この映画の欠陥は、夫婦が仲を引き裂かれる話にしては、その愛の描き方が弱かったことにあったと思う。これは、錦之助が悪いのではなく、脚本と演出の責任なのだが、主役の勘平という男がイジイジしていて私にはどうも理解できなかった。また、共感も持てなかった。汚名返上と亡き主君への報恩のことばかり考えているようで、夫婦になってからは、お軽を大して愛していない感じさえ受けた。
それに、勘平が立派な侍かというとそうでもなかった。たとえば、主君の石碑建立のための寄付金の話を浅野家の同輩・神崎与五郎(片岡栄二郎)から持ちかけられると、自分の金もないくせに安請け合いしてしまう。家に帰って義父に金を工面してくれないかと懇願する。貧乏な百姓であることが分かっているのに、なんとも情けない男なのだ。結局自分で金を稼ごうと考えて、山へイノシシを狩りに行き、夜中に間違って人を撃ち殺してしまう。しかも殺した人の懐に大金の入った財布があるのを発見するとそれを黙って奪い取り、寄付金として原郷右衛門のところへ持って行く。その後、勘平は撃ち殺した人が義父だと思い違いして、切腹するのだが、観ている側はそれも自業自得のような気がしてしまう。あまり可哀想だとは思えないのである。
勘平に比べ、お軽の方が一途で、夫に尽くすひたむきな気持ちはずっと共感できると私は感じた。夫に何とか金を工面してやろうと、父母と相談し、泣く泣く祇園の遊女に身を売る決心をするのだから、偉い妻だった。千原しのぶのお軽はあわれで、なかなか良かった。
<勘平(錦之助)とお軽(千原しのぶ)>
この映画は、観ていて、ウソっぽさが目に付いてならなかった。話の展開も登場人物も不可解で、首をかしげたくなる点が多すぎたと思う。以下、気になったところを挙げておく。
(一)勘平とお軽が御台(瑤泉院)の屋敷の庭先で同輩の手によって打ち首なりかかるところがある。まずここが疑問だった。内匠頭が殿中で刃傷に及んだ時、勘平が持ち場をはずし、木陰でお軽とひそひそ話をしていたことが不忠不義の理由だったが、それが打ち首にされるほどの大罪なのだろうか?しかも、内匠頭が切腹したすぐあとに、屋敷内で二人を打ち首にしようとするのもあり得ないことだと思った。
(二)勘平の父と母はまったく話に出てこないが、早野家というのはどういう家柄なのか?追放後、婿養子みたいにお軽の貧しい実家に入って、勘平が猟師になっているのも不思議だった。
(三)寺坂平左衛門(加賀邦男)という侍が出て来るが、これがお軽の兄ということなのだが、山崎にいるお軽の父母とはどういう関係なのか、その息子なのかまったく不明。
(四)大野定九郎という不良の赤穂浪人(元家老の息子という設定)が何度も出て来るのだが、この人物の性格付けが出来ていなかった。山道でお軽の父・与市兵衛を殺して金を奪い取るほどの極悪人なのだが、芝居の悪役ならともかく、映画の登場人物としては描ききれていなかった。
(五)勘平切腹の場面で、神崎与五郎が与市兵衛の遺体の布団をめくって、鉄砲傷ではなく刀傷だと言うところあるが、ここなど非常にわざとらしかった。
(六)また、原郷右衛門(原健策)がなぜ懐に連判状を持っているのか、またなぜこんな大切なものを持ち歩いているのかが分からなかった。いまわの際に勘平に血判を押させてやるのだが、早野勘平の名前がすでに書いてあるのも奇妙だった。
(七)お軽が祇園の大夫になって、結局大石内蔵助から身請けされるのだが、大石とお軽はいったいどういう関係なのか、この点も疑問だった。また、内蔵助役にわざわざ中村時蔵を引っ張り出す必要もなかったと思う。一力茶屋のシーンなど、時蔵の芝居っぽい演技とセリフは、まったく映画には不向きだった。
(八)一力茶屋での内蔵助の弁解がましい言葉も無意味だったし、なぜ内蔵助がお軽に勘平の切腹死を伝えたのかがどうしても理解できなかった。これでは、せっかくのラストシーンがぶちこわしではないか。
内蔵助に身請けされたお軽は御台(瑤泉院)の屋敷に戻る。そして、そこで仇討成功の知らせを聞く。そのとき、連判状に勘平の名と血判があるのを見て、お軽は泣いて喜ぶ。仇討に使われた遺品の槍を抱き、夫の最後の晴れ姿を空想する。このラストシーンは、大変素晴らしかったと思うのだが、討ち入り前に勘平が切腹したことをお軽が知らないという設定にしたほうが絶対に良かったし、感銘深かったはずである。
この映画はもう二度とリメイクすることはないだろうが、以上の点に留意して脚本を書き直せば、ずっと良い映画が出来るにちがいない、と私は勝手に思っている…。
それに、勘平が立派な侍かというとそうでもなかった。たとえば、主君の石碑建立のための寄付金の話を浅野家の同輩・神崎与五郎(片岡栄二郎)から持ちかけられると、自分の金もないくせに安請け合いしてしまう。家に帰って義父に金を工面してくれないかと懇願する。貧乏な百姓であることが分かっているのに、なんとも情けない男なのだ。結局自分で金を稼ごうと考えて、山へイノシシを狩りに行き、夜中に間違って人を撃ち殺してしまう。しかも殺した人の懐に大金の入った財布があるのを発見するとそれを黙って奪い取り、寄付金として原郷右衛門のところへ持って行く。その後、勘平は撃ち殺した人が義父だと思い違いして、切腹するのだが、観ている側はそれも自業自得のような気がしてしまう。あまり可哀想だとは思えないのである。
勘平に比べ、お軽の方が一途で、夫に尽くすひたむきな気持ちはずっと共感できると私は感じた。夫に何とか金を工面してやろうと、父母と相談し、泣く泣く祇園の遊女に身を売る決心をするのだから、偉い妻だった。千原しのぶのお軽はあわれで、なかなか良かった。
<勘平(錦之助)とお軽(千原しのぶ)>
この映画は、観ていて、ウソっぽさが目に付いてならなかった。話の展開も登場人物も不可解で、首をかしげたくなる点が多すぎたと思う。以下、気になったところを挙げておく。
(一)勘平とお軽が御台(瑤泉院)の屋敷の庭先で同輩の手によって打ち首なりかかるところがある。まずここが疑問だった。内匠頭が殿中で刃傷に及んだ時、勘平が持ち場をはずし、木陰でお軽とひそひそ話をしていたことが不忠不義の理由だったが、それが打ち首にされるほどの大罪なのだろうか?しかも、内匠頭が切腹したすぐあとに、屋敷内で二人を打ち首にしようとするのもあり得ないことだと思った。
(二)勘平の父と母はまったく話に出てこないが、早野家というのはどういう家柄なのか?追放後、婿養子みたいにお軽の貧しい実家に入って、勘平が猟師になっているのも不思議だった。
(三)寺坂平左衛門(加賀邦男)という侍が出て来るが、これがお軽の兄ということなのだが、山崎にいるお軽の父母とはどういう関係なのか、その息子なのかまったく不明。
(四)大野定九郎という不良の赤穂浪人(元家老の息子という設定)が何度も出て来るのだが、この人物の性格付けが出来ていなかった。山道でお軽の父・与市兵衛を殺して金を奪い取るほどの極悪人なのだが、芝居の悪役ならともかく、映画の登場人物としては描ききれていなかった。
(五)勘平切腹の場面で、神崎与五郎が与市兵衛の遺体の布団をめくって、鉄砲傷ではなく刀傷だと言うところあるが、ここなど非常にわざとらしかった。
(六)また、原郷右衛門(原健策)がなぜ懐に連判状を持っているのか、またなぜこんな大切なものを持ち歩いているのかが分からなかった。いまわの際に勘平に血判を押させてやるのだが、早野勘平の名前がすでに書いてあるのも奇妙だった。
(七)お軽が祇園の大夫になって、結局大石内蔵助から身請けされるのだが、大石とお軽はいったいどういう関係なのか、この点も疑問だった。また、内蔵助役にわざわざ中村時蔵を引っ張り出す必要もなかったと思う。一力茶屋のシーンなど、時蔵の芝居っぽい演技とセリフは、まったく映画には不向きだった。
(八)一力茶屋での内蔵助の弁解がましい言葉も無意味だったし、なぜ内蔵助がお軽に勘平の切腹死を伝えたのかがどうしても理解できなかった。これでは、せっかくのラストシーンがぶちこわしではないか。
内蔵助に身請けされたお軽は御台(瑤泉院)の屋敷に戻る。そして、そこで仇討成功の知らせを聞く。そのとき、連判状に勘平の名と血判があるのを見て、お軽は泣いて喜ぶ。仇討に使われた遺品の槍を抱き、夫の最後の晴れ姿を空想する。このラストシーンは、大変素晴らしかったと思うのだが、討ち入り前に勘平が切腹したことをお軽が知らないという設定にしたほうが絶対に良かったし、感銘深かったはずである。
この映画はもう二度とリメイクすることはないだろうが、以上の点に留意して脚本を書き直せば、ずっと良い映画が出来るにちがいない、と私は勝手に思っている…。
舞台は、嘘でも涙を流すことができます。現代劇ならいざしらず、歌舞伎なんて特にそうですよね。矛盾だらけ、違和感だらけ、なのに感じちゃう。でも映画ではそうはいかないんですよね。
この映画は舞台の悲劇をそのまんま映画に持ってきちゃったんですね。
私は映画という場を借りて、たぶん錦之助さんの五段目六段目を頭の中で見ていたんだと思います。歌舞伎界にいて、勘平役者になった錦之助さんを想像しながら。
おっしゃるとおりの矛盾だらけですけれど、切腹の場面の錦之助さんの演技だけで、もう私は満足しちゃいました。
この映画が作られた頃の錦之助さんの演技力から見ますと、切腹の場は段違いに上手いですよね。やはり細かく計算された歌舞伎の技を取り入れておられたからではないかと思います。これは歌舞伎の技かな?なんてつい思って見てしまいます。
あと筋書きに不自然なところがあるのは、長い歌舞伎芝居を端折った為、説明不足になった、というか忠臣蔵は当時の日本人には良く知られたお話なので、細かい説明部分は不要とされたのではないでしょうか。
大体、歌舞伎の筋書き自体、矛盾だらけですもの。
大衆娯楽映画でも、痛快に笑い飛ばせて、
矛盾も突っ込みながら楽しめるような映画だと
気にならないのかもしれませんね。
悲劇だと、なんか、緻密に計算された
映画らしい悲劇を求めちゃうのかも
なんて思いました。
この映画は、前に2度観て、この3日間で3度観てから記事を書いたのですが、観ているうちにアラばかりが目に付いて…、どうもけなす文章になってしまったようです。(本当はけなすことになりそうな映画は取り上げたくないのですが、最近そういうのが多いですかね。すいません。)
この映画は、原作を読んでいないので、よく分かりませんが、疑問に思ったところは、ここに書いた通りです。
まず思ったのは、歌舞伎や芝居を映画にするのやはりは難しいということです。舞台の虚構の世界と、映画の世界はずいぶん違いますからね。
竜子さん、別に時代劇に限らず、映画は現代劇だって「ウソ」のかたまりですよ。ただ、時代劇には時代考証という面があって、史実や時代風俗に反する「ウソ」というのがあります。水戸黄門があちこち行くとか、女の人のお歯黒のことだとか…。これはまた別のことかもしれません。そういうウソは突っ込まないようにして時代劇を観れば良いと思います。しかし、話の内容に関するウソというものもあって、大きく言えばフィクションでしょうが、これをどのように不自然ではなくまことしやかに表現するかが問題だと思うんです。それが映画の出来の良さを決めるわけですよね。良い映画を観て、心から楽しんだり、悲しんだり、感動したりするのは、いわばウソから出たまことを観客が感じるからだと思います。竜子さんのように、大衆娯楽映画だから、楽しめばいい、といった映画の見方は良くありませんね。思考停止した見方で、老化現象が進んでしまいますよ。アラ探しするくらいの批判力を失わないでください!ただ、批判するだけでなく、何がいけないのかを考えるようにすべきだと思います。私は、錦ちゃんの映画なら何でもいいといった見方はできません。これは前にやましたさんにも言ったと思うのですが、私は大の映画ファンで、かつ錦ちゃんの大ファンなんですね。映画は、俳優の演技やスター性も重要ですが、まず映画自体の構成や展開、つまり映画作家の表現力がしっかりしていないとダメだと思うんです。まず第一はシナリオ、次が監督の演出、それからカメラワークやカットのつなぎ、風景やセットや小道具なんかも大切ですよね。もちろん、音楽も。私は、錦之助の映画を観ていていつも思うのですが、錦之助はどんな映画でも全力投球で演技していますよね。でも、作品の構成や、シナリオないし演出上の人物描写が良くなくて、錦之助の演技が引き立たない映画も結構ある思っています。初期の作品や晩年の作品に多いようですが、他の俳優の映画に比べれば、駄作は大変少ない。これは幸いだったでしょうね。私は、無条件で錦之助さんが美しいとか最高だとか、褒められないタイプなんです。映画の出来が良くないと、いくら錦之助が良くても、気に入りません。また、そうでないと、錦之助の本当の長所も発揮できずに終わってしまうと思っています。映画が良いと、錦之助も引き立って…、と言うか、錦之助の魅力が映画をさらに引き立てて、その相乗効果で、映画全体が数段素晴らしいものになるんだと感じています。
この映画を名作「浪花の恋の物語」と比べる気はありませんが、「怪談千鳥が淵」と比べてみるといいかもしれません。私の言いたいことが理解できると思います。