51:37 | イベント

8月26日の朝に自宅を出て、10時半ごろ京都の建仁寺に着いた。
しばらくすると、伏見から歩いてきた「道元禅師入越足跡・夢街道慕古の旅」一行が到着した。
合流させていただいて、道元禅師の師・明全和尚のお墓に献香した。
この様子は27日の京都新聞「京日記」で紹介された。

「京日記」



建仁寺を出て八坂の塔に向かって歩く。
このように隊列を組んで歩くのが基本だ。
先頭に隊長、「道元禅師 慕古の旅 行脚」の幟、御頂相、僧侶、参加者、アンカーと続く。
前後からの車や自転車、横断歩道・信号などで注意しあって歩く。



円山公園に入り西行庵の隣にある道元禅師の荼毘塔に献香した。

このあと知恩院、平安神宮、宝が池など市街地を北上する。

参加者の大きな荷物を運ぶ伴走車2台がサポートして水分補給に万全を期したり、
足腰や熱中症など体調を崩した人は乗っていくこともできるので安心だ。



ちょっと記念撮影。これは翌日の写真だが御頂相(ごちんぞう)などの説明のために・・・
向かって左の人が御頂相を背負い、右の人が幟を持っている。
坂道の状況や暑さなどにもよるが30分ぐらいを目安に全員が交代で担当する。



この御頂相には「道元禅師の肖像」が納められていて、お寺などで献香するときには扉を開く。

頂相WIKIPEDIA



3時頃、比叡山への入口である八瀬駅で一休み。なつかしい場所だ。
昔は京福鉄道の叡山線で、叡電と呼んでいた。今は京阪叡山電車らしい。



このあと大原まで歩いて民宿についた。
団体行動ゆえ交代で「お茶当番」があり、風呂に入り、洗濯をし、夕食をとったあと座禅を行う。


慕古の旅 7日目

2009-09-01 06:00:00 | イベント



慕古の旅 今日の予定


 いよいよ最終日。18kmと距離は短いが、7時15分に出発。
 永平寺街道を進み、10時頃には越坂峠(こえさかとうげ)を過ぎる。
 永平寺三道を通り、12時に門前に着く。

 中食ののち龍門で記念写真、山門で三拝する。
 承陽殿下壇拝謁、焼香する。承陽殿本殿には道元禅師の霊骨が祀られている。

 本山挨拶、諸堂を拝観ののち完歩記念碑賞状をいただいて下山。
 3時半に門前で解散。

 1週間同行した仲間と別れを惜しんで、今日中には帰宅の予定。

慕古の旅 6日目

2009-08-31 05:00:00 | イベント



慕古の旅 今日の予定


5時に出発。今日は46kmを歩くので朝食前に発つ。
標高200mの湯尾峠を越えて、6時半ごろ南条で朝食のあと脇本宿決別顕彰碑に献香する。

越前市に入り、武生・螢山禅師誕生寺、帆山・螢山禅師誕生碑、深草・龍泉寺、新保・宗生寺で献香。

螢山禅師は道元禅師から4代目で、曹洞宗では道元禅師を高祖、螢山禅師を太祖としている。
今の石川県にあった諸嶽寺が螢山禅師により諸嶽山總持寺と改名され、江戸時代に永平寺と並んで大本山となる。
火災で焼失したために明治44年に横浜・鶴見に移転した。

鯖江の西山公園で中食。サクラ、ツツジ、紅葉の時期は素晴らしいようだ。
萬慶寺で献香したのち北国街道を進んで、5時半ごろ福井市の宿に着く。

慕古の旅 5日目

2009-08-30 06:00:00 | イベント



慕古の旅 今日の予定

8時に出発。

栄新町・永賞寺で献香。戦国武将・敦賀城主でもあった大谷吉継の供養塔があるそうだ。
ここから次第に登って行き葉原、新保に11頃に着く予定だ。

ここから標高628mの木の芽峠に登山、急坂の石畳の道はかなりきついと予想される。
峠の上で三祖師顕彰碑に献香し、中食をいただく。

峠を下っていくと言奈地蔵がある。
昔、馬子が大金に目がくらんで旅人を殺害した。
誰も見てなかったかと辺りを見回すといつも拝む地蔵様がいたので「おい地蔵、誰にも言うな!」と言った。
ところが地蔵様は「お前こそ言うな」と言ったそうだ。
のちに若い旅人にこのことを話したら、殺された旅人の息子であることが分かり、潔く討たれたという。

スキー場のあたりから下って二ツ屋から追分に出ると鹿蒜川(かえるがわ)が流れているはずだ。

今庄・棟岳で献香。
今庄は山中峠、木ノ芽峠、栃ノ木峠の道が当地で合流する軍事、交通の要地として栄えてきた。

5時ごろ宿に着く。

慕古の旅 4日目

2009-08-29 06:00:00 | イベント



慕古の旅 今日の予定

8時に出発。

丹後街道を進み椿峠と関峠を越えると越前に入り、莇生野・幸松寺(あぞの・こうしょうじ)で献香。

敦賀市街地に入って松島・永建寺で献香ののち、3時45分ごろ宿に入る。

歩行距離が25kmと短く、途中の二つの峠どちらも標高100m以下なので楽な一日になりそうだ。

明日の木の芽峠に備えて体調を整えることとする。



慕古の旅 3日目

2009-08-28 06:00:00 | イベント



慕古の旅 今日の予定

今日も8時に出発。
保坂・宝昌寺(ほうざか・ほうしょうじ)で献香。

標高277mの水坂峠(みさかとうげ)を越えて福井県に入り熊川宿で中食。
熊川は古い街並みが残っているらしい。

上中(かみなか)で丹後街道と合流し三方五湖方面へ向かう。

田上・常在院、岩屋・円成寺で献香。
円成寺には樹齢250年の大門松(みかえりの松)・福井県指定天然記念物があるらしい。

三方・臥龍院で献香して5時半ごろ宿に入る。

慕古の旅 2日目

2009-08-27 06:00:00 | イベント



慕古の旅 今日の予定

今日は8時に出発して比良山系西側を走る鯖街道を朽木まで約36km歩く。

鯖街道は若狭湾で獲れた魚介類を京都に運ぶための街道で、
鯖に塩をして夜を徹して運ぶと京都に着くころちょうどよい味になっていたそうだ。
京都のうまいものの一つに鯖寿司がある。

寂光院の近くを通り、なだらかに上っていき途中峠(標高380m)を越えると滋賀県に入る。
さらに進んで花折峠(500m)を越えれば下りに入る。

坊村を経て、4時半ごろ朽木興聖寺(くつき・こうしょうじ)に着く。
朽木興聖寺は近江守護佐々木信綱が承久の乱で戦死した一族の供養のため道元禅師を朽木の里に拝請したときに創建を勧められた。
のち佐々木氏の流れをくむ朽木氏の檀那寺として近江の巨刹として栄えた。

献香ののち5時半ごろ宿に着く。

慕古の旅 1日目

2009-08-26 06:00:00 | イベント



慕古の旅 今日の予定

一行は8時半に伏見・宝福寺を出発し伏見街道、東大路通りを経て11時に建仁寺に到着の予定。
私は前日に所要があるため建仁寺で合流する。

建仁寺は栄西禅師が1202年に開山した臨済宗建仁寺派の大本山である。
道元は1217年に建仁寺に入り栄西の直弟子である明全に師事し、1223年にともに宋へ渡った。
帰国後、日本で曹洞宗を興し広めた。


明全和尚の供養塔に献香して建仁寺を発つ。

円山公園内の道元禅師荼毘塔で献香し、知恩院あたりで中食。
南禅寺あたりから白川通を北上し宝ケ池、八瀬(比叡山麓)を経て4時半ごろ大原に着く。

道元禅師入越足跡・夢街道慕古の旅

2009-08-25 07:22:23 | イベント
明日から1週間、「道元禅師入越足跡・夢街道慕古の旅」に参加する。
日本曹洞宗の開祖である道元禅師が京都深草の興聖寺を発ち越前志比荘に入越するまでの足跡をたどる

道元禅師は天台宗で出家ののち臨済宗・栄西の弟子明全に師事した。
宋に渡って曹洞宗・如浄禅師の下で仏道修行し印可を受け帰国。
1233年に山城・興聖寺を開いて曹洞宗の布教につとめた。
1243年に越前に移り大佛寺、のちの永平寺を開いた。

慕古の旅は、その往時の足跡を偲び道元禅師と同行同修の「禅を歩む」徒歩の旅で、
京都伏見の宝福禅寺が毎年企画・実施されている。
昨年参加した京都の同級生に誘われて初参加することにした。

(注記)慕古:道元禅師の「正法眼蔵栢樹子」に「師の操行におよばざれども慕古を心術とするなり」とある。
        「趙州禅師のように厳しく徹底した禅の境涯には及ばないけれども、
         古人の徳行に敬慕すること(慕古・・もこ)を心の糧としていきたい」との意。
        平成14年に行われた永平寺開山高祖道元禅師の750回大遠忌のテーマは「慕古心」であった。
     
     同行同修:他を受け入れながら同じ修行をすること
 



行程:

前日  宇治に再建された興聖寺に拝登・献香。所用のため私は参加できない。

1日目 伏見・宝福寺  建仁寺で明全和尚墓前献香、道元禅師荼毘塔献香   白川通 鯖街道を通って  大原
    30km 
2日目 大原 寂光院 途中峠 花折峠  朽木・興聖寺献香(深草興聖寺の地形に似ていたので同じ寺号だとか)
    36km
3日目 朽木 水坂峠 若狭街道 北国街道経由、その途中 保坂宝昌寺、常在院、円成寺、臥龍院で献香  三方    
    37km
4日目 三方  丹後街道 椿峠  関峠を経由し、 莇生野幸松寺、松島永建寺で献香 敦賀 
    25km      
5日目 敦賀  永賞寺献香 木の芽峠登山 三祖師顕彰碑献香 木の芽街道 今庄棟岳寺献香  今庄
    25km
6日目 今庄 湯尾峠 脇本宿決別顕彰碑、生螢山禅師誕生寺、帆山螢山禅師誕生碑、龍泉寺、新保宗生寺、鯖江萬慶寺で献香  福井
    46km 
7日目 福井 鎮徳寺献香 永平寺街道  越坂峠 永平寺三道  永平寺龍門頭  山門頭 三拝  承陽殿下壇拝謁焼香
       本山挨拶展茶  諸堂拝観  寂光苑完歩記念碑賞状授与  下山
    18km

宗門僧侶の方5名を含めて25人前後が同行し、笈館(宝福寺秘蔵の道元禅師御頂相)を永平寺まで交代で背負っていく。
また毎日夕食後に座禅がある。
通常は8時頃発17時頃着の行程だが6日目は46kmの長距離なので朝5時に出発する。


1週間にわたり不在のため頂いたコメントに対する返信は行えませんが、ご了承お願いします。