錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~昭和29年ゴールデンウィークの映画界(2)

2013-02-09 21:01:31 | 【錦之助伝】~『笛吹童子』前後
 上映されたある一本の映画が、映画界の枠を越えて、社会現象と呼ばれるまでの反響を呼ぶことがある。昭和29年のゴールデンウィークに上映された映画で言えば、『ローマの休日』と『笛吹童子』がそうだった。
ローマの休日』は、四月下旬日本各地の主要都市で続々と公開され、驚異的な大ヒットとなった。東京の日比谷映画劇場のデータによると、初日(4月27日)の観客数は8,934人、2週間の観客総動員数は、なんと13万7千人。3週間のロードショー予定が、38日間のロングランとなり、その総動員数は約33万人に上った。日本国内にオードリー旋風が巻き起こり、とくに若い女性の間では主役のオードリー・ヘップバーンが一躍ファンション・リーダー的存在になった。その年の夏にはヘップバーンカットが大流行し、次作の『麗しのサブリナ』ではサブリナパンツが有名になり、その後も、オードリー・ヘップバーンは、ファッション・ブランドの広告塔のような役割を果たしていく。映画の中のヒロインが、大衆の社会行動を促し、大きな経済効果を生んだのである。

笛吹童子 第一部』は、『悪魔来りて笛を吹く』の添え物として上映されたが、4月27日に封切られると、子供連れの親たちが列を作った。子供にせがまれ、『笛吹童子』を見に来たのだった。渋谷東映では初日の朝から長蛇の列ができ、地下のニュース映画専門館も開放して、やっとお客をさばいたという(東映企画担当・坪井与の話)。渋谷東映は、昭和28年11月に新築開館した大型直営館で、本館は1,500名、地下は500名収容だった。当時、東映の本拠地とも言える封切上映館だったが、平日の初日の朝から超満員になったのはこの時が初めてだった。
 浅草でも大入りだった。常盤座(浅草東映の開館は昭和31年10月)の初日の観客数は6,281人。予想をはるかに上回る数だった。映画の興行は、初日の入りで当たりはずれが分かる。映画会社のスタッフも映画館の従業員も初日の客入りを大変気にし、一喜一憂する。
「初日一回目、大入り!」の速報が各地から東映本社に届き、社内では次々に歓声が上がった。
 マキノ光雄は、企画担当の宮城文夫の部屋へ飛び込んできて、顔を真っ赤にして叫んだ。
「おい、入ったぞ! どうや、おれの言ったとおりやろ!」
 速報は、すぐに京都撮影所にも伝わり、錦之助の耳にも届いた。『笛吹童子 完結篇』の撮影途中だった。昼休み、錦之助と千代之介は手を取り合って、喜んだ。その時はまだ二人とも、錦・千代ブームが訪れようとは想像もせず、兄弟役で一緒に出演した映画がヒットしたことを素直に喜び合っただけであった。
 天皇誕生日が過ぎ、ゴールデンウィークの半ばになった。
 浅草常盤座での『笛吹童子 第一部』と『悪魔来りて笛を吹く』の楽日(5月2日)まで6日間の観客総動員数は30,984人、収容率は126.8パーセント。新宿東映(新築前の旧館)の6日間の総動員数は23,892人、収容率149.3パーセントであった。つまり、浅草、新宿の各館とも連日立ち見がでるほどの超満員だったわけである。一週間の観客総動員数は、浅草常盤座で2万人、新宿東映で1万5千人を超せばヒット作だった。不発の映画(東映東京作品が多い)だと、浅草でも新宿でも8千人程度である。(現在の映画興行とは比較にならないほど観客が多かった)

 3日から子供の日をはさんで9日までの第二週は、『笛吹童子 第二部』と『唄しぐれ おしどり若衆』の二本立て。錦之助の出演作が二本同時上映されたが、どういう結果になったのだろうか。
 シリーズ物の中篇の場合、第一部に客が入っても第二部からがぐっと客が減ることがある。それは、第一部が続きを見たくなるほど面白くなかったからだ。『笛吹童子 第一部』の評判は良く、終わり方も最高だったが、それでも東映関係者は心配だった。千恵蔵主演の『悪魔が来りて笛を吹く』が目当てで来た客も多かったにちがいない。第二週の本篇は、美空ひばりの東映初の主演作である。ひばりの時代劇は現代劇ほど人気がない。錦之助もまだスターではなく、有名ではない。そういった不安材料もあった。が、それが杞憂だったことがすぐに判明した。初日の蓋を開けてみると、やはり超満員だった。子供日が終わり、平日には客足が落ちたが、土・日でまた盛り返した。7日間の観客総動員数は、浅草常盤座が26,378人、新宿東映が23,483人だった。
 第三週は、5月10日から17日までの8日間。『笛吹童子 完結篇』と『鳴門秘帖 前篇』(渡辺邦男監督、市川右太衛門主演)の二本立て。この週も同じように超満員だった。8日間の観客総動員数は、浅草常盤座が31,215人、新宿東映が21,273人だった。
 
 こうして、毎週、子供たちが映画館に足を運び、小さな胸を高鳴らせて見た『笛吹童子』三部作の封切上映期間が終ったのだった。その後、『笛吹童子』は、二番館、三番館にかけられ、封切時にも増して、子供たちの間で大人気を博した。
東映十年史」に『笛吹童子』三部作の配給収入額が載っている。東映のように本篇と娯楽版の二本立ての場合、収入の比率配分をどうしているかは不明である。どうやら本篇と娯楽版の比率を2:1にしているように思われるが、いずれにしてもかなりアバウトな計算のようだ。が、それによると、『笛吹童子』三部作の封切配給総収入は、1,390万7,000円、総配給収入は、8,500万円とある。製作費約2,400万円、プリント代・宣伝費を含めた総費用約3,000万円の三部作の収益は、5,500万円に上ったことになる。
「東映十年史」には昭和29年度のヒット作のベストテンが載っているが、第一位の正月映画『曲馬団の魔王』(千恵蔵主演)の総配給収入が約9,000万円なので、『笛吹童子』は、三部作を一本と考えれば、第二位である。実際には第一位だったと思われるが、この映画の影響力、波及効果、貢献度は、金額に表すことができないほど大きかった。
『笛吹童子』は、まさに新たなお子様時代劇の誕生であった。そして、この映画で若きアイドルスターが生まれ、さらにブームをあおった。それが、中村錦之助であり、東千代之介だった。この二人主演スターによって、東映時代劇は若返り、活気づいたのである。その後、東映映画は子供たちにとって大きな娯楽となり、錦ちゃん・千代ちゃんは女学生ファンの追っかけの対象にもなった。盛り場の映画館に幼児や小中学生の少年少女が押し寄せるのは、『笛吹童子』以降である。東映京都撮影所やロケ現場にファンが集り始めるのも『笛吹童子』以降である。
 東映娯楽版は「ジャリすくい」と言われ、他の映画会社からやっかみ半分で非難され、多くの映画評論家からも通俗的で低級で幼稚な映画ばかり作っていると批判されながら、東映は観客第一主義に徹し、お子様映画を一つの目玉商品にしながら、「御家族揃って楽しめる映画」の量産体制に突入していく。いわばデパートの食堂ようなメニューで、おじいちゃん、おばあちゃんから子供たちまでが楽しめる映画を製作し、昭和29年から昭和30年代前半にかけて大躍進を続ける。





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