錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』(その1)

2007-11-19 18:25:32 | 源氏九郎颯爽記 白狐二刀流


 『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』(昭和33年3月初旬公開)は、錦之助の「源氏九郎」シリーズの第2作。監督は第1作『濡れ髪二刀流』(昭和32年)と同じ加藤泰である。『白狐二刀流』は、白黒の第1作と違って、総天然色の東映スコープ。加藤泰にとって初めてのカラー映画だった。当時東映内で異端扱いされていた加藤泰である。彼が一丁やってやろうという気になったことは想像に難くない。東映時代劇のお決まり路線を踏み外して、強情に自分の描きたいことを描こうとしたのではないかと思う。確かにこの映画を観ていると、そんな監督の気概が、錦之助だけでなく俳優やスタッフ全体に伝わり、みんなが意気投合し、のりにのって映画を作っているといった感じが画面にあふれている。
 加藤泰と錦之助とのコンビは前作『濡れ髪二刀流』に続いて二本目目だった。錦之助とのコミュニケーションもとれていたと思う。錦之助は、人一倍前向きで意欲的な俳優である。挑戦心が旺盛で、マンネリが嫌い。だから、加藤泰が描きたがっていることを面白がり、監督の意図に共鳴したのではないかと思う。私はそんな気がする。この映画には主役の源氏九郎とは無関係な場面が多い。ストーリーにはなくても良いような場面が多い。エゴイスティックで自己中心的なスターなら、自分の役とはあまり関係のない脇役とのからみにきっと文句のつけたにちがいない。
 加藤泰の意図は、はっきりしていた。主役の源氏九郎はあくまでも格好良く見せる。立ち回りも、決闘シーンも奇抜なアイディアを取り入れ、派手にやる。が、それだけでは詰まらない。そこで、源氏九郎の周りに、有象無象とも言えるいろいろな人物たちを配し、従来の東映時代劇のパターンを破った人間味溢れる人物に仕立てて描き出す。こうして加藤泰は自分の創作欲を満足させながら、自分の作りたいようにこの映画を作った。お手軽な娯楽映画を作れば出来たはずなのに、あえて自分らしい映画、自分の特質が出るような映画作りに果敢に挑戦したのだと思う。
 この映画を観ていると、実は、源氏九郎を中心にその活躍を描こうという意欲は、加藤泰になかったのではないかと感じる。源氏九郎の錦之助は格好良いが、ヒーローとしての行動に一貫性がなく、ドラマチックな魅力を私はどうしても感じない。単にお供え物の飾りにすぎないと思うのだ。相手役の志津子(大川恵子)もマリー(ヘレン・ヒギンス)も飾りみたいなものだ。この映画で目立つのは、頭のおかしい公卿(河野秋武)であり、憂国の志士まがいの浪人(清川荘司や上田吉二郎)であり、金の亡者の播州屋の主人(柳永二郎)であり、賄賂で骨抜きにされた奉行(明石潮)であり、人のいい小市民的な与力(杉狂児)とその女房(浦里はるみ)、次の与力を狙う役人(山口勇)たちである。脇役ばかり目だって、主人公にも相手役の女にも敵役の剣客(岡譲司)にも重点がない。これは加藤泰の脚本と演出がそうなっていたからであろう。
 この映画を観て私が驚いたのは、よくもまあ、流行作家柴田錬三郎の原作をあそこまで潤色したものだということである。いや、大部分創作したと言った方がいいだろう。この映画は、八割くらいは加藤泰のオリジナルだった。原作は、わずか二章分で、約25ページしかない。加藤泰はストーリーの骨組みだけを借りて、内容のほとんどを自己流に作り上げていた。錦之助の源氏九郎だけは原作のイメージに合致しているのだが、登場人物たちは加藤泰が独特の色づけをして、原作とはおよそ似ても似つかぬ人物に作り変えた。そして、原作には出てこない人物もたくさん登場させていた。柴田錬三郎がこの映画を観てどんな感想を漏らしたかは知らないが、きっと唖然としたにちがいない。それともあまりのアレンジの仕方に自分が書いたものだとは思えなかったかもしれない。前作『濡れ髪二刀流』の方はまだしも原作に忠実だったと言える。こちらの脚色は結束信二だった。(2019年2月4日一部改稿)




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