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ここは横浜市栄区を流れる「いたち川」、自然が豊かなところだ。
川辺の遊歩道で、こんな説明プレートを見た。
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いかにわが たちにしひより ちりのきて
かぜだにねやを はらわざるらん
句の頭に、いたちかは を読み込んだ歌の作者は兼好法師。
兼好法師といえば、私が子供の頃に遊んだ京都双が丘で徒然草を書いた人。
横浜にゆかりがあったとは気づかなかった。
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ゴモジュ(スイカズラ科)
兼好法師は吉田兼好とも呼ぶが、本名は卜部兼好で1283年ごろに生まれた。
平野神社や吉田神社の神職を勤める家柄で、
兼好も宮仕えをしたのち30歳ごろに遁世し比叡山にいたが、
歌人として都に戻り1330年ごろに徒然草を著したらしい。
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兄の民部大輔兼雄が称名寺(金沢区)の僧をしていた関係か、
兼好は20代のころから何度か関東に下向していて
金沢を「ふるさと」と呼ぶほどだったそうだ。
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ハナニラ(ユリ科)
徒然草184段(末尾を参照)の話は、松下禅尼が
隠居所の障子張替えに関して息子時頼に倹約の大切さを教えたというものだ。
この隠居所がのちに光明寺となって、いたち川のそばに今もある。
この話を書いたことは、金沢あたりへの兼好の思い入れの表れかもしれない。
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トサミズキ(マンサク科)
むかし住んだ京都といま住む横浜は兼好法師によっても繋がっていたのだ。
徒然草 184段
相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。
守を入れ申さるる事ありけるに、すすけたる明り障子の破ればかりを、
禅尼手づから、小刀して切り回しつつ張られければ、
兄の城介義景、その日のけいめいして候ひけるが、
「給はりて、なにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候」と申されければ、
「その男、尼が細工によもまさり侍らじ」とて、なほ一間づつ張られけるを、
義景、「皆を張りかへ候はんは、はるかにたやすく候ふべし、
まだらに候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、
「尼も、後はさはさはと張りかへんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。
物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心つけんためなり」
と申されける。
いとありがたかりけり。
現代語訳(蛇足)
相模守時頼の母は、松下禅尼という人であった。
あるとき、相模守を招き入れられたことがある。すすけた明り障子の破れたところだけを、
禅尼はみずから小刀であちこち切って張っておられたので、
その日の接待の手配をしてそばに控えていた兄の城介義景が、
「それをお預かりして、なにがしという男に張らせましよう。そのような仕事にたけた者です」と話されると、
禅尼は「その男は、この尼よりもまさか上手ではないでしょう」と言って、なおも一こまずつお張りになるので、
義景は「全体を張り替えられたほうがはるかに簡単でしょうに。
(ところどころを修理して)まだらになるのも見苦しくはありませんか」と重ねて話されると、
「尼も、いずれはさっぱりと全部張り替えようと思っていますが、今日だけは、わざとこうしておくべきなのです。
物は傷んだ所だけを修理して用いるべきだと、若い人に見習わせて、注意を促すためです」
と禅尼は話されるのであった。
大変まれな感動的な話である。